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2014年8月15日 (金)

日本が滅びる・121

『魏志』倭人伝で卑弥呼が居住した王国と漢字の起源と実体の秘密を解明する
 
愛、あざやかに永遠であれ(60)・箸墓記事と天皇の王冠(26)

 

『魏志』倭人伝が記述した真実の日本列島地理の解説(4)

 

◆『魏志』倭人伝は「その地には牛と馬は無し」と記述して、「倭には[][]が生息していない」と伝える。
 A図上図の〔胎児の姿〕に相似すると見立てられた「ジャコウウウシ」が[]の字源であった。ジャコウウシは天敵のオオカミに襲撃されると、子を真ん中にかくして円陣を組んで防御する。この子を愛(いつく)しむ不思議な生態が神秘的とされて、“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する〔聖獣〕となった。

[]の字源は、A図下図の胎児の離れる両目のごとく両目の位置が離れる「フタコブラクダ」であった。

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(C) 2014 OHKAWA

子が死産したフタコブラクダの母親は、母親を失った子が乳を欲しがってもその子に絶対に乳を与えず、死産した子を愛しむ習性があるという。このようなフタコブラクダの子を愛しむ不思議な生態がジャコウウシと同様に神秘的とされて、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する〔聖獣〕となった。

◆わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字通』(平凡社)1399頁は【文字】を「ことばをしるす記号」と定義し、つづいて「中国ではいわゆる漢字。漢・許慎〔説文解字の叙〕倉頡の初めて書を作るや、蓋(けだ)し類に依り形に象る。故に之れを文と謂ふ。其の後形聲相ひ益す。即ち之れを字と謂ふ」と指摘する。

漢字は、白川静博士が指摘するように「ことばをしるす記号」ではなかった。 

漢字は「いのちをまもるための学術に用いる記号」であった。

白川静博士が【文字】の説明に取り上げた許慎(きょしん)が書いた『説文解字』の叙の文は「文字の分類法」を述べたものであって【文字】の本質を解説するものではなかった。

許慎は倉頡が「いのちをまもるための学術に用いる記号」を作るために漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明したことを知っていた。その証拠に『説文解字』は[]の字源を「錯(まじ)はれる畫(くわく)なり。交文に象(かたど)る」と解説する。

倉頡は、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえる史官(記録官)であった。

当時の人々は〔天頂点と重なる銀河部位が天頂点に接近する46秒間の短い天頂緯度線と、天頂点の真南または真北の目印となる銀河部位・恒星を結ぶ子午線をキャッチ〕していのちをまもって生存していた。この〔いのちをまもる天頂緯度線と子午線〕は、B図右上に示す「玄(げん)」と名づけられた。

◆司馬遷『史記』五帝本紀は「黄帝軍は南の揚子江まで遠征した」と記述する。揚子江より少し南の太湖(たいこ)南岸は北緯31度である。黄帝を祭る廟と墓とされる黄帝陵は北緯3536分である。

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(C) 2014  OHKAWA 

〔歳差〕という天文現象に則って5000年前の黄帝時代の北緯3536分と北緯31度の天頂緯度線を再現すると、C図のごとくになる。

五帝時代以前の今から約6000年前の三皇時代、また五帝時代、さらに夏()代・殷(いん)代・周(しゅう)代・紀元前3世紀の秦(しん)代、当時の人々のいのちをまもった銀河を――私は「十字の銀河」と名づけた。

当時の人々は、狩猟で山や谷や荒野に入り、食糧や山菜を求めて森林に入り、また食糧豊かな新天地を求めあるいは日常生活に不可欠な石器や食塩を求めて遠くに旅した時、あるいは漁労のためや海外の文化を知るために大海に入った時――「十字の銀河」を貫通する天頂緯度と子午線をキャッチして、いのちをまもっていた。

C図に示すように、文字(漢字)が起源した五帝時代、「いのちをまもる天頂緯度線と子午線」は「十字の銀河」と斜めに交わった。この〔「十字の銀河」の天頂緯度線と子午線の様子〕を、上記したように「錯(まじ)はれる畫(くわく)なり。交文に象(かたど)る」と表現した『説文解字』の[]の字源解説は「【文字】はいのちをまもる学術に用いる記号であった」と伝えるものであった。

