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2014年8月11日 (月)

日本が滅びる・120

『魏志』倭人伝は漢字の起源の秘密を伝える重大な史料である

愛、あざやかに永遠であれ(59)・箸墓記事と天皇の王冠(25) 

 

■『魏志』倭人伝が記述した真実の日本列島地理の解説(3)

◆これまでのわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」で何回も繰り返して解説し証明したように、今から約4050年前の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に原初漢字・夏音文字がわが国に伝来していた――これについて、最近は5回前のわがブログ「日本が滅びる・115」の初頭でも概略を解説した。

漢字は秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作られた――この秘密を、前々回と前回と今回のブログで証明するように『魏志』倭人伝の小国名が伝える。

先人たちは漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した倉頡(そうきつ)を“漢字の始祖”と定めて崇拝した。今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡は――自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学識を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると考えた。そこで、倉頡は――(1)秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露した人物、(2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた人物、(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた人物には厳しい神罰が下って――即刻に死刑に処すると定めた。

ゆえに、(2)の掟によって銀河各部の名称が無いと、字源・字形・字義の解説に不便であるので、わがブログで示すように、私は銀河各部に名称をつけた。

わが国に伝来した原初漢字の夏音文字は、倉頡が定めた上記の(3)の掟を厳重にまもった。ゆえに、夏音文字は天に存在し、その遺物は地中から出土しないことになった。

しかし『魏志』倭人伝には人名と小国名をあらわす文字となって記載され、また『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて夏音文字が多数残った。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むは夏音である。だから、出土しなくても夏音文字は実在した文字であった。

今から約3300年前の殷代(いんだい)後半の契文(けいぶん╱甲骨文字)は、上記の(3)の掟を最初に破った。しかし、契文は(1)(2)の掟を厳重にまもり、また契文以後の金文、篆文(てんぶん)、隷書、楷書も(1)(2)の掟を厳重にまもった。

ゆえに、現在の学者たちは誰一人“文字は銀河から作られた”ことに気づかない。このため、星座の形よりもずっと明確な形を有する秋の銀河と夏の銀河の各部に名称を付ける必要もないことになったので、銀河各部の名称を付ける学者は一人も出現しなかった。

楷書の字源・字形(字形の原形)・字義も夏音文字と同様に秋の銀河と夏の銀河の各部の形状であった――このような秘密があったゆえ、『魏志』倭人伝は「倭の易における卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法のごとく」という記述をもって、「倭には殷代の亀の甲羅に刻む契文(甲骨文字)のような夏音文字があった」と証言する。また、『魏志』倭人伝には「倭女王の卑弥呼が用いる文字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と差錯(ささく)していたので、伊都(いと)国の港で間違いが生じしないように点検し確認していた」という記述もある。

卑弥呼はじめ倭の人々が用いた夏音文字も魏都・帯方郡・諸韓国の楷書も共に秋の銀河と夏の銀河の各部の形状が字源・字形・字義であった。これゆえ、伊都国の港では銀河を字書代わりにしていたから夏音文字と楷書を正しく変換することができたのである。

◆中国の五経の第一に挙げられる古典の『易経』の繋辞(けいじ)下伝は、漢字の起源の秘密について「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と説明する。

この文中にある「天象」は「東から西へ運行する秋の銀河と夏の銀河」であり、「地法」は「中国を代表する黄河と長江の水が大地を削って、天象の運行の逆向きに西から東へと去る様子」のことである。次の「鳥獣の文」は、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕の別称である。「地宜」とは「平面的に図化した地図の形」である。

『易経』繋辞下伝に記載された漢字起源記事が事実であることは、『魏志』倭人伝に記載された34小国の名によって立証することができる。というのも、34小国の名は「天象」、「地法」、「鳥獣の足跡」、「地宜」を集約して考案されたからである。

前々回のわがブログ「日本が滅びる・118」と前回の「日本が滅びる・119」にて、『魏志』倭人伝に記載された小国の不弥(ふみ)国・一大国・伊都(いと)国・末盧(まつろ)国の各国の名称は、漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕のもとづき天象(字源銀河)とこれに呼応する地宜・地法などから考案されたことを証明した。

