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2014年7月12日 (土)

日本が滅びる・112

▼邪馬台国説と日本神話解釈は〔誤読の空論〕である

愛、あざやかに永遠であれ(51)・箸墓記事と天皇の王冠(17)

 

日本の古代史学者たちは〔誤読の空論〕に魂を奪われて夢中になる

 

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」で幾度となく解説し証明したように――『魏志』倭人伝にある「方位名」を記す15ヵ所の記事と「倭の使者や使節は大海を往来した」と記す6ヵ所の記事の合計21ヵ所の記事は一点の矛盾がなく、しかもすべての記事は一つ(すなわち[]の字源・字形・字義)に統一されて【科学】が成立する。つまり『魏志』倭人伝は「倭国の卑弥呼王朝は〔日本列島は東に伸びず、南に伸びている〕という錯覚の転回日本列島地理を制定していた」と重大な証言をする史書である。この錯覚の転回日本列島地理の「〔東〕が時計回りに90度転回して〔南〕に転位する法則」は、今から約5000年前~約4050年前の五帝時代にすでに[]の字源・字形・字義として成立した天文地理論であった。だから、倭女王・卑弥呼が統治した国の名は「倭国」となったのである。

ところが、学者たちは「〔天の北極〕を基準にすれば、日本列島は東に伸びていると卑弥呼王朝は必ず定めるにちがいない」と主張して現在の日本地図の基に邪馬台国説を立論して、卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理論を抹殺する。

中国では〔天の北極〕を最も重視した紀元前1世紀に完成したシナ天文によって、太古から栄えていた〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が廃絶された。このため、魏と帯方郡の使節は大海を渡って日本列島に到着できなくなった。他方、わが国では〔精密に緯度と子午線を測定できる[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が栄えていたので、倭の使節が大海を往来して魏と国交を結ぶことができたので、約2000字で構成される『魏志』倭人伝が現存することとなった。

「倭でも〔天の北極〕を重視する天文地理学」が存在したことになる現在の日本地図を立論基盤とする邪馬台国説だと、倭の使者も大海を渡ることができなくなるので『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。だから、〔約2000字で構成される『魏志』倭人伝には文字が1字も書かれていない結果〕になる邪馬台国説は〔完全なる誤読の空論〕であったことになる。

◆わがブログが幾度なく解説し証明したように、『古事記』『日本書紀』『万葉集』は後世に伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えるために作成された。この【日本建国の〔愛〕の理念】を天照大御神母子(倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇)は憎悪し、「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を一日に千人ずつ絞殺して絶滅させる」と呪い祟って迫害した。だから、『古事記』と『日本書紀』は「崇神天皇の生母・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と崇神天皇母子の異名となった天照大御神は悪女と暴君であった」と記述するものであった。ところが、現代の学者たちは天照大御神を最も崇拝すべき偉大なる先祖であったと解釈する。だから、今日の日本神話解釈は『古事記』と『日本書紀』の作成目的やテーマに対して真逆の解釈をする〔誤読の空論〕となる。

◆万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)が作った和歌もまた、邪馬台国説と日本神話解釈は〔誤読の空論〕であることを伝えるものとなる。

 山上憶良(660733)は、『古事記』『日本書紀』の作成を指揮し『万葉集』編纂を企画した舎人皇子(676735)を君主と熱烈に敬愛する、自分の命よりも舎人皇子の命のほうがもっと大切だという生涯を貫いた忠臣であった。

村山出著『大伴旅人・山上憶良』(新典社)の56頁には、下記の文がある。

「憶良は川島皇子のもとに出入りを認められるようになった。皇子は天武天皇十年(681)に勅命をうけて責任者となり、忍壁皇子以下十一人の幹部とともに帝紀および上古の諸事を記定する仕事を進めていた。国家的な修史事業で日本書紀編纂の開始を意味する。資料の蒐集、異説の検討、史事の確定、整理記録などを主な内容としたから、舎人・史生のうちから学才にすぐれた者が選ばれて、幹部の下で具体的な記録などに従事したが、憶良もその一人であったと思われる。これをきっかけに皇子邸の文学サロンに加わるようになったようである。川島・忍壁両皇子の交流にともない、頭角をあらわした柿本人麻呂・高市黒人・長意吉麻呂(ながのおきまろ)らも顔を見せることがあったらしい。憶良にもかくれた作歌の精進があったと思われる。」

