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2014年4月24日 (木)

日本が滅びる・94

 

愛、あざやかに永遠であれ(34)・箸墓記事と天皇の王冠(1)

◆A図は、インターネットのブログサイトの「大神神社 泰山(たいざん)の古代遺跡探訪記」から転載した。
 A図は御諸山(みもろやま╱奈良県桜井市の三輪山)の頂上付近に現存する奥津磐座(おくついわくら)の石像図である。
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10代崇神天皇の生母の天照大御神は千引石(ちびきのいわ)の前で「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と誓った。
 A図の石像は、天照大御神と第10代崇神天皇母子王朝の重点政策であった祟(たた)り、つまり上記した千引石の前で天照大御神が「汝、すなわち伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する母親たちの子宮頸部が狭くなるように呪って、狭い子宮頸部で一日に千人ずつ胎児の頭を絞め殺す」と誓った祟りを表現する。
 したがってA図の石像は、天照大御神と崇神天皇母子王朝の重点政策である「狭い子宮頸部で一日に千人ずつの頭を絞め殺される無惨な胎児の姿」をあらわす。
 B図に示すように、奥津磐座の〔石像の台座の穴の縁〕はC図に示す「膣口(ちつこう)」に相当し、〔台座の穴の底〕はC図の〔子宮頸部〕に相当し、〔穴の底から上へ伸びる部分〕は「頭を狭い子宮頸部で絞め殺されて、箸で挟まれて掻き出される胎児の姿」を表現する。
 なお、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・36」で解説したように、「箸」は「死産した胎児をはさんで産道()から掻き出す医術器具」である。


◆崇神天皇の生母は「夏音文字の学芸に精通する聡明な女王」と誇示して“天照大御神”と名乗った。
 崇神天皇の生母・天照大御神は、『古事記』の第9代開化天皇紀に記載される天皇の継母にして第2后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)である。また、後に第7代孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の名を受け継ぎ、天照大御神は「倭迹迹日百襲姫命」と改名した。
 『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は箸を陰部に撞()いて死去した。ゆえに、当時(3世紀後半)の人は彼女が葬られた墓を“箸墓”と号した」と記述する。
 つまり、崇神天皇紀は「天照大御神は狭い子宮頸部で頭が絞め殺されて医術器具の箸で掻き出される胎児たちの祟りで陰部に箸が撞きささって死んだ。ゆえに、当時の人々は天照大御神の墓を“箸墓”と号した」と伝えている。

このように『日本書紀』崇神天皇紀が「倭迹迹日百襲姫命は箸墓に葬られた」と明記するにもかかわらず、〔誤読〕を自由自在にあやつって纏向(まきむく)遺跡を邪馬台国であると改ざんする学者たちが出現して「箸墓は卑弥呼の墓であった」とデマを吹聴(ふいちょう)する。この根も葉もない荒唐無稽のデタラメを朝日新聞はお先棒をかつぎ、A図の石像に宿る天照大御神の祟りを蘇えらせて「なんで生きているのだ。このゴキビリ野郎めが、目障りだ。とっとと死ね。日本人は一日に千人ずつ死ね」と急()きたてる。

 

◆江戸幕府は、箸墓は天照大御神の墓であることを知っていた。また、A図の御諸山の頂上付近にある奥津磐座の石像は天照大御神が重点政策とした「狭い子宮頸部で絞め殺す【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人々の胎児の姿」を表現するものであることを知っていた。だから、江戸幕府は、後世の人々が真実の歴史を失わないように、纏向遺跡・邪馬台国説や箸墓・卑弥呼の墓説などのような日本人を大虐殺する荒唐無稽のデタラメが絶対に出現しないように願って、奥津磐座の石像を破壊せずに残した。
 A図に示す奥津磐座の石像は、ナチスがユダヤ人を大量虐殺したように、纏向遺跡・邪馬台国説をデッチあげた学者たちと朝日新聞の報道は日本人を大虐殺(ホロコースト)するに等しい行為であると示す。



