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2014年4月26日 (土)

日本が滅びる・95

愛、あざやかに永遠であれ(35)・箸墓記事と天皇の王冠(2)

 

■三輪山(御諸山)頂上の奥津磐座の石像と狭井川

 

◆フリー百科事典『ウィキペディア』は「三輪山の歴史」について下記のごとく説明する。

――太古より神宿る山とされ、三輪山そのものが神体であるとの考えから、常人は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされ、江戸時代には幕府より厳しい政令が設けられ、神社の山札がないと入山できなかった。

明治以降はこの伝統にもとづき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになった。登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければならない。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納める。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませる。道中このたすきを外すことは禁止されている。行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで下山できるが、3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され、下山以降も山中での情報を他人に話す事を慎むのがマナーでもある。

 

頂上には高宮神社が祀られている。(中略)
頂上付近はかなり広い平地である。この神社(高宮神社)の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんある。これが奥津磐座である。現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけである。

◆前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・94」にて指摘したように、A図に示す石像は三輪山の頂上付近にある奥津磐座の一角に所在し、奥津磐座の主石となる。

上記したフリー百科事典『ウィキペディア』が指摘するように、A図の石像は写真撮影が厳重に禁止される。だから、泰山(たいざん)氏はスケッチしてブログに掲載した。
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 なぜ写真撮影が禁止され、下山以降も山中での情報を他人に話すことが禁止されたかと言えば――A図に示す石像は、天照大御神・第10代崇神天皇母子王朝の重点政策であった「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の母親たちの子宮頸部(しきゅうけいぶ)が狭くなるように呪い、この狭い子宮頸部で一日に千人の頭が絞め殺される胎児の姿」を表現するものであったからである。〔子宮頸部〕については、B図に表示した。

 A図の石像は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に記述された天照大御神が「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と誓った呪いをあらわす。ゆえに、この天照大御神の呪いを現代語に訳すると上記のごとくなる。

A図の石像の各部はC図の右図のごとくとなる。したがって、A図の石像はC図の左図のごとく「狭い子宮頸部で絞め殺された胎児の姿」を表現する。

◆江戸幕府は、A図の石像は天照大御神が「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った呪いであり、天照大御神から崇神天皇に受け継がれた重点政策を表現するものであることを知っていた。
 ゆえに、江戸幕府は三輪山を常人が足を踏み入れることができない禁足の山と定めまた厳しい政令を設けて天照大御神王朝の祟(たた)りをあらわすA図の石像が破壊されないように保存に努めた。
 前々回のわがブログ「日本が滅びる・93」で解説したように、江戸幕府を創設した徳川家康は伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した歴史を解明できる夏音文字の学芸の復興を胸深く秘めて一生をささげた。天照大御神が【日本建国の〔愛〕の歴史】を憎悪して祟った歴史は――『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話と『日本書紀』崇神天皇紀にある箸墓記事に記載されていたので、江戸幕府創建の原動力となった〔【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸の復興〕を忘れないために、A図の石像を破壊せずに保存したのである。
 最近、“箸墓は卑弥呼の墓であろう”という短絡的な推理を根拠にして“纏向(まきむく)遺跡は邪馬台国であった”と改ざん・捏造(ねつぞう)する学者たちが出現した。

だから、A図の石像は箸墓・卑弥呼の墓説と纏向遺跡・邪馬台国説は〔誤読の空論〕であり〔荒唐無稽のデタラメ〕であることが証明できる証拠となる。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部は――崇神天皇の生母の天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は夫の伊耶那岐命(9代開化天皇)に千引石(ちびきのいわ)の前で離縁を言い渡された――と記載する。〔千引石〕は現在の和歌山県新宮市に所在する天照大御神を祭る神倉神社の神体の“ごとびき岩”である。
 千引石を神体とする神倉神社が祀る主神は天照大御神である。ゆえに伊耶那岐命に離縁された黄泉国の伊耶那美命は天照大御神であったことになる。
 A図の石像がある三輪山の頂上付近にある三等三角点の経度は東経13552分である。三輪山より遥か南にある千引石は東経13559分であるので、A図の石像との経度の差はわずか7分である。ゆえに、伊耶那岐命に離縁された千引石とほぼ同経度にある三輪山頂上付近にあるA図の石像は、千引石の前で天照大御神が「千頭絞り殺さむ」と誓った呪いがのりうつる石であったのである。

