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2014年7月18日 (金)

日本が滅びる・113

▼学者たちが〔誤読の空論〕で抹殺した歴史の真実を復興させる
愛、あざやかに永遠であれ(52)・箸墓記事と天皇の王冠(18)

 

■卑弥呼が統治した国名の[]の字は五帝時代末にすでに確立されていた

 

◆A図に示すように、紀元前1世紀にシナ天文が完成して最も重視されるようになった〔天の北極〕は約26千年で出発点の位置にもどってきて一周する。

文字は字形を有する。だから、文字の起源は“はじめに形ありき”となる。

A図が示すように、〔天の北極〕の周囲には文字を作ることができる形がまったく存在しない。〔天の北極〕には、北極星として現在のこぐま座α星座や約5000年前のりゅう座α星が接近するが、このような単一の星では様々な事物の形をあらわすことができないので〔天の北極〕周辺からは文字は起源しなかったことになる。

 

わがブログ「卑弥呼の逆襲」で何度も何度も繰り返して指摘したように、〔天の北極〕の高度を緯度に換算する方法だと精密に緯度が測定できない。このため、●大海を往来する時に●遠くの地に旅する時に●山中・森林・砂漠・荒野で迷った時に家族が待つ家に帰還することができず落命して風雨にさらされる身元不明の骸骨となった。

◆B図右上の〔[]をキャッチ〕すると、精密に緯度と経度が測定できる。だから、中国の三皇五帝時代~秦代まで(わが国の前期縄文時代初頭~晩期縄文時代、さらに弥生時代・古墳時代も)の先人たちは●大海原で●遠くの地への旅の途中で●山中・森林・砂漠・荒野などで、〔[]をキャッチ〕して家族が待つ家に帰還した。
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(C) 2014 OHKAWA

前回のわがブログ「日本が滅びる・112」で解説したように、C図に示すように[]の字は「天頂緯度線と子午線」をあらわす[(とう)]に「出産する胎児」をあらわす[(よう)]を加えて形成される。

というのも、[](天頂緯度線・子午線)をキャッチするには「産道を潜って出産する胎児のように無欲でなければならない極意・心得」が必要であったからである。必ず[]をキャッチするという欲を有すると[]をキャッチ出来ずに失敗して落命する羽目になったので、[]の字は[][]で構成された。

◆今から約6000年前~約5000年前の三皇時代、B図に示した〔[]のキャッチ〕すなわち「易」をあらわす図書が考案された。この図書の名を『易経』は「結縄(けつじょう)」と記載し、学者たちは「陶文(とうぶん)」と呼ぶ。三皇帝時代の結縄は、現在120余種出土している。「結縄」は「天頂緯度線が貫通する銀河部の形状」を図案する「[]をあらわす記号」であったので「文字」とは定義できない。

漢字(文字)は、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に起源した。

A図に示したように今から5000年前においては〔天の北極〕にりゅう座α星が接近して北極星となるが、黄帝時代は〔天の北極〕も北極星(りゅう座α星)も無視して三皇時代と同じく天頂緯度線が貫通する銀河部を最も重視した。

黄帝は〔女性の生殖器、胎児の出産〕を研究して東洋最古の医学書『内経』を作成したが、当時、〔女性生殖器と胎児の出産〕の様子をあらわす文字は考案されていなかった。文字の作成は黄帝の史官(記録官)の倉頡(そうきつ)の任務となり、倉頡は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明したので多数の文字を作ることができるようになった。

D図に〔歳差(さいさ)╱A図〕」をもとに算出した――(1)三皇時代最初の包犧氏の時代に考案された22種の結縄が出土した陝西(せんせい)省の西安市郊外の半坡(はんぱ)遺跡と、(2)五帝時代初頭の陝西省黄陵(こうりょう)県の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と、(3)黄帝軍が遠征した江(江南)の太湖南岸の天頂緯度線を表示した。
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(C) 2014 OHKAWA

D図に示すように、天頂には文字を作ることができる“はじめに形ありき”の銀河部がめぐってきた。だから、文字は天頂を通過した銀河が基本となって起源した。倉頡は文字を三皇時代のC図の〔[]のキャッチ〕の「易」と黄帝の〔女性生殖器、胎児の出産〕の研究を合体して多数の文字を作成することができる漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した。

