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2014年3月31日 (月)

日本が滅びる・89

愛、あざやかに永遠であれ(29)・天照大御神と須佐之男命の誓約説話の解明(8)

 

■遠江の豪族・建比良鳥命が作った「卑弥呼」の地上絵の秘密(1)

◆今から約6000年前の三皇時代初頭の包犧(ほうぎ)氏は、〔易〕に用いる図書を作った。この図書は、A図に示すように「結縄(けつじょう)」と名づけられた。
 2世紀初頭に完成した“字書の聖典”とされる『説文解字』は[]の字源を「蜥蜴(せきえき)なり」すなわち「トカゲなり」と解説する――〔トカゲは必ずもとのすみかにもどる帰家性を有する〕ので、「易」は「大海に入った人、遠くの地に旅した人、山や谷で迷った人、森林や荒原で迷った人が家族が待つ家へ帰る術」であった。
 大半の現代人は反射的に〔天の北極〕で緯度(位置)と子午線(方角)を測量して古代人は家に帰還したと考える。しかし、B図に示す約26000年で元の位置にもどってくる〔天の北極〕では精密に緯度・子午線が測量できない。ゆえに、三皇時代の人々は〔天の北極〕ではトカゲのように家族が待つ家へ帰ることができなかった――これは科学における絶対的な法則である。人類は本能的に〔天の北極〕では正しく緯度と方角は測定できない科学の事実を知っており、下記に説明する[]をキャッチすれば精密に緯度と方角が測定できる科学の事実を知っていた。ゆえに、「易=[]のキャッチ」であった。
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  C図に示す〔天頂点を通過する銀河部位が示す天頂緯度線と天頂点と北または南の目星(恒星や銀河部位)を結ぶ子午線〕をキャッチすれば、トカゲのごとく家へ帰還することができた。この「天頂緯度線と子午線のキャッチ」を「玄」と言う。言い換えると、[]の字源は「天頂緯度線と子午線のキャッチ」であった。
 ゆえに、約6000年前に考案された易に用いる結縄はC図に示す〔[]のキャッチに用いる図書〕であった。B図に示すように今から約6000年前の三皇時代においては、〔天の北極〕周辺は真っ暗闇で、形となる銀河や恒星が存在しなかった――〔形が存在しない天の北極〕の周辺から図書を作ることは不可能である。だから、「易」に用いる図書は〔天の北極〕周辺から作られなかったことは明白なる事実となる。
 C図は〔天頂点の銀河部位の軌道〕を示すものであるから、銀河各部には形があるしたがって、“はじめに形ありき”にもとづき三皇時代の結縄は天頂点を通過した銀河部位の形状から作られたことになる。
◆今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作ったと伝わる。

黄帝の医学研究は女性の生殖器官を中心とするものであった。上記したように、天頂を通過する銀河部に限定してその形状から図案する三皇時代の結縄では、子宮・卵巣・産道・骨盤などの女性生殖器各部や胎児の成長・出産の様子をあらわすことができなかった。
 
 
黄帝が絵で表示した『内経』を説明する文字の考案は、黄帝につかえる史官(記録官)の倉頡(そうきつ)の役目となった。倉頡は天頂を通過する銀河部に限定せずに、ブログ「卑弥呼の逆襲:用語の解説」にて指摘した「2・秋の銀河と夏の銀河」の広大な範囲まで拡大すれば、この各部の形状から女性生殖器や出産などの様子をあわす文字はじめ万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を作ることができることを発見した。
 倉頡は三皇時代と黄帝の女性生殖器研究と秋の銀河・夏の銀河の銀河各部の形状を結合して図案する文字作成原理を発明した。この倉頡が発明した文字作成原理を「鳥獣の文」または「鳥獣の足跡」と先人たちは称し、倉頡を“漢字の始祖”と定めて崇拝した。
 「銀河」は「銀漢」とも言い、「銀漢(銀河)から作られた文字」であるから「漢字」と言われるようになったのである。
 倉頡は自らが開発した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸知識を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し――(1)秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露した者、(2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者、(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者――これらの人物には神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。
 