「不弥国」は『易経』繋辞上伝の「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文を基にして、「天象(天文)」と「地理(地法と地宜)」と漢字作成原理〔鳥獣の足跡」を集約して成立するものであった。この結果、「北九州の福津市津屋崎町の海岸線と宗像市の平野部」が「不弥国」であった。

また、長崎県の壱岐の地宜は[]の字源となる「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てられ、また壱岐南部の地宜は[]の字形に類似するので小国名が「一大」となった。

さらに、福岡県の糸島半島は「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てられて、「伊都国」と名づけられたことを証明した。

小国の末盧国は今日の「長崎県と佐賀県の地域」であった。「長崎県・佐賀県の地宜」は[末]の字源「十字の銀河の末部(両足部)」と『説文解字』が解説する[]の字源「飯器」の形に類似するからである。

◆前々回と前回のわがブログで――『魏志』倭人伝の15ヶ所の方位記事は、A図に示す[]の字源「時計回りに方位が90度転回する方位規定」に則って記述されていることを【[]の科学】に則って証明した。つまり、『魏志』倭人伝は「【[]の科学的思考】を最も重視する卑弥呼王朝は日本列島の東端は東へ伸びず、中国海岸線地域の南の方に伸びるにちがいないと錯覚の転回日本列島地理を制定していた」と証言するものであった。

B図に、卑弥呼王朝が制定した[]の字源をあらわす転回日本列島地理に則る対馬、一大、末盧、伊都、奴、不弥の各小国の地宜を図示した。
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(C)2014 OHKAWA

学者たちは倭女王・卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬台国」であったと主張するが、『魏志』倭人伝は「邪馬壱(やまい)国」と記す。ゆえに、「邪馬台国」は〔誤読〕である。

C図は、邪馬壱国までの旅程図である。この旅程記事のおける方位名はすべてA図とB図に示した[]の字源をあらわす転回方位に則るものであり、邪馬台国学説の思考基盤である今日の日本地図の方位名ではない。

C図だと一大国から南に末盧国が在ると示されるが、しかし『魏志』倭人伝は一大国から末盧国の方位名を記載しない。なぜならば、前回のわがブログで解説したように、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の破たん(不合理)が一大国から末盧国の間で派生することになったからである。ゆえに、[]の字源の「十字の銀河の末部(両足部)」は「まよう」の[]の字源部でもあった。B図の右上に示す「転回方位で東となる末盧国の海岸線」が[]の字源を示す地宜となった。これゆえ、一大国から末盧国の旅程では[]の字源地宜となる東海岸(転回方位)のけがれを祓い避けるために立ち寄らず、転回方位で北となる佐世保市か長崎市に到着するものであったと考えられる。その証拠に、直線距離だと末盧国・長崎市から伊都国・糸島市までの距離は『魏志』倭人伝の「東南五百里」という記述に合致する。末盧国・佐世保市から海岸線に沿って曲がりくねる路を行くと『魏志』倭人伝「東南五百里」という記述に適合する。

伊都国・糸島市から奴国・福岡市香椎宮付近までは「東南(東南東)百里」という記述に合致し、奴国・福岡市香椎宮から不弥国・宗像市玄海港までが「東百里」という記述に合致する。

B図には現在の通りに宗像市田島に所在する宗像神社を辺津(へつ)宮と記したが、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部は「現在の宗像市大島に在る中津宮は辺津宮、現在の宗像市田島の辺津宮は中津宮であった」と記載する。ゆえに、当時(3世紀)においては不弥国・宗像の小国の中心地は田島ではなく、辺津宮が所在した大島に面する神湊(こうのみなと)付近にあったと考えるべきことになる。

20101月に福岡県前原(まえばる)市と志摩町と二丈町が合併して糸島市となった。

合併する前の前原市の駅(筑前前原駅)付近が伊都国の中心地であったと考えられる。なぜならば、D図に示すように、筑前前原駅付近から〔夏至の日没方向〕に一大国・壱岐が所在するからである。〔夏至の日没方向〕は「夏音文字」を象徴する聖なる方位であった。