E図に示すように、私が「十字の銀河」と名づけた西側半身には〔乳房、子宮、妊婦のおなか〕に観える箇所があるゆえ〔女体、妊婦〕の形に酷似する。これゆえ、「十字の銀河」の西隣の「鬼の姿に似る銀河」は〔子宮に宿る胎児〕やF図に示す出産が間近い開口(かいこう)期や頭が誕生する娩出(べんしゅつ)期の胎児のイメージとなった。

倉頡は黄帝の〔女性生殖器〕の研究をあらわす文字を作成するために、「十字の銀河」を〔すべての文字を生む母体〕に見立てると定め、女性の子宮に相当する箇所に浮いて見える銀河部を「十字の銀河の子宮」に見立てて〔すべての文字が生まれる子宮〕と定めた。また、「鬼の姿に似る銀河」を〔子宮に宿る胎児や出産する胎児(F図)〕に見立てると定めて、漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を確立させた。
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(C) 2014 OHKAWA

上記した倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕は、G図左図の[]と右図の[]の金文の字形が具体的にあらわす。[]の金文形は〔おなかに胎児が宿る妊婦の正面形〕の図案で「十字の銀河」は〔すべての文字を生む母体〕と示し、「十字の銀河の子宮」は〔すべての文字が生まれる子宮〕であると伝える。[]の金文形は〔すべての文字を生む母体〕である「十字の銀河」を[(べん)]とし、「鬼の姿に似る銀河」を〔子宮に宿る胎児や出産する胎児〕に見立てて[]と定めた。したがって、倉頡は黄帝の医学研究を基に漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した。

◆わがブログ「用語の解説」の「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」にて解説したように、倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。ゆえに、倉頡は下記の3つの掟を破った人物は神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。

●倉頡が死刑と定めた3つの掟

(1) 秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字を作られたことを暴露した者(秋の銀河と夏の銀河は、わがブログ「日本が滅びる・111」のA図を参照)

(2) 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者

(3) 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者またが消し忘れた者

 

上記の(3)の掟は、今から約3300年前に出現した殷代(いんだい)後半の契文(けいぶん╱甲骨文字)によって破られた。しかし契文は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)(2)の掟によって〔文字は秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作られた事実〕は不明となり〔銀河各部の名称〕も存在しないことになった。

(3)の掟が厳重に守られたために――五帝時代(紀元前3300年~紀元前2070年まで)、夏代(紀元前2070年~紀元前1600年まで)、殷代前半期(紀元前1600年~紀元前1300年まで)の3つの時代の遺跡から、学者たちが「文字」と定義した図書や記号は現在まで1点も出土していない。

つまり、(3)の掟によって五帝時代初頭から殷代前半期までの原初漢字は銀河各部の形状が字源・字形・字義となった。

◆わがブログで何度も繰り返したように、今から約4050年前、“夏の始祖”の帝禹()から譲位された帝益(えき)の孫の王子(天祖)と益氏の若者たちが大海を越えて日本列島に移住して夏代初頭の文字(夏音文字)を根づかせた。また、益氏は〔[]のキャッチの方法〕で作製された中国の精密海岸線地図をも携えて日本列島に移住した。ゆえに益氏の日本列島への移住は「益荒男(ますらお)」という日本語となって「氏の若者たちは波逆巻く大海を越えて日本列島に移住した雄(おお)しい子であった」と伝える。

上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟では、字音も消さなければならないと禁じなかった。このため、わが国には現在残されている中国の上古音よりもさらに古い、最古の漢字音である夏音(夏音文字の字音)が残った。 

そして、倉頡の(3)の掟を破った殷代後半の契文から8世紀の隋代に完成した楷書もすべて夏音文字と同じく銀河各部の形状から生まれた。したがって3世紀の三国時代(220年~280)の魏王朝はじめ魏の朝鮮半島の一角の帯方郡に所在した魏の出張政庁も諸韓国が用いる文字もまた夏音文字と同じく銀河各部の形状を字源・字義そして字形とするものであったゆえ、字形は銀河各部の形状に類似するようにあるいは銀河各部の形状であると感知できるように作られた。

