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2014年3月21日 (金)

日本が滅びる・87

愛、あざやかに永遠であれ(27)・天照大御神と須佐之男命の誓約説話の解明(6)

 

『古事記』における宗像大社三女神の秘密を解説する(3)

◆今回のブログは前回の続きです。これゆえ、最初に今回のブログを開く方は疑問を抱きあるいは理解に苦しむような場合は、前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・86」を参照していただきたい。

 
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部に〔宗像大社の三女神〕が登場する。この宗像の三女神を宗像王の一族は斎(いつ)くすなわち謹んで奉仕した。この宗像王の名は「天菩比命(あめのほひのみこと)」である。3世紀後半(280289)に西晋の著作郎(ちょさくろう╱歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)が著作した正史『三国志』65巻のうちの「魏書東夷伝」の末部にある《倭人伝》は通称『魏志倭人伝』と呼称される。この『魏志倭人伝』は約2000字で構成され、2世紀末~3世紀半ばまでの日本の様子を伝える。
 『魏志倭人伝』に記された最終年号は魏の正始8年=西暦247年である。この247年から約13年後の260年ころの歴史を、わがブログ「愛、あざやかに永遠であれ・天照大御神と須佐之男命の誓約説話の解明」の(1)(5)までで解説した。要するに、この説話は――伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し呪い祟(たた)る天照大御神(10代崇神天皇)王朝を倒して、五人の王たちが熊野(現在の和歌山県の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社が鎮座する地域)に須佐之男命(伊耶那美命と伊耶那美命の間に生まれた王子)が天下を治める王朝を樹立するクーデターを計画したが、この倭の大乱を避けるために崇神天皇と須佐之男命が不戦の誓いを結んだ――と歴史を伝える。
◆宗像の三柱の女神を祭る宗像王・天菩比命は、熊野に須佐之男命王朝を樹立せんとするクーデターを計画した五人の王の内の一人であった。前回のブログで解明したように、「天菩比命」という名は、卑弥呼が統治した国の名[]の字源をあらわした。
 []の字源には「時計回りに方位を90度転位して北→東・東→南・南→西・西→北となるように、方位を時計回りに90度転回させる」という秘密があった。ゆえに、卑弥呼王朝は「日本列島は〔東〕に伸びずに〔南〕に伸びるにちがいないから、日本列島の方位は〔東〕を〔南〕に改めたほうが神意にかなって勝る地理となる」という転回日本列島地理を制定した。ゆえに、卑弥呼が統治した国の名は「倭」となった。この転回日本列島地理は夏音(かおん)文字の学芸にもとづく錯覚の地理であった(この【夏音文字】については、わがブログ「卑弥呼の逆襲:用語の解説 3・夏音文字」を参照していただきたい)
 『魏志倭人伝』にある15ヵ所の方位記事は[]の字源に合致して――日本列島は〔東〕に伸びずに、中国の呉の会稽がある〔南〕に伸びる――と後世に伝えるものであった。なぜならば、卑弥呼王朝における最も強力な政権基盤は夏音文字の学芸の基軸となった〔[]のキャッチ〕であり、紀元前1世紀に完成したシナ天文が最も重視した〔天の北極〕を方位の基準としてまったく考慮しなかったからである。
 宗像大社の奥津宮(沖津宮)が鎮座する沖ノ島は〔玄海灘〕に浮かぶ。この「玄海灘」という名は「羅針盤が発明されていなかった昔、〔天の北極で緯度換算する方法〕では往来することができず大海で迷って命を失うことになる。他方、〔[]をキャッチする方法〕ならば迷わずに落命しないで往来することができる陸地から遠く離れた波の荒い海」と意味した。だから、「玄海灘」という海の名は――『魏志倭人伝』の15ヵ所のすべての方位記事と同じく、卑弥呼王朝が〔[]のキャッチ〕にもとづいて制定した[]の字源「転回方位」をあらわす転回日本列島地理――を伝えるものであったことになる。
◆『古事記』天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部は「熊野・須佐之男命王朝の創設を企てたた五人の王のうちの一人の天菩比命の子(分子・つまり天菩比命に従う配下の豪族)には七人の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)がおり、最後の七人目の建比良鳥命は遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖である」と伝える。
 この須佐之男王朝樹立のクーデターに参加した遠江の豪族・建比良鳥命は「なぜだ、なぜだ、なぜだ! 伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】はなんで、なんで、なんで憎悪され呪い祟らなければならないのか」とクーデターの失敗を悲嘆して、なんとしても後世に【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えると決意した。この【日本建国の〔愛〕の理念】と日本国誕生史を伝えるには、原初漢字の夏音文字の学芸を詳細に伝える施設を作らなければならなかった。ゆえに、彼はA図に示す1千万坪の大鳥の地上絵を作製した。この大鳥の地上絵を、私は“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶ。この「卑弥呼」の地上絵は、静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する。

