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2014年4月22日 (火)

日本が滅びる・93

愛、あざやかに永遠であれ(33)・天照大御神と須佐之男命の誓約説話の解明(12)

遠江の豪族・建比良鳥命が作った「卑弥呼」の地上絵の秘密(5)

 

3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』は、下記に示す――(1)「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に到着すると、皆みずからを“大夫”と称した」、(2)「魏の景初2(238)6月、倭の大夫の難升米(なしめ)らを帯方郡に派遣した」、(3)「魏の正始4(243)、倭王が大夫の伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややく)の八人の使節を派遣した」、(4)「正始6(245)、魏の斉王は倭の外相の難升米に魏の軍旗の黄幢(こうどう)を仮に授けた」、(5)「魏の正始8(247)、倭は載斯烏越(そしあお)などを派遣して帯方郡政庁に到着した」、(6)「倭は大夫の率善(そつぜん)中郎将の掖邪狗など20人を派遣し、彼等は魏の都(洛陽)に到着した」――これら6つの記事で、倭ではA図に示した〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を日々鍛錬する習慣が存続していたことが事実となる。
 A図に示す〔[]のキャッチ〕によって〔天頂緯度線と子午線がキャッチ〕ができたゆえ、倭の使節は大海で緯度と方角(経度)が精密に測量できた。だから、上記の6つの記事は科学的に証明されて事実であったことになる。

〔天を北極の高度を緯度に換算する方法〕だと不正確であったので、大海に入ると直ちに迷い挙げ句に命を失い家族が待つ家へ帰還することはできなかった――この科学の法則の事実に対して、“そんなことはない! 〔天の北極〕でも無事に大海を渡ることはできた”と最も権威ある日本古代史学の大学者が反論しても、この反論は空論・虚妄となる。
 〔天の北極〕では大海を渡ることができない――これは科学の法則による事実である。
 上記の6つの記事における倭の使者・使節は北九州の沖合の「玄海灘」を渡って朝鮮半島の帯方郡政庁に到着し、さらに魏都を訪問した。
 上記したように――〔天の北極〕では緯度の測量が不正確で渡ることができなかった。しかし、〔玄をキャッチする方法〕ならば精密に緯度と子午線が測量できたので往来することができた――ゆえに、倭の使節が往来した北九州の沖合の海は[玄海灘]と名づけられた。

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◆紀元前1世紀、中国では〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成した。このため、中国の人々は2世紀から3世紀になると、中国と日本列島を隔てる大海を渡ることができなくなった。
 もしも中国と同様に倭の卑弥呼王朝もまた〔天の北極〕を最も重視するものであったならば、倭の使節も大海を渡ることができず魏と倭は国交を結ぶことができなかったので、『魏志倭人伝』は1字も文字が書かれていなかった白紙であったことになり、上記の6つの「倭の使者たちは大海を往来できた」という記述はじめ「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も書かれていなかったことになる。

◆B図の左図に示す沖ノ島は、上記した「〔天の北極〕で緯度換算する航法では渡ることができないが、〔玄〕をキャッチする航法ならば往来できた」と伝える「玄海灘」に浮かぶ。
 B図に示すように、沖ノ島と伊豆諸島の神津島は同緯度(北緯3415)である。この両地が同緯度であることは、〔[]をキャッチする方法〕ならば測量できた。
 B図に示す〔同緯度の沖ノ島と神津島の気候〕と〔中国全土を包みこむ海岸線地域の北部と南部の気候〕を比較して、卑弥呼王朝は『魏志倭人伝』の15ヶ所の方位記事が伝える転回日本列島地理を制定した。
 日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るゆえ〔西冷〕となり、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬にも雪が降らないゆえ〔東暖〕となる。
 C図に示すように、中国の海岸線地域の北部の気候は冷たいゆえ〔北冷〕となり、中国の海岸線地域の南部は気候が暖かいゆえ〔南暖〕となる。だから、卑弥呼王朝はC図の右側に示すように「日本列島の東は中国海岸線地域の会稽(かいけい)や東治(とうじ)がある南部のほうへ伸びる」と考える転回日本列島地理を制定した。

したがって、『魏志倭人伝』には「倭の道里を計るに、当(まさ)に会稽・東治の東に在るべし」という記事がある。

D図が明確に示すように、転回日本列島地理は会稽・東治の東に在る。しかし、学者たちが主張する邪馬台国説九州説・畿内説の立論基盤となる実際の日本地図は会稽・東治の東北に在るので不合理となって【科学】が成立しない。

