日本が滅びる・106
●愛、あざやかに永遠であれ(45)・箸墓記事と天皇の王冠(11)
■『古事記』と『日本書紀』の作成目的を伝える『万葉集』の和歌
◆『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「伊耶那美神命」を学者たちは「伊耶那美命」であると断定する。しかし、わがブログ「卑弥呼の逆襲」で幾回も解説して証明したように、「伊耶那美神命」は明らかに朝廷が最も崇拝する至上神の「皇祖・天照大御神」である。朝廷は天照大御神の聖性を汚す歴史の削除を欲求したが――伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に記載した「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と誓って人民を呪い祟(たた)る政事(まつりごと)をおこなったのは天照大御神であることは明白であるゆえ――編纂スタッフは「天照大御神」を「伊耶那美神命」と偽(いつわ)る表記でも真実が必ず後世に伝わるにちがいないと考えた。
天照大御神は伊耶那岐命(後の第9代開化天皇)の第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であり、のちに箸墓古墳に葬られた倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめのみこと)であった。
『古事記』上巻にある伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の概要は――天照大御神は伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命=竹野比売(たかのひめ)の陵墓を熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造する時、雷神に雨乞いして豊かな実りに恵まれて国家繁栄を祈願するために多数の青年男女を殺して埋める残酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。この徇葬は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し否定するものであると怒った小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む戦士たちの協力のもとにクーデターを断行して、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本=現在の熊野速玉大社の境内(和歌山県新宮市)において倭政府の大軍を撃破した。天照大御神は捕虜となって、黄泉比良坂(現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社の参道)を登ってさらに続く道を塞ぐ千人の人間が引っ張ってようやく動く巨岩の千引石(ちびきのいわ╱神倉神社の神体の“ごとびき岩”)の前に連行されて、伊耶那岐命に離縁を言い渡された。
この時、倭女王から失脚した天照大御神は千引石の前で「汝の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と誓った――と記述する。
千引石の前にておこなった天照大御神の誓いは「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の母親たちの子宮頸管(しきゅうけいかん)を狭くなるように呪い、必ず一日に千人の胎児たちの頭を狭い子宮頸管で絞め殺す」と意味した。
千引石を神体とする神倉神社の主祭神は天照大御神である。また、上記したように、『古事記』は「千引石の前の誓いの通りの政事をおこなったのは天照大御神である」と記述することからしても、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「伊耶那美神命」は当然「天照大御神」であったことになる。
◆672年に起きた壬申の乱の始まりは、近江朝が吉野に住む大海人(おおあま)皇子(のちの天武天皇)を抹殺する前に、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)を討伐する計画から着手された。大伴連大国は武家の名門大伴連家・大伴家の宗家における頭領であった。近江朝はなぜ大伴連大国を抹殺しようかと計画したかといえば――吉野に住む大海人皇子を護衛する兵士の舎人(とねり)はわずか20人余りであったので近江朝が100人や200人の兵士を吉野に向ければ容易に暗殺できたが――近江朝が放つ暗殺部隊は、大伴連大国が配下の兵士たちを配置するA図に「大海人皇子と大国の出会い推定地」と記した甘羅村(かんらむら)の要衝(ようしょう)つまり現在の奈良県宇陀郡榛原(うだぐんはいばら)町の要衝を必ず通過しなければならなかったために、大海人皇子を抹殺することができなかったからである。
前の天智天皇と近江王朝は天照大御神が千引石の前で「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った呪いに則って大伴連大国が束ねる東海道・東山道の武士や農民たちを迫害し、また駿河以東の小国・日本の東国の人々を防人(さきもり)に任命して苦しめていた。