691(持統天皇5)に川島皇子(35)は没した。上記の「上古の諸事を記定」という文中にある[][][]3字は『古事記』という書名となった。『続日本紀(しょくにほんぎ)』は、舎人皇子は「天武天皇の第三皇子」であったと記す。舎人皇子は天武天皇が生んだ多数の皇子のうちで当時皇位継承順位が第一番目であったので、天皇になれる資格を有していた。ゆえに、舎人皇子は持統上皇にとって孫の文武天皇の地位を奪う脅威であった。このような舎人皇子(37)が指揮して、『古事記』が712128日に完成して元明天皇に献上された。しかし、『古事記』は朝廷が「天照大御神を最も偉大な先祖とする偽書を作成せよ」という欲求を無視する反逆の史書であったために献呈拒否されて正史になれなかった。それと言うのも、わがブログで幾度なく解説して証明したように、『古事記』は伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部で――天照大御神は「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と誓い、「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の子を、必ず一日に千人ずつ狭い子宮頸管で絞め殺す」と呪い祟った――と記載するものであったからである。 

720521日、舎人皇子(45)が元明上皇の長女・元正天皇に奏上して献呈が認められた『日本書紀』は正史となった。この『日本書紀』崇神天皇紀にある箸墓築造記事の趣旨は、わがブログ「日本が滅びる」の107回~110回の4回で詳細に解説して証明したように「箸墓に葬られた天照大御神(倭迹迹日百襲姫命)は死霊になっても【日本建国の〔愛〕の理念】を呪って、日本人を絶滅せんとする祟り」を伝えるものであった。

舎人皇子は二つの身分を有し、『古事記』献呈が拒否された712年の37歳まで現在の奈良県宇陀郡榛原町高星(たかへ)に住む庶民であった。というのも、舎人皇子は生まれるや天武天皇に捨てられて、庶民であった東海道・東山道の武士たちを統率する強力な武将の大伴朴本連大国(おおともえのもとのむらじおおくに)の養子であったからだ。ゆえに、身分の低い舎人の山上憶良にとって自分よりもさらに身分が低い庶民という地位を有する舎人皇子は、自分の命よりも大切な敬愛してやまない主君となったのである。

◆『万葉集』に収録された憶良が作った和歌で最も若い時(4344歳ころ)に作った和歌は――7026月に九州の港から出帆して、「倭」から「日本」への国号改変の承認を中国王朝から得る任務につく第7回遣唐使の最下位の幹部に選ばれた時に作った巻一の63番である。中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)夏音を習う」と述べ、中国王朝に「壬申の乱の後、稍々(やや)夏代初頭にわが国に伝来した原初漢字・夏音文字を復興することにした」と伝えた――と記述する。

時の持統上皇は夏音文字を復興して天照大御神が夏音文字の学芸に精通して聡明であったと絶賛する偽書を作成せよと編纂スタッフに迫ったが、舎人皇子が偽書作成を阻止したために遣唐使は史書を携えることができず手ブラで訪問することになった。これゆえ、『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は「中国王朝はほんとうに日本国の使節かと疑った」と記載する。というのも国号の改変の承認は史書を作成して献上すれば簡単に事が済むにもかかわらず、遣唐使は史書を献上しなかったからである。

学者たちはわが国が最初に中国から漢字を修得したのは56世紀と断定するが、第7回の遣唐使がその存在を明らかにした夏音文字は、今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に伝来していた。夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載されている。だから、学者たちの漢字習得の定説は〔誤読の空論〕であった。

◆憶良が第7回遣唐使の最下位の幹部になって中国に滞在した時に作った和歌は「山上臣憶良、大唐(もろこし)に在る時に、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作る歌」という題詞がつく、下記の『万葉集』63番である。