学者たちは“〔天の北極〕にもとづけば日本列島の東は南に伸びる地理は絶対に実在するはずない”と断定して、〔誤読〕に〔文献批判〕という名を付ければ何ヵ所でも改ざんすることができると主張する。この学者たちの意見にもとづくと卑弥呼王朝は〔天の北極〕で日本列島地理を制定したことになるので、上記したように倭の使節も魏の使節同様に玄海灘を渡ることができず魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになり、『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙となり「邪馬台国」の4字も「卑弥呼」の3字もすべて消えてしまうことになる。
 このように、学者たちの主張にしたがって〔天の北極〕にもとづく日本地図で考えると『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙となるゆえ、〔空論〕であることが明白となる。他方、A図に示した〔[]のキャッチ〕で立論すると、倭の使節は大海を往来することができたことになるゆえ『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立して事実を伝えるものとなる。このように、学者たちが主張する邪馬台国九州説と畿内説が〔誤読の空論〕〔荒唐無稽のデタラメ〕であることは明白なる事実である。


◆『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とうとうみのくにのみやつこ)の祖(おや╱先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と名を記載された豪族は、E図の1千万坪の大鳥の地上絵を『魏志倭人伝』が著作された3世紀後半(260290)に作製した。E図の大鳥の地上絵を、私は“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶことにした。「卑弥呼」の地上絵は、静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となって現存する。
 E図に示す「卑弥呼」の地上絵は『魏志倭人伝』の全記事と『古事記』上巻の記述は歴史的事実を伝えるものであることを科学的に証明できる史跡である。いいかえると、「卑弥呼」の地上絵を調査すると、新井白石以来の邪馬台国説研究と日本神話虚構説は【科学】がまったく成立しない〔誤読の空論〕〔荒唐無稽のデタラメ〕であることが立証される。
 E図に示す「卑弥呼」の地上絵は今日の国土地理院の精密日本列島地図の作製方法と同じく、[]をキャッチして測量した経緯度原点のA地を基に滝峯不動尊・八幡宮の三角本点を設置し、さらに三角形の網や鎖を形作って、1千万坪の「卑弥呼」の地上絵を作製した。


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3世紀後半当時、倭の学識者たちは魏との国交によって中国の人々は〔天の北極〕を重視するために大海を渡ることができない事実を知った。この事実は、当時の倭の学界を激震する大きな衝撃となり、遠江の建比良鳥命も知ることとなった。
 そして、建比良鳥命は[]のキャッチする1千万坪の地上絵を作製すれば、伊耶那美命が〔愛〕の理念を提唱した日本国誕生史を後世に伝えることができることに気づいた。
 F図の右側に示すように、世界遺産で有名なナスカの地上絵における最大の鳥の地上絵は全長が約300m、翼長が約90mである。G図に示すように、「卑弥呼」の地上絵の全長は約8.5km、翼長は約9kmである。「卑弥呼」の地上絵の全長8.5km8.5cmに縮小するとナスカの最大の鳥の地上絵はわずか0.3cm(3mm)となる。
 ナスカの地上絵は原図を拡大する方法で作製できるが、F図に示すように遥かに巨大な「卑弥呼」の地上絵を作製する方法は、現在の国土地理院の日本列島地図作製方法と同じくA図に示す〔[]のキャッチ=天頂緯度線と子午線のキャッチ〕で経緯度原点を定めて三角測量する方法のみに限られる。
 だから建比良鳥命は、1千万坪の大鳥の地上絵を作製すれば後世の人々は3世紀に〔[]のキャッチ〕を基軸とする高度の学術が存在したことに気づくにちがいないと考えた。
 建比良鳥命は今日の【科学】という言葉を知らなかったが、1千万坪の「卑弥呼」の地上絵は〔[]のキャッチ〕では作製できるが〔天の北極〕では作製不可能であるゆえ、〔天の北極〕にもとづく日本地図で考えた意見はすべて即刻〔空論〕となる。だから、3世紀の【科学】を伝えて「卑弥呼」の地上絵を作製して、夏音文字の学芸を貯蔵して卑弥呼の歴史と日本国誕生史を伝えようとした方法は歴史を後世に伝える最も賢明な方法であったことになる。


