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2014年9月11日 (木)

日本が滅びる・127

『魏志』倭人伝に記載された倭国の残るすべての小国の解明をめざして(4)

愛、あざやかに永遠であれ(66)・箸墓記事と天皇の王冠(32)

 

■『魏志』倭人伝が記述した真実の日本列島地理の解説(10)

 

◆前回のわがブログ「日本が滅びる・126」で、『魏志』倭人伝に16番目に記載される小国「不呼(ふこ)国」は、A図に示す「現在の静岡県西部、旧国の遠江」であると証明した。

この不呼国には、『魏志』倭人伝(280289)が著作された同じ3世紀後半(260290)に作製された、B図に示す1千万坪の巨大な大鳥の地上絵・「卑弥呼」の地上絵が存在する。

今回は、この「卑弥呼」の地上絵を注目して解説する。

「卑弥呼」の地上絵によって――(1)『魏志』倭人伝が記載した真実の歴史が【科学】の基に解明され、(2)『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記載された真実の歴史が【科学】の基に解明され、(3)今から約5000年前の五帝時代初頭に起源した漢字の秘密が【科学】の基に解明され、(4)今から約4050年前の夏()代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に名門益氏が男鹿半島・米代川(よねしろがわ)流域縄文文化圏に移住して根づいた精密地図作製方法と夏音文字の学芸が伝来した歴史が【科学】の基に明らかとなる。

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(C) 2014 OHKAWA

漢字はC図に示す「秋の銀河(の西部)と夏の銀河の全域」から作られた。

世界中探しても漢字が作られた「秋の銀河と夏の銀河」の各部には名称は存在しないので、私はC図のごとく名称を付けた。

◆B図に示す「卑弥呼」の地上絵は、静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する。

上記したように「卑弥呼」の地上絵に貯蔵・保存された精密地図作製方法と夏音文字の学芸によって『魏志』倭人伝と『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された真実の歴史が明らかとなるということは、新井白石(16571725)から始まった17世紀初めのデカルトが提唱した以来の西欧近代科学にもとづく“文献批判”と呼ばれる歴史の解明方法は〔誤読〕であったことになる。

わが国の湯川秀樹博士が先駆者となって、1980年代に世界の先端科学者たちはデカルト以来の西欧近代科学には幾つかの誤りがあることに気づいた。そこで、先端科学者たちは何度も国際会議を開いて西欧近代科には幾つかの誤りがあると警告した。わが国の新井白石から始まる西欧近代科学の合理の考えを用いて『魏志』倭人伝、『古事記』、『日本書紀』が記述された歴史や事柄を“文献批判”して誤っていると断定する意見は、先端科学者たちが「複雑に組織される事柄や事物をデカルトの要素論で否定する単純化は傲慢(ごうまん)である」と指摘する誤り、典型的な誤読であったのである。

『魏志』倭人伝は、(1)卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱(やまい)国」と記載するが、従来の西欧近代科学を絶対視する古代史学者たちは卑弥呼が居住した王国の名「邪馬台国」であったと誤読する。また、(2)『魏志』倭人伝は「倭の易における卜辞に用いられる文字は令亀(れいき)の法のごとくであった」という記事で「銀河各部の文字を字源・字形・字義とする令亀の法すなわち契文のごとくの夏音文字が倭には存在した」と証言するが、学者たちはこの記事について深く考えず強引に単純化して文字は存在していなかったと否定する。また、(3)『魏志』倭人伝は15ヶ所の方位記事と6ヵ所の「倭の使節は大海を往来できた」と語る記事で――倭ではD図右上に示す〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が栄えていて、E図に示す[]の字源「時計回りに方角が90度転位する規定」すなわち「西の九州は北・日本列島の奥の東は南と定める方位規定」に従う錯覚の転回日本列島地理を制定していた――と史実を伝えているにもかかわらず、傲慢に単純化する誤読で抹殺する。

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(C) 2014 OHKAWA

 