「去来子等(いざこども) 早く日本へ 大伴の 三津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ」

この歌は「さあ遣唐使と船乗り諸君、国号が“倭”から“日本”へ生まれ変わった本国へ、早く帰ろうではないか。難波の港を出帆する時に見えた大伴氏の所領にある三津の浜に生える松の木もさぞや待ちわびているであろう」と意味する。

「子ども」ではない「大のおとなの遣唐使と船乗りたち」を「去来子等(いざ子ども)と表現したのは――約10年後に完成した『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部は千引石(ちびきのいわ)の前で天照大御神が「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った呪いに対して、伊耶那岐命が「吾(あれ)一日に千五百の産屋立てむ」と宣誓した――と記載する。これゆえ、憶良は「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する母から生まれた子が日本人であり遣唐使であり船乗りである」と表現したことになる。だから、二句は「早く日本へ」となった。

「去来」の次に「子等」と続けたのは、遣唐使は〔[]をキャッチする航法〕で大海を往来するものであったからである。その証拠に、三句と四句の「大伴の三津の浜松」(大伴氏の所領の三津の浜に生える松)は、唐の都長安(現在の西安)への旅における〔[]をキャッチする方法〕の経緯度原点となった。上記したとおり、『魏志』倭人伝が「魏と帯方郡の使節が大海を渡ることができなかった」と伝える、この原因はシナ天文が最も重視した〔天の北極〕の高度を緯度に換算しさらに子午線測量する方法では大海を渡ることができなかったからである。ゆえに、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は「所在絶遠にして往来すべからず〔中国の人々は日本列島に到着する海の道は遠く途中で緯度も方角も不明となって絶えてしまうので往来することができなかった〕」と記述する。

憶良が「去来(いざ)」と表記したように、遣唐使と船乗りたちは〔[]をキャッチする眼力と技〕を鍛錬するものであった。ゆえに、唐の都・長安に到着でき、また国号が「日本」と生まれ変わった本郷に帰国することができた。

◆A図に示す〔[]のキャッチする(天頂緯度線と子午線の測定)〕は太古から人の頭脳に本能的能力としてそなわっていた。この〔[玄]をキャッチする能力〕ならば精密に緯度と経度が測量できたので、大海を往来することができた。

B図右上に示す【玄】の楷書の字形は[(とう)]の下に[(よう)]が組み合わさる。天頂緯度線となる西側の銀河部位が去ると、天頂緯度線の東側の銀河部位が来るので、『万葉集』63番の初句冒頭の「去来(いざ)」をあらわす。したがって、「去来子等」の初句は「玄子等」であったことになる。
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(C) 2014 OHKAWA

『説文解字』は、[]の下にある[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。それゆえ、B図に示すように[]の字源は「頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の胎児(新生児)」となる。胎児は子宮頸管を潜って誕生するゆえ、[]の金文形は「子宮頸管」を図案するものであったと考えられる。

中国の孔子と並ぶ思想家の老子の教えを説く『老子』第1章の後半は[]の字について「常に無欲にして以てその妙を観、常に有欲にして以てその皦(きょう)を観る。この両者は、同じく出てて名を異にし、同じく之(これ)を玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門」という文で「子宮頸管を潜る胎児のごとく常に無欲であれば絶妙なタイミングで[]をキャッチできるが、必ず[]をキャッチするぞと欲を有すると失敗して道に迷って皦(風雨にさらされる白骨化した骸骨)となる。この[][]の両者の字源は同じ銀河部から生まれたが名(字形・字義・字音)を異にし、同じく之を[]と謂う。[][]すなわち一切万物とそしてすべての人間が生まれてくる門である」と後世に伝えている。

このように、[]の字源は「無欲で産道・子宮頸管を潜って誕生する娩出期の胎児」であった。だから、憶良は(1)【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづいて生まれたから遣唐使と船乗りたちを「子ども」と表現したばかりでなく、(2)[]のキャッチ〕にもとづいても遣唐使と船乗りたちを「子ども」と表現したのである。