だから、近江朝と敵対関係にあった大伴連大国は近江朝が放つ大海人皇子の暗殺部隊が甘羅村を通過させまいと守備を固めていた。
このように壬申の乱は大海人皇子一行が吉野から東国へ出発する672年6月24日以前の、近江朝の大伴連大国討伐の準備すなわち大国の配下である美濃国の兵士たちに頭領・大国を討伐させると謀る近江朝の計画から始まっていた。この近江朝の陰謀は、『日本書紀』巻第二十八の〔大海人皇子の挙兵決意〕の条に記述されている。
大海人皇子一行が東国へ逃れた672年6月24日の朝、大伴連大国は20人余りの配下とA図に「大海人皇子と大国の出会い推定地」と記す甘羅村の要衝で大海人皇子一行と合流したと考えられる。『日本書紀』は――大海人皇子一行に大国一行が合流した時、美濃国の戦争準備状況をいち早く伝えるために大国が住むA図に示す高屋(たかや╱現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)へ駆けつけた美濃国の王(豪族)が大国に従っていた――と記述する。だから、大国が率いる一員に美濃国の王がいたことが証明するように、壬申の乱は近江朝が脅迫して美濃国の武士たちに主君の大伴連大国を討伐させる陰謀から始まったことになる。
(C) 2014 OHKAWA
翌日から続々と大伴連大国が率いる東海道・東山道の武士たちの大軍が大海人皇子・吉野軍に合流し、吉野軍は近江朝に勝る大軍となったために近江朝は敗北して崩壊した。
大伴連大国と東海道・東山道の武士たちは【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづく政事を大海人皇子に期待して吉野軍を支援した。しかし、大海人皇子は天皇に即位すると近江朝よりさらに増して天照大御神の祟りに則る国家権力至上主義の政策を推進して裏切った。
裏切られた大国が指揮する東海道・東山道の武士たちの反乱を警戒した大海人皇子・天武天皇は、壬申の乱の4年後に新田部(にいたべ)皇女が生んだ我が子に「第三皇子」と高い地位をつけて大伴連大国に与えた。
この生まれるや直ぐに天武天皇に捨てられた皇子が、『古事記』作成を指揮した舎人(とねり)皇子(676-735)である。
壬申の乱における最高の武勲者である大伴連大国は天武王朝に参加せず、高屋で庶民として過ごした。ゆえに、大国に育てられた舎人皇子は大国の後継者となって東海道・東山道の武士を束ねる当時の強力な武将となり、大国と同じく舎人皇子もまた庶民であった。
A図に示す大国と舎人皇子が居住した高屋は、B図に示す『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台となる黄泉比良坂の坂本(現在の熊野速玉大社の境内)、黄泉比良坂(現代の神倉神社の参道)、天照大御が神伊耶那岐命に離縁された千引石の前(ごとびき岩の前、現在の神倉神社の社殿)と同経度(東経135度59分)である。
(C) 2014 OHKAWA
だから、伊耶那岐命が「伊耶那美命の遺志を継いで【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事をおこなう」と誓った千引石と同経度の高屋に住む大伴連大国は近江朝に抵抗し、天武天皇に【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する政事を期待して裏切られたことになる。
舎人皇子が作った『万葉集』117番は「大夫(ますらを)や 片恋せむと 嘆けども 鬼(おに)の益卜雄(ますらを) なほ恋ひにけり」と詠み、「武士たる者片恋するなんてみっともないことだが、吾は鬼道が栄えていた上古の伊耶那美命に熱烈に憧れる。彼女提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために命を捧げる男児(ますらお)だ」と表現する。
◆上記の『万葉集』117番の和歌を作った舎人皇子が指揮して『古事記』は作成された。
ゆえに、『古事記』の作成目的と主題は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】であった。こんなに容易に解明できる明白なる事実を、学者の誰一人も気づかない。彼等はどんどん〔誤読〕を積み重ねて歴史を改ざんすることに夢中であるため、文献史料を忠実に読解してこそ明らかになる真実の歴史をまったく示すことができない。
本来ならば舎人皇子は天皇になれた。天皇になれる舎人皇子が指揮して作成された『古事記』は真実の歴史を記載する書物であった。ゆえに、「歴史上の事実を記載するものではない」と主張する今日の学説は〔誤読の産物〕であることは明白なる事実である。
したがって『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「伊耶那美神命」を「伊耶那美命」と定める学説と現在出版されるすべての書物は〔誤読の産物〕である。
◆686年9月、舎人皇子の実父の天武天皇は没した。皇后の鸕野讃良(うのさららの)皇女は即位の式をあげずに政務を執り、我が子・草壁(くさかべ)皇子を脅かす『日本書紀』が「天武天皇の第三皇子」と記載する大津皇子を謀略で死刑にした。天武天皇の第一皇子の草壁皇子は687年に没し、天武天皇の皇子で最年長の高市(たけち)皇子は696年7月に没した。これ以後、天武天皇は第二皇子を設けなかったので、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』が「天武天皇の第三皇子」と記す舎人皇子が天武天皇の多数の子にあって最高位の皇位継承者となった。
