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2014年10月 3日 (金)

日本が滅びる・132

学者たちの邪馬台国説は〔誤読の空論〕であることは直ちに証明できる

愛、あざやかに永遠であれ(69)・箸墓記事と天皇の王冠(35)

 

■『魏志』倭人伝が記述した真実の日本列島の解説(13)

 

◆わがブログ「日本が滅びる・118」から「『魏志』倭人伝が記述した真実の日本列島の解説・1」と題し、131までをもってA図の33ヵ所の小国名の位置と範囲の証明とした。

この33小国名の位置と範囲の証明によって、B図に示す「秋の銀河と夏の銀河全域」の各部の形状が漢字の字源・字形・字義であった事実が明らかとなる。

だから、『魏志』倭人伝は「漢字の字源・字形(字形の原形)・字義」はB図の「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状である」と科学的に証明できる貴重な史料であ

る。

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(C) 2014 OHKAWA

中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)下伝は――漢字の起源を「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と今日に伝える。

B図の「秋の銀河と夏の銀河全域」は、上記の『易経』繋辞下伝に記載される「天象」であることが、A図の33小国名の位置と範囲によって科学的に証明される。また、33小国名の位置と範囲の証明によって上記の文中の「地法」とは「黄河の水が中国大陸の西から東へ移動して去る法則」であり、「鳥獣の文」とは「倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」の別称であり、「地宜」とは「平面的に図化した地図の形」であることが事実となる。

◆前回のブログ「日本が滅びる・131」において、A図の33小国名と各国の地宜によって五帝時代初頭の黄帝時代に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の秘密が明らかになることを証明した。

『魏志』倭人伝はわが国の名を「倭国」と記述する。この[]の字源は漢字作成原理「鳥獣の足跡」によって定められた《漢字の字形の定式》における重大な要素であった。この《漢字の字形の定式》は殷代後半に出現した契文(甲骨文字)から現代のわが国の当用漢字まで受け継がれる不滅の法則である。だから、あなたはこのブログを開いて倉頡が決めた《漢字の字形の定式》を今がいま目撃している事実からして、倉頡が発明した「鳥獣の足跡」は確たる歴史的事実となる。

◆『魏志』倭人伝に登場する卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ば以前の2世紀初頭に生存した文字学者の許慎(きょしん)は後漢の建光元年(121)に字源を解説する『説文解字』を帝に上呈した。

A図に示す倭の33小国名の位置と範囲の証明によって、『説文解字』の大半の字源解説はB図の銀河各部の形状によって成立するものであることが証明される。

また『説文解字』の序にある「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文は「倉頡が考案した文字は経(医術・天文地理術の学問)と芸術の根本であり、王道政治の第一歩となる政権基盤であり、過去におきた歴史の真実を知る方法」と伝えていることになる。

A図の33小国名の位置と範囲の証明によって、上記の『説文解字』の序にある文のとおり――B図の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする文字は経(医術・天文地理術の学問)と芸術の根本となり、卑弥呼王朝の政権基盤となり、今日において『魏志』倭人伝が記述した真実の歴史を最も確かに知ることができる方法であることが証明される。

しかし新井白石の伝統を受け継ぐ現代の学者たちは「誤読」に“文献批判”という偽名を付けて、この「誤読」を自由自在にあやつって『魏志』倭人伝が記載した日本人にとって最も重大な史実の数々を抹殺した。

◆“文献批判”という名の先入観は抱く前に、()先人が著作した文献の記述の通りに読んで解釈し、()【科学】が成立する意見を立論することが古代史学の原則、初歩的心得、鉄則である。

この()()の古代史学の基礎を徹底的に無視して、学者たちは「誤読」を駆使して重大な【世界の古代文字は銀河各部の形状から作られて起源した】という事実が【科学】に則って明確に解明・証明できる『魏志』倭人伝の貴重な記述を抹殺した。

◆古代エジプト文字(聖刻文字)、ABCのルーツとされるワディ・エル・ホル碑文の文字、原シナイ文字、フェニキア文字などの古代文字は、B図の銀河各部の形状から作られた。