その証拠に、D図に示すように[文]の金文は「十字の銀河」を〔子宮に胎児(いのち)が宿る妊婦の正面の姿〕に見立てた図案である。

「十字の銀河の西半身」には〔乳房〕と〔子宮〕に観える箇所がある。倉頡は「十字の銀河」を「すべての文字を生む母体」と定める漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した。

だから、[文]の金文形は「胎児すなわちいのちを生む母体といのちを育てる子宮と、そして人々のいのちをまもった[]のキャッチ」を表現する図案であった。

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(C) 2014 OHKAWA

『説文解字』は[]の字源を「乳(にゅう)するなり」と解説する。E図に示すように、[]の上部の[(べん)]は〔すべての文字を生む母体〕の「十字の銀河」であり、[]の下部の[]は「鬼の姿に似る銀河」である。[][]を結ぶ箇所は「十字の銀河の乳房」に観える部分と「鬼の横顔に似る銀河の舌」を繋(つな)いで、あたかも〔乳児が母乳を飲む様子〕を示すイメージとなるため、『説文解字』は[]の字源を「乳するなり」と解説した。

F図は、女性の生殖器の側身形である。女性の生殖器の側身形は〔鳥(水鳥)の側身形〕のごとくに観える。E図に示した〔乳するなり〕となる「十字の銀河の乳房」はD図に記したように「右足」あるいは「妊婦の円く突き出た腹部」のごとくにも観える。「乳するなり」の箇所は「歩く人の姿に酷似する十字の銀河の〔足跡〕」に相当する。

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(C) 2014 OHKAWA

ゆえに、上記したA図に示した[]の字源「ジャコウウシ」と[]の字源「フタコブラクダ」の〔獣〕が加わり、F図の〔鳥〕の側身形と、「十字の銀河の右足」の〔足跡〕とで、倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。D図の[]の字源「十字の銀河」を「すべての文字を生む母体」と定めるものであったため、「鳥獣の足跡」は「鳥獣の文」とも呼称された。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作ったと伝わる。黄帝の研究は、いのち(胎児)を生む女性の生殖器といのちが生まれる出産の研究が中心となった。この黄帝の医学研究に用いる文字の発明は、黄帝につかえる史官・倉頡の役目であった。だから倉頡が発明した漢字作成原理の名称は、上記したごとく黄帝の医学研究にもとづいて「鳥獣の足跡(鳥獣の文)」となった。また、多くの文字が黄帝の医学研究にもとづいて女性生殖器と出産の状況をあらわす銀河各部の形状から生まれた。

たとえばG図に示すように、「鬼の姿に似る銀河」は〔頭が誕生する胎児の姿〕に見立てられた。ゆえに、「十字の銀河の腹部(右足)の南にある産道」に相当するのは「鬼の姿に似る銀河」の南の「長方形の暗黒天体部」であると定められた。

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(C) 2014 OHKAWA 

ゆえにH図に示すように、「長方形の暗黒天体部の北部三角形となる部分」はB図右上の[]とF図の「子宮頸管(しきゅうけいかん)」に見立てられ、その銀河部は『説文解字』が「三合なり」と解説する[(しゅう)]の字源となり、[]の字源の上部となった。

[]の下部の[]は「産道」をあらわし、[(せつ)]は「胎児」をあらわす。

「卩」の字源の「胎児」は[]の字源・字形(背中が丸く曲がる姿)・字義となった。だから、古代の人々の年齢は現在の年齢数と異なって〔胎児が子宮に宿る時〕から「一歳」と数えることになった。

以上のごとく、【文字(漢字)】は「命をまもる学術に用いる記号」であった。

だから、本来、【文字】は「ことばをしるす記号」ではなかった。

◆「日本が滅びる」と題するわがブログで幾回となく繰り返して解説し証明したように、『魏志』倭人伝の15ヶ所のすべての方位記事は――卑弥呼王朝が[]の字源「現在の方位を時計回りに90度転回した方位規定」にもとづいて錯覚の転回日本列島地理を制定した――と証言するものであった。というのも、卑弥呼王朝の政権基盤は今から約4050年前の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に伝来した夏音文字の学芸であった。ゆえに倭地では〔天の北極〕のある方向を〔北〕と定める天文地理学がまったく存立するものではなかったので、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定することになったのである。