C図に〔歳差〕という天文現象にもとづき第7回遣唐使が中国に渡った8世紀初頭における、北緯3438分の三津の浜(現在の大阪市南区の心斎橋筋の三ツ寺町)の天頂緯度線を示した。唐の都の長安は北緯3416分である。C図に示すように、当時、三津の浜の天頂にはくちょうγ星とν星、また「長方形の暗黒天体部における東側の二連菱形の北端」がめぐってきた――この三つのポイントは明るく輝きまたは目印するに好都合な形を示すために計測が容易となるので、〔[]をキャッチする時の理想的な基準〕となった。唐の都の長安は三津の浜より22分緯度が低いゆえ、A図に示すように、三津の浜を経緯度原点にして、その天頂緯度線を基準線にして旅すればおのずと長安に到着することができた。
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(C) 2014 OHKAWA

D図左図に示すように、C図全域の銀河は松の樹のごとくに観える。ゆえに、「三津の浜辺の松原」は遣唐使が往来する時の経緯度原点地となったのである。

D図右側の[]の契文形中央部は〔長方形〕であるゆえ、[]の字源は「長方形の暗黒天体部」であった。なお、D図の「長方形の暗黒天体部」の左側は〔一対の二連菱形〕に表示したが、この〔一対の二連菱形〕は暗く幽かに見えるので、「長方形の暗黒天体部」の明るい枠は〔長方形〕となる。D図右下の[]の金文形の上下は「先に生まれた新生児()と後に生まれた新生児()」の図案であると考えられる。というのも、E図に示すように[]の契文形は「長方形の暗黒天体部」を図案するものであるゆえ、[]の中央は「長方形の暗黒天体部」と「女性の生殖器」をあらわして上と下の図書は「前に生まれた新生児と後に生まれた新生児」をあらわすことになるからである。

A図の「天頂点を通過する銀河部位の軌道」は「山形(やまなり)」であるゆえ[]、「天頂点」は「上」となるので、憶良の氏族名に合致して「山上」となる。『万葉集』63番の題詞にある「本郷を憶ひて作る歌」の[][]で「憶良」という名となる。だから、C図・D図に示した意思が多三津の浜松の天頂緯度線は「山上憶良」という姓名示すものとなる。したがって、『万葉集』63番は「山上憶良」という作者の名の由来を示すものとなる。

憶良が作った『万葉集』894番の「好去好来(こうきょこうらい)の歌」(長歌)には「大伴の 三津の浜辺」が登場し、次の895番の反歌には「三津の松原」が登場する。894番の長歌には「墨縄(すみなわ)を ()へたるごとく」という句があり、この句は――C図に示した色の夜空に延びる三津の浜松と長安の2本の天頂緯度線があたかも1本ののごとくに観える――と表現するものであったことになる。

◆このブログの冒頭で指摘したように、『魏志』倭人伝の21ヵ所の記事は一点の矛盾点もなく【科学】が成立する「時計回りに方位が90度転位して〔東〕が〔南〕となる」[]の字源を伝える卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理は、F図に示すように〔[]のキャッチ〕の秘密を今に伝える「玄海灘」という名を有する海に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島の緯度と気候に則って立論された。
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(C) 2014 OHKAWA

 

G図に示すように、日本列島の西端にある沖ノ島と東端にある神津島は同緯度(北緯3415)である。

 中国沿岸地域北部の冷たい気候の〔北冷〕と同様に沖ノ島の気候も冷たいゆえ〔西冷〕となる。中国沿岸地域南部の暖かい気候の〔南暖〕と亜熱帯地区の神津島の気候も暖かいゆえ〔東暖〕となる。したがって、中国沿岸地域の〔北冷〕と日本列島西端の〔西冷〕が合致し、中国沿岸地域の〔南暖〕と日本列島の東端の〔東暖〕が合致するので、卑弥呼王朝は「日本列島の東は中国沿岸の南の方に伸びるにちがいない」と考えて、F図の右側に示した錯覚の転回日本列島地理を制定した。