世界の古代王朝は一応に中国とわが国の王朝と同じく、文字が銀河から作られた秘密を独占管理して最も厳重な機密とし、文字知識を手に入れた反体制側が革命に利用して王朝が滅亡することを防いだ。言い換えると、文字に精通した反体制勢力が革命に成功すれば新王朝を樹立することができた。この天下を手に入れた新王朝も文字に精通する反体制勢力の登場をおそれて、文字が銀河から作られた秘密を独占管理して厳重な機密とした。

世界中の古代王朝は、文字に精通する勢力の登場をおそれて、文字の習得をむずかしくするために銀河各部に名称を付けなかった。だから、世界中探しても銀河各部には名称が無い。そこで、【銀河各部が字源・字形・字義となる学芸】を容易に理解していただくために、B図に示すように私は銀河各部の名称を作った。

上記した『説文解字』が序で「けだし文字は経芸の本、王政の始め」と述べているように、古代王朝はB図の銀河各部から作った文字を経(科学はじめとする学術)と芸術の根本とし、王朝の屋台骨・政権基盤としなければいつまでも栄えることができず衰退し滅亡したのである。

A図は、卑弥呼王朝がB図の銀河各部の形状を文字とする知識を経芸の本とし、王政の始め(第一歩)の政権基盤とした事実を示す。

新井白石以後の学者たちは学問には不要の「誤読」を駆使して真実の歴史を抹殺した。このため、われわれは「わが国には2世紀~3世紀に高度の学問が存在しなかった」と学校教育で洗脳された。しかし、『魏志』倭人伝には「精密な地図が作成できる高度の天文地理学と高度な夏音(かおん)文字の学芸が中国から伝来し、卑弥呼王朝の政権基盤となっていた」と記述された。

◆A図の33小国名の位置と範囲の解明は『魏志』倭人伝の全文を忠実に読解すれば手に入れることができる。この33の小国名の位置と範囲の証明においては一点の矛盾点も不合理も生まれず互いに関連しあって系統的な合理が成立し、さらに[]という一つの文字に統合される仕組みになって明確に事実となる。

だから、『魏志』倭人伝が記述する真実の日本列島地理はA図のごとくであり、A図は卑弥呼王朝が制定した錯覚の日本列島地理であったことになる。

◆新井白石(16571725)以来約280年の伝統を受け継ぐ今日の学者たちは、「誤読」に“文献批判”という名をつけてわれわれを欺(あざ)く。『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱(やまい)国」と表記する。にもかかわらず、卑弥呼が居住した王国の名を学者たちは「邪馬台国」であったと捏造(ねつぞう)し、さらに現在の日本地図を立論基盤とする完全なる空理空論をさも史実のごとくに言いくるめる。

現在の日本地図は〔天の北極〕がある方角を〔北〕と定めるが、『魏志』倭人伝に「誤読=文献批判」を一点も加えなければ真実の日本列島地理はA図のごとく現在の日本地図の〔西〕を〔北〕と定めなければならないことになる。

前述したように、A図の成果によって『魏志』倭人伝のすべての文字と記事は[]という一つの事実に統合される仕組みになっていることが明らかとなる。

というのもC図右上に示す[]の一点に絞って考えると、直ちに学者たちが主張する邪馬台国説は〔完全なる誤読の空論〕であったと断定することができるからである。

◆C図右上に示す[]がキャッチできると、精密に緯度と子午線が測量できた。したがって[]がキャッチできると、D図に示す日本列島の西端に在る沖ノ島と東端にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であると測定できる。

しかし、〔天の北極〕の高度を緯度に換算する方法では日本列島の西端に在る沖ノ島と東端に在るはるかに遠く隔てる神津島が同緯度であることは測量できない――これは【科学】における事実であり、この事実は考古学の権威者はじめすべての古代史学者たちがこぞって“事実ではない。ウソだ”と反論しても否定することができない真理である。

