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2014年3月 9日 (日)

日本が滅びる・84

愛、あざやかに永遠であれ(25)・番外╱夏文字(夏代の漢字)は日本列島に伝来していた
 

■東日本大震災の午後6時、[]の字源となった星座が天頂に輝いていた

◆このブログ「日本が滅びる・84」を作成中――201436日の朝日新聞の夕刊に、仙台市天文台提供の2011311日の午後6時の星空の映像が掲載されていた。
 2011311日午後3時少し前、東日本大震災があった。
 朝日新聞に掲載された星空の映像の写真は、東日本大震災があった時から約3時間後の夜空に満天に星が輝いた光景を撮影したものであったことになる。
◆朝日新聞の記事は下記のごとくである。

――東日本大震災のあの夜、仙台の空には星がきらめいていた。当時の夜空を再現した映像に被災者の思いをちりばめ、仙台市天文台がプラネタリウムの番組「星空とともに」を作った。今月、全国で上映される。

地震が発生した2011311日午後246分。空は明るい。日が沈み、停電で真っ暗になった街。空に星が次々と現れる。そして、市天文台スタッフの朗読が重なる。

「『流れ星は天国に向かう魂』という話を思い出した。あまりの多さに耐えられず目を伏せました」。宮城県多賀城市の教員女性は、学校に残った児童と流れ星を見て感じたという。
 「何としても守っていかねばと、弱気な心に活を入れられた」。仙台市の女性は避難所で、小学生の息子にうながされて空を見て、誓ったという。(以下を省略する)

◆私は、東日本大震災があった2011311日の午後246分――自宅近くの信号機があるT字形交差点で信号が青になるのを待っていた。突然、グラグラッと大きく揺れ、私は脳卒中が起きたのではないかと驚愕した。この私の不格好な姿を見ていた交差点向かい側の路上で停止する車中の女性が笑っているのを目撃した私は、とっさ的に脳卒中ではないと察知して上空を見上げた。電線が大きく揺れていた。そこで、“地震だ!”と気づいた。
 人間の目は本人の意志にかかわりなく、明るさに応じて瞳孔の直径を明るい所では約1.5mm2mmまで縮小させ、暗闇では7mm8mmくらいまで拡大して変化させる。現在は、電燈はじめ様々な地上燈火のために瞳孔径が縮小されるため、ほとんどの地域で夜空に輝く銀河が見えない。
 東日本大震災の午後6時ころ、私は誠文堂新光社発行・藤井旭氏構成の「星座早見」と名づけられた星座盤を手にして、この日の午後6時の夜空を調べた。
 ――東大日本大震災があった午後6時ころ、A図の右側に示す「ぎょしゃ座」が日本列島各地の天頂を輝いていた。

 

A図に示す「ぎょしゃ座とおうし座」は[]の金文形となり、[]の字源となった。

今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭、わが国は後期縄文時代初頭であった。

司馬遷『史記』夏本紀(かほんぎ)は「“夏の始祖”とされる帝禹()の後を継いで、禹の政治を裨益(ひえき╱補佐)した益(えき)が帝位についた」と記述する。この帝益が禹の三年の喪が終わると、禹の息子の啓(けい)に天下を譲り、益氏一族は箕山(きざん)の南の地に移住した。啓は国家を樹立して、禹・啓の一族が帝位を独占して世襲する世襲王朝国家体制を創設した。しかし、帝禹は啓が主張する政治体制に反対し、五帝時代以来の国家を作らないで多数の氏族の中から最も優秀な人物を帝に選ぶ氏族共同体制の継続を願い、この遺志を益に託した。しかし、諸侯たちは帝益から去って、みな啓のもとに入朝した。
 この状況から、益は中国では禹の遺志を継ぐことをできないと判断し、禹の遺志を新天地・日本列島で継続すると決意した。しかし老いた帝益には、中国と日本列島を隔てる荒波逆巻く大海を小舟で幾日も漕いて渡る体力が失っていた。ゆえに、太い腕と筋骨たくましい肉体を有する帝益の孫の王子と益氏の若者たちが大海を越えて禹の遺志を継いで日本列島に移住することとなった――『日本書紀』神武天皇紀の初頭に記載される《天祖の降臨》記事は、帝益の孫の王子と益氏の若者たちの日本列島移住の歴史を伝えるものである。
 また、『古事記』上巻の天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)説話における《天孫の筑紫降臨》説話は――司馬遷著『史記』夏本紀が「禹の三年の喪が終わると、益は位を帝禹の子の啓にゆずって、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した」と書く歴史を示して“大和朝廷は夏()文字の学芸に最も精通する”と誇示し、天照大御神(10代崇神天皇)の孫(後の12代景行天皇)が率いる遠征軍が筑紫国を治める宗像氏を討伐した歴史――を今日に伝える。
 さらに、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡には、名門益氏が日本列島に移住して夏文字の学芸が伝来した痕跡が現在も明確に残る。
◆ゆえに、わが国にA図の[]の金文形に秘められた夏代初頭の漢字が伝来した。
 夏文字においては「銀河各部の形状」が「文字(字源・字形・字義・字音)」であった。というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は“漢字の始祖”と崇拝され、彼は〔銀河の各部の形状を図案して漢字を作成原理・鳥獣の足跡〕を発明した。そして、倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると考えた。だから、倉頡は、3つの掟を破った人物には神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。
 この3つの掟は、わがブログ「卑弥呼の逆襲・【用語の解説】の「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」にて列記したように、(1)秋の銀河と夏の銀河各部から文字が作られたことを絶対に暴露してはならない、(2)文字を容易に習得するために、絶対に文字となる銀河に名称を付けてはならない、(3)書いた文字が用済みになったならば必ず文字を直ちに消すことまたは消し忘れた者も即刻死刑にするであった。