 遠江の豪族の建比良鳥命は、【日本建国の〔愛〕の理念】を呪い祟って抹殺せんとする天照大御神・崇神天皇王朝を倒して伊耶那岐命と伊耶那美命を父母とする須佐之男命の熊野王朝を創設するクーデターを計画する五人の王のうちの北九州の宗像に居住する天菩比命(あめのほひのみこと)グループの一員であった。須佐之男命は父・伊耶那岐命(開化天皇)の「多賀」すなわち「戦争を避けて、平和と繁栄に努めろ」という遺言を守って、天照大御神・崇神天皇と不戦の誓いを結んだ。これゆえ、クーデターは失敗した。
 建比良鳥命は「なぜ、なぜ、なぜ、こうなるのだ。日本建国の〔愛〕の理念はなぜ葬られなければならないのだ!」と悲嘆し、“愛あざやかに永遠であれ”と願って夏音文字の学芸知識を貯蔵する「卑弥呼」の地上絵を作製した。

われわれは、今から約4050年前の後期縄文時代に日本列島の伝来した高度な夏音文字の学芸が3世紀に存続して栄えていたことを学校でまったく教育されなかった。それというのも、白石以来の学者たちが『魏志倭人伝』の記事を【科学】が成立しない〔空論〕となる〔天の北極〕に則る天文地理学のみで考えて、【科学】が成立する〔[]のキャッチ〕について学者たちはまったく考えなかったので教育されないことになったのである。


712年、【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える『古事記』が完成した。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――崇神天皇の生母の天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は千引石(ちびきのいわ╱現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体の“ごとびき岩”)の前で「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」、すなわち「伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊重する母親たちの子宮頸部を狭くなるように呪って、一日に必ず千人ずつの胎児の頭を縊(くび)り絞()めて殺す」と誓った――と伝える。
 『古事記』は歴史の真相を伝えて皇室が至上神と崇拝する皇祖・天照大御神の聖性を汚す反逆の史書であったゆえ、即座に元明天皇は献呈を拒否して『古事記』の抹殺に努めた。


720年、『日本書紀』が完成した。
 『日本書紀』第五・崇神天皇紀に記載された箸墓古墳の築造記事は、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部の千引石の前で「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った天照大御神の秘密を補足説明するものであった。
 つまり、『日本書紀』崇神天皇紀にある箸墓古墳の築造記事は「大物主神の妻となって箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は千引石の前で伊耶那岐命に離縁された天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)であり、天照大御神=倭迹迹日百襲姫命と息子の崇神天皇は【日本建国の〔愛〕の理念】を祟って抹殺する呪いの偶像を三輪山の頂上に設置した」と記述するものであった。
 奈良県桜井市に所在する三輪山の頂上にある偶像は倭迹迹日百襲姫命が【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した天照大御神であることが明確に証明できる遺物であったゆえ、江戸幕府は破壊せずに残した。これゆえ、この偶像は現在も残っている。
 


 
778年、“愛あざやかに永遠であれ”と願う【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える『万葉集』が完成し、巻二十の4321番から4436番の116首の防人歌(さきもりうた)で【日本建国の〔愛〕の理念】が表示され、小国・日本は旧国の駿河・伊豆・相模・甲斐・信濃・上野・下野・武蔵・安房・上総・下総・常陸の東海・関東地方であり、旧東鯷人国であったと明確に示された。『万葉集』は朝廷が抹殺せんとした『古事記』上巻のテーマとなった【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作られた和歌集であったのである。
 天照大御神=倭迹迹日百襲姫命が千引石の前で「汝の国の人草、千頭絞り殺さむ」と誓ったのは伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪するものであったからである。天照大御神は強大な権力によって国家は栄えると考え、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は強大な権力を損なう無用なものであると敵視した。


 9世紀後半から10世紀中ごろ、日本最初の小説『竹取物語』が完成した。『竹取物語』のテーマは『古事記』上巻と『万葉集』が伝える【日本建国の〔愛〕の理念】であり、国家権力を最も重視する朝廷の政策(天照大御神の政策)を徹底的に風刺する小説である。『竹取物語』は日本の反国家権力風刺小説の最高峰である。
 ヒロインのかぐや姫は【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命をモデルとする。伊耶那美命は『魏志倭人伝』に記載された小国・伊耶(いや)(旧国の丹波)出身の竹野比売(たかのひめ)であった。だから、かぐや姫は竹の筒から生まれることになった。
 1011年ころに完成されたとされる『源氏物語』よりも、『竹取物語』ははるかに勝って日本人の精神形成、特に武士道の形成の原動力となった。源頼朝、織田信長、徳川家康が【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生を捧げたのは、『竹取物語』が「武士(つはものども)があまた具()して山へ登りけるよりなん。その山を〔ふじ(富む士)の山〕とは名づけゝる。その煙(けぶり)、いまだ雲のなかへたち上るとぞ、言ひ伝へる」という文で終わり、【日本建国の〔愛〕の理念】を復興する武士こそ日本人の理想像であると訴えたからである。