◆上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕は紀元前3000年~同2070年まで五帝時代、紀元前2070年~同1600年までの夏代、紀元前1600年~同1300年までの殷代前半期まで厳重に守られた(A図参照)。このため、五帝時代の漢字(中国では「書契(しょけい)」、わが国では「刻木(こくぼく)」という)、夏代の漢字、殷代前半の漢字は遺跡から出土しない文字となった。
 しかし紀元前1300年以後の殷代後半から、上記した倉頡が定めた(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者は必ず死刑にするという掟が破られた。このため、亀の甲羅や獣骨に刻んだ甲骨文字(契文╱けいぶん)が多数出土した。しかし、殷代後半の歴代王朝は倉頡が死刑と定めた(1)(2)の掟は厳重にまもった。
 これゆえ、五帝時代の刻木、夏代の漢字、殷代前半期の漢字は不明となった。
倉頡が考案した刻木は、三皇時代の〔易=[]のキャッチ〕を受け継ぐものであった。このため、五帝時代初頭の黄帝時代から夏代初頭までの950年間、〔易=[]のキャッチ〕に三角測量が加わって中国海岸線の精密地図作製事業が歴代王朝によっておこなわれ、この[]のキャッチによる天文地理学の発達が漢字の発達をともない多数の漢字が作られた。
 

五帝時代初頭から夏代初頭まで中国の歴代王朝がおこなった〔[]をキャッチ〕して三角測量して作製する精密中国海岸線地図の方法は、天頂緯度と子午線を測量して設置した日本経緯度原点を基に三角測量する現在の国土地理院の精密日本列島地図作製の原理と同じである。
 
◆夏代初頭、“夏の始祖”といわれる帝禹()は五帝時代以来の氏族共同体制の継続を強く願った。しかし、帝禹の子の啓(けい)は国家を創設して特定の氏族が帝位を独占する世襲王朝政治体制を欲求した。これゆえ、氏族共同体制の継続を願う帝禹は臨終の際に、帝位を禹の政治を裨益(ひえき╱補佐)した益に譲った。この益氏の首長は五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)の時代に、精密中国海岸線地図を作製する“虞()”という官職に就いた。したがって、益氏は約200年間余、精密中国海岸線地図の作製に従事した。これゆえ夏代初頭、益氏は精密地図作製方法と中国海岸線地図に最も精通していたことになる。
 司馬遷著『史記』は「禹の三年の喪が終わると、益は帝位を禹の子の啓に譲って、箕山(きざん)の南の地に隠棲(いんせい)した。益は禹をたすけて政務にあたった日が浅かったので、天下は益の徳をあまねくは知らなかった。諸侯はみな益から去って啓のもとに入朝した」と説明する。
 このように諸侯が啓のもとに入朝したゆえ、帝益は中国では禹の遺志である氏族共同体制は継続することは不可能であるとあきらめ、新天地・日本列島に移住して禹の遺志の氏族共同体制を継続させると決意して啓に帝位を譲ったのである。しかし、帝益は老いていたゆえ、中国と日本列島を隔てる大海を小舟で幾日も漕いで渡る体力を失っていた。
 それゆえ、益氏の日本列島移住は太い腕と筋骨たくましい青年たちによって行われた。帝益の孫の王子と若者たちは[]をキャッチして緯度と方角を測定する方法で大海を渡って日本列島に移住した。彼らは中国の最先端科学の精密中国海岸線地図と黄帝以後も続けられた女性生殖器研究の医学知識を秋の銀河と夏の銀河の各部の形状で図案して表現する夏文字の学芸と、そして移住の目的である氏族共同体制を日本列島に根付かせた。
◆日本列島では今から約6000年前の前期縄文時代初頭から約4050年までの後期縄文時代初頭(夏代初頭)まで、天頂を通過する秋の銀河各部の形状をデザインする芸術性豊かなすぐれた土器や土偶が作られていた。益氏の若者たちが話す夏音の言葉は縄文人にはまったく理解できなかった。しかし、土器や土偶を作った芸術家たちには益氏の若者たちの銀河各部を指差して説明する夏文字の学芸が習得できた――この夏文字の習得の歴史について、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』の序の冒頭で「臣安万侶が今上陛下に申し上げます。およそ銀河宇宙の初めにあっては、混沌(こんとん)とした天地万物の根元がすでに凝()り固まっていたものの、気と象(かたち)が未だ明確に現れていませんでした。それゆえ、銀河各部から作られた文字によって生まれた地名はじめ事物の名も存在せず、天頂を通過した銀河各部の形状を表現する土器や土偶を作る技(わざ)や文字を作る方法も存在しませんでした。それゆえ、太古(前期縄文時代以前)において天頂を通過した銀河の形を誰も知ることができません。しかしながら、やがて天頂付近を通過する秋の銀河を天と地に分ける情(イメージ)が確立され、前期縄文時代に天頂にめぐってきた天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と中期縄文時代に天頂を通過した高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と後期縄文時代初頭に天頂を通過した神産巣日神(かむむすひのかみ)の造化(ぞうか╱造形芸術)の参神によって夏文字が習得されて文字の歴史が始まり、陰(女性)の女王と陽(男性)の軍王が〔愛〕を国作りの柱とする政事が開始され、この二霊すなわち【日本建国の〔愛〕に理念】を提唱した伊耶那美命と伊耶那美命の遺志を受け継いだ伊耶那岐命が、この日本の理念・文化などはじめすべてのものの生みの親となりました。」と記述した。
 そして、安万侶は『古事記』序の末部で「楷書の〔日下(にちげ)〕と夏文字の〔玖紗訶(くさか)〕という語は同じ銀河部から生まれ、楷書の〔帯(たい)〕と夏文字の〔多羅斯(たらし)〕という語は同じ銀河部からに作られたゆえ、夏文字は楷書で表記することができる」と解説した。
 前期縄文時代、北緯36度が中心となる関東地方で土器・土偶が作られる芸術革命が起こった。新潟県信濃川流域の火炎土器様式、関東地方の勝坂様式など、中期縄文時代を代表する土器はみな北緯36度近辺の東日本で作られた。B図の〔歳差(さいさ)〕にもとづき約6000年前の前期・約5000年前の中期・約4050年前の後期の各縄文時代初頭の天頂緯度線を再現すると、D図のごとくなる。
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  D図の①前期縄文時代初頭の天頂緯度線は「三つ輪の銀河における北の輪の銀河の北部」を貫通している形状にもとづきE図に示すように「天之御中主神」と名づけられた。②中期縄文時代初頭の天頂緯度線は「三つ輪の銀河における北の輪の銀河の中央部」を貫通する。ゆえに、E図の「北の輪の銀河の中央部」の形状は「親鳥がヒナを産んで育てる巣を上から見下ろした形」や「日輪の形」に相似するので、「高御産巣日神」と称されることになった。E図の③後期縄文時代初頭の天頂緯度線が貫通する「三つ輪の銀河における中央の輪の銀河」の形状は「鳥が卵を産む巣」と「日輪」の形に相似するので「神御産巣日神」と名づけられた。このように、益氏が伝える夏文字の学芸は縄文時代の優れた土器・土偶を作った造形芸術家たちによって習得されたゆえ、「造化の参神」と表現されたのである。