上記したように、学者たちは“文献批判”すなわち〔誤読〕を用いて、D図の〔[]のキャッチの科学〕を伝える6ヵ所の「倭の使節は大海を往来することができた」と証言する記事を排除・無視し、15ヶ所のすべての方位記事はE図の[]の字源を伝えるものであることを排除して――〔実際の日本地図〕を立論基盤にして〔誤読の空論〕を主張する。
 学者たちが立論基盤とする〔実際の日本地図を成立させる、天の北極の高度を緯度に換算する方法〕では倭の使節は大海を往来できず落命した。だから、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになるため約2000字で構成される『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙となる。

したがって、学者たちの西欧近代科学を絶対視して〔天の北極がある方角を北と定める実際の日本地図〕を立論基盤する方法だと約2000字で構成される『魏志』倭人伝は1字も書かれていない白紙となる――このありえない奇妙な結果が明確に示すように、学者たちの“文献批判”の正体が〔誤読〕であるのは否定できない明白なる事実である。

◆D図の[]をキャッチすると天頂緯度と子午線がキャッチできたゆえ、倭の使節は落命せずに大海を渡り魏との国交を結んで倭に無事に帰還することができた。また卑弥呼王朝はD図の〔[]をキャッチ〕して『魏志』倭人伝の全15ヶ所の方位記事が証言するように錯覚の転回日本列島地理を制定していた。

今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)は――(1)銀河各部の形状から文字が作られたことを暴露した者、(2)文字が作られた銀河各部に名称を付けた者、(3)書いた文字が用を済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者には神罰が下って即刻に死刑にすると定めた。

だから、今から約4050年前にわが国に伝来した夏音文字は地中から史料が発掘されない文字となり、C図に示す「夜空に輝く銀河各部の形状」が「夏音文字」となった。このような秘密があったために、「天には多数の文字ありき」が略されて「天文」という語になり、「天文」は「天」を意味することになった。「銀河」は「銀漢」ともいうので「銀漢から作られた字」略して「漢字」と名づけられることになった。

今から約3300年前の殷代(いんだい)後半の契文(けいぶん╱甲骨文字)によって、倉頡の(3)の掟が初めて破られて地中から史料が出土する文字となった。しかし、契文は(1)(2)の掟を厳重にまもり、その以後の文字もまた(1)(2)の掟を破らなかったので、C図の銀河各部の形状が字源・字形(字形の原形)・字義となる秘密が明らかとならなかった。後漢(25220)から出現した楷書も三国時代(220280)の魏の楷書も、隋代(589618)に完成した楷書の字源・字形の原形・字源もC図の銀河各部の形状であったのである。

◆B図右端に「29°」と記したように、「卑弥呼」の地上絵の〔大鳥の顔の正面〕は「夏至の日の出の方角」に向き「わが国に後期縄文時代初頭に、夏音文字は伝来した」と伝えている。

また、B図のおける「A」と示す地点はD図右上の[]をキャッチして設定した経緯度原点であり、東の滝峯不動尊も[]をキャッチして設置した大三角(三角測量の基礎)の基点である。B図は、前回のブログ「日本が滅びる・126」で説明したように、名門益氏がもたらした精密地図作製方法と三角測量を伝えるものである。

司馬遷著『史記』五帝本紀に記述されたように、五帝時代最後の帝舜(しゅん)の時代に益氏は「虞()」という「精密中国海岸線地図を作製する官職」に代々約200年間余も従事した。益氏は日本列島に移住するとき、“夏の始祖”の後を継ぐ帝王を退位した直後であったゆえ、海外への持ち出しを厳禁された精密中国海岸線地図を携えてくることができた。

わがブログ「日本が滅びる・125」において――帝益の孫の王子(天祖)と若者たち一行はF図に示す八郎潟南の船越水道南端の東岸に上陸すると、その地点から経度線に対して29度の秋田県山本郡三種(みたね)町の琴丘(ことおか)鹿渡(かど)に居住した――と指摘した。

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(C) 2014 OHKAWA

 

F図に示す船越水道南端の西岸を貫通する経度線から29度傾く斜線上に所在する琴丘鹿渡は、B図に示す浜松市北区引佐(いなさ)町の八幡宮に合致する。というのも、八幡宮は「卑弥呼」の地上絵の経緯度原点のA地と滝峯不動尊を貫通する経度線から29度傾く2本の斜線の交点だからである。