上記の(3)の厳重な掟のために書かれた夏文字は必ず消されていたので、わが国の最初に伝来した漢字の夏文字は、結局、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・8」に示した「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」が「文字(字源・字形・字義・字音)となった。
Image

◆B図は、名門益氏の王子と若者たちが荒波逆巻く大海を越えて禹の遺志・氏族共同政治体制を継続せんとして新天地・日本列島に到着して定住した夏代初頭の夜空図である。
 A図の「ぎょしゃ・おうし座」はB図中央の右側にある。夏代初頭、B図に示すように、ぎょしゃ・おうし座には春分点が存在した――この春分点の位置を、C図に示した。
 A図に示した東日本大震災の午後6時ごろに日本列島の天頂に位置したぎょしゃ・おうし座は、益氏が日本列島に住みついた時代、春分の日の午後6時に西の地平線近くに位置して午後9時ごろに地平線下に姿を消した。
 ゆえに、[]の金文形(今から約3060年前~約2780年前の周代に用いられた漢字の字形)は「夏代の春分点はぎょしゃ・おうし座内に存在した」と伝えていることになる。

ということは、夏代において、ぎょしゃ・おうし座は夏至の日の午前1時30分ころに東の地平線から昇って姿をあらわし、東日本大震災があった日の午後6時ころと同じく秋分の日の午前1時ころにぎょしゃ座は中国と日本列島の天頂に位置し、冬至の日の午前0時に春分の日の午後6時ころと同様に西の地平線近くに位置したことになる。
◆B図の中央の左側に秋分点がある。この夏代初頭の秋分点より上部に、D図に示した[]の金文形となった「へびつかい・ヘルクレス座」がある。

ヘルクレス座には、光度6.5等までの肉眼で見える星が191個もある。夏代、ヘルクレス座は中国と日本列島の天頂をめぐってきて、大海を往来する人・遠くの地へ旅する人・山で狩猟して迷った人・森林深く山菜採りして迷った人たちは、E図に示す天頂緯度線と子午線をキャッチ([]のキャッチ)できれば、家族が待つ家へ到着する道を探すことができた。だから、D図に示すように、ヘルクレス座は「道」を字義とする金文形となった。
Image_2

 夏代、D図のヘルクレス座は1月中旬ころから7月上旬ころまで天頂を通過し、A図のぎゃしゃ座は8月上旬から1月下旬ころまで天頂にめぐってきた。
 B図の中央の縦軸の右側に、はくちょう座デネブ(α星)がある。このデネブから右側の点が密集した部分は、F図に示す〔最も多くの文字が作られた銀河部〕である。夏代、F図における「十字の銀河」は4月中旬から10月上旬ころまで天頂にめぐってきた。
 だから、A図のぎょしゃ座、D図のヘルクレス座、F図の「十字の銀河」によって一年中、大海を往来した人、遠くの地へ旅した人、山で迷った人、森の迷った人はE図に示す[]をキャッチすればて家族が待つ家への道を探して帰還することができたことになる。
 上記したように――D図の金文モデルとなったヘルクレス座によって、E図に示す[]をキャッチすることができたゆえ「道」の字義となった――この理由の他に、次に説明するイメージも加わって、D図の金文の字義は「道」になったと考えられる。