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(C) 2014 OHKAWA

E図に示すように、中国の海岸線地域北部の気候は冷たいゆえ〔北冷〕となり、中国の海岸線地域の南部の気候は暖かいゆえ〔南暖〕となる。日本列島の西端の沖ノ島では冬に雪が降るゆえ〔西冷〕、日本列島の東端の亜熱帯地区の神津島は冬に雪が降らないゆえ〔東暖〕となる。だから、中国の海岸線地域の〔北冷〕と沖ノ島の〔西冷〕が合致し、中国の海岸線地域の〔南暖〕と神津島の〔東暖〕が合致するので――卑弥呼王朝は日本列島の〔東端〕は中国の海岸地域の〔南〕のほうに伸びているという、A図に示す錯覚の転回日本列島地理を制定したことになる。

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(C) 2014 OHKAWA

◆卑弥呼王朝は、E図に示す精密な中国海岸線地図を知っていた。

A図の錯覚の転回日本地理と33小国名と各小国の地図は――今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、名門益氏が日本列島に移住して夏代初頭以前の中国の歴史を伝え、精密中国海岸線地図と精密な地図作製方法を教え、夏音文字の学芸を根づかせた歴史によって成る遺産である。つまり、A図は名門益氏が日本列島に移住した足跡を明白に示すものとなる。

わがブログで解明し証明したように――司馬遷著『史記』五帝本紀に「帝舜(しゅん)の王朝において、虞()という精密中国海岸線地図の作成する官職を任命した」と記述された益氏は、夏本紀では「“夏の始祖”の帝禹()の後を継ぐ帝となった」と記載されている。しかし、禹の息子の啓(けい)は父の「五帝時代の多数の氏族の中で最も優秀な人物が帝位に就く氏族共同体制を存続せよ」という遺志を無視して、国家を樹立して帝位を啓の氏族が代々受け継ぐ世襲王朝体制を欲求した。そして諸侯は啓が主張する世襲王朝国家体制の意見に賛成して王朝を創設して帝益から去った。そこで、帝益は禅譲(ぜんじょう)して啓に帝位を譲り、隠居して帝禹の遺志を新天地・日本列島で受け継ぐ決意をした。帝益は老いて衰えていたので、中国と日本列島を隔てる荒波逆巻く大海を小舟で漕いで渡ることができる体力を失っていた。そこで、帝禹の遺志を受け継いで日本列島で氏族共同体制を存続させる事業は、筋肉隆々の太い腕を有する帝益の孫の王子(天祖)と若者たちによって成された。

ゆえに「虞」という「精密中国海岸線地図の作成の官職」に代々約200余年も従事した名門益氏は精密中国海岸線地図を携えて、日本列島の東北地方の男鹿半島・米代川縄文文化圏に移住して夏音文字の学芸をひろめた。

この精密中国海岸線地図と夏音文字の学芸を日本列島に根づかせた名門益氏の移住について司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「帝王となった益の子孫は、中国のどこの地に封ぜられたか不明である」と記載して、帝益の子孫は中国から忽然(こつぜん)と消えたと伝える。

『魏志』倭人伝には「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に到着すると皆自らを“大夫”と称す」という記事があり、「大夫」は万葉仮名では「ますらを」と読み、現在は「ますらお」を「益荒男」と表記する。「益荒男」は「益氏の王子(天祖)と若者たちは荒波逆巻く大海を越えて日本列島に移住した勇猛果敢な偉大なる男性」を略した語である。だから、中国に到着した倭の使者たちは皆「益氏の王子のごとく荒波逆巻く玄界灘を越えて到着した! よくやった」と自画自賛していたことになる。

◆C図右上に示す[]の一点に絞って考えると、学者たちが主張する邪馬台国説は直ちに誤読の空理空論となる。

A図とE図の上部に記す「玄界灘」という名が今日に伝えるように――2世紀末から3世紀半ばにおいて、〔天の北極〕を基準にすると緯度と子午線が不正確となって命を失って渡ることができないが、B図右上の〔[]をキャッチする方法〕ならば精密に緯度と子午線が測定できるので往来することができた波の荒い海――であった。

