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2014年3月 1日 (土)

日本が滅びる・81

愛、あざやかに永遠であれ(22)・天照大御神と須佐之男命の誓約説話の秘密の解明(1)

 

 

◆『古事記』上巻の冒頭は〈創世の神々〉、次が〈伊耶那岐命と伊耶那美命〉の説話である。この〔伊耶那岐命と伊耶那美命〕説話の末部は《須佐之男命の啼きいさち》説話である。
 わがブログ「日本が滅びる・75」にて解説したとおり、《須佐之男命の啼きいさち》説話は下記のごとき歴史を伝えるものであった。
――須佐之男命の父の伊耶那岐命・第9代開化天皇は第二后にして千引石(ちびきのいわ╱現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社のご神体の巨岩)の前で離縁した天照大御神・倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)が生んだ皇子・御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)に天下をゆずった。したがって、御真木入日子印恵命が第10代崇神(すじん)天皇である。
 崇神天皇の生母の天照大御神・倭迹迹日百襲姫命は、伊耶那岐命・開化天皇の父の第8代孝元天皇とも結婚した。孝元天皇と伊耶那岐命・開化天皇と結婚し千引石の前で離縁される時まで、倭迹迹日百襲姫命の名は伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。ゆえに、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇の継母でもあった。
 崇神天皇は孝元天皇と伊迦賀色許売命のあいだに生まれた子であり、その時の名は比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)である。ゆえに、『古事記』開化天皇紀は「崇神天皇(比古布都押之信命=御真木入日子印恵命)は開化天皇の子」と記すが、「崇神天皇は伊迦賀色許売命の連れ子」であったことになる。その証拠に、『古事記』崇神天皇紀には崇神天皇王朝に反逆した建波邇安王(たけはにやすのみこ)を、崇神天皇が「わが庶兄(まませ)建波邇安王」と呼ぶ場面(シーン)がある。開化天皇と建波邇安王は共に父が孝元天皇である異母兄弟。崇神天皇の父も孝元天皇であるから、開化天皇と建波邇安王と崇神天皇は異母兄弟となる。だから、崇神天皇は異母兄の建波邇安王を「庶兄」(異母兄)と呼んだ。

『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――千引石の前で伊耶那岐命・開化天皇に離縁された時、崇神天皇に生母の天照大御神(黄泉国の伊耶那美命=伊迦賀色許売命=倭迹迹日百襲姫命)は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と呪った。この呪いの誓いは「小国・日本が誕生した時に伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊重する人々の母親の子宮頸管(しきゅうけいがん)を狭くして、その狭い産道で胎児の頭を一日に必ず千人ずつ絞め殺す」と意味した。
 A図に〔狭い産道の子宮頸管〕を示した。


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 崇神天皇の生母の天照大御神の【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪する誓いに対し――伊耶那岐命・開化天皇は「吾一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」すなわち「お前がそうするならば、亡き妻の伊耶那美命がとなえた〔愛〕を尊重する政事(まつりごと)をおこなって、一日に千五百人の胎児が必ず出産するようにする」と述べ、伊耶那美命が掲げた【日本建国の〔愛〕の理念】を継承すると誓った。

開化天皇は黄泉国(熊野)におけるクーデターにおける天照大御神母子の怨念(おんねん)が消えることを願って、天照大御神・倭迹迹日百襲姫命の子(御真木入日子印恵命)に天下を譲った。

しかし、それでも天照大御神母子の怨みは消えるはずがない。崇神天皇は必ず母の怨みは晴らすと異母兄にして養父の伊耶那岐命・開化天皇に復讐し、開化天皇が没しても陵墓を築造しないにちがいないと――須佐之男命はじめ【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する諸国の王たちは考えた。
 このような“崇神天皇(天照大御神)は開化天皇の願いを聞き入れず、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ人民を憎悪し呪い祟る政策をおこなうにちがいない。そして、父上に必ず復讐して陵墓を作るはずがない”と須佐之男命が悲嘆して号泣した様子は「須佐之男命の啼きいさち」と表現された。
 3世紀後半に没した開化天皇の陵墓は、3世紀後半に築造されなかった。その墳丘規模から、開化天皇陵は5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。『古事記』須佐之男命の啼きいさち説話に記述されたように――クーデターを決行して生母の倭女王天照大御神・倭迹迹日百襲姫命の王朝を倒した怨みを復讐して、崇神天皇は開化天皇陵を築造しなかった。『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は箸墓に葬られた」と記述する。このように、崇神天皇は生母・倭迹迹日百襲姫命の墓を築造したが、養父の開化天皇陵は築造しなかった。倭迹迹日百襲姫命が葬られた箸墓古墳は3世紀後半に築造された。箸墓の全長は278m、崇神天皇が築造しなかった伊耶那岐命・開化天皇の陵墓の全長は約105mである。開化天皇陵の規模は箸墓の半分以下である。本来ならば、第9代崇神天皇は箸墓と同じ規模の第8代開化天皇陵を築造しなければならなかった。崇神天皇・天照大御神は伊耶那岐命・開化天皇が熊野においてクーデターを決行して生母の天照大御神・倭迹迹日百襲姫命王朝を倒して小国・日本と倭を併合して王朝を開いたことを怨み憎悪して、開化天皇陵を築造しなかったのである。