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 D図に示す箸墓と三輪山(御諸山)は直線距離で約2.6kmしか離れていない。ゆえに、A図の三輪山頂上の石像をそっちのけにしておこなった纏向遺跡・邪馬台国説学者たちの発掘は自分たちにとって都合がよく解釈したデタラメを強行する蛮行であったことになる。
 だから、纏向遺跡・邪馬台国説学者たちの主張と朝日新聞の報道は人道と倫命(りんめい)に反する畜生に勝る理不尽な日本人を大虐殺する行為であると言わざるをえない。


◆『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問記事は――伊耶那岐命(のちの第9代開化天皇)の正妃の伊耶那美命が没すると、伊耶那岐命の第2后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が倭女王に即位して多数の18歳ころの青年と13歳ころの乙女を殺して、熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造した伊耶那美命の墓(前方後円墳)に埋めた――と伝える。
 この残忍きわまりない徇葬(じゅんそう)は、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼の墓を作った時におこなわれた」と記述された国家儀式を受け継ぐものであった。
 卑弥呼の陵墓を作った時の徇葬は孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命が指揮しておこなったのではあるまいか。だから、後年、伊耶那美命の陵墓を作る時に徇葬を決行した天照大御神・伊迦賀色許売命は「倭迹迹日百襲姫命」という名を受け継いだと考えられる。


230年、呉の黄帝孫権に命令された1万の水軍は日本列島の東鯷人(とうていじん)国へ遠征しようとして失敗した。しかし、東鯷人国の王は再度呉軍が遠征してくるにちがいないと考えて隣国の倭人国に属することを決意し、女王卑弥呼に東鯷人国の防衛を要請した。ゆえに、東鯷人国は倭国に属する小国となり、国号は「日本」と改められた。
 この小国・日本を防衛するため、敵軍の戦力を奪う呪力が最も勝るとされた13歳の伊耶(いや)国出身の竹野比売(たかのひめ)が女王に就任し、18歳の武力が最も勝るとされた若倭根子日子大毘々命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)が日本国の軍王(いくさのおおきみ)になって、二人は結婚した。
 竹野比売は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。小国・日本の人民たちは彼女を〔伊耶国出身の美しい女王〕と讃えて“伊耶那美命”と呼んで敬愛した。そして、日本国の軍王を“伊耶那岐命”と渾名(あだな)で呼んで尊敬した。


◆『魏志倭人伝』の末部は――倭女王の卑弥呼が没した。卑弥呼の墓に、奴(18歳ころの青年)と婢(13歳ころの乙女)の百余人を殺して埋めた。この残虐な徇葬(じゅんそう)を憎悪する人々が、卑弥呼の後を継いだ男王に服従せず戦争となった。そこで、倭政府は千余人の反乱者たちを殺し、また小国・日本に赴任させた伊耶那美命を倭女王に就任させると反乱者たちは〔愛〕を国作りの柱にした伊耶那美命ならば必ず徇葬を禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てたため遂に平定された――と記述する。
 この『魏志倭人伝』末部に記述された文では「伊耶那美命」は夏音文字の名で「壱与(いよ)」と表記される。

 

◆徇葬に反対する人々の反乱を平定したことによって、伊耶那美命・壱与が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は、〔強大な国家権力〕に勝る力を有することとなった。