そして、秋田県鹿角市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡には、益氏が日本列島に移住して夏文字を根づかせた痕跡が現在も明確に残っている。
 益氏の移住の歴史は『日本書紀』神武天皇紀初頭の〔天祖降臨説話〕として残り、また『古事記』天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)の筑紫降臨説話には『史記』に記載された帝益の箕山隠棲の歴史を演出して大和朝廷の天孫遠征軍は九州筑紫の宗像王権を征服した歴史が記述される。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、その使者たちは中国に到着すると皆自らを“大夫”と称した」という記事がある。万葉仮名の【大夫】は「ますらを」と読み、現代では「益荒男」と表記する。「益氏の若者たちは荒波逆巻く大海、そして[]をキャッチしなければ渡ることができない海の玄海灘を渡って日本列島に移住した」ゆえ、益氏の日本列島移住の歴史は[]と「荒海」の[][]で構成される「益荒男」という語になって残り、『魏志倭人伝』には「大夫」という語となって残った。
 F図に示す『魏志倭人伝』の小国名の夏文字は楷書で表記された。
 『魏志倭人伝』は「倭の易における卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法のごとくであった」という記事があり、この「令亀の法のごとき」という語句は「殷代後半の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字(契文)のごとき夏文字」と解釈すべきことになる。また、『魏志倭人伝』には「卑弥呼が書いた文書は魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と差錯(ささく╱相違)するので、伊都国の港で点検し確認して間違いが生じないようにしていた」という記事がある。だから、倭女王卑弥呼が文書に書いた夏文字は伊都国で魏都と帯方郡が用いる楷書に改められていたゆえ、晋(しん)王朝に保管されていた著作郎(歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)が『魏志倭人伝』を著作した時に用いた資料では夏文字は楷書で表記されていた。だから、『魏志倭人伝』には夏文字は楷書で表記されることになったのである。楷書と夏文字の字源・字形・字義は秋の銀河と夏の銀河の各部の形状であった。だから、伊都国の港では夏文字を楷書に改めることができ、また上記したように安万侶は『古事記』序の末部で「夏文字は楷書で表記できる」と解説したのである。
 