◆前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・94」で解説したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述された伊耶那岐命のクーデターで、天照大御神は倭女王の地位を失った。これゆえ、天照大御神と崇神天皇母子は開化天皇(伊耶那岐命)の譲位の恩に報いず、開化天皇の陵墓を築造しなかった。
 なお、崇神天皇は天照大御神と孝元天皇の間に生まれた伊耶那岐命・開化天皇の異母弟であり、天照大御神は伊耶那岐命の第二后となって結婚したので崇神天皇は伊耶那美命伊耶那岐命の養子である。

◆天照大御神・崇神天皇母子は〔強大な権力〕の基に国家は繁栄して豊かな恵みが神から与えられると堅く信じ、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は国家衰退の原因になると考えて敵視し憎悪した。ゆえに、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話が記述するように、天照大御神は伊耶那美命の墓を作る時に、強大な国家権力を示して230年前に卑弥呼の墓を作ったときの残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓を作るとき、奴婢(ぬひ)百余人を殺す徇葬がおこなわれた」と記す。この徇葬で犠牲になって殺された「奴」は「堅くなった地面でも原始的な木製の刃先のクワで開墾・耕作できる筋骨たくましい肉体を有する18歳ころの青年たち」であった。「婢」は「最も澄んだ瞳を有するゆえ、堅い地面を泥のようにやわらかくする雨を降らせることができる呪力を有するとされた13歳ころの乙女たち」であった。
 『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は、天照大御神が陣頭指揮して殺した徇葬者たちを「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と表記する。ゆえに、天照大御神は雨乞い、つまり雷が鳴り雨が降って堅い地面が泥のようになって開墾・耕作が容易になって得られる豊かな実りを願って、多数の奴婢を殺す残虐な徇葬を決行したことになる。

◆『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部は――千引石の前で伊耶那岐命が離縁を言い渡したとき、天照大御神は「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と呪って伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】への祟(たた)りを誓った。
 この呪いの言に対し、伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と返答して【日本建国の〔愛〕の理念】を最も尊重する政事をおこなうと誓った。
 倭女王の地位を失脚させられて伊耶那岐命・開化天皇に天下を奪われた天照大御神は18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女の奴婢=八雷神の代わりに、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人々の胎児を一日に千人ずつ狭い子宮頸部で頭を絞め殺す呪いを雷神が聞き遂げよと祈り願った。だから、天照大御神は「死産した胎児の姿」をあらわすA図の石像を奥津磐座の主石として祀っていたのである。

◆イワクラ(磐座)学会が2009118日に掲載した調査報告電子版のブログ「三輪山のイワクラ(磐座)めぐり」には、下記のような指摘がある。

「三輪山の山頂には太陽信仰にかかわるとされる大神神社の摂社である高宮神社(こうのみや)がある。

大神神社の説明によれば、高宮神社は三輪山の頂上、いわゆる高峯(こうのみや)(あるいは神峯とも書く)に鎮座、御祭神は大物主神の御子、日向御子神である。

 本殿は小さな池の中にあり、古来、旱魃の時には氏子が登拝し、降雨を祈ればかならず霊験ありとされている。」
 高宮神社の東方に多数の岩が群がる奥津磐座があり、A図の石像は奥津磐座の主石となる。高宮神社の祭神「日向御子神」という名の「日向」は「東」を意味する。したがって、高宮神社の東にある奥津磐座と主石のA図の石像は「一日に千人ずつの胎児が狭い子宮頸部で絞め殺される呪い、すなわち【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人々を憎む天照大御神の祟り」をあらわすことになる。
 天照大御神の呪い・祟りは『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の「八雷神」をあらわすものであった。ゆえに、高宮神社の祭神の日向御子神は雨乞いの神となった。また、日向御子神は太陽神の天照大御神の呪い・祟りをあらわす祭神であるゆえ、太陽信仰にかかわることになったのである。