690年1月1日、鸕野讃良皇女は即位して持統(じとう)天皇となり、697年2月16日に草壁皇子の息子の孫の軽(かるの)皇子を皇太子として立たせ、半年後の8月1日に皇太子を即位させた。これが文武(もんむ)天皇である。
文武天皇の即位は天武天皇の皇子で最年長の高市皇子が没した翌年に行われていることからして明白のように、舎人皇子の天皇即位を阻止するためのものであった。
持統上皇は『万葉集』28番の「春すぎて 夏来(きたるべし 白たへの 衣干(ころもほ)したり 天の香具山」と詠む和歌で「〔春〕と〔天の香具山〕で象徴される〔伊耶那美命〕を尊重する時代は終焉し、緑の木立が繁る天の香具山よりも藤原宮の家々に干す白い衣が夏の陽射しにより映えて、皇祖の天照大御神を崇拝して栄える世となりました。もはや、舎人皇子は天皇にはなれません。」と表明した。
正史『続日本紀』は――702年10月10日から11月25日まで、持統上皇は文武天皇の地位を脅かす天武天皇の第三皇子の舎人皇子討伐の行幸を決行した――と記載する。近江朝の謀略と同様に、上皇と文武天皇は壬申の乱に参加した東海道・東山道の武士たちに彼等の主君である舎人皇子を裏切って討伐を説得する行幸をおこなった。この行幸は年老いた上皇には強行スケジュールであり、上皇は東海道・東山道の武士たちを説得できなかった。これゆえ、12月13日に重病となって、9日後の22日に上皇は死去した。
707年6月、大伴連大国の後継者である当時における強力な武将にして皇位継承順位の最高位である舎人皇子が率いる伊耶那美崇拝派の勢力に脅える心労のために25歳の若さで文武天皇が没した。天皇は生母の阿閉(あえの)皇女が天皇に即位することを願って息を引き取った。息子の遺志を継いだ阿閉皇女が天皇に即位した。これが元明天皇である。元明天皇は持統帝の妹であり、舎人皇子を息子と姉の命を奪った仇(かたき)と憎悪した。
◆712年1月28日、『古事記』を太安万侶(おおのやすまろ)が献上すると、元明天皇は『古事記』の献呈を拒否した。ゆえに、『古事記』は正史になれず反逆の書となった。
しかし、『古事記』は日本人が日本人として生きる原点の【日本建国の〔愛〕の理念】を作成目的・主題とする書物であったため不滅の書物となって現存することとなった。
『万葉集』の1683番と1684番の題は「舎人皇子に献(たてまつ)る歌二首」である。
この二首は、元明天皇に『古事記』献上を拒否された712年1月28日直後の37歳の舎人皇子に太安万侶が献上した和歌であった。
「妹(いも)が手を 取りて引き攀(よ)ぢ ふさ手折り 我がかざすべく 花咲けるかも」
この1683番の和歌は「『古事記』の編纂を指揮した主君の舎人皇子は木の枝から折って取った花を引き寄せて奥方の頭に挿(さ)すがごとく、〔花〕で象徴される〔伊耶那美命〕が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】の歴史を記述する『古事記』の頭(はじめ)となる序を書く名誉を吾に与えてくださいました」と詠んでいることになる。
「春山は 散り過ぎぬとも 三輪山は いまだ含(ふふ)めり 君待ちかてに」(1684番)
1684番を訳すると「春山の〔春〕や〔花〕で象徴される〔伊耶那美命〕が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える『古事記』は元明天皇に献呈拒否されて散ってしまいましたが、皇子がお住まいになられる高屋より西方の三輪山を含む箸墓古墳や纏向(まきむく)の地の桃の花はいまだ蕾(つぼみ)です。わが家に伝わる桃の花の蕾のごとく『多氏(おおのうじ)古事記』は、いまだ世に出て花開いていません。この『多氏古事記』を利用して新しい歴史書を作成しようではありませんか。われ太(多)安万侶は主君・舎人皇子のご到来を切に切にお待ち申しあげています」となる。
『多氏古事記』は現存しないが、『日本書紀』の最古の注釈書の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』が引用する『土左国風土記』の逸文(いつぶん)は「『古事記』とは別書の『多氏古事記』が存在した」と記述し、「弘仁私記序(こうにんしきじょ)」という文書には、「『日本書紀』の編纂に、太安万侶が舎人皇子と共に携わった」と記されている。
太安万侶は多氏の一族であったとされ、多氏の祖の神八井耳命(かむやいみみのみこと)は神武天皇の皇子である。神八井耳命は、C図に示す三輪山の西の多(おお)神社のあたりに住んでいたと伝わる。C図右端の舎人皇子が居住した高屋からC図の左上の多神社は約18km西方に位置し、三輪山から6km西方に多神社は所在する。(C)2014 OHKAWA
『古事記』は712年の陰暦1月28日に元明天皇に献上された。この陰暦1月28日をグレゴリオ暦に換算すると現代暦の3月18日になる。3月18日においては『万葉集』で〔花〕と象徴される梅の花が散り、4月になると桃の花の蕾が咲く。
だから、元明天皇に『古事記』献上拒否された直後の陰暦2月中旬(現在の4月初旬)ころに安万侶は「舎人皇子に献る歌二首」を作成したことになる。
◆C図の三輪山と多神社の中間に、D図に示す纏向(まきむく)遺跡と箸墓古墳が所在する。