A図に示す細江町「卑弥呼」の地上絵内の7ヵ所の地点(遺跡)から現在まで9口の近畿式・三遠式銅鐸が出土している。また、A図右側の浜松市都田地区の前原(まえはら)Ⅷ遺跡から前原銅鐸が出土した。この前原銅鐸を含めた10口の銅鐸は、1千万坪の「卑弥呼」の地上絵を作製するための〔[]のキャッチ〕と土地測量に使用された。
Image

 B図に示すように、建比良鳥命は都田川の河口東岸で[]をキャッチして精密に天頂緯度と子午線を測量した経緯度原点のA地点を設置し、A地点と滝峯不動尊と引佐(いなさ)町八幡宮とを結んで三角測量本点を設定して、1千万坪の「卑弥呼」の地上絵を作製した。

現在の国土地理院の精密日本列島地図は、東京都港区麻布飯倉318の旧東京天文台の子午儀の中心となる地点から〔天頂緯度(北緯353917)と子午線(東経1394440)〕を測定し、この日本経度原点を基に三角形の網や鎖を形作って、その頂に標石の三角点を埋設して作製される。ゆえに、「卑弥呼」の地上絵と国土地理院の精密日本列島地図は共に〔精密に天頂緯度と子午線〕を測定して土地を三角測量して作製されるゆえ、両者の作製原理は同じである。これゆえ、「卑弥呼」の地上絵は『魏志倭人伝』の全記述と『古事記』上巻の記述は真実の歴史を伝えると【科学】の基に証明できる史跡となった。

◆C図は[]の字(字源・字形・字義)となった「精密な天頂緯度と子午線の測定」の解説図である。
 私は、A図に④とした滝峯(たきみね)1号鐸の原寸大の模造鐸を、198611月に静岡県沼津市の渡辺板金所の主人・渡辺進一氏に依頼して作っていただいた。D図とした写真は渡辺氏が銅板で作った模造鐸である。
 E図に示すように、渡辺氏が作った模造鐸の筒()の中に頭を入れて、筒の上()にある二つの孔から舞の中央に立つ厚さ23mmの薄い板となる鈕(ちゅう)を仰ぎ見ると、鈕は板ではなく細い一本の線()と化した。この線を両手で銅鐸の身の傾きを操縦しながら微調整して最も細くすると、鈕の頂上に取りつけられる「渦巻双耳(うずまきそうじ)」という名の部分に刻まれた文様が矢を射当てる的のように同心円形となった。つまり、渦巻双耳の文様が同心円形になったとき〔銅鐸は垂直に立って、同心円形の中心は天頂点をキャッチし、鈕の極細線は精密に天頂緯度線をキャッチする定規(じょうぎ)〕となる。
 このように、銅鐸の構造は精密に〔玄〕がキャッチできる仕組みになっている。

F図は、「卑弥呼」の地上絵を作製した遠江(現在の静岡県西部)の豪族・建比良鳥命や宗像王の天菩比命が生存した3世紀後半、G図の宗像地方はじめ中国と日本列島の天頂にめぐってきた「長方形の暗黒天体部」である。
 この他に、3世紀後半、(1)ヘルクレス座、(2)こと座、(3)北天の最輝部(さいきぶ)が日本列島の天頂にめぐってきた。(1)ヘルクレス座と(2)こと座は現在も日本列島の天頂にめぐってくるが、〔歳差〕という天文現象によって現在は(3)北天の最輝部は天頂に位置せずに〔北天の最輝部南部からその南隣の銀河部まで〕が日本列島各地の天頂を通過する。
◆C図に示した[]は〔天頂緯度線・子午線・天頂点と天頂点の真北または真南の目星(銀河部位や恒星)〕で構成される。ゆえに、[]を構成する〔天頂緯度線・子午線・天頂点・目星〕のモデルを示すと、[]がキャッチできる羅針盤はH図に示す〔菱形〕となる。
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F図の「長方形の暗黒天体部」には「ν」と記した「はくちょう座ν星」が存在する。
 I図に示すように、「はくちょう座ν星とその南の肉眼星の配置」は、H図の〔菱形〕と同様に菱形になるので「はくちょう座ν星の菱形」と呼ぶことにする。