これゆえ、紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成して〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕を失った魏と帯方郡の使節は玄界灘を渡ることができなかった。だから、当時の日本列島の様子について記述する中国の正史『後漢書』倭伝末部には「所在絶遠にして往来すべからず」という文があり、この文は「中国の人々にとっては日本列島へ渡る海の道は遠く途中で絶えており、往来することができない」と証言する。

学者たちは玄界灘を渡ることができない〔天の北極〕がある方角を〔北〕と定める日本地図を立論基盤とする。ということは、倭の使節も玄界灘を渡ることが出来なかったことになる。そうすると魏・帯方郡と倭の使節は玄界灘を往来できなかったがために魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになり、約2000字で構成される『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていなかった白紙であったことになる。

このようにA図・E図の「玄界灘」の[](C図右上)という先頭字に一点を絞って考えると――学者が主張する邪馬台国説は約2000の文字が一瞬にして消滅して意見をまったく述べることができないナンセンス極まりない妄想となる。この妄想は直ちに学者たちが主張する邪馬台国説は誤読の空理空論であることを明確に示す。

以上のごとく、[]の一点に絞って考えると、学者たちが主張する邪馬台国説は直ちに誤読の空論となる。この〔結論〕が、わがブログの118131までを要約する総括である。

『魏志』倭人伝は、()33ヵ国の小国名、()15ヵ所の方位記事、()6ヵ所の「倭の使節は玄界灘を往来して魏と国交を結んだ」と伝える記事、()2ヵ所の「倭には文字があった」という記事から成る。

上記した()33ヵ国の小国名は、A図に示す各々小国の地宜と合致する。このような巨大な33の小国の地宜が精密に測量されるためには、倭国において〔[]のキャッチ〕が栄えていなければならないことになる。というのも、〔[]のキャッチ〕ができれば精密に緯度と経度が測量できるので、精密な地図が作製されて地宜を卑弥呼王朝が知っていることになるからである。卑弥呼王朝は33ヵの小国名と地図の形(地宜)の学術を反体制側が手に入れることを防ぐために、厳重な機密にして独占管理した。

現在の国土地理院が作製する精密日本列島地図は〔天の北極〕で経緯度原点を設置するものではない。国土地理院は、C図右上に示す〔[]すなわち天頂緯度と子午線〕を測定して精密日本列島地図の経緯度原点を旧東京天文台の子午儀の中心とする。

上記した()15ヵ所の方位記事には一点の矛盾点も不合理も生じずに互いに関連しあって一つの統合体=合理で組織されている。上記にて解説したごとく、A図の33小国の位置と範囲の解明は卑弥呼王朝が〔天の北極〕を重視して、〔天の北極〕がある方角を〔北〕と定めるものでなかったことを明白に示す。E図が明確に示すように卑弥呼王朝は――中国の海岸線地域の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕を一致させて〔日本列島の東は中国海岸線の南の方に在る〕とする錯覚の地理を制定した。このため、現在の日本地図で〈西〉にある九州は〔北〕、現在の〈東〉にある東海地方は〔南〕に位置したのである。

15ヵ所の方位記事には一点の矛盾点も不合理も生じずに相互に関連しあって一つの統合体つまり合理で組織されるのは、〔[]のキャッチに則る方位規定〕で統一されたからである。この方位規定を、私は「転回方位」と名づけた。[]の字源は「転回方位」をあらわすものであったから、卑弥呼がA図の転回日本地理を政権基盤にして統治した国号は「倭」となった。「転回方位」が[]の字源となることについて、わがブログ「日本が滅びる」の118131で繰り返して何度も解説し証明した。

《緯度を測定する方法》は二つあり、(1)C図右上に示す〔[]のキャッチ〕と(2)〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕である。前者の〔[]のキャッチ〕は精密に緯度と子午線が測量できるが、後者の〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕の緯度と子午線の測量は不正確である。

上記の()6ヵ所の「倭の使節は玄界灘を往来して魏と国交を結んだ」と伝える記事は、前述したように〔天の北極〕では玄海灘を倭の使節は往来できなかったことになるので、魏と倭は国交を結ぶことができなかったので『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていない白紙となるナンセンス極まりない空理空論となる。だから、卑弥呼王朝は〔[]のキャッチ〕を政権基盤にして最も重視していたのである。