◆『古事記』の須佐之男命の啼きいさち説話の次の説話は、通称《須佐之男命の昇天》と名づけられる。しかし、わがブログ「日本が滅びる・76」で解明したように、正しい説話名は《須佐之男命が都へ上る》である。

開化天皇は没する時、須佐之男命に「多賀」という遺言を残した。

わがブログ「日本が滅びる・75」で指摘したように――わが国の古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、「多賀」の[]に字源について「声符は加。加は耜(すき╱力)を祓(はら)い清めて、その生産力を高めるための儀礼。貝も生産力を高め、魂振(たまふ)り的な呪能をもつとされるので、両者を併せて、生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。ゆえに、開化天皇の遺言「多賀」は「多くの子どもが生まれ、多くの農作物が収穫される」と意味した。だから、多くの子どもが生まれ・豊作を願う「多賀」という遺言は、天照大御神王朝と須佐之男命王権が争う倭の大乱を避けて平和的に解決しなければならない。これゆえ、今日風に言うと「多賀」は「平和と繁栄」と意味することになる。
 須佐之男命は伊耶河宮の一角、多分開化天皇陵の敷地の一角に開化天皇の小さい墓を作り、父の喪が過ぎると――
 B図に示す天照大御神・崇神天皇母子が居住する新首都となった師木(しき)の水垣宮(磯城の瑞籬宮╱現在の奈良県桜井市金星)へ目指して配下の兵士を率いて上った。

この《須佐之男命が都へ上る(須佐之男命の昇天)》説話の次は、《天照大御神と須佐之男命の誓約》説話となる。
◆わがブログ「日本が滅びる・77」で証明したように、《天照大御神と須佐之男命の誓約》説話に登場する「天照大御神」は「女装した崇神天皇」であり、また「崇神天皇が率いる多数の軍兵、つまり崇神天皇王朝軍」を意味した。
 C図に示す[(とう)]の「契文(けいぶん╱甲骨文字)」を、白川静著『字統』は「卜文」と呼んで「二人相格闘する形。卜文の字形は、二人が髪をふり乱してつかみあう形。のち声符を加えて鬪に作る。鬥は鬪の初文である」と解説する。天皇名の「崇神」の[]の字音は「スウ」と読まずに「ス」と読む。この[]の「ス」と読む字音は夏音文字の字音である。ゆえに、夏音文字の知識を有する崇神天皇は[]の字源の基に、戦いの時に敵(須佐之男命軍)の呪的な戦力を奪う巫女(みこ)・魔女のごとく着飾っていた。これゆえ、『古事記』は「女装して武装する崇神天皇」を「天照大御神」と表記した。崇神天皇の生母の倭迹迹日百襲姫命=天照大御神は、『古事記』孝霊天皇紀に記載された卑弥呼と不和であった狗奴国(いぬこく╱後の吉備国)を征討する時、倭女王壱与(伊耶那美命)の代役をつとめて敵の呪的な戦力を奪う魔女となった。

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◆《天照大御神と須佐之男命の誓約》説話は――天照大御神・崇神天皇と須佐之男命は天下二分する倭の大乱を回避するために、不戦を誓いあうことにした――と説明する。
 この不戦の誓約がおこなわれた場所が、B図に示す師木の水垣宮の北側の狭井(さい)川の両岸であった。この説話においては〔狭井川〕を「天(あめ)の安河(やすかわ)」と記す。師木の水垣宮の真北の天の安河=狭井川の北岸に須佐之男命の軍が、南岸に天照大御神・崇神天皇の軍が向かいあった。両軍の中間の〔狭井川の地点〕を当時(3世紀後半)における天頂にめぐってくるD図に示す「長方形の暗黒天体部」に見立てて、崇神天皇と須佐之男命が不戦の誓いを交した聖域は「天(あめ)の真名井(まない)」と名づけられた。
 崇神天皇軍の兵が狭井川を渡って須佐之男命の腰に帯びる長剣をもらい受け、この長剣を崇神天皇は三つに折って天の真名井の聖水で洗い清めて、その聖水を口に含んで噛み噛んで、吐き出した息すなわち胸の内に隠していた秘密を吐き出すようにして、宗像の三女神の名を告げた。
 E図に示すように、『古事記』上巻の三貴子の分治範囲においては不弥(ふみ)国の宗像の三女神は須佐之男命に分治された。ところが、B図に示す師木の水垣宮の東北にある三輪山の頂上付近にある三等三角点の緯度は北緯3432分である。宗像の沖津宮が鎮座する沖ノ島は北緯3415分である――沖ノ島と三輪山の緯度差はわずか17分しか違わない。ゆえに、聖山・三輪山の呪力を高めるために崇神天皇は須佐之男命に分治された海原(うなはら)から宗像の三女神を分捕ろうと考えていたことになる。須佐之男命の「剣」は「戦争の道具」であるから「三つに打ち折る」は「戦争をしない」すなわち「不戦」をあらわす。「天の真名井の聖水を口に含んで吐き出した息」は「宗像の三女神を須佐之男命が治める海原から分捕ると胸に秘めた計画の秘密を吐き出す」ことになるので、崇神天皇は宗像の三女神を須佐之男命の海原から奪わないという意思を示したことになる。
 須佐之男命軍の兵が狭井川を渡って、戦いの装いである崇神天皇の角髪(みずら)に巻く多くの勾玉を貫き通した長い緒(ひも)をもらい受け、この長い緒を須佐之男命は天の真名井の聖水で洗い清めた。この聖水を須佐之男命は口に含んで噛みに噛み、吐き出した息で霧吹きをして、須佐之男命は胸に秘めるクーデターを計画した五人の王たちの名を渾名(あだな)で告げた。この須佐之男命の不戦の誓いによって、クーデター計画は失敗した。このように、須佐之男命は父・開化天皇の遺言「多賀」をまもり、崇神天皇王朝を倒すクーデターを断念した。
◆崇神天皇王朝を倒すクーデターを計画した五人の王の渾名は、(1)正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)(2)天之菩卑能命(あめのほひのみこと)(3)天津日子根命(あまつひこねのみこと)(4)活津日子根命(いくつひこねのみこと)(5)熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)であった。

