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2014年3月 5日 (水)

日本が滅びる・83

愛、あざやかに永遠であれ(24)・天照大御神と須佐之男命の誓約説話の秘密の解明(3) 

 

◆わがブログの前々回「日本が滅びる・81」にて詳細に解説したように――『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話における天照大御神は、崇神(すじん)天皇である。
 崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)もまた天照大御神である。
 伊迦賀色許売命について、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は「夫の伊耶那岐命に千引石(ちびきのいわ)の前で離縁された」と記述する。この千引石は、現在の和歌山県新宮市の磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の「ごとびき岩」である。神倉神社の主神は天照大御神である。だから、神倉神社の御神体・千引石の(ごとびき)の前で離縁された伊迦賀色許売命は天照大御神であった。伊迦賀色許売命は離婚された後、第7代孝霊天皇の娘の夜麻登登母々曾毘売命(やまととびももそびめのみこと)の名を受け継いで「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」と名乗った。
 伊迦賀色許売命=倭迹迹日百襲姫命は「夏音文字の学芸に精通する聡明な女王」をあらわすために、「夏」が容易に連想できる“天照大御神”という異名を名乗った。
◆『古事記』開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と書く。「伊耶那岐命」と「伊耶河宮」の先頭2字はともに「伊耶」である。ゆえに、伊耶河宮で天下を治めた第9代開化天皇は伊耶那岐命であった。
 『古事記』開化天皇紀は「天皇は、丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)と結婚して生まれた子は、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)である」と記す。
 この竹野比売が開化天皇の正妃で、彼女は人民に“伊耶那美命”と愛称された。『魏志倭人伝』に記載される小国「伊耶(いや)国」は竹野比売の出身地の「丹波」であった(後ろのB図参照)。人々は「伊耶国の美しい女王」と敬愛して、“伊耶那美命”と愛称した。
 伊耶那美命=竹野比売が生んだ「比古理由牟須美命」は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「須佐之男命」である。
◆上記した崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は、伊耶那岐命=開化天皇の第二后であった。
 『古事記』開化天皇紀は「天皇と庶母(ままはは)の伊迦賀色許売命と結婚されて生まれた子が御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)すなわち崇神天皇である」と説明する。つまり、第10代崇神天皇は第9代開化天皇の実子ではない。崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は開化天皇の父の第8代孝元(こうげん)天皇とも結婚している。したがって、『古事記』孝元天皇紀に「孝元天皇と伊迦賀色許売命の間に生まれた比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)」と記される子が、第10代崇神天皇であった。ゆえに、第9代開化天皇と第10代崇神天皇は異母兄弟ということになり、開化天皇と崇神天皇は養父と連れ子の関係となる。その証拠に、『古事記』崇神天皇紀にある《建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆》の条において、崇神天皇は建波邇安王を「庶兄(まませ)」と呼ぶ記述がある。『古事記』孝元天皇紀には天皇の子として「建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこのみこと)」が記載されるゆえ、この建波邇夜須毘子命は建波邇安王であったことになる。
◆『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ╱青年と乙女)を犠牲(いけにえ)にしたように、倭女王・伊耶那美命の陵墓を熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造するとき、天照大御神(黄泉国の伊耶那美命=伊迦賀色許売命)は多数の青年・男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める徇葬(じゅんそう)をおこなった。この残虐な徇葬は、伊耶那美命が情熱を傾けて人民に〔愛〕の尊さを説いた生き方そのものを否定することになると激怒した伊耶那岐命はクーデターを決行した。このクーデターは成功して、天照大御神は捕虜となって千引石の前に連行された。千引石の前で伊耶那岐命=開化天皇に離縁を告げられたとき、天照大御神=伊迦賀色許売命は「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」、すなわち「亡き伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するあなたの国の人民の母親たちの子宮頸管(しきゅうけいがん)を狭くなるように呪って、一日に千人の胎児の頭と絞め殺す」と誓った。
◆中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は――『古事記』が完成する10年前の702年に中国に渡った日本国の遣唐使は「日本国は倭国の別種なり。その国日辺をもって名となす。あるいはいう、倭国自らその雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」と中国王朝に語った――と記載する。
 伊耶那美命は小国・日本の女王であり、伊耶那岐命=開化天皇は日本国の軍王であった。小国・日本は〔愛〕を国造りの柱とした。いっぽう、倭国は徇葬をおこなう国家権力を重視する〔愛〕を軽視する国であった。伊耶那美命は【日本建国の〔愛〕の理念】を倭国にも植えつけようとしたが、スキやクワの鉄の刃先を作る製鉄事業開発(火之迦具土神╱ひのかぐつちのかみ)の大火災で火傷を負って死去した。このため、倭国では【日本建国の〔愛〕の理念】は国家理念とならなかった。ゆえに、遣唐使は「小国・日本は倭国の別種なり」また「倭国の人々は自らの国の名は優雅ではないと嫌悪し、残虐な徇葬を憎悪した」と説明した。また、熊野のクーデター後に伊耶那岐命・開化天皇が小国・日本と倭国を併合したので、遣唐使は「日本はもと小国、倭国の地を併せた」と語った。