B図の「卑弥呼」の地上絵における「わが国に夏音文字が伝来した」と表示する大鳥の横顔の向きの「夏至の日の出の方角(29)」は、F図に示す船越水道北端の東岸と結ぶ国の特別史跡の秋田県鹿角(かづの)市に所在する大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の角度に合致する。天祖(帝益の孫の王子)の孫の代に作られたと推測される大湯環状列石には、益氏が移住して根づかせた夏音文字の学芸知識が現在も多数失われずに残っている。

G図のA地から東北45度の「引佐町の金指(かなさし)」は、D図に示す[]となる銀河部位が地平線から昇る方角である。そして、A地から東北45度の金指はF図の秋田県北秋田市の鷹巣(たかのす)盆地に立地された伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡がある方角となる。わがブログ「日本が滅びる・125」で解説したように、伊勢堂岱遺跡は夏音文字の学芸を根づかせるために作られた環状列石であり、天祖の子の時代のものであったと推測される。

H図に示すように、「引佐町の金指」は遠江の小国名「不呼国」の[]の字源「鳰の横顔」の形に設計されている。

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(C) 2014 OHKAWA

 

◆前回のわがブログ「日本が滅びる・126」で解説したように、1498825日の大地震で遠江国荒井(あらい)(I図左図上部の新井町東部)が破壊されて浜名湖は外海と通じるようになった。ゆえに、古代の浜名湖は現在の浜名湖より小さく、I図右図のごとくであったと推測されている。

わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、[]の字源について「もと象形で花の萼柎(がくふ)の形である」と解説する。I図右図の古代浜名湖は花冠の形のごとくであり、浜名湖の支湖の「引佐細江」は「花の萼柎(台╱うてな)」に観える。

J図左図に示す中国の南部にある杭州湾(こうしゅうわん)も花の形に相似するので、湾の奥は「萼柎」に相当して[]の字源をあらわした。J図右図に示すように、杭州湾は「鳰」の姿にも相似するゆえ、「鳰」は[]の字源となった。要するに、「杭州湾」は[][]の字源をあらした。I図右図に示す「浜名湖と支湖の引佐細江」は「杭州湾の形」に類似すると見立てられて、「静岡県西部、旧国・遠江」は「不呼国」と名づけられたのである。

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(C) 2014 OHKAWA

H図の「引佐町の金指・井伊谷(いいのや)地区」は「鳰と浮巣の形」にデザインされて「不呼国」の[]をあらわした。

わがブログ「日本が滅びる」の118回の「不弥国」と123回の「弥奴国」の位置と範囲について解説したように、K図に示す中国北部の「山東半島と付け根の南北の海岸線」は山東半島に生息する冬鳥の「カンムリカイツブリの横顔と両翼」に類似すると定められて[]の字源地宜となった。それゆえ、L図右図に示す「カンムリカイツブリ」もまた[]の字源となった。

「卑湿(ひしつ)」という語が示すように、[]の字源・初文(最初の文字)の字義は「波が寄せる湿気がある、土地が低い海岸線」であった。

ゆえにK図に記したように、「海岸線」が[]、「山東半島とその南北の海岸線」は[]、「杭州湾」は[]の字源をあらわして、「中国の海岸線」は[][][]3字の字源・字義をあらわした。

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(C) 2014 OHKAWA

M図に示すように、「引佐細江に近い経緯度原点のA地は卑湿な地点」であるゆえ[]の字源、「山東半島と南北の海岸線の形に設計された境界線」は[]の字源、「八幡宮がある金指・井伊谷地区の鳰と浮巣の形の境界線」は[]の字源をあらわす。
 これゆえ、私は浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形となって現存する1千万坪の巨大な大鳥の地上絵を“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶことにした。

◆N図の左側に配する沖ノ島は倭の使節が往来した「玄界灘」に浮かぶ孤島である。

「玄界灘」いう名は――D図に示す[]をキャッチできれば往来できたが、天の北極で緯度(位置)と子午線(方角)を測量する方法では往来ができなかった波の荒い海――と意味する。その証拠に、日本列島の西端にある沖ノ島と東端にある神津島(こうずしま)1分未満内の同緯度(北緯3415)であることは〔天の北極〕では測量できないが、〔[]のキャッチ〕ならば遠く隔たる沖ノ島と神津島が同緯度であることを測量できた。