 だから、夏音は『魏志』倭人伝の人名や小国名として現存し、3世紀の魏王朝が用いた楷書で表記された夏音文字は8世紀の隋代に完成した楷書で変換されて失われずに残った。また、夏音と楷書で表記された夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数現存することとなった。したがって、わが国に楷書で表記されて残った夏音の文字とまた幾つかの夏音文字の遺跡・史跡・遺物も現存するため、五帝時代から殷代前半期の原初漢字の字源・字形・字義は「秋の銀河と夏の銀河各部の形状」であることが科学的に証明することができることになった。

2世紀末~3世紀半ばのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝には「倭における易に用いる卜辞の文字は令亀(れいき)の法のごとく」と記述するゆえ、「亀の甲羅に刻んだ契文(甲骨文字)のごとき夏音文字」が存在した。また、『魏志』倭人伝は「倭女王・卑弥呼が文書に書く文字は魏の都・帯方郡・諸韓国の楷書と差錯(ささく╱相違)していたが、倭の伊都(いと)国の港では点検し卑弥呼が書く文字と魏都・帯方郡・諸韓国の楷書を正しく変換していた」と記述する。これゆえ、卑弥呼が用いる夏音文字と同様に魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の字源・字形の原形・字義は銀河各部の形状であったことになる。

◆わが国に夏音文字の学芸と精密中国海岸線地図をもたらした益氏の先祖について、司馬遷著『史記』五帝本紀は「益は堯(ぎょう╱五帝時代における4番目の王朝の歴代帝たちの名)の時代から挙用された」と記述する。また五帝時代の最後の王朝が樹立された帝舜(しゅ)の時代初頭に「益は虞()という重職に任命された」と記述される。

帝舜に命じられた「虞」は「最も重要な任務は精密な中国海岸線地図の作製であり、その他に海岸線に近い湖・川・池などの卑湿な土地に生息する水稲や野菜・食糧となる魚・鳥・獣などを調査する官」であった。これゆえ益氏は水稲の知識に詳しかったので、司馬遷著『史記』夏本紀には「帝禹は、益に命じて民衆に低湿地にうえるべき稲をあたえて、食糧が不足している地方には余りあるところから補給させた」という記述がある。

また『説文解字』は[]の字源を「益なり」と解説し、H図に示すように[][]の金文は同一形であるゆえ、倭女王・卑弥呼の[]の字源は「益なり」であったことになる。

I図に示す「中国海岸線の形」は〔虎の横顔〕に類似すると見立てられて、[][]の下に[]が加わる合体形となった。ゆえに、[]は「五帝時代初頭の黄帝時代以来受け継がれた、精密な中国海岸線地図を作製する官」であった。

◆益氏が調査して作製したI図に示す中国海岸地図の形状を、中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)上伝は下記のごとき文で表現する。

「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(あきらか)にす」
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五帝時代初頭から末までの約900年間、歴代王朝は中国海岸線地図作製事業を継続させた。そして、益氏は900年に及ぶ五帝時代最後の中国海岸線地図を作製する官を担当した。精密な中国海岸線地図は最も厳重な機密であったが、日本列島に移住する時には帝王から引退した直後であったので益氏は中国海岸線地図を持ち出すことができたのである。

「易」はB図・C図に示す〔[]のキャッチ〕であるゆえ、「易」は〔観測地点の天頂緯度と子午線をキャッチして観測地点の緯度と経度を精密に測量する術〕であったので地図を作製することができた。したがって、「易は天地に準う」と言う文は「天頂緯度と子午線は観測地点の緯度と経度となる」と意味することになり、また精密に天頂緯度と子午線を測量できれば精密な地図が作成できるので「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と表現されたのである。

そして、G図に示すように「天には[]の文字が存在する」から「天文」と名づけられ、「天に存在する銀河各部の形状は多数の文字であった」ので「天」は「天文」という名になった。だから、益氏の移住によって日本列島に〔銀河各部の形状を文字とする夏音文字〕が根づいたことになる。