◆伊耶那岐命・開化天皇は愛妻・伊耶那美命の死の原因となったスキやクワの鉄の刃先を作る事業を中止させたが、天照大御神母子はこの事業を推進して成功した。このため、開化天皇王朝の富は劣り弱体化し、天照大御神母子王権の富は優って豊かとなった。
 それゆえ、死が間近に迫ったと察知した開化天皇は須佐之男命に天下を譲っても富に勝る天照大御神母子王権は必ずクーデターをおこすにちがいないと憂慮して、天下を天照大御神=御真木入日子印恵命に譲ることを決意した。この開化天皇の譲位に反対して、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する五人の王たちは伊耶那美命が生んだ子=須佐之男命が熊野王朝を創設するためのクーデターを計画した。
 開化天皇は須佐之男命に「多賀」すなわち「多くの子どもが生まれ、多くの農作物が収穫できるようにして、平和と繁栄に努めろ」という遺言を残した。須佐之男命はクーデターを断念して父の遺言を守るために、A図に示す倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇が住む師木水垣宮(しきのみずかきみや)へ、多数の兵士を率いて上った。
◆『古事記』上巻の《天照大御神と須佐之男命の誓約》説話は、天照大御神=崇神天皇の
軍と須佐之男命の軍がA図の師木の水垣宮の北側の狭井(さい)川=天之真名井(あめのまない)の両岸に対陣して不戦の誓約をおこなった歴史を伝えるものである。
 須佐之男命は胸中に秘める崇神天皇王朝を倒すクーデターを計画した五人の王について、次に列挙する異名であらわした。この五人の王は、(1)正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)(2)天之菩卑能命(あめのほひのみこと)(3)天津日子根命(あまつひこねのみこと)(4)活津日子根命(いくつひこねのみこと)(5)熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)であった。

◆このうちの(3)の「天津日子根命」は『古事記』崇神天皇紀が「天皇は高志道(こしのみち╱越国すなわち北陸地方)に大毘子命(おおびこのみこと╱大彦命、天皇の伯父)を派遣して、服従しない者どもを平定した」と書く、北陸一帯を治める王あるいは北陸一帯の王たちの総称であったことになる。
 (4)の「活津日子根命」は「崇神天皇の異母兄の建波邇安王」であった。上記したように、『古事記』崇神天皇紀は「建波邇安王が反逆した」と記し、また『日本書紀』崇神天皇紀の四道将軍の条も「北陸に派遣した大彦命が“天皇を殺そうとする謀反がおきている”と歌う少女に遭遇して報告すると、倭迹迹日百襲姫命が謀反人は武埴安彦(たけはにやすひこ)であると気づき、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の軍が討伐した」と記載する。

(2)の「天之菩卑能命」と末部に登場する宗像王「天菩比命(あめのほひのみこと)」は同一人物であると考えられる。あるいは「天之菩卑能命」と宗像王「天菩比命」は別人であったとしても、両人は密接に関わる。というのも、『古事記』天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部において七人の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を列記する箇所で「宗像王の天菩比命の子(子別れたした人物)が山陰出雲の国造(くにつくりのみやつこ)の祖先となった建比良鳥命の一人とであった」と記すからである。ゆえに、宗像王の弟か一族が山陰出雲の国造の元祖となった。「天之菩卑能命」という名には「卑弥呼」の[]の字が配され、「天菩比命」は山陰出雲の国造の祖神となる。だから、B図に示すように山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)こそが卑弥呼が居住した邪馬壱(やまい)国であったことになる。
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◆C図に示す宗像の三女神のうちの沖津宮(おきつみや)が所在する沖ノ島は、卑弥呼が立論したD図の右側に示す転回日本列島地理の〔西冷〕の基点となる。沖ノ島が浮かぶ「玄海灘」の名に配される[]の字義は、E図にて解説する「どんなに距離が遠く遥かに離れていても、精確に天頂緯度線と子午線がキャッチできる測量方法」である。だから、沖ノ島と同緯度となる亜熱帯地区に所在する神津島は〔東暖〕となって、D図に示すように卑弥呼は「中国海岸線地域南方の暖かい気候〔南暖〕と神津島の暖かい気候の〔東暖〕は合致する。したがって、卑弥呼はB図・D図に示すように「日本列島の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕の方に伸びる」という錯覚の転回日本列島地理を立論した。これゆえ「天之菩卑能命」は宗像王本人の可能性が高い。というのも、『古事記』は「須佐之男命一行が邪馬壱国・出雲(B図参照)に移住した当時、出雲では【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重されていなかった様子」を記述するからである。