 

12世紀末には、『竹取物語』の最後の文に符合して富士が見える伊豆で育った源頼朝が【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を願う関東武者たちに担がれて鎌倉幕府を創設した。弟の義経は【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺を謀る比叡山延暦寺の僧侶の弁慶を片腕として朝廷に近づいて鎌倉幕府の屋台骨を揺るがした。ゆえに、義経は鎌倉幕府から追放されて討たれたのである。『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台となる黄泉比良坂(よもつひひらさか)は現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社の参道であるが、頼朝の寄進によって538段の石段となる。ゆえに、鎌倉幕府は【日本建国の〔愛〕の理念】を復興の基礎を固めた武家政権であったのである。


◆鎌倉幕府の後を受け継いだ室町幕府もまた【日本建国の〔愛〕の理念】を掲げた。足利義満の別荘であった金閣寺(鹿苑寺)の庭園は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字が解明できる施設である。
 室町時代を代表する庭園の極地を示すとされる、京都市に所在する竜安寺(りょうあんじ)の枯山水(石庭)は、15個の石・5群の石組と白砂で「漢字は秋の銀河・夏の銀河から創られた」と造形表現する。したがってE図の「卑弥呼」の地上絵と同じく、竜安寺の石庭もまた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字の学芸が解明できる施設である。ゆえに、竜安寺の石庭は最も重大な日本古代史の真相・真理を解明できる思索(考え方)を示す施設であり、邪馬台国九州説・畿内説と日本神話虚構説は〔誤読の空論〕であると証明できる施設である。

英語では「銀河」を「the Milky Way」すなわち「ミルクのように乳白色の道」という。少し明るい光が目に入る瞳孔だと、H図に示す「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・激流に似る銀河・長方形の暗黒天体部・人の横顔に酷似する銀河」の全面は乳白色で覆われる。だから、英語は「銀河」を「the Milky Way」と称した。竜安寺の石庭全面を覆う砂はよく見ると乳白色であり、「the Milky Wayの庭園」となって15個の石・5群の石組ですべての漢字が作られた秋の銀河と夏の銀河の各部の形状を造形表現する仕組みになっている。

 

15621月、29歳の織田信長と21歳の松平元康(後の徳川家康)は世にいう“清洲同盟”を結んだ。江戸時代の幕臣の木村高敦(たかあつ)が著した『武徳編年集成』は、清洲同盟で信長は「和議早速御許諾欣然タリ 此上は水魚ノ思ヲナシ互ニ是ヲ救ン事聊(いささか)モ偽リ有(ある)ベカラズ」と書く起請文(きしょうもん)を作ったと記す。信長は小さな紙に“牛”という字を書いて、それを三つにちぎり、信長と元康(家康)と信元(元康の生母の於大の兄)の三人で茶碗に水に浮かべて飲んだとのことである。
 この“牛”の字を書いておこなった儀式は、信長が熱烈に憧れた伊耶那美命を主神として祭る熊野那智大社のI図に示す牛王神璽(ごおうしんじ)に誓う血盟を示すものであった。
 I図の牛王神璽中央の「日本第一」は「日本人にとって第一番目に大切なものは伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】である」と伝えるものである。
 清洲同盟から9年後の1571年、信長は皇室に協力して【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺を謀って「天照大御神は密教の本尊の大日如来である」という虚偽をデッチあげた比叡山延暦寺を憎悪して焼き打ちにした。
 158262日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれた。

 

◆関ヶ原合戦の4月後の1601年正月、家康の命令でE図の「卑弥呼」の地上絵を作った建比良鳥命の子孫の井伊直政は譜代大名の筆頭の地位につき、近江佐和山城に入った。しかし、直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌1602年に42歳で亡くなった。
 家康は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を胸深く秘めて一生をささげた信長と直政を失ったが――信長・直政・家康の心願をあらわす地宜(ちぎ╱地図の形)を作るために近江の近隣7ヵ国12大名に井伊氏・彦根藩を助勢するように命令した。この地宜は1603年から着工されて20年後の1622年に完成した。J図に示す彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は「未だ夏音文字は習わず(復興せず)」と設計する。