そして、夏音文字は倉頡が「(1)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない人物または消し忘れた人物には神罰が下って即刻に死刑に処する」と定めた掟を厳重にまもるものであったので、夏音文字を書いた遺物が地中から出土しないことになった。夏音文字は銀河各部の形状を字源・字形・字義とし、『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられる文字として残り、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数残った実在する文字であった。

殷代の契文(甲骨文字)は倉頡が「(1)書いた文字が用済みなったならば、文字を直ちに消さない人物または消しわすれた人物には神罰が下って即刻に死刑に処する」と定めた掟を最初に破った。ゆえに契文以後の楷書もこの掟を破るものの、楷書は「(2)秋の銀河と夏の銀河から文字が作られた秘密を暴露した人物と、(3)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた人物は神罰が下って即刻に死刑に処する」と定めた倉頡の掟を厳重にまもった。これゆえ、楷書の字源・字形(原形)・字義は夏音文字と同じく銀河各部の形状であった。だから、夏音文字は(1)の倉頡が定めた掟を破る楷書で表記されて、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された。

I図は『魏志』倭人伝に記述された対馬国から黒歯(こくし)国までの34ヶ国の小国の配置図である。I図のごとく[]の字源「時計回りに90度方位が転位する方位規定」に則って34ヶ国の小国を配置すると、『魏志』倭人伝における全15ヶ所の方位記事には1つの矛盾点も派生せず【科学】が成立する。

I図が示すように、『魏志』倭人伝には漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する聖獣となった[]の字源「ジャコウウシ」と密接に関わる[]の字を配する小国名が9ヶ国もある。

また、漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する聖獣となった[]の字源「ウタコブラクダ」を配する小国は対馬国・投馬(つま)国・邪馬壱(やまい)国・斯馬(しま)国・邪馬国と5ヶ国も存在する。

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(C) 2014 OHKAWA

前回のわがブログ「日本が滅びる・120」で証明したように、J図上図に示すように「三つ輪の銀河は」は〔砂漠〕に見立てられ、「十字の銀河」がA図下図に示した[]の字源「フタコブラクダ」となった。白川静著『字統』の[]の字源解説を要約すると「城壁を作るとき、挟板(きょうばん)の中に土を盛り、これを突き固める道具」となる。J図下図に[]の金文形が示す〔土を盛った面を人が突き固めて平らにする土木・建築工事に用いた道具を使う様子〕をあらわした。K図に示すかつて「上県郡(かみあがたぐん)」と呼ばれた対馬北部の島の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は〔[]の字源となった道具の形〕に類似し、「下県郡」と呼ばれた対馬南部の島の地宜は〔平らになった地面〕のごとくに観える。また、「上県郡の地宜」は〔[]の字源の「フタコブラクダ」が歩く正面形〕に類似すると見立てられ、「下県郡の地宜」は〔砂漠を歩くに都合よくできているフタコブラクダの丈夫の足が砂漠に残した足跡〕に見立てられたことになる。

これゆえ、K図に示す南北の島からなる小国は「対馬国」と名づけられた。

その証拠に、『魏志』倭人伝は「南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う」と記載する。「瀚海」は中国の北方にある「ゴビ砂漠」を意味し、[]の字源「フタコブラクダ」はゴビ砂漠を往来する旅の一団に欠くことができない大切な家畜であった。

だから、対馬国の[]の字源は「フタコブラクダ」であった。

◆L図は『魏志』倭人伝が記述する〔倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国までの旅程図〕である。