『魏志』倭人伝に記載された卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の誤りは、シナ天文が習得された738(天平10)に全国に国郡図作成の命令で最初に改定された。しかし、〔[]をキャッチする習慣〕が根強いわが国では転回日本列島地理観の廃止を徹底することが出来なかったので、796(延暦15)にも朝廷は再度国郡図作成を重ねて命じて修正するように催促した。〔天の北極〕にもとづいて日本列島地理が改正されると、遣唐使船の船乗りたちは経験上〔天の北極〕では途中で落命して大海を往来できないと猛反対した。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理観は一気に廃絶されなかった。朝廷が738年に国郡図作成の命令を出してから23年後の761(憶良が中国に到着した59年後)の第12回と翌762年の第13回の遣唐使の派遣は中止され、894年の第18回以後に遣唐使の往来は廃止された。〔天の北極〕にもとづく正しい日本地理によって〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が否定されると大海を往来することができなくなるので、遣唐使の派遣は遂に廃止されたのである。

F図に示した「玄海灘」の由来はその名の通り「天の北極を基準にしたならば往来することができないが、[]をキャッチすると往来できる陸地から遠く離れる波の荒い海」であった。だから『魏志』倭人伝に記述された錯覚の転回日本列島地理は実在したゆえ、現在の日本地図を用いて立論するすべての邪馬台国説は〔誤読の空論〕であったことになる。

◆憶良は、『古事記』と『日本書紀』と『万葉集』の作成目的であった〔【日本建国の〔愛〕の理念】を単純明快に情念的に表現する歌人であった。

憶良が作った作品で最も有名な和歌は、下記の『万葉集』803番である。

「銀(しろがね)も 黄金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」

この和歌は「銀よりも黄金よりも宝石よりも、日本人にとって最も優れる宝は【日本建国の〔愛〕の理念】であらわされて掲げられた子どもたちである」と意味する。

憶良は子への愛情をモチーフとする和歌を多数作った。

風土自然への和歌を作らず、恋の歌も作らず、憶良はひとり主君・舎人皇子が一生を賭けて朝廷に逆らって後世に残そうとした【日本建国の〔愛〕の理念】を単純明快に表現して子を詠む和歌を多数作った。この子を詠む多数の和歌は、憶良が常に舎人皇子を思って敬愛した忠臣であった証拠となる。

◆正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は――『古事記』献呈を拒絶した元明上皇は721127日に没する約40日前の1024日、伊耶那美崇拝派の頭領・舎人親王の〔天皇につかえる臣下で最高位の知太政官事(ちだいじょうかんじ)〕の権力を奪うために、藤原房前(ふささき)を天皇の業務を助ける内臣(うちのおみ)に就任させて、房前の命令は知太政官事の舎人親王よりも勝ると定めた。これゆえ、8年後の7294月にようやく舎人親王を失脚させる好機が到来した聖武天皇と藤原房前は太政官処分をもって「舎人親王が朝堂(ちょうどう╱平城京の大内裏の政庁で、八省百官が政務を執行するところ)に入る時に、諸司は親王のために座席をおりて、敬意をあらわすに及ばない」と定めた――と記述する。

小心者の聖武天皇と藤原房前は舎人親王を役人たちに軽侮させるさらし者にして国家権力に逆らえばいかに惨めになるか骨の髄まで思い知らせて、親王がすがりついて服従することを期待した。しかし、このような卑怯卑劣な仕打ちに降参するような親王ではない。親王は378歳ころまで片田舎の高屋(現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)に住む庶民であったゆえ、役人たちに軽蔑されることには慣れていたゆえ、天皇と房前の期待は空振りとなった。この太政官処分以来、舎人親王は日々役人たちに軽侮されることになった。

『万葉集』978番は、憶良が74歳であった733年に作った最後の和歌とされる。

この和歌で、憶良は7294月の太政官処分以来、役人たちに侮辱される日々を送る主君・舎人皇子の境遇を救えることも慰めることもできず、重病で床に伏す自分の不甲斐ない状況に涙を流して悔しがって下記のごとく表現した。

「士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろずよ)に 名は立たずして」

この978番を現代語に訳すると「わが主君の舎人親王は心ない役人たちに侮辱され虚仮(こけ)にされ、ひどい恥辱を受けている! 【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える事業はこのまま未完成で空しく終わるのか! こんなひどい非道があってよいだろうか。天皇陛下と藤原房前公や政府がおこなっていることはあまりにも悪辣(あくらつ)で下劣で卑怯だ!」となる。