D図の[]の金文形となったヘルクレス座と合体するへびつかい座の先端が指差す方向に、G図に示す銀河系の中心方向がある。この銀河の中心方向がある周辺の銀河を、私は「夏の銀河の西南部」と名づけた。「夏の銀河の西南部」は、H図に示す〔第5週はじめごろの胎児〕にもとづいて私は「胎児の姿に似る銀河」と名づけた。I図に示すように、「夏の銀河の西南部」は〔象の頭部〕のごとくに観え、〔象の鼻〕の部分は「夏の銀河の西南部から彦星(漢名は牽牛星=わし座α星)」にかけての銀河が相似する。そしてG図の「夏の銀河の西南部」は〔親の象の大きなお尻〕の形にも相似するので、銀河の中心方向を指すD図の金文形は〔親象が歩く道を後ろからついて行く仔象〕に見立てて、「道」の字義になったと考えられる。なぜこのように「象」にこだわるかと言えば――『易経』繋辞(けいじ)下伝は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と漢字の起源について説明するからである。この文中にある「天」とは「すべての文字が作られた銀河の範囲(秋の銀河と夏の銀河)」を意味する。ゆえに、D図の[]の金文形中央は〔仔象の姿〕に相似するので、〔親象が歩く道を後ろからついて行く仔象〕をデザインするものと考えられる。
 「銀河」は「銀漢」とも言うので、「銀漢から作られて文字」を略して「漢字」と称されることになった。したがって、「漢字」は〔銀河各部の形状から作る〕を原則としたが、A図の[]とD図の[]の金文は共に星座からデザインされた。星座から作られた漢字の字形は、私はこの2例のみしか知らない。この2字以外のすべての漢字の字形は銀河各部の形状から作られている。
◆天文には〔歳差〕と呼ばれる現象がある。
 天の北極と春分点は71.666(72)毎に、黄道の北極を中心とする角度(角距離)で一度ずつ移動する。約4050年前の夏代初頭は、4050÷71.6656.5度となる。ゆえに、夏代初頭の天の北極は現在の天の北極の位置から黄道の北極を中心とする角度で57度過去にもどった箇所にある。また夏代初頭の春分点は現在の春分点の位置より黄道の北極を中心とする角度で57度過去にもどった箇所にある。星座盤を分解して、4050年前の天の北極と春分点の位置に改めれば、夏代初頭の夜空の状況を知ることができる星座盤が出来上がる。
 このように〔歳差〕を利用すると、過去の夜空の状況を知ることができる。
 上記の夏代の星座や銀河部の解説は、〔歳差〕に則って再現した夜空の状況を基にして説明したものである。

◆フリー百科事典『ウイキペディア』の【夏(三代)】を開くと、「夏代に用いられた漢字」を「夏文字」と呼称する。

『ウイキペディア』の【夏(三代)】における「夏文字」の説明は「殷の甲骨文字の様な文字体系を所持していたか未だ不明である云々……」と記す。要するに、夏文字はほとんど不明の状態であると指摘していることになる。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習う云々」と中国王朝に報告した――という記事がある。この「後稍夏音を習う」という文は「壬申の後、稍々、夏音文字を習うすなわち復興することになった」と意味する。
 これゆえ、わが国では「夏文字」は「夏音文字」と呼んでいた。というのも、上記した倉頡が定めた掟のために書かれた夏文字は消されていたが、夏文字の字音は言語や事物の名となって残されたので、「夏音文字」と呼ばれることになったのである。

日本国の遣唐使が「わが国に夏音文字が実在した」と中国王朝に告げた702年の10年後の712年、『古事記』が完成した。太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』序は一貫して〔上巻に記載された夏音文字についての解説〕である。その証拠に、上巻の随所に〔音〕という注がつく〔楷書で表記された夏音文字〕が多数記載される。
 また、『魏志倭人伝』の人名と小国名は1字1音の夏音を示すものが多数ある。ゆえに、『魏志倭人伝』は夏音文字を保存する重大な史料となる。『魏志倭人伝』は〔夏音文字〕について「倭の占いの辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如く」と記述し、「倭の夏音文字は殷代の亀の甲羅に刻む甲骨文字(契文)のごとくであった」と、夏音文字が実在したと証言する。また、『魏志倭人伝』は「倭女王卑弥呼が書く文書に用いる文字は魏の都と諸韓国の楷書と差錯(ささく╱相違)していたので、伊都(いと)国の港で点検して確認して間違いがおこらないようにしていた」と記述する。
◆倭女王の「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は夏音文字であり、千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館発行)は「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば“ピミカ”となる」と指摘する。「ヒミコ」の字音のほうが、中国の上古音の「ピミカ」より古い。
 わが国の中国古代漢字第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9頁末~10頁初頭にかけて「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音は、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」と指摘する。だから、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は、現在残っている最古の漢字音である夏音文字の字音ということになる。
 J図は『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作られた、私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた史跡である。「卑弥呼」の地上絵における大鳥の顔は「夏至の日の出」の方角(東北29)を向いて「わが国に夏音文字が実在した」と明確に示す。

K図は「卑弥呼」の地上絵を守って保存した井伊氏が1603年に着工して20年後の1622年に完成させた、現在の彦根市の行政区域を表示する地図の形=「未だ夏音文字の学芸は習わず」と設計した3千万坪の大鳥の地上絵すなわち「夏音文字の学芸がわが国に実在した」と科学的に証明できる史跡である。

L図は、1738年に天皇家が大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興して、天皇の即位式に用いる王冠の菅蓋(かんがい)の上の飾りはJ図の「卑弥呼」の地上絵をデザインするものである。この王冠の「卑弥呼」の地上絵の意匠は「わが国の学術において最も大切な学術・科学と芸術は夏音文字の学芸であった」と即位する天皇の頭上高く掲げられる。
 このように、中国では不明となった夏音文字(夏文字)は今から4050年前の後期縄文時代初頭から1738年までわが国では失われずに保存されていた――実在した原初漢字であった。

現在のわが国の文化、文明、産業、経済、科学、芸術と国家体制と日本人の精神の基柱と土台は夏音文字(夏文字)の学芸であったのである。
 この「日本」を作った屋台骨は、東日本大震災の日の天頂に輝いていたA図の「ぎょしゃ座」に秘められる夏音文字(夏文字)の学芸であったのである。

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