◆D図に示す三輪山の麓から西へ向かって流れる狭井(さい)川は〔水の流れの少ない小さな谷川〕であるから「狭井川」と呼ばれたのではない。A図の石像と同様に天照大御神母子の祟り「狭い子宮頸部をあらわす川」であるから「狭井川」と名づけられたのである。
 天照大御神母子が生存した3世紀後半、三輪山(北緯3432)の天頂緯度線はE図に示す「正方形の銀河」と「二連菱形の銀河」の連結部(「長方形の暗黒天体部」の中央部)の辺りを貫通していた。
 「正方形の銀河」は「狭井川」の[]の字源銀河であった。天照大御神母子はD図に示す『古事記』が「師木(しき)の水垣宮」と記す宮殿に住んでいた。『日本書紀』は、天照大御神母子が住んだ宮殿を「磯城(しき)の瑞籬宮」と記す。E図に示す[]の字源となる「正方形の銀河」の東北の隅は〔磯に寄せる波〕(激流に似る銀河の先端部)に観え、また「正方形の銀河」は「瑞籬(水の垣根)」に観える。ゆえに、「正方形の銀河」から「磯城の瑞籬宮(師木の水垣宮)」という名が生まれた。
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  わがブログ「日本が滅びる・92」で解説したように、E図に示す「正方形の銀河」の〔磯に寄せる波〕は「溢(あふ)れる」を字義とする[(いつ)]の字源銀河部であった。これゆえ、「磯に寄せる波の銀河」は、E図に示したように「広い子宮頸部」をあらわした。

E図に「狭い子宮頸部」と記した部分は「縊(くび)る」を字義とする[()]の字源銀河部となった。
 E図に示す「広い子宮頸部」は〔天照大御神母子の政策に服従する人民〕に見立てられ、また「広い子宮頸部」がある「正方形の銀河」は〔磯城の瑞籬宮〕に見立てられた。そして、〔【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民〕は「狭い子宮頸部」に見立てられ、また「狭い子宮頸部」と記した[]の字源銀河部は「三輪山」に見立てられた。
 A図の石像は天照大御神母子の「汝の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」という祟りをあらわす。『説文解字』は「千頭絞り殺さむ」の[]の字源を「縊(くび)るなり」と解説する。ゆえに、「三輪山」は[]の字源銀河部となる「狭い子宮頸部」に見立てられていたことになる。
 「三輪山」だけでなく、「三輪山の麓から西へ流れる川」は〔水の流れの少ない狭い谷川〕であるゆえ「狭い子宮頸部をあらわす川」となって、「狭井川」と名づけられたのである。

 このように、「狭井川」とA図の石像は天照大御神母子の〔伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊重する日本人を絶滅せんとする祟り〕を表現するものであった。

◆今日、何ら確かな根拠を有しないにもかかわらず、D図右上に示す箸墓を卑弥呼の墓に強引にこじつけて纏向遺跡を邪馬台国に改ざん、捏造(ねつぞう)する学者たちが出現した。そして、このような荒唐無稽のデタラメを朝日新聞が肩入れして宣伝するため、強力な説となった。
 このような学者たちと朝日新聞の行為は“おぞましい人権侵害”と言える。
 A図の石像は「日本人絶滅」をあらわす。だから、江戸幕府は箸墓卑弥呼の墓説や纏向遺跡邪馬台国説のような荒唐無稽のデタラメが出現して日本人が絶滅しないように、A図の石像を破壊しなかったのである。
 1738年、皇室は江戸幕府の協力のもとに皇室の最大の神事の大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興させて、F図に示す即位する天皇の王冠の上の飾りで〔夏音文字の学芸〕をあらわし、下の飾りで【日本建国の〔愛〕の理念】を表現することにした。この天皇即位式に用いる王冠の意匠で、皇室はA図の石像に示された天照大御神母子の祟りの誤りを認めた。ここに、3世紀後半以来18世紀半ばまでの約1450年の長い間継続された朝廷への先人たちの抵抗は終止符が打たれた。以上のごとく、先人たちは伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を失うことは「日本人絶滅」と考えて命懸けでまもった。
 だから、箸墓を卑弥呼の墓であると改ざんして纏向遺跡を邪馬台国と捏(でっ)ちあげる学者たちとこの意見の片棒をかつぐ朝日新聞は“【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する天皇の尊厳を奪い侮辱して日本人を絶滅させるホロコースト”と言うことになる。
 

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