高田真治・後藤基巳(もとみ)訳者『易経()(岩波書店)は「弥綸」は「つくろいおさめる、洩れなく包みこむ」と意味すると指摘する。I図の「山東半島」を〔水鳥の頭部〕に類似すると見立てると、「山東半島より南北の海岸線」は〔両翼〕に観え、また〔山東半島より南の長江口までの海岸線〕は「水鳥の長い首」に観える。だから、「中国全土の大半を包む山東半島と南北の海岸線」が[]の字源をあらわす地宜(ちぎ)となる。「地宜」とはI図のような「平面的に図化した地図の形」のことである。I図の「長江口北端から杭州湾の南端」までの地宜は「糸のような海岸線が綻(ほころ)び破れるように裂けるが、「杭州湾南端より南方の海岸線」は「綻びが繕(つくろ)いおさまる」ので、「長江口北端より南方の海岸線」が[]の字源地宜となる。

J図左図は[]の字源銀河「オス鹿の横顔に似る銀河」である。「オス鹿の横顔に似る銀河」では「十字の銀河」が〔オス鹿の角(つの)〕に見立てられ、「十字の銀河より南方の銀河群」が〔鹿の横顔〕に相似する。J図右図は[]の字源となる地宜あり、「廟島(びょうとう)列島」が〔オス鹿の角〕、「山東半島」が〔鹿の横顔〕に相似する。

だから、「虞」に任命された益氏が作製して日本列島にもたらしたI図に示す「中国海岸線地図」を文で表現すると、『易経』繋辞上伝のごとく「易は天地と準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」となる。
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◆K図左図は、益氏が任命された「虞」の字源をあらわす。[]の字源は「南→東」になるように「時計の針の方向と逆向きに90度方角が転位する方位規定」である。

K図の中央図は、卑弥呼が統治した国名の[]の字源をあらわす。

K図右図の左上に示すように、[]の字源は「南→西」になるように「時計回りに90度方角が転位する方位規定」である。

K図右図に示すように、[()]の字源は「十字の銀河の南にある禾(水稲)が西へ垂れる」で「南→西の転回方位」をあらわす。「十字の銀河の西半分は〔女体〕に酷似するので[]の下に[]が加わる[]の字となり、B図に示した〔天頂緯度線となる銀河部位は「南→西」の地平線へ向かって運行する〕ので「ゆだねる(天の運行にゆだねる)」となった。「十字の銀河」は[]の字源でもあるので、[](人偏)[]が加わる[]の字源は「時計回りに方角が90度転位する方位規定」となった。
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J図左図の[]の字源銀河の「オス鹿の鼻」は「南」、J図右図の[]の字源地宜の「山東半島のオス鹿の鼻」は「東」に位置する。ゆえに、[]の字源となる銀河から地宜の方位は「南→東」となるゆえ、K図左図に示した[]の字源をあらわした。これゆえ、「虞」は「山東半島などの精密な中国海岸線地図を作製する官」であったことになる。

I図下部の太湖は中国の南部の呉地に所在する。L図左図に示すように「太湖」は〔象〕に類似すると見立てられ、「西(象の背)→南(象の鼻)」となるので[](「虞」の下は[])の字源地宜となった。そして「“太湖周辺には象が生息する”と言うと間違っている」ゆえ、[][]が加わる[]の字義は「謬(あやま)り」となったのである。
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D図右下に示した北緯31度の太湖南岸の天頂緯度線は、北アメリカ星雲の南端に接近して貫通する。

L図右図に示すように、「北アメリカ星雲」は〔象の頭・鼻の形〕に類似すると見立てられて[]の契文形となった。「激流の銀河」は〔象が鼻で飲む水〕と見立てられて[]の篆文(てんぶん)形となった。〔人は偽りを言うものである〕と考えたのであろうか――[](人偏)[]を加えて[]の字となった。[]の金文形は〔象の姿〕に図案されているゆえ、L図左図の[]の字源となった「太湖」が〔象の姿〕に見立てられて字義が「あやまり」となったことが原因で、[]([人]に[為]を加えると[偽]の字となる)の字義は「いつわり」となったにちがいない。