また〔天の北極〕では精密に緯度が測定できないので、B図に示した三角測量を形成することができずちょうど1千万坪の「卑弥呼」の地上絵を作製することができない。

O図に示す山東半島がある中国北部の海岸地域の気候は寒いゆえ〔北冷〕となり、会稽(かいけい)がある中国南部の海岸地域の気候は暖かいゆえ〔南暖〕となる。

日本列島西端の沖ノ島は冬に雪が降るゆえ〔西冷〕となり、沖ノ島と同緯度の日本列島東端の亜熱帯地区の神津島は冬には雪が降らないゆえ〔東暖〕となる。

中国北部の海岸線地域の〔北冷〕と日本列島西端の〔西冷〕が合致し、中国南部の海岸線地域の〔南暖〕と日本列島東端の〔東暖〕が合致する。だから、卑弥呼王朝は「日本列島の暖かい東端は中国の海岸線の南の方に伸びている」と考える転回日本列島地理を制定したのである。

この転回日本列島地理を提唱した人物は、『魏志』倭人伝が「倭国はもと男子が王として統治されていたが、七、八十年前に(西暦180年ころ)倭国は乱れて戦争状態であったところ、共に一女子を立てて王に就任させて安定した。この女王の名は“卑弥呼”という」と伝える卑弥呼であった。

K図に示すように「中国の海岸線」は[][][]の字源をあらわし、O図右側の倭の王朝が制定した転回日本列島地理は左側の中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕を基準にして立論されたゆえ、倭女王の名は「卑弥呼」と定められたのである。

卑弥呼が提唱した転回日本列島地理は――戦争を続けてゆくと鬼神(かみ)が「すべての王国、すべての氏族が滅亡する」と告げる啓示(けいじ╱神が示す真理)であるにちがいない――とおそれた小国の王や氏族の長や巫女や神官たちは鬼神に罰せられてすべてが滅亡しないために、伊都(いと)国の一大率(いちだいそつ)と卑弥呼を共に立てる国家を創設することにした。ところが夏代初頭に益氏は国家を創設しない氏族共同体制を植え付けるために日本列島に移住したため、国家の樹立に狗奴(くな)国を治める男王卑弥弓呼(ひみくこ)は猛反対したのであろう。ゆえに『魏志』倭人伝には「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼は素(もと)より和せず」という記事がある。

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(C) 2014 OHKAWA

『魏志』倭人伝には「その道里を計るに当(まさ)に会稽・東治(とうじ)の東に在るべし」という文があり、P図左図に示すように学者たちの立論基盤とする実際の日本地図は会稽・東治の東北にあって矛盾する。他方、O図右側の転回日本列島地理は会稽・東治の東に存在するので合理となる。

『魏志』倭人伝の対馬国から邪馬壱国までの道程記事における方角と里数は、P図右図のとおりである。そして、『魏志』倭人伝は「女王国より以北は、その戸数・道里について概略を記載した各国の旁(そば)には余って空白となる国が存在するが、女王国より遠いので詳細を知ることができない」と説明する。この文に相当する余白となる国は学者たちの邪馬台国論には存在しないが、O図右側に配する転回日本列島地理で考えればP図右図の左下の大分県(やP図右図からはみだす宮崎県も)が「女王国より以北の余白となる旁国(ぼうくに)」となって合理となる。

◆K図に示す[][][]の字源をあらわす〔精密中国海岸線地図の作製〕について、中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』繋辞(けいじ)上伝は「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と記述する。この文に登場する「天地の道」をQ図の左図と中央図に示した。Q図の左図と中央図は共に「角が生えるオス鹿」に相似すると見立てられて[]の字源となったゆえ、「天地の道」と表現された。天にある[]の字源銀河はQ図左図の「オス鹿の横顔に似る銀河」であり、[]の字源となる地宜はQ図中央図の「廟島(びょうとう)列島・山東半島」である。