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 家康は1616年に没しているので、信長と結んだ清洲同盟の約束をあらわすJ図の彦根の大鳥の地上絵の完成を見ていない。
 彦根の3千万坪の「未だ夏音文字は習わず」と設計された地上絵は、E図の「卑弥呼」の地上絵と同じく夏至の日の出の方向を向くゆえ、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字の秘密を解明すれば日本古代史における第一番に大切な【日本建国の〔愛〕の理念】に関する歴史が解明できる史跡である。その証拠に、J図に示す彦根城の南南東に鎮座する多賀大社の主神は伊耶那美命と伊耶那岐命であり、伊耶那岐命は【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱し、この【日本建国の〔愛〕の理念】を伊耶那岐命は受け継いだ。だから、彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は夏音文字の学芸を復興して【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作製された史跡であったのである。

天照大御神・崇神天皇母子を皇祖と崇拝した朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して抹殺せんとした。この朝廷の方針に真っ向から逆らった家康の遺志を受け継ぐ江戸幕府は、上記したように天照大御神・崇神天皇母子が三輪山の頂上に設置した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と祟(たた)る政策を造形する偶像を破壊しなかった。


1725年に没した新井白石が〔誤読〕で立論する邪馬台国説の出現に“このような空論が学問と呼ばれるようになったならば、必ず日本は滅びる”と脅威を感じたのであろうか――白石の死から13年後の1738年、朝廷は江戸幕府の協力を得て皇室最大の神事の大嘗会(だいじょうえ)を復興し、天皇の即位式に用いるK図に示す王冠の上の飾りはE図に示す「卑弥呼」の地上絵の意匠に定めた。
 K図の天皇の王冠の下の飾りの菅笠(すげかさ)は、L図に示す「子宮頸部」をあらわす「細い切れ長の目の銀河と三角形の暗黒天体部」を意匠とした。
 前回のわがブログ「日本が滅びる・92」で詳細に解説したように、L図の「細い切れ長の目の銀河と三角形の暗黒天体部」はM図に示す「子宮頸部」をあらわした。
 天照大御神は「千頭絞り殺さむ」と呪って、「千人の胎児の頭を狭い子宮頸部で縊(くび)り絞()めて殺す」と祟る政策を遂行した。天皇の王冠の下の飾りの菅笠は「卑弥呼」の地上絵よりも大きく作られて「広い子宮頸部で無事に胎児が出産する」をあらわした。
 1738年の大嘗会の復興における天皇即位式の王冠の意匠をもって皇室は天照大御神の「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」という祟りは日本人と日本国を滅ぼす原因になると認めた。ゆえに、江戸幕府は大嘗会の本格的な復興に協力したのである。


◆N図に示す良県桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡をなんとしても邪馬台国にしようとする学者たちは『魏志倭人伝』と『日本書紀』崇神天皇紀の箸墓築造記事に多数の〔誤読〕を加えて荒唐無稽のデタラメを唱え、この虚妄説に朝日新聞は肩入れして、「なんで生きているのだ。このゴキブリ野郎めが、目障りだ。とっとと死ね。日本人は一日に千人ずつ死ね」と急()きたてて、【日本建国の〔愛〕の理念】を守ると即位式で誓った天皇の尊厳を徹底的に侮辱する残忍きわまりない畜生と化す。
 以上、先人たちが“愛あざやかに永遠であれ”と願い続けた歴史にもとづくと、〔誤読〕を駆使して改ざんする纏向遺跡邪馬台国説を唱える学者たちと朝日新聞の行為はナチスのユダヤ人の大虐殺と同じく、“日本人を大虐殺するホロコースト”となる。

日本国を脅かすまたは日本人を侮辱する最大の勢力は尖閣諸島問題で対立する中国政府でもなく慰安婦問題で攻撃する韓国政府でもなく、根も葉もない纏向遺跡邪馬台国説というデマを流布して日本国と日本人のこの世に存在して生きる理由を根こそぎ奪う学者たちと朝日新聞である。
 このまま根も葉もないデタラメ・纏向遺跡邪馬台国説を放置すると、確実に日本は衰退し挙げ句に滅びるにちがいない。先人たちが日本人の命の根元とした【日本建国の〔愛〕の理念】が未だほんとうに復興されないために少子化が進み、また【日本建国の〔愛〕の理念】という最も重大な歴史の真実を排除したために一歩先の進むべき方向もまったく見えなくなるゆえ我々はますます窮地に陥って衰退の坂道を転げ落ちていくのみとなる。

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