 上記したように、小国・日本の軍王の伊耶那岐命(のちの開化天皇)の第2后は、天照大御神(伊迦賀色許売命・のちの倭迹迹日百襲姫命)であった。

天照大御神は強大な権力によって国家は繁栄すると考えた。だから、天照大御神は“〔強大な国家権力〕のほうが力が劣っている”と批判する伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を敵視して憎悪した。
 伊耶那美命が没すると、天照大御神が倭女王に即位した。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話で語られるクーデターの舞台となった地域をE図に示した。この説話は、下記のごとく伊耶那岐命のクーデターを記述する。
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 ――卑弥呼の墓を築造した時と同じく、天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は伊耶那美命の徇葬反対の遺志を無視して、国家権力の基に多数の奴婢(18歳ころの青年と13歳ころの乙女)を殺した八雷神(やくさのいかづちがみ╱徇葬者たち)を伊耶那美命の墓に埋めた。この伊耶那美命の墓はE図に示す黄泉国=熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造された。
 日本国の軍王・伊耶那岐命は愛妻・伊耶那美命の遺志を無視する妻の倭女王・天照大御神に憤りクーデターを決意し、配下の日本兵たちを率いて伊耶那美命の陵墓の玄室(げんしつ)から棺を奪った。伊耶那美命の棺は日本兵たちが神輿して担ぎ、伊耶那岐命は日本兵たちとともに夜の真っ暗な熊野路を黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(現在の熊野速玉大社の境内)に目指して逃走した。棺を担がない日本兵たちは燃えさかる松明(たいまつ)で暗闇の路を照らして、棺を担ぐ日本兵たちが転ばないようにした。この松明の灯をたよりに千五百之黄泉軍(ちいほのよもついくさ╱倭政府の大軍)は伊耶那岐命一行を追跡した。松明の灯は伊耶那岐命が謀った罠であり、この罠にはまった倭政府の大軍は日本兵と熊野に住む戦士たちの本隊が待ちかまえる黄泉比良坂の坂本へ誘導された。そして、倭政府の大軍は黄泉比良坂の坂本で伊耶那岐命が率いるクーデター軍に撃破されて大敗した。
 驚いたことに天照大御神は、女のか弱い足で夜の熊野路を追跡してきた。天照大御神は捕えられ、黄泉比良坂(よもつひらさか╱E図に示す現在の和歌山県新宮市の神倉神社の参道)の道を塞ぐ千引石(神倉神社の御神体の“ごとびき岩”)の前に居る伊耶那岐命のもとへ連行された。
 千引石の前で両人が向かいあうと、伊耶那岐命は天照大御神に離縁を言い渡した。
 この離縁に天照大御神の怒りは絶頂に達し「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と呪い誓った。
 伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」、つまり「吾は泣き妻の遺志を継いで人民が一日に千五百の産屋を立てるように【日本建国の〔愛〕の理念】を最も尊ぶ政事を行う」と決意を示して誓った。

◆クーデターに成功した伊耶那岐命は、第9代開化天皇となって小国・日本と倭国を併合した。この歴史は、中国の正史『旧唐書』倭国日本伝には「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」と記述され、また中国の正史『新唐書』日本伝には「日本はすなわち小国、倭の并(あわ)す所となる」と記載される。
 『古事記』が「伊耶那美命は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだが原因で死去した」と書く。この「火之迦具土神」は「銅鐸や銅矛などの素材となる青銅を作る溶鉱炉を改良した製錬炉を用いて、クワやスキの刃先となる鉄を作る事業」であった。
 伊耶那岐命は愛する伊耶那美命の死因となった製鉄事業を廃止させた。
 しかし、離縁されて“倭迹迹日百襲姫命”と名乗った天照大御神は製鉄事業の続行を指令して成功させた。3世紀後半、鉄の刃先を挿入した痕跡が残るスキが出土している。この鉄の刃先によるスキやクワは、従来の木の刃先と比べて、開墾・耕作にともなう負担を大幅に軽減させて豊かな実りを手に入れることができた。
 ゆえに、天照大御神王権の財政は豊かとなり、伊耶那岐命・開化天皇王朝の財政は天照大御神王権より劣った。このため、開化天皇は伊耶那美命が生んだ須佐之男命に譲位しても、財政豊かな天照大御神王権がクーデターを決行して天下を手に入れようとするにちがいない状況となったために須佐之男命への譲位を断念した。
 開化天皇は「多賀」すなわち「多くの子が生まれ、多くの農作物に恵まれること」を願って、天照大御神にE図に示す開化天皇がおこなったクーデターへの復讐を忘れさせるために、天照大御神と孝元天皇が結婚して生まれた養子の御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと╱のちの崇神天皇)に譲位した。