また、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理はE図に示す〔[](天頂緯度線と子午線)のキャッチ〕を優先したことが錯覚の原因となった。この〔[]をキャッチする銀河部位〕は西北45度の水平線に没する。これゆえD図に示すように、筑前前原駅付近から〔[]をキャッチする銀河位〕が没する西北45度の方向には対馬国中央部となる浅茅(あそう)湾がある。
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(C)2014 OHKAWA

F図に示すように、「十字の銀河の子宮」は[]の字源であり、「十字の銀河」は[]の字源であり、壱岐の南部の地宜は「逆さ大字形」である。ゆえに、壱岐は「一大国」と名づけられた。

G図に示すように、伊都国の地宜は[]の字源「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てられたが、なんとなく類似するものの明確に「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てることができない。というのも伊都国を治める男王の名は「一大率」であったゆえ、伊都国の地宜は「十字の銀河の子宮」にどうしても類似すると見立てられたのである。つまり、D図に示す夏至の日没方向を指差す一大国と伊都国と結ばれる線は“一大国と伊都国の地宜は共に「十字の銀河の子宮」の形に類似すると見立てられた”と示して、[]の字源の「[]の緯度線と子午線が麻糸の糸束のような形となる十字の銀河の子宮」とあらわすものであると考えられる。だから、楷書[]の字形は[][]の左右の4点と[]の下の[](緯度線と子午線の交わりをあらわす[])とで構成される。白川静著『字統』は[]を「糸をしぼる形。糸束の上下に小さな横木を通し、これを拗()じて水をしばる形で、麻糸などを作るときの作業であろう。」と推論する。

『魏志』倭人伝は「女王国より以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す。国中において刺史(しし)のごときところ有り」と伝える。

上記の記事が示すように、H図に示す転回日本列島地理から派生した対馬国・一大国が二つ存在することになる矛盾を諸国の王や氏族の首長などが指摘したならば、この行為を一大率が検察して罰する官職につくので諸国から畏れ憚(はばか)れていたのである。

転回方位の末盧国の北には、五島列島がある。末盧国の海岸から眺める五島列島の陸影は、あたかも対馬国・一大国のごとくに見える。だから、魏や帯方郡の使節を誤魔化すことができても、倭地の諸国や氏族の首長などは疑問を抱く人物がいたにちがいないので一大率が厳重に検察し管理して転回日本列島地理の権威をまもっていたのである。
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(C)2014 OHKAWA 

D図に示す伊都国から西北45度と西北西29度の線ではさまれる中間地域は現在では対馬市であるが、かつては長崎県下県郡厳原(いづはら)町であった。

前回のわがブログで指摘したように、厳原町の[]の字は古語では「いつ」と読み、夏音文字は「伊都」と表記し、楷書は[]と記した。
 白川静著『字訓』(平凡社)は【いつく〔斎〕】について――「厳(いつ)」の派生語で、「く」をそえた動詞。(中略)。けがれをさけてつかえることをいう――と解説する。

『古事記』上巻の伊耶那岐命の禊祓(みそぎはらい)説話には「伊都久(いつく)3字は音」という注があり、「伊都久」は夏音文字であったと今日に伝える。夏音文字の「伊都久」という語は『古事記』の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部の不弥国・宗像の三女神の宮殿が登場する箇所にも記載される。この「伊都久」は楷書の「斎(いつ)く」と同義と定められている。

これゆえ、前述したように『魏志』倭人伝には「伊都国の港で、倭女王・卑弥呼が文書に書く夏音文字と魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書は差錯していたので点検し確認して、正しく夏音文字と楷書の変換をおこなっていた」という記述がある。夏音文字と楷書の字源・字形・字義は秋の銀河と夏の銀河各部の形状であったから、伊都国の港において夏音文字と楷書の正しい変換をおこなうことができたのである。

◆『魏志』倭人伝は「その地には牛と馬は無し」という記事で、「倭には[][]の字源となる聖獣は生息していない」と伝える。

[]の字源はI図上図の〔胎児の姿〕に類似すると見立てられた「ジャコウウシ」であった。

[]の字源は、I図下図の胎児の離れる両目のごとく両目が離れる「フタコブラクダ」であった。
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(C)2014 OHKAWA