◆前述したように、I図にて解説した「弥綸」の[]とJ図右図の[]の字源地宜となる「山東半島」は「南→東」となって[]はじめ[][](K図左図)の字源地宜となった。

M図左図に示すように、山東半島先端の南岸に所在する石島(シータオ)と山東半島の付け根の日照(リーチャオ)を結ぶと山東半島南岸を擦(こす)30度の角度線となる。夏至の日の出は29度の水平線から昇る。ゆえに、「夏至の日の出の太陽の光が照る」から「日照」という地名となった。「夏の旱魃(かんばつ)で大地が石のように堅くなる」から「石島」と地名になった。その証拠に、「山東半島」はM図の中央に配する[()]の字源となった。[()]の字源はM図右図の「カンムリカイツブリ」である。
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カンムリカイツブリは長時間潜水するゆえ俗称は“八丁もぐり”である。〔カンムリカイツブリの長い頸(くび)〕は〔弓形(ゆみなり)に曲がる山東半島とその南の長江口までの海岸線〕に見立てられて金文の偏の[]となり、〔カンムリカイツブリの頸以下の体下面すべて夏の強い陽射しのごとく銀白色に輝く〕ので金文の[()]の図案となった。だから、M図左図の30度の線が擦る「山東半島の南岸」は〔土地が石のごとくなる日照りが続くことが始まる、夏至の日の出の方角〕を示し、「山東半島」は〔カンムリカイツブリの頭〕に見立てられて[()]の字源となった。カンムリカイツブリは冬に山東半島の沿岸部に生息する冬鳥であるから、「夏には山東半島に生息しない」と言うことで[]の字義は「あやまり」となった。また、「山東半島」は「時計回りと逆向きに90度転回する方位規定」をあらわす[]の字源をあらわすことになったのである。

◆『説文解字』は[鹿]の字源を「獣なり。頭角四足の形に象(かたど)る。鳥鹿の足は相比す。比に従ふ」と解説する。
 N図左図は、[][鹿]の字源銀河図である。したがって、『説文解字』の[鹿]の字源解説にある「頭角四足の形に象る」という文は、N図左下のごとく「頭に角を生やす鹿と四本の足に観える銀河の形状を図案する」と意味した。また、「頭角四足の形に象る」という文は、N図右図の「山東半島」を〔鹿の頭〕に象り(J図右図参照)、「杭州湾」を「鹿の四足の形に象る」と指摘するものとなる。その証拠に「山東半島」は〔鳥の頭〕にも類似するゆえ、『説文解字』は[鹿]の字源を「鳥鹿の足は相比す。比に従ふ」と解説したのである。
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N図左図に示した「鳥の足」と「鹿の足」を「鳥鹿の足は相比す。比に従ふ」と解説するものであった。「鳥鹿の足を相比す」とは、N図右図に示したように杭州湾と太湖を鳥または鹿の足に見立てる」ということになる。

N図右図に示した「杭州湾→太湖」は「南→西」となるから、K図右図に示した[][]そして[]の字源をあらわす。

O図左図のごとくに解釈すると、L図左図と異なり、「太湖」は[]の字源を示す。

O図右図における「鹿の足」となる「長方形の暗黒天体部」は[][]が加わる[]の字源となる。だから「鳥鹿の足は相比す。比に従ふ」という解説は「[]の杭州湾→[]の太湖岸」は「南→西」となるので、[]の字源をあらわす。
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O図右図の[鹿]の字源銀河は東から西へ運行するが、地上の人には[鹿]の字源銀河の〔西側が前・東側が後ろ〕となって、銀河の運行と真逆となる。「銀河の運行」が[]をあらわし、銀河の運行と真逆の「地上の人にとっての前後」が[]をあらわすことになった。

N図右図の[]の字源となる〔山東半島と南北の[]の字源となるカンムリカイツブリは中国大陸からって東の空へ飛翔する姿〕であるから、O図右図に示す「去・西→東(天頂点)」は[]の字源要素となった。これとは真逆となる[]の字源を示す〔杭州湾→太湖の「南→西」〕は「・東→西(天頂点)」の銀河の運行に合致して[]の字源要素となった。