しかし天の[]の〔オス鹿の口〕は《南》にあるが地の[]の〔オス鹿の口〕は《東》にあって異なる。ゆえに、Q図中央図は「南→東」と解すると定められて「時計回りの逆方向に90度転回する方位」をあらわす「大地の法則」すなわち[][]の字源となった。それというのも、銀河部位は《時計回りに東から西へと移動する法則》に対して、漢字が起源した大地を流れる黄河の水は《時計回りの逆方向に西から東へと移動する》ゆえ、[][]などの文字が必要となった。「黄河の水が西から東へ去る移動」は「大地の法」すなわち「地法」という語となった。Q図右図に示す[]の正字の[]は、「黄河の水」をあらわす三水偏に、「オス鹿の横顔」の[鹿]の下に「山東半島の鳥に似る地宜」の[]が加わり、さらに「水が去る」の[]が加わって構成され、「黄河の水はオス鹿と鳥の横顔に相似する山東半島に向かって西から東へ去る」とあらわしている。

上記したように、わが国に移住した益氏は約200年間代々「虞」の重職に就いてK図の精密中国海岸線地図の作製に従事した。この[]とE図に示した[]の字は対立しあう一セットの文字であった。

『魏志』倭人伝の15ヶ所の方位記事が一点の矛盾もなく不合理の点もなく全体的合理が成立して[]の字源は「時計回りに90度転回する方位規定」であると伝える。

R図の左図に[]、中央図に[]の字源となった方位規定図を配した。

R図右図に、「十字の銀河の子宮」の部分における「南(天頂点)から西への時計回りの90度の転回方位」が[]、「南(天頂点)から東への時計回りと逆向きの90度の転回方位」が[]の字源であることを示した(注 D図に示した軌道の「天頂点」は「南」である。だから、R図右図の「南」は「天頂点」となる)

倉頡は、「十字の銀河」をC図に示した「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作られたすべての文字を生む母」、「十字の銀河の子宮」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めて、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を生むことができる漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。ゆえに、「十字の銀河」は「鬼神(天神)のことば、鬼神(天神)が告げる啓示」となった。だから、卑弥呼が提唱した転回日本列島地理は[]の字源をあらわしたので鬼神のことば・啓示を示すものとなった。これゆえ、倭の大乱はおさまり倭国が創設され、倭女王は「卑弥呼」と名づけられたのである。

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◆S図は、現在方位のもとづく「卑弥呼」の地上絵の両翼の形に合わせて〔山東半島の地図〕を加えた混合図である。なお、〔「卑弥呼」の地上絵の横顔)は点線であらわし、〔山東半島〕は実線であらわした。

 (1)S図の混合図は、〔「卑弥呼」の地上絵の横顔〕が指す〔東〕から〔山東半島の横顔〕が指す〔南〕への転回「東→南」すなわち[]の字源をあらわすことになる。

(2)T図左図に中国の海岸線をあらわした。T図の右図と左図の両図は類似しあう。ゆえに、M図で[]を示す〔「卑弥呼」の地上絵の横顔と両翼〕はK図に示す「中国海岸線地図」を図化したものであったことになる。益氏が日本列島に移住する時に中国海岸線地図を携えてきたゆえ、「卑弥呼」の地上絵に「中国海岸線地図」の形が設計されたのである。

(3)T図右図の〔「卑弥呼」の地上絵の横顔〕が指す〔北〕から〔山東半島の横顔〕が指す〔東〕への転回「北→東」は[]の字源をあらわす。

(4)そして、S図に示す「卑弥呼」の地上絵における右翼は〔南〕にあるがT図右図では〔東〕となる――この90度の転回「南→東」は、精密中国海岸線地図を作製する「虞」という益氏が就いた官職をあらわす。

以上のごとく「卑弥呼」の地上絵によって名門益氏がわが国に移住して精密中国海岸線地図と夏音文字の学芸が伝来したことが事実であったと証明され、また[]という国名の字源は『魏志』倭人伝の15ヶ所の記事が示すとおり「時計回りに90度転回する方位規定」であると証明される。したがって、『魏志』倭人伝のすべての記事は正しいことになり、西欧近代科学の考え方から産まれた“文献批判”は「誤読」であったことがいかなる学識者にあっても否定できない明白なる事実となる。

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