三女神に奉仕する宗像の王・天菩比命(あめのほひのみこと)(2)の天之菩卑能命のグループに属して、クーデター計画に参加していた。この天菩比命には七人の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が従い、クーデター計画に参加していた。
 七人の建比良鳥命は、(1)出雲国造・(2)无耶志(むざしの)国造・(3)上菟上(かみつうなかみの)国造・(4)下菟上(しもつうなかみの)国造・(5)伊自牟(いじむの)国造・(6)津島県直(つしまのあがたのあたい)たちの先祖、そして(7)の遠江国造の先祖であった。

(3)の天津日子根命には12人の豪族たち(『古事記』には12人の名が記されている)の先祖たちが従って、崇神天皇王朝を倒さんとするクーデター計画に参加していた。
◆伊耶那岐命・開化天皇の「多賀」の遺言を聞き入れた須佐之男命が五人の王たちがクーデターを計画したと告げて崇神天皇と不戦の誓いを約束したために、天照大御神・崇神天皇王朝を倒すクーデターは失敗した。
 このクーデターは千引石の前で憎悪して「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する母親たちの子宮頸管を狭くして、一日に千人ずつの胎児の頭を絞めて殺す」と呪い祟る政策をおこなう天照大御神・崇神天皇王朝を倒すための反乱であった。
 このクーデター計画が失敗して、一員であった遠江国造の先祖の建比良鳥命の「なぜなんだ! なぜだ、なぜだ、なぜだ……、いったいなぜこうなるんだ」という悲痛の叫びは、「卑弥呼」の地上絵を作成する動機となった。ゆえに、当時わが国に存在した夏音文字の学芸を用いて作成された「卑弥呼」の地上絵の作成目的は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることであった。

建比良鳥命は「卑弥呼」の地上絵に、目撃した卑弥呼・伊耶那美命・伊耶那岐命・倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇の政事や事績などを貯蔵した。このため、「卑弥呼」の地上絵は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された真実の歴史を科学的に解明できる史跡となった。

◆『魏志倭人伝』に記述された15ヵ所の方位記事は「日本列島は東に伸びずに、南に伸びる」と説明する。この方位が90度転位する日本列島地理は、F図に示すように、卑弥呼王朝が「日本列島は中国の海岸線地域の南のほうに伸びる」と立論して制定したところの、思い込み・錯覚の地理であった。この錯覚の転回日本列島地理は聖武(しょうむ)天皇が治める738年に改定された。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した2世紀末または3世紀初頭から738年まで転回日本列島地理は、正しいと思い込まれていた実在した地理であった。
 また、『魏志倭人伝』の「倭には文字があった」という記述も夏音文字が実在したゆえ、歴史的事実であった。
 「卑弥呼」の地上絵に学術調査すれば、『魏志倭人伝』が記述された(1)転回日本列島地理と(2)夏音文字の学芸は実在したと科学的に証明できる。
 新井白石以来学者たちは290年のあいだ、〔誤読〕に〔文献批判〕というもっともらしい名称をつけて『魏志倭人伝』に記述された(1)転回日本列島地理と(2)夏音文字の学芸の証言を排除しつづけた。しかし、『魏志倭人伝』に〔誤読=文献批判〕を一点も加えなければ、真実の歴史が明らかとなる。
 〔誤読=文献批判〕を自由自在にあやつって歴史的事実を排除する学者たちが立論したすべての邪馬台国説は事実に反するデマ・空論である。
 すべての邪馬台国学説が〔誤読の空論〕であることは「卑弥呼」の地上絵によって科学的に明確に証明される。
 学者たちが〔文献批判〕を駆使して立論するすべての邪馬台国説は、卑弥呼が立論した転回日本列島地理と同様に思い込み・錯覚による産物であったのである。

 

次回は《天照大御神と須佐之男命の誓約》説話における誓約儀式の秘密を解明して、この説話に記述された歴史的事実をさらに明確になるようにする。

 

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