以上のごとく、『説文解字』の[鹿]の「鳥鹿の足は相比す。比に従ふ」という解説は[]の字源を説明するものであった。

中国地図出版社地図編集『中国国勢地図』(帝国書院)1987420日発行によると、[]の字源となる山東半島の年間降水量は700900mmに対し、[]の字源となる杭州市・太湖地域の年間降水量は12001400mmである。そして、黄帝陵がある黄河中流地域の年間降水量は600700mmである。つまり、N図右図に示した「杭州湾→太湖を結ぶ線」を延長すると黄河中流地域に達するゆえ、水稲の生育地の杭州市・太湖地域の年間の雨量が山東半島よりも少ない黄河中流地域にも及んで豊かな禾(麦・穀物)が収穫できることを祈願して、[]の字は成立したことになる。それというのも倉頡伝説は「倉頡は始めて文字を創り、古来(三皇時代)の結縄法に代えたので、天は祝福して穀物を降らせ、三皇時代の王たちの死霊が感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたという」と伝え――当時の原始的な木製の刃先のクワやスキでは日照りが続いて石のように堅くなった土地は耕作することも開墾こともできず禾(穀物)が乏しく不足することになったと示す。だから、「山東半島」は「[]の字源のカンムリカイツブリの頸より下の胴体の銀白色は夏の日照りのごとく照り輝く」とあらわして[]の字となったと解明できる。

◆なお『説文解字』の[鹿]の「鳥鹿の足は相比す」という字源解説は、今日の楷書[]の正字[]に保存された。[]の右側は[鹿][][]の合体形である。前述したように、〔山東半島〕は〔鳥の横顔〕と〔鹿の横顔〕に相似し、O図右側の上図に示した[][][]の字源となる「山東半島」をあらわす。したがって、[]の楷書は「文字が起源した黄河中流地域から黄河のは、大地を削って[][]に字源となった鳥・鹿の横顔に相似する山東半島に向かって西→東に去る」と表現するものであり、この正字の秘密を『易経』繋辞下伝にある文字起源記事は「地法」という語で示された。

『易経』繋辞下伝は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と記述する。「気象」は「風・雨・気温などについての大気の現象」であるように、「天象」は「本人の意志にかかわりなく、周囲の明るさに応じて瞳孔の直径の拡大・縮小で銀河の形状が変わる現象」である。ゆえに、上記の漢字起源記事は「東から西へ向かって来る天の銀河の形状を観、西から東へ去る地法を観、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡(“鳥獣の文字”ともいう)〕と平面的に図化する地図の形の地宜を観て、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を作った」と説明していることになる。

◆P図上図に示すように[]の字源は「十字の銀河」(K図右図を参照)[]の字源は「鬼の横顔に似る銀河・長方形の暗黒天体部」である。ゆえに、P図上図の[]の字源に「廟島列島」が、[]の字源に「山東半島」が適合するので、廟島列島・山東地方とその西方に拡がる国の名は[][]が加わる[]となったのである。

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 K図の[][]の字は両者1セットで出現して相成立するものであり、片方だけでは字源が成立しない。だから帝舜が益氏に[]を命じた五帝時代末において、すでに[]の「時計回りに方位が90度転回する規定」も確立されていたことになる。
 『魏志』倭人伝の15ヶ所のすべての方位記事は[]の字源に合致し、しかも一点の矛盾もなく一点の不合理も生じずに【科学】が成立する。ところが、現在の日本地図で立論する学者たちの邪馬台国説は[]の字源と合致せず、〔天の北極〕を基準にする航法だと魏・帯方郡と倭の使節は大海を渡ることができないゆえ魏と倭は国交を結ぶことができなかったので約2000字で構成される『魏志』倭人伝には1字も文字が書かれていなかったことになって【科学】に反する空論・空想となる。このように、『魏志』倭人伝に〔誤読=文献批判〕を一点も加えなければ明らかとなる〔天の北極では大海を往来できないが、[]のキャッチならば大海を往来できた科学の事実〕によって、邪馬台国説は〔誤読の空論〕であると断定すべきことになる。だから、新井白石以来約280年も費やしても論争が決着しないのはすべて〔誤読〕が原因であったのである。

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