この和歌には添え書きがあり、これを現代語に訳すると「右の一首は、山上憶良臣(おみ)の病気が重くなった時に、藤原朝臣八束(ふじわらのあそみやつか)と河辺朝臣東人(かわへのあそみあづまひと)を遣わして容体をたずねさせた。そこで憶良は容体を説明した後に沈黙した。しばらくしてから、涙を拭き悲嘆して、この和歌を口ずさんだjとなる。

内臣の藤原房前の第3子が、添え書きに登場する藤原八束である。八束は河辺東人に憶良の容体を調べさせると――憶良は容体を説明した後に沈黙して、政争に敗れた主君舎人親王の姿を思い浮かべた。この瞬間、憶良の目に涙があふれ、この涙を拭きながら東人と八束の背後にいる房前と聖武天皇への激しい怒りがこみあげ、この和歌が口からもれた。憶良は最後の最後まで舎人親王を敬愛していた。

この憶良が作った『万葉集』978番の和歌は学者たちによって「憶良が何の名声も手に入れず出世もしなかった自らの人生を悔しがって作成された」と解釈されているが、この解釈は誤訳である。この和歌の初句の「士(をのこ)」は憶良ではなく「主君・舎人親王」であり、この和歌は舎人親王への深い尊敬あらわすものであったのである。

◆上記の733年に憶良が作った和歌が示す嘆きと無念に心動かされたのであろうか、舎人親王は733年に『万葉集』編纂を企画している。

『続日本紀』聖武天皇紀の7361111日には――舎人親王が死去する2年前の733年、舎人親王が葛城王(かつらぎおう)兄弟に母親の「橘」という姓を名乗る許可を聖武天皇から得るようにすると約束すると、葛城王兄弟は「橘氏の殊名(格別の名)を伝え、万歳に窮(きは)みなく、千葉に相伝へむことを」と誓った――と記述する箇所がある。この「万歳無窮、千葉相傳(万歳に窮みなく、千葉に相伝へむことを)」という文から『万葉集』という書名が作られたという意見は定説となる。

『続日本紀』に記載されたように舎人親王が聖武天皇を騙して葛城王兄弟に母親の姓を与える許可を得る、この「橘」を「『万葉集』編纂」をあらわす暗号にした舎人親王の企みから、『万葉集』編纂が開始された。

後日、葛城王は橘諸兄(たちばなもろえ)と名乗った。

『万葉集』は『古事記』同様に天皇と国家に歯向かって【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える事業であり、聖武天皇と律令体制者たちに『万葉集』作成目的が察知されないようにひた隠しにして用心深くおこなったために遅々として進まなかった。7535(別名、橘月)、諸兄は『万葉集』巻十六まで編纂していたが70歳と死期が迫っていた。しかし、舎人親王と約束した【日本建国の〔愛〕の理念】が掲げられた日本国誕生史を後世の人々に明確に伝える機能が完備されない未完成の状況であった。そこで諸兄は自分の後を継ぐ編纂者として36歳の少納言の大伴家持に白羽の矢を立てた。それというのも、家持は優れた歌人であり、舎人親王は家持が受け継いだ大伴家の宗家である大伴連(おおともむらじ)家の家督者であったゆえ、家持は舎人親王の遺志を継ぐ『万葉集』編纂の最適任者であったからである。

家持は伊耶那美命が女王に選ばれて赴任して国作りの柱を〔愛〕と定めた小国・日本の位置を『万葉集』巻二十の116首の防人歌の作者の出身地のH図に示す東国であると示し、この防人歌にて詠まれる〔愛〕こそが【日本建国の〔愛〕の理念】であることが明確になるようにして、舎人親王の遺志となった【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する多数の和歌を収録する『万葉集』全20巻を778年1月に完成させた。
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『万葉集』は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える反逆の歌集であったゆえ、大伴家持は“天皇と律令体制に逆らって、謀反にかかわっているのではないか”と3度も疑われて過酷な処罰を受けた。

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