本人の意志にかかわりなく、人間の目は周囲の明るさに応じて瞳孔径(瞳孔の直径)が約1.5mm8mmぐらいまで変化する。視界の中に光がまったく入らない真っ暗にすると瞳孔径は最大7mm8mmに拡大されて最も多くの星が見える。
 しかし、視界の中に光をまったく入らないように真っ暗にすると、E図に示した天頂点をキャッチする渦巻双耳の同心円形が見えない。I図に示す「はくちょう座ν星の菱形」を形成する○であらわした7つの肉眼星(6.5等星以上に明るい星)はじめ「はくちょう座ν星の菱形」を覆う細かい砂粒のごとき無数の7.0等~8.0等の微光星たちは、E図に示した渦巻双耳の同心円形が見える明るさになった時に最も明確に見える。だから、この条件に合致するように周囲を少し明るくなるように工夫すれば、I図に示すように「はくちょう座ν星の菱形」は〔精密に緯度が計測できる羅針盤〕となる。
 G図に示した宗像市大島に所在する『古事記』が記す辺津宮(現在の中津宮)の北緯335341秒は「はくちょう座ν星」の南西隣にある+赤緯(せきい)3350分が下端を擦る目星で緯度が測量できた。この目星は+赤緯34度と+赤緯3350分の中間にあり、I図では星の形を○であらわしたが実際にはギザギザで歪(いびつ)な形であるので、その歪な形の各部分が目盛りにすると辺津宮の北緯335341秒が測定できた。ゆえに、この目星で神湊港がある上中の岬の北端(335118)や勝島の北端(335142)の緯度も測定できた。というのも、細かい砂粒のような7.0等星や8.0等星が群がって形成される各部の個性的な形によっても精密に緯度が測定できたからである。また上記したように、「はくちょう座ν星の菱形」(長方形の暗黒天体部)以外にも、「ヘレクレス座」・「こと座」・「北天の最輝部」でも天頂緯度線は計測できた。ゆえに、当時の天文士たちは銅鐸や銅矛・銅剣・銅戈(どうか)を用いて精密に緯度が測定していたことになる。
 I図が示すように、「はくちょう座のν星の菱形」は勝島(かつしま)の形に相似する。

◆J図のごとく東を上にすると、宗像市玄海町の鐘崎(かねさき)と神湊(こうのみな)までの海岸線(さつき松原)の地図の形は、娩出期(べんしゅつき)の母体の腹部の形に相似する。
 K図に示すように、縫合が完成しない新生児の前頭骨と頭頂骨の間の結合組織性の膜は「大泉門(だいせんもん)」と呼称される。新生児の大泉門と大泉門周辺の矢状(しじょう)縫合の形は勝島の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形。J図参照)に類似する。そして、C図に示した天頂点を通過する銀河部位の東北の地平線から昇って西北の地平線に没する軌道の形は、新生児の冠状(かんじょう)縫合の形に相似する。したがって、K図の〔新生児の大泉門〕と〔勝島〕はI図の「はくちょう座ν星の菱形」に見立てられたことになる。
 白川静著『字統』が「勝島」の[]の字源について「神意にかなうものであり、その結果勝利がもたらされる」と解説するように、I図に示した勝島の地宜に類似する「はくちょう座ν星の菱形」は「神意にかなう神聖な羅針盤」であった。K図の「大泉門」は「神意にかない、死産せずに狭い産道を無事に通過した勝利者の表(しるし)」となる。ゆえに、J図の勝島近くの地は「神意にかなう地」であったから「神湊」と名づけられた。
 〔勝島〕は〔新生児の大泉門〕に見立てられたゆえ、J図の〔鐘崎〕は〔母体のへそ〕に見立てられたことになる。「鐘崎」の[]の右側は[]である。L図に示すように、[]の金文形は「鬼の姿に似る銀河と北ペリカン星雲・ペリカン星雲と長方形の暗黒天体部」を「妊娠した母体と胎児」や「娩出期の母体と胎児」に見立てて作られた。