 『魏志倭人伝』の人名も夏文字が楷書で表記された。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと現在残っている最古の漢字音の夏文字の字音となる。中国に残っている最古の上古音で「卑弥呼」を読むと「ピミカ」となる。「ヒミコ」の字音のほうが「ピミカ」よりも古い。

中国古代文字研究の第一者とされる白川静博士が著作する『字統』(平凡社発行)9頁~10頁初頭で〔わが国の漢字音〕と題して「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」と指摘する。
 白川静博士が指摘する最古の漢字音が、益氏が伝えた夏文字の字音であり、『魏志倭人伝』の人名・小国名として残った夏文字の字音であった。

◆『古事記』が完成する10年前の702年、中国に渡った日本国の遣唐使は「わが国に夏文字が存在する」と中国王朝に伝えた。この重要な歴史は中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に「後稍(のちやや)夏音を習う」と記載された。遣唐使は〔壬申の乱の後、夏文字を復興することになった〕事情を、「後稍夏音を習う」と表現したのである。
 夏文字は上記した倉頡の掟を厳重に守って用済みになると必ず消される文字であったが、地名や事物の名をあらわす音で残る実在する文字であった。だから、日本国の遣唐使は「夏文字」を「夏音」と表現した。この日本国の遣唐使が派遣された年(702)10年後に完成した『古事記』上巻には、随所に〔音〕という注が付く11音読みの夏音文字が楷書で表記されて多数残った。
 上記した倉頡の掟を厳重に守ったために、中国でもわが国でも夏音文字は史跡から出土しない文字であったが『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に保存されて残った。
 そして、『魏志倭人伝』末部に記載された年号・魏の正始8(247)から約13年後の260年ごろ、五人の王たちは伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して呪い祟る天照大御神・第10代崇神天皇王朝を倒さんとするクーデターを計画した。伊耶那美命と伊耶那岐命を両親とする須佐之男命は倭国の大乱を回避するため、天照大御神(崇神天皇)と不戦の誓いを結んだ。このため、クーデターは失敗した。
 このクーデターは、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話に記載された。この説話の末部に記載された遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖である建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は、崇神王朝を倒すクーデター計画に参加した。ゆえに、彼はクーデター失敗を「なんで! なんで、 なんで、なんで、こうなるのだ!」と悲嘆して、太安万侶が『古事記』初頭に「陰陽ここに開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)となる伊耶那美命が提唱して伊耶那岐命が受け継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】と、夏音文字と楷書の字源・字形・字義は秋の銀河と夏の銀河各部の形状である事実」を後世に伝えるために、G図に示す1千万坪の大鳥の地上絵を作製した。この巨大な鳥の地上絵を、私は“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた。「卑弥呼」の地上絵は、静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する。
◆当時、〔愛〕の理念を掲げて小国・日本が誕生した歴史を後世に伝えることができる文字は、倉頡の掟を厳重に守る遺跡から出土しない夏音文字であった。益氏が伝えた夏音文字は、(1)〔易=[]のキャッチ〕、(2)黄帝が研究した女性生殖器と胎児の出産に関する医学、(3)益氏が精通していた精密中国海岸地図を加えた科学に、倉頡が開発した(4)秋の銀河・夏の銀河の各部の形状を図案する芸術が合体して形成されるものであった。
 だから、F図に示した小国名には上記した4つの要素が合体されている。

G図の「卑弥呼」の地上絵には、さらに日本国のすべてのものの生みの親となる・伊耶那美命が提唱し伊耶那岐命が受け継いだ(5)【日本建国の〔愛〕の理念】が加わった。

学者たちは『魏志倭人伝』に〔誤読=文献批判〕を加えて夏音文字を抹殺し、さらに『古事記』上巻に〔誤読=文献批判〕を加えて「陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」と明確に記してあるにもかかわらず、先人たちが日本のすべてのものの生みの親であると確定した【日本建国の〔愛〕の理念】を徹底的に排除する日本神話虚構説を確立して“日本を滅ぼす妄想”に夢中になる。「卑弥呼」の地上絵によって学者たちが主張する邪馬台国説と日本神話虚構説は誤読で捏造(ねつぞう)した空論・妄想であると断定することができる。だから、学者たちは誤読を駆使して日本を滅ぼすデマを吹聴していることになる。

次回から夏音文字の史跡「卑弥呼」の地上絵の秘密を解明するが、先ず手始めに『魏志倭人伝』に遠江がなにゆえ「不呼国」と記載されたか、この秘密について解明する。

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