前回のわがブログ「日本が滅びる・120」で理由・根拠を挙げて解説したように末盧国の旅程基地は、M図上部に示す長崎市か佐世保市である。

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(C) 2014 OHKAWA

ゆえに、『魏志』倭人伝が「末盧国から東南陸行五百里、伊都国に至る」と記述する伊都国の旅程基地は、M図に示す福岡県糸島市筑前前原(まえばる)駅付近となる。また、「伊都国から東南奴()国に至る百里」と記述される奴国の旅程基地は「筑前前原駅付近から東南東(東南)となる福岡市香椎宮付近」であったことになる。また、「奴国から東行不弥(ふみ)国に至るには百里」と記される不弥国の旅程基地は宗像市玄海町の神湊(こうのみなと)であった。

『魏志』倭人伝は「不弥国から南投馬国に至るには水行二十日」と記述する。I図に示すように「神湊から沖ノ島に渡り、沖ノ島から山口県萩市の見島(みしま)を至り、見島から萩港までの航路」が「水行二十日」であったことになる。なぜならばM図に示すように、転回方位において山口県の北の海に浮かぶは対馬国であり、「山口県」(旧国の長門(ながと)・周防(すほう))は「投馬国」となるからである。

 白川静著『字統』は[]の右側の[(しゅ)]の字を「投げ槍の形である」と解説し、『説文解字』は[]の字源を「杖を以て人を殊(ころ)すなり」と解説する。M図に示す対馬国は〔投馬国・山口県から投げられた槍または人を殺すために投げた杖〕のごとくに観える。だから、「投げる槍や杖の正面になって殺される」ことになる[]の字が有する呪術(じゅじゅつ)の禍(わざわい)を避けて、魏や帯方郡の使節の航海の安全を確保するために神湊から投馬国の港へ直接に至らずに、沖ノ島・見島を経由する海路が選ばれたことになる。

N図に示すように、「山口県の地宜」は[]の字源「投げる手」と[]の字源「フタコブラクダの横顔と歩く足」のような形をしているゆえ、「山口県」が「投馬国」となる。

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(C) 2014 OHKAWA

『魏志』倭人伝は「投馬国から南邪馬壱国に至る。女王の都(みやこ)する所なり。水行十日陸行一月」と記述する。I図に示すように、「投馬国の萩港から出発して現在の島根県浜田市の港に至る」が「水行十日」ということになる。そして、「陸行一月」の地点は「浜田市から松江市東南部の茶臼山(ちゃうすやま)から意宇(おう)川周辺の八雲立つ風土記の丘付近」となる。つまり、八雲立つ風土記の丘付近は倭女王卑弥呼が居住した宮殿の所在地であったと考えられる。

なお、『魏志』倭人伝には5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の「倭では中国の正歳四節を知らず、ただし春の耕作と秋の収穫で一年とする」と説明する注がある。この現在の「一年」を「二年」と数える二倍暦のもとづくと「投馬国に至るには水行二十日」の「二十日」は現在の「十日」、投馬国から邪馬壱国までの「水行十日陸行一月」は現在の「水行五日陸行半月」に相当する。

◆O図に示すように、邪馬壱国は現在の島根県・鳥取県西部(旧国の石見・出雲・伯耆)となる。

O図左図は新人物往来社発行『歴史読本』第52巻第4号の109頁の「出雲大社創建の背景」の執筆者の松尾充晶(みつあき)氏が作図した弥生前期の古代出雲の地宜をトレースして転回方位図に改めたものである。

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(C) 2014 OHKAWA

卑弥呼が生存した弥生後期の3世紀、島根半島の北の付け根には、現在において消滅した神門水海(かんどのみずうみ)が存在した。O図中央図に示すように神門水海は緯度線と子午線(経度線)と斜めとなり、C図に示す「十字の銀河」と交錯する[]の字源となった「天頂緯度線と子午線」と共通する。そして、神門水海の形は[]の字源「フタコブラクダ」に相似する。だから、神門水海は「邪(なな)め」の[][]の字を示すゆえ、「邪馬」をあらわした。

転回方位にもとづく弥生時代の「宍道湖」の形は、P図に示すように[][]の字源「十字の銀河の子宮」が重なる「十字の銀河の右足」に共通して「右足の形」をしていた。(なお、[]()の字源が「十字の銀河の子宮」であることは、前回のわがブログ「日本が滅びる・120」におけるF図左図で解説した)