J図左図に示すように、「三つ輪の銀河」は〔砂漠〕に類似すると見立てられて「十字の銀河」が[]の字源「フタコブラクダ」となった。

白川静著『字統』は[]の字源解説を要約すると「城壁を作るとき、挟板(きょうばん)の中に土を盛り、これを突き固める道具」となる。J図右図に[]の金文形が示す〔土を盛った面を人が突き固めて平らにする土木・建築工事に用いる道具を使う様子〕を図示した。
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(C)2014 OHKAWA

K図に示す、かつて「上県(かみあがた)郡」と呼ばれた対馬北部の島の地宜は[]の字源となった道具の形に観え、下県(しもあがた)郡と呼ばれた対馬南部の島の地宜は〔平らになった地面〕のごとくに観える。

また、「上県郡の地宜」は[]の字源「フタコブラクダ」の正面の姿に相似すると見立てられ、「下県郡の地宜」は〔砂漠を歩くに都合よくできているフタコブラクダの丈夫の足が砂漠に残した足跡〕に見立てられたことになる。

だから、K図に示す南北の島は「対馬」と名づけられた。

その証拠に、『魏志』倭人伝は対馬国から一大国の旅程について「南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う」と記載する。「瀚海」は中国の北方にある「ゴビ砂漠」を意味する。フタコブラクダは“砂漠の船”と呼ばれ、ゴビ砂漠を往来する一団を率いて旅する欠くことができないたいせつな家畜であった。だから、“対馬”の[]の字源は「フタコブラクダ」であった。

上記したように、『魏志』倭人伝には伊都国の一大率について「諸国を畏憚す」という文がある。この文にある[()]の契文形は、L図に示すように〔対馬下県郡の地宜〕に相似する。また、〔対馬下県郡の地宜〕は[()]の契文形にも相似する。

白川静著『字統』は[][]の契文形を「趾(あし)あとの形。歩の上半にあたる」と解説する。
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M図に示すように、〔上県郡の地宜は北から南へラクダが歩く正面の姿〕に観え、〔下県郡の地宜は南から北へ向かって歩いたラクダの足跡〕に観えて対立する。この〔対立の様子〕は〔ゴビ砂漠で南北の方角が不明となって迷う状況〕をあらわすことになる。

このM図の対馬国上県郡の地宜を、N図左図に示した。N図中央図は、[][]の字源を示す末盧国の地宜である。J図に示すように[]の字源はN図右図の「十字の銀河」であり、この「十字の銀河の末部(両足部)」が[]と、そして[]の字源となった。N図左図の対馬国上県南部の海岸線は、[]の字源となる末盧国北部の海岸線に相似する。これゆえ、上県郡南部の海岸線は[]の字源を示すことになり、M図に示すように下県郡の北へ向かって歩くラクダの足跡に対立することも加わって、浅茅湾をはさむ南北の両島からなる対馬国の地宜は[]の字源をあらわした。

さらに、F図に示した〔一大国の南へ進むイメージとなる地宜〕は、M図に示す〔ラクダが南から北へ歩く足跡となる対馬国下県郡の地宜〕に対立する。

だから対馬国下県郡から一大国に至る中間の現在の対馬海峡(東水道)は「瀚海」つまり「ゴビ砂漠」と名づけられて、H図に示した卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理が示す矛盾〔二つの対馬・一大国の存在に迷って困惑する様子〕をあらわした。

◆『魏志』倭人伝に記載された34の倭地の小国名において、対馬国、投馬(つま)国、邪馬壱国、斯馬(しま)国、邪馬国の5ヵ国に[]の字が配される。この5ヵ国の[]の字義はすべて「フタコブラクダ」であった(これについては、次回のブログで証明する)

I図上図の[]の字源「ジャコウウシ」と、そして下図の[]の字源「フタコブラクダ」は、“漢字の始祖”の倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する聖獣であった。
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O図は作家の井上靖が作成した詩集『地中海』に収録される「落日」と題する詩である。