◆開化天皇の譲位の決断に反対し、天照大御神と崇神天皇母子は必ず【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺する政事をおこなうにちがいないと考えた五人の王たちが崇神天皇王朝を倒して熊野に須佐之男命王朝を創設するクーデターを計画した。このクーデター計画は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話に下記のごとく記述されている。
 天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――父の開化天皇の「平和と繁栄」を願う「多賀」の遺言を守って須佐之男命は、崇神天皇と不戦の誓約を結んだ(『古事記』は「崇神天皇」を「天照大御神」と表記する)。この不戦の誓約は、F図に示す天照大御神(倭迹迹日百襲姫命)と崇神天皇が住む師木(しき)の水垣宮の北側の狭井川(さいかわ)の岸辺で行われた――と記述する。
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 『古事記』はF図の〔狭井川〕を「天安河(あめのやすかわ)」と記し、〔誓約を結んだ狭井川の岸辺の水〕を「天之真名井(あめのまない)」と表記する。「天安河」と「天之真名井」の解説は、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・82」を参照していただきたい。
 崇神天皇と須佐之男命の不戦の誓約によって五人の王たちのクーデターは失敗した。このため、五人の王のうちの宗像(むなかた)王の天菩比命(あめのほひのみこと)グループに属した遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)はG図に示す1千万坪の「卑弥呼」の地上絵に、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された歴史を正確に知ることができる〔3世紀の科学(医学と天文地理学)と夏音文字の学芸の知識〕を貯蔵した。この「卑弥呼」の地上絵は、現在の静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する。


◆F図の「狭井川」という名は「狭い井戸」、すなわちA図の御諸山の奥津磐座の石像で示された「一日に千人の胎児の頭を絞め殺す狭い子宮頸部」をあらわした。
 『古事記』の天照大御神と須佐之男命の誓約説話に登場する崇神天皇王朝を倒さんとしてクーデターを計画した五人の王たちが予想したとおり、天照大御神(倭迹迹日百襲姫命)と崇神天皇母子は開化天皇(伊耶那岐命)への憎しみが消えなかった。
 本来ならば開化天皇の譲位の恩に報いて崇神天皇は養父・開化天皇陵を築造しなければならなかった。にもかかわらず、母親から天下を奪った開化天皇になんとしても復讐せずにはいられなかった崇神天皇は開化天皇の陵墓を築造しなかった。ゆえに、開化天皇陵は3世紀後半にて築造されず、約2世紀後の5世紀末から6世紀初頭に築造された。このため、今日の学者たちに「開化天皇は歴史上の人物ではない」と指摘されることになった。
 『日本書紀』の崇神天皇12年の秋916日の記事は「崇神天皇を誉めたたえて“御肇国天皇(はつくにしらすすめらのみこと)”と呼んだ」と記述する、しかし、「開化」という天皇名は“御肇国天皇”であると明確に示し、また上記したように『旧唐書』倭国日本伝と『新唐書』日本伝は「開化天皇が小国・日本と倭国に併合した最初の天皇である」と伝えるものであるからして、開化天皇こそが「御肇国天皇」であったことになる。これゆえ、『日本書紀』崇神天皇紀の記事は開化天皇を歴史から抹殺するための崇神天皇の謀略を後世に伝えるものであったことになる。

 

◆以上のごとく、A図の石像は天照大御神の祟りを示す偶像であり、「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の胎児を狭い子宮頸部で絞め殺して箸で産道から掻き出す胎児の姿」をあらわす。したがって、D図の纏向遺跡内に在る箸墓は『日本書紀』が明記するように「倭迹迹日百襲姫命が葬られた墓」であった。だから、F図に示した三輪山(御諸山)の麓から西流する川は、天照大御神(倭迹迹日百襲姫命)・崇神天皇母子王朝の重点政策「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の胎児の頭を狭い子宮頸部で絞め殺す祟り」をあらわして「狭井川」と呼ばれたことになったのである。

このような歴史を『日本書紀』崇神天皇紀の〔箸墓記事〕が証言するにもかかわらず、纏向遺跡・邪馬台国説を捏造(ねつぞう)するために“箸墓は卑弥呼の墓である”と改ざんする学者たちが出現し朝日新聞が肩棒を担ぐ。
 このような根も葉もない空論によって【日本建国の〔愛〕の理念】が抹殺されたならば確実に日本は滅びるにちがいない――と考えて、江戸幕府はA図の【日本建国の〔愛〕の理念】を憎む天照大御神の怨念が憑依(ひょうい)する石像を破壊しなかったのである。

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