ゆえにO図右図に示すように、「宍道湖南部(転回方位)の湖」は[]の字源が所在する箇所となる。

だから、O図に示す「出雲」は倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」の首都所在地であった。したがって、上記したようにO図左図の意宇平野の一角・八雲立つ風土記の丘付近に卑弥呼は居住した宮殿が所在したと考えられる。

『魏志』倭人伝は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」と記述する。I図に示すように、転回方位のもとづく邪馬壱国の東の海には隠岐群島がある。隠岐群島は4つの大島と約180の小島からなるので『魏志』倭人伝に「皆、倭種なり」と記載されたのである。

I図に示すように、邪馬壱国の隣国は斯馬国である。『説文解字』は[]の字源を「柝()くなり」と解説する。「柝くなり」は「裂くなり」である。J図上図の[]の字源は「十字の銀河」である。邪馬壱国の[]の字源は「十字の銀河の子宮」であるので、O図に示す「邪馬壱国の出雲」は「十字の銀河」に見立てられたことになる。

Q図に示すように、「邪馬壱国」に見立てられた「十字の銀河」から[]の字義「裂く(柝く)」ことになる「鬼の姿に似る銀河」と「長方形の暗黒天体部と西隣の暗黒天体部」もまた[]の字源「フタコブラクダ」のごとくの形となる。

ゆえに、「斯馬国」は邪馬壱国から裂く(隔たる)現在の「鳥取県東部」であり旧国の「因幡(いなば)・但馬(たじま)」であったことになる。わが国最大の規模の鳥取砂丘は、但馬の領土内にある。だから、小国「斯馬国」は[]の字源の「フタコブラクダ」が活躍するゴビ砂漠が連想される鳥取砂丘がある「鳥取県東部」であったことになる。

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I図に示すように、現在の「奈良県」にして旧国の「大和」が小国「邪馬(やま)国」であった。

R図に示すように、「大和の地宜」は「フタコブラクダの邪(なな)め横顔と、コールサックの北部となるフタコブの部分と、コールサックの南部」に類似すると見立てられた。ゆえに、旧国「大和」は「邪馬国」であった。

(なお、「コールサック」とは英語で「石炭の袋」と意味する「暗黒天体部」であり、国際天文学で使われる用語である)

S図に示すように、〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづいて卑弥呼が生存した時代(2世紀末から3世紀半ば)3世紀後半に邪馬国・大和の中心地となった三輪山の天頂緯度線を再現すると、R図左図に示した[]の字源銀河は天頂緯度線に対して「邪(なな)め」であった。だから、「大和国」は「邪馬国」であったことになる。

◆以上のごとく、[]の字を配する5ヶ国の小国名をあらわす夏音文字によって、C図に示すように「【文字】は命をまもる学術に用いる記号であった事実」が明白となる。

したがって、『魏志』倭人伝の小国名に用いられた夏音文字と楷書は「ことばをしるす記号」ではなかった。【文字】の実体は、B図に示す〔[玄]のキャッチ(天頂緯度線と子午線のキャッチ)〕を最も重視した「命をまもる学術に用いる記号」であった。

夏音文字は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて実在する文字であり、学者たちが空想する「ことばをしるす記号」ではなく「命をまもる学術に用いる記号」であった。

中国の正史『新唐書』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と中国政府に告げた――という記述がある。この遣唐使の言すなわち「壬申の乱の後に、稍々夏音文字を復興することになった」のごとく、10年後の712年に完成した『古事記』の序は夏音文字の伝来はじめ夏音文字と楷書は共に銀河から作られた秘密を詳細に解説し、上巻の随所に夏音文字は〔音〕という注が付いて多数記載される。また、夏音文字の存在は『魏志』倭人伝に記述され、人名・小国名となって現存する。

このような夏音文字に関する記述やこの目で見ることができる実在する夏音文字を学者たちはすべて誤読して排除し、漢字が最初にわが国に伝来したのは5世紀か6世紀であると空想して、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された真実をことごとく抹殺する。

したがって、学者たちが主張する邪馬台国学説と、漢字の日本伝来説と、そして漢字を理解するために不可欠となる基礎知識は〔完全なる誤読の空論〕と〔空想〕の産物であったことになる。

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