フタコブラクダは、「落日」の詩が表現するように不思議な能力を有する。先人たちは「落日」の詩が「何百尺もの深い穴に葬った死者や徇葬(じゅんそう╱殉死)させたラクダの在り処を嗅ぎあてることができる」というフタコブラクダの能力を神聖視した。だから、先人たちは、フタコブラクダにはE図に示した〔[]をキャッチする能力〕を有するゆえ、広大な砂漠における墓地を探す特殊な能力があるにちがいないと信じたにちがいない。このため、フタコブラクダは漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する聖獣となったのである。

なお、L図の右側に配した[]の『説文解字』の字源解説を、白川静著『字統』は「草の伸びる形と解している」と指摘する。また、『説文解字』の[]の「下基(かき)なり。艸木(そうもく)の出でて阯(あし)あるに象(かたど)る。故に止を以て足と為す」という字源解説を、白川静著『字統』は「草木の象とは関係がない。『説文解字』の之・止をすべて草木の象とするが、みな趾(あし)あとの形である」と反論する。

しかし、「落日」の詩は「雑草は忽(たちま)ちにしてそこを覆い、その墓所の所在を判らなくする」と表現する。ゆえに、L図の[][]の字形は「茫漠として広大な砂漠において、その所在が判らなくなる墓地の上に残したラクダの足跡」と「墓地の在り処を示すラクダの足跡の上に忽ちに生える雑草と雑木を象る(図案する)」ものであったことになる。

「対馬国下県郡の地宜」はL図に示した[][]の契文形に相似し、また「フタコブラクダの足跡」に類似する。だから、「対馬国下県郡の地宜」は「ラクダの足跡を忽ちに消して生える雑草と雑木」をあらわした。というのも、『魏志』倭人伝は「対馬国の土地は山険にして深林多く」と記述し、また「一大国は竹木叢林(そうりん)多く」と伝え、また「末盧国は草木茂盛(もせい)し、行くに前人を見ず」と語って、『説文解字』の[][]の字源解説文に合致するからである。このような字源の秘密にもとづき、上県郡と下県郡の小国名は「対馬」となり、対馬国と一大国の中間の海は「瀚海」と名づけられたのである。

ゆえに、「5世紀あるいは6世紀にわが国では最初に漢字を習得した」と主張する定説では文字は銀河から作られた秘密を知っていないことになるゆえ、字源の秘密に精通してこそ名づけることができた「対馬」・「瀚海」という名は生まれなかったことになる。だから、わが国には今から約4050年前に夏音文字が伝来し、『魏志』倭人伝と『古事記』に夏音文字が記載され、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むは夏音文字の字音であったことになる。現存する中国の最古の上古音だと、「卑弥呼」は「ピミカ」になる。「ヒミコ」という字音は中国最古の上古音「ピミカ」よりも古い。

以上からして、夏音文字はわが国に伝来していたことは確かな事実となる。

◆1億年経っても形が変わらず不滅の銀河各部の形状は1700年前の出来事(各小国の地宜に名を付けた歴史)を鮮烈明確に蘇えらすことができる極めて優れる方法である。ゆえに、『説文解字』の序は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文で、「銀河各部の形状を文字とする学術は経(科学)と芸術の根本であり、王道政治が第一歩を踏み出した政権基盤であり、過去の歴史を明確に知ることができる方法である」と後世に伝えている。

日本列島には[]の字源である「フタコブラクダ」は生息していなかった。しかし、「フタコブラクダ」は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する神聖な獣であった。ゆえに、対馬国、投馬国、邪馬壱国、斯馬国、邪馬国と5ヵ国の小国名に配された。

したがって、『魏志』倭人伝の小国名と人名は今から約4050年前の夏代初頭に夏音文字が伝来したことを現在に伝えている。

だから新井白石以来約280年間、学者たちは『魏志』倭人伝に多数の〔誤読〕を加え、また「5世紀以前にわが国には漢字は伝来していなかった」という〔空想〕を抱きつづけて、完全なる空理空論である邪馬台国学説を固執(こしつ)する伝統をまもっていることになる。

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