(5)の「熊野久須毘命」は開化天皇のクーデターを支援した熊野を治める王であったにちがいない。開化天皇と日本軍の兵士たちは伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)から棺(ひつぎ)を略奪した。伊耶那美命の亡骸は熊野の花の窟(いわや╱三重県熊野市有馬町)に葬られた。これゆえ、伊耶那美命の亡骸が存在しない大斎原の陵墓は熊野の人々の手で破壊されて平らな地となり、熊野本宮大社が起源した。この熊野本宮大社にはクーデターで王朝を創設しようと担ぎだした須佐之男命が主神として祭られる。
(1)の「正勝吾勝々速日天之忍穂耳命」は伊耶那岐命・開化天皇の後を継ぐ、F図に示す「小国・日本の軍王」であったと考えるべきことになる。
 『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「呉の黄竜2(230)、皇帝の孫権は将軍の衛温(えんおん)と諸葛直(しょかつちょく)に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷人(とうていじん)国への遠征を命じた。このときの武装兵は1万」と記述する。『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「東鯷人の人民は定期的に呉の会稽(かいけい)の港にやってきて交易をしていた」と記述する。ゆえに、会稽と交易する東鯷人が呉軍の日本列島遠征の情報をキャッチしたのか、それとも軍事同盟を結ぶ魏から倭に伝わり東鯷人国王が呉の1万の水軍の遠征を知ったのか不明ではあるが――東鯷人国王は倭国に服属することを決意して、東鯷人国の防衛を倭女王・卑弥呼に要請した。
 倭国にとっても、呉軍に隣国の東鯷人国が討伐されて占領されたならば、倭国も滅亡しかねない国家存亡の危機であった。ゆえに、卑弥呼の宗女(巫女界を代表する女性)として13歳の乙女の伊耶国(丹波)の竹野比売(伊耶那美命)が小国・日本の女王の壱与(いよ)に選ばれた。13歳ころの乙女の瞳は最も澄んでいるゆえ、敵(呉軍)の呪的な戦力を奪う“眉(まゆ╱中国の媚蠱・びこ)”と呼ばれる魔女に、竹野比売は選ばれた。小国・日本の防衛を指揮する軍王には腕力が最もあるとされる18歳くらいであったであろう青年の若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)すなわち後の開化天皇が選ばれ、夏音文字では「載斯烏越(そしあお)」と呼ばれ、人民には「伊耶那岐命」と愛称された。
 中国ではシナ天文が紀元前1世紀に完成して〔天の北極〕」が最も尊重されたため、呉の水軍には大海を無事に渡ることができるE図に示す[]をキャッチする眼力と技(わざ)を日々鍛錬する者がいなかった。ゆえに、大海に入るや直ぐに8割から9割の兵士たちは太平洋の彼方に消えて本隊にもどらず壊滅した。呉の皇帝・孫権は東鯷人が往来する大海の道を〔にわか仕込みの[]のキャッチの訓練〕や〔天の北極の計測〕で往来できると思い込んだのである。東鯷人国王も卑弥呼はじめとする倭国の王たちも、夏音文字は中国から大海を越えて渡ってきたものであり、この夏音文字の学芸は[]を基軸とするものであったので、当然、呉の水軍は〔[]をキャッチと天の北極の計測〕で大海を往来できると考えた。ところが呉軍は[]をキャッチできない、またシナ天文が最も尊重する〔天の北極〕では大海を往来することができないことを倭国の王たちは確信した。この確信は、多分、狗奴(くな)(吉備国)討伐が準備された244年ころであったにちがいない。だから、呉軍は再度遠征したくても小国・日本には到着できないと卑弥呼没後の倭政府は確信して、呉軍の呪的な戦力を奪う魔女の壱与=伊耶那美命を倭国に呼びもどして倭女王に就任させた。また、『魏志倭人伝』が記述するように、247(魏の正始8)において小国・日本の軍王の載斯烏越=伊耶那岐命は倭の使節の長官となって朝鮮半島に所在した魏の出張機関の帯方郡(たいほうぐん)の政庁に訪問して狗奴国と倭国の戦況を説明した。
◆『後漢書』倭伝は「所在絶遠(しょざいぜつえん)にして往来すべからず」と記述して「東鯷人が住む日本列島は遥か遠くに所在して、東鯷人たちが往来する海の道は途中で道が絶えてしまい、中国の人々には絶対に往来できない」と証言する。
 呉の1万の水軍が壊滅して証明されたように、〔天の北極〕では大海は往来できない――これは、科学における絶対法則であり事実であった。だから、『魏志倭人伝』に記載される15ヶ所の方位記事は、〔[]のキャッチ〕の基に卑弥呼王朝が制定したB図・D図に示す転回日本列島地理を証言するものであった。新井白石以来学者たちは290年間も〔天の北極〕を基準にすれば「日本列島は絶対に転回しない」と断定して、“文献批判”という名の〔誤読〕を自由自在にあやつり卑弥呼が立論した転回日本列島地理を排除・抹殺しつづける。
 B図・D図に示す転回日本列島地理は、『魏志倭人伝』にある15ヶ所の方位記事すべてと合理となり、[]の【科学】が加わって絶対的事実となる。いっぽう、学者たちが主張する邪馬台国説の地理基盤は〔天の北極〕であるゆえ、呉の遠征軍の壊滅で証明されるように〔天の北極〕では中国と日本列島の間を隔たる玄海灘や大海を、魏・帯方郡と倭の使節は往来できなかったことになる。そうすると魏と倭は国交を結べなかったことになって『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかった白紙となるので、「卑弥呼」の3字も「邪馬台国」の4字もまったく存在しなかったことになる――だから、すべての邪馬台国学説は〔誤読の空論〕であったことになる。[]の一点に絞って考えれば、学者たちが主張するすべての邪馬台国説は〔誤読の産物・妄想〕であったことが絶対的事実となる。