『古事記』宗像大社の辺津宮(現在の中津宮)の境内は、J図左下の大島北岸の浜辺の遥拝所までである。「遥拝所」は沖ノ島に鎮座する沖津宮を遥拝する所であるが、J図に示す「さつき松原」と同様に〔娩出期の母体の腹部〕のごとき形の浜辺である。だから、大島北岸の浜辺(「岩瀬」という)は神聖な遥拝所となったと考えられる。
◆「鐘崎」の左側の[]の字源について、白川静著『字統』(平凡社)「銅塊などを鋳込んだ形」と解説する。ゆえに、[]の字は「銅を鋳込んで作った銅鐸と銅矛・銅剣・銅戈」をあらわした。M図に、1985年に島根県簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町大字神庭(かんば)812番地に所在する荒神谷(こうじんだに)遺跡から出土した6口の銅鐸の内の1号鐸と2号鐸の正面図と鈕外縁部中央(天頂緯度をキャッチする部分)と菱環部(りょうかんぶ)の形を示した。多くの銅鐸の鈕は2号鐸と同じく菱環部がそなわる。菱環部の形はI図「はくちょう座ν星の菱形」と「勝島」、K図の「大泉門」の形と同類で菱形である。
 N図に示すように銅矛・銅剣・銅戈もまた[]をキャッチして天頂緯度と子午線を測量することができる道具となる。N図の左側に示すように、銅矛の先端部の断面の形は菱形、中ほどの両刃の断面の形も菱形となる。
 1980年に九州の鳥栖市柚比安永田(ゆびやすながた)遺跡から銅鐸鋳型が出土し、1982年にも福岡市赤穂(あかほ)ノ浦(うら)遺跡から銅鐸鋳型が発掘された。このように銅鐸鋳型が九州の地から出土したが、九州は銅矛・銅剣・銅戈の分布圏である。ゆえに、「鐘崎」の[][]は「銅鐸や銅矛・銅剣・銅戈の材料となった銅」をあらわしていることになる。
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◆G図の大島の東側に所在する宗像市玄海町の地ノ島(じのしま)は、現在方位だと緯度軸に対して45度傾くゆえ〔西北〕を指差し、転回方位だと〔東北〕を指差す。したがって、C図に示す天頂点を通過する銀河部位が昇る〔45度東北の地平線〕と没する〔45度西北の地平線〕に見立てられて、この島の名は「地ノ島」となったにちがいない。

◆P図に示すように、はくちょう座γ星より南の「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)の部分」を天文学では「北天の最輝部」と呼称する。〔北半球に土地で最も輝いて見える天体部〕であるから“北天の最輝部”と呼ばれる。
 「北天の最輝部」は〔銀白色に輝く〕ゆえ、「銀河」や「銀漢」の語源となった。
 また、「北天の最輝部」は[]の字源となった〔頸以下の体下面が銀白色のカンムリカイツブリの姿〕に相似する。天照大御神と須佐之男命が生存した3世紀後半、〔歳差〕によってQ図に示す「はくちょう座γ星」は+赤緯3450分であったので、P図の「人横顔に酷似する銀河の頭部から額の部分」が中国や日本列島の天頂にめぐってきたことになる。

I図に示す「はくちょう座ν星の菱形」が明確に見える瞳孔径となった目で見ると、Q図のごとく、〔北天の最輝部」は〔カンムリカイツブリが空を飛翔する壮麗な姿〕に見える。Q図の「北天の最輝部のカンムリカイツブリの姿」は[]の字源でもあったので、『説文解字』は[]の字源をQ図のイメージにもとづいて「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」と解説した。

R図に示す「中国全土を弥綸(びりん)(洩れなく包みこむ)海岸線」は〔人の横顔〕に相似するゆえ「人の横顔に酷似する銀河」に適合することになり――[]の字源銀河「北天の最輝部」と[]の字源地宜「山東半島」は天の神と地の神が呼び合うと定められて、「北天の最輝部」と「山東半島」は共に[]の字源地宜にもなったのである。
◆S図に示すように、[]の字源「転回方位規定」にもとづくG図の「津屋崎町の海岸線」は「山東半島」の形に相似するゆえ、S図の「津屋崎町・宗像市の地図の形」は[][]の字源をあらわすので『魏志倭人伝』が記述する「不弥国」であったことになる。
 []の字源「転回方位」にもとづくS図の「津屋崎町・宗像市の地宜」はQ図の〔カンムリカイツブリが飛翔する壮麗な姿〕に相似するということで「不弥国」と名づけられた。前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・86」で解説したように、不弥国に居住した王の名「天菩比命」は[]の字源の「転回方位規定」をあらわした。
 S図の[]の字源「転回方位」を記す海は「玄海灘」である。ゆえに、卑弥呼王朝は「玄海灘」の〔[]のキャッチ〕にもとづいて〔東〕に伸びずに〔南〕に伸びる錯覚の転回日本列島地理を制定した――だから、『魏志倭人伝』は15ヶ所の全方位記事を絶対に1ヵ所も曲げて読解してはならない卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を説明するものであった。ゆえに、学者たちが〔天の北極〕で方位を定める現在の日本地図にもとづき全15ヵ所の記事をバラバラにして個々の記事に批判を加えて立論する邪馬台国説は、【科学】と真逆の誤読の空論・妄想・デタラメであったことになる。

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