上記の()2ヵ所の「倭には文字があった」と伝える『魏志』倭人伝の記事は――(1)「倭の易における卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如く」であり、「倭には殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん╱甲骨文字)の如き文字があった」と証言する。また(2)「卑弥呼の文書の文字は魏都・帯方郡・諸韓国の文字(楷書)と差錯(ささく╱相違)していたので、倭の伊都国の港では点検・確認して間違いがおこらないようにしていた」と伝える――この二つの記事である。

夏音文字は〔B図の銀河の各部の形状〕を〔字源・字形・字義〕とし、倉頡が定めた「書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない人物または消し忘れた人物は神罰が下って即刻死刑にする」という掟を厳重にまもったために書かれた文字が出土しないことになった。

『説文解字』が完成した後漢時代から楷書が出現し、著者の許慎(きょしん)は『説文解字』で「楷書も古代文字の字源、字形、字義は銀河各部の形状である」と解説するものであることは夏音文字と楷書が混じるA図の33小国名と地宜の合致によって証明される。ゆえに伊都国の港では、B図の銀河各部の形状を観て卑弥呼が用いる夏音文字と魏・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の字源・字形・字義を知って正しく変換していたのである。

もしも益氏の王子(天祖)と若者たちは〔天の北極を基準にする方法〕で大海を渡ろうとしたならば命を落として日本列島に渡ることができなかった。〔[]をキャッチする方法〕ならば、中国大陸から大海を越えて日本列島に移住できた。このように、()2ヵ所の「倭には文字があった」という記事もまた、〔[]のキャッチ〕によって事実が成立する。

以上のごとく、()33ヵ国の小国名、()15ヵ所の方位記事、()6ヵ所の「倭の使節は玄界灘を往来して魏と国交を結んだ」と伝える記事、()2ヵ所の「倭には文字があった」という記事はすべて〔[]のキャッチ〕の一つに統合され、そして4つの記事は【科学】が成立して事実となる。卑弥呼が居住した王国の所在地論は〔[]のキャッチ〕の一点に絞って考えれば、学者たちが主張する邪馬台国説は直ちに空理空論となる。

◆上記したように、わが国には原初漢字の夏音文字が伝来し、夏音文字と楷書の字源・字形・字義は銀河各部の形状であった。

わがブログ「日本が滅びる」では「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むのは夏音文字の字音であり、中国の正史『新唐書』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使は「後稍(のちやや)夏音を習う」すなわち「壬申の乱の後、稍々夏音文字を復興することにした」という記事があり、その10年後の712年に完成した『古事記』序はその全体をもって「夏音文字の伝来・習得、夏音文字の字源・字形・字義は銀河各部の形状である」と解説するものであり、夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく1字1音文字となって多数現存する。

また、夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名となって現存する。

わが国には夏音文字の遺跡・遺物は多数残っており、そのうちの代表例を挙げると――(1)益氏の日本列島移住の足跡を明確に残す秋田県鹿角市に所在する特別遺跡の大湯環状列石(おおゆうかんじょうれっせき)(2)F図の「卑弥呼」の地上絵(現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域をあらわす地図の形)は『魏志』倭人伝と同時代の3世紀後半に作成される。また、(3)現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形は「夏音文字は未だ習わず」と設計された3千万坪の大鳥の地上絵であり、(4)徳川幕府に命令された当時を代表する芸術家の小堀遠州が1623年から1645年まで23年間情熱を傾けて作成した桂離宮の庭園(京都市に所在する)は夏音文字の学芸を集大成する造園作品の傑作であり、(5)1738年に大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興して即位する天皇の頭上に掲げられることになった王冠も夏音文字の学芸を明確に示すものであり、(6)家々の神棚にある水器はA図に示す33小国の地図に保存された夏音文字の学芸の核心を造形する遺物である。

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要するに、学者たちが主張する邪馬台国説は完全なる誤読の空論であり、彼等は古代史学の基礎がそなわっていないために誤読の空論に陥ったのである。

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