◆呉の1万の水軍は壊滅した。日本軍は「天と大海原の鬼神に祝福されて正しく勝利した」ゆえ「正勝」となる。日本軍は狗奴国との戦いでも勝ち、黄泉国=熊野のクーデターにおいても倭女王の天照大御神・伊迦賀色許売命が率いる倭政府の大軍に勝利したので、「吾勝勝」となる。また、上記したように『旧唐書』倭国伝は「その国は日辺にある」と記載し、E図に示す小国・日本は日本列島の東端に所在するので「日が昇るのが、最も速い」ことになるゆえ、「速日」となる。だから、(1)の「正勝吾勝々速日天之忍穂耳命」は伊耶那岐命の後を継いだ小国・日本の軍王であったことになる。

◆下記に示す『日本書紀』崇神天皇6年の記事を読むと、「崇神天皇」が「天照大御神」であったことが確信できる。
 「崇神天皇は天照大御神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二柱の神を、天皇が居住する宮殿の内に祭った。ところが、二柱の神はそれぞれの威勢を畏れ、合祀されることに安心しなかった。そこで天照大御神には豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して、倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祭られた。そして磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てて(作って)、日本大国魂神(にほんおおくにたまのかみ)に渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)をお付けになって祭られた。しかし、渟名城入姫命は髪が落ち体が痩せて日本大国魂神を祭ることができなかった。」

崇神天皇6年当時、須佐之男命は櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚して山陰・出雲(B図の邪馬壱国)に居住していた。小国・日本の人民は伊耶那美命を敬愛し、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する五人の王たちは伊耶那美命が生んだ須佐之男命王朝を創設しようとしてクーデターを計画した。ゆえに、「倭大国魂」と「日本大国魂神」は「須佐之男命を呪い祟るための形代(かたしろ╱身代わり)となる神体」であった。崇神天皇は農作物がまったく育たない磯にある堅い石で作った磯堅城の神籬に日本大国魂神を祭り、おそらく渟名城入姫命に毒を盛って日本大国魂神を祭ることができないようにして須佐之男命を呪い祟った。
 崇神天皇は天照大御神を祭るものであった。だから、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀では、崇神天皇は「天照大御神」という異名で表記されたのである。

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