最近、纏向遺跡から2千個を越える桃の種(たね)が発掘された。『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は〔倭政府の大軍を撃破した日本兵と熊野に住む戦士たち〕の名称を「桃の子三箇(みみつ)」と表記する。したがって、大量の桃の種は天照大御神が桃の子三箇に呪い祟るために集めることを命令したものか、あるいは纏向集落の住人たちが桃の子三箇に祟るために使用されたものであったにちがいない。
「三輪山」が登場する1684番の和歌は――箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命(天照大御神)が大神(おおみわ)神社の主祭神の大物主神の妻となったと語る箸墓記事ならば、後世の学識者たちは千引石の前で倭迹迹日百襲姫命・天照大御神が「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と呪い誓った祟りを表示するものであることが気づくにちがいない――と安万侶が思いついたアイデアを示す和歌であったことになる。
というのも、わがブログ「日本が滅びる」の102回・104回・105回で詳細に解説して証明したように、三輪山の頂上付近に在る〔奥津磐座(おくついわくら)の岩群れ〕と〔櫛笥(くしげ)に入る小蛇(こおろち)の石像〕は千引石の前の倭迹迹日百襲姫命が呪い誓った祟りを証明できる遺物であるからである。だから、『日本書紀』崇神天皇紀にある箸墓記事は学者たちが断定するような神秘的な非現実的な伝説を記載したものではなく、三輪山の山頂付近の遺物を利用してリアルに語る歴史的事実を証言するものであったことになる。
今日、倭迹迹日百襲姫命・天照大御神の「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った祟りを証明できる千引石と三輪山山頂付近の奥津磐座は現存する。
だから、学校教育で押しつけられた学説や現在の出版物は日本人の命と魂の原点である【日本建国の〔愛〕の理念】を葬る完全なる〔誤読の産物〕ということになる。
◆正史『続日本紀』の養老4年(720)5月21日の記事は「これより先に一品(いっぽん)の舎人親王は勅をうけて日本紀の編纂に従っていたが、この度それが完成し、紀三十巻と系図一巻を奏上(そうじょう)した」と伝える。ゆえに、『日本書紀(日本紀)』は舎人皇子が指揮して編纂された。
『続日本紀』聖武天皇の天平八年(736)11月11日の条に記述されているように――舎人皇子は死去する2年前(733)に葛城王(かつらぎおう)兄弟に、『古事記』と『日本書紀』の作成目的の【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える『万葉集』の編纂を命じた。
『万葉集』編纂事業は葛城王が橘諸兄(たちばなのもろえ)と改名して着手され、753年5月に『万葉集』巻十六まで編纂した諸兄は70歳となって死期が迫っていたが、舎人皇子から命令された【日本建国の〔愛〕の理念】を後世の人々が知ることができる機能が未完成であった。
そこで諸兄は後継者として36歳の少納言の大伴家持(やかもち)に白羽の矢を立てた。というのも、家持は優れた歌人であり、それよりも諸兄の主君の舎人皇子は家持が受け継いだ大伴家の宗家・大伴連家の家督者であったゆえ、分家の大伴家の家督者である武将の家持は舎人皇子の遺志を継ぐ編纂者として最適任であったからである。
家持は『万葉集』の最終巻の巻二十の116首の防人歌(さきもりうた)で【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に示し、また防人歌でE図に示すように伊耶那美命が女王となって赴任した国作りの柱を〔愛〕と定めた小国・日本の範囲を示して、舎人皇子が諸兄に与えた命令を成就させて、『万葉集』全20巻を778年(宝亀9)1月に完成させた。
『万葉集』編纂目的は、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話において舎人皇子が敬愛した「伊耶那美命」の名を利用して「天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記してでも伝えようとした【日本建国の〔愛〕の理念】を後世の人々が察知できるようにすることであった。この編纂目的は、朝廷と律令国家体制の権力への反抗であった。ゆえに、大伴家持は〔天皇と律令体制に逆らって、謀反にかかわっている〕と3度も疑われ、左遷されて都から遠く離れる東北陸奥の多賀城の館で没した。
◆舎人皇子は――絶対に失ってはいけない歴史がある。決して無くしてはならぬ真実がある。なんびとも奪ってはならぬ真実の歴史がある。朝廷にも国家にも絶対に抹殺されてはならない真実が存在する。伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は日本人の命と魂の原点であり、万歳に窮(きわ)みなく千葉(せんよう)に相伝えなければならない真実である――という信念のもとに強大な権力と戦った。舎人皇子は全情熱を傾けて真実【日本建国の〔愛〕の理念】を残した。しかし、今日〔誤読を自由自在にあやつる空論学説〕に支配され、舎人皇子が命を賭けてまもった真実の歴史を日本人は知らない。
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