日本が滅びる・133
「箸墓記事と天皇の王冠」シリーズのまとめ
●愛、あざやかに永遠であれ(70)・箸墓記事と天皇の王冠(36)
■先人たちは日本建国の〔愛〕の理念の抹殺を絶対にゆるさなかった
◆わがブログは「日本が滅びる・94」を「箸墓記事と天皇の王冠(1)」と題して、ところどころで数回脇道にそれたが、今回の(36)をもって「箸墓記事と天皇の王冠」の一区切りにしてまとめることにした。
◆わがブログ「日本が滅びる」は94~109回までにおいて、『日本書紀』巻第五の崇神(すじん)天皇紀にある箸墓(はしはか)築造説話に記述された被葬者について解明して――A図左上にある箸墓古墳(奈良県桜井市)に葬られた「倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめのみこと)」は、「崇神天皇の生母の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)」であることをつきとめた。
B図に示すように、箸墓古墳は纏向(まきむく)遺跡内に所在する。最近、邪馬台国畿内説を主張する学者たちはじめ朝日新聞などが、箸墓は卑弥呼の墓であり纏向遺跡が邪馬台国であるかのごとくのデマを流布しているが――前回のわがブログ「日本が滅びる・132」にて解説・証明したように〔[玄]のキャッチ〕一点に絞って考えれば箸墓・卑弥呼の墓説と纏向遺跡邪馬台国説は直ちに誤読の空論であることが明白となる。
纏向遺跡は初期大和政権の発祥の地である。ゆえに、初期大和政権は皇室が至高神と崇拝した大和王朝の基礎を築いた皇祖・天照大御神の政権であったことになる。したがって、生母の伊香色謎命と息子の崇神天皇が、『古事記』と『日本書紀』に登場する「天照大御神」であった。だから、箸墓は皇祖の天照大御神(伊香色謎命)を葬った墓であった。ゆえに、箸墓は3世紀最大の前方後円墳(全長約280メートル、高さ約30メートル)となった。
わがブログ「日本が滅びる・116」で詳細に解明したように、『日本書紀』崇神天皇紀は「天皇は開化(かいか)天皇の第二子」と記すが、第9代開化天皇の実子ではない。第10代崇神天皇の実父は開化天皇の実父である第8代孝元(こうげん)天皇である。ゆえに、崇神天皇は開化天皇の異母弟となる。このため、『古事記』は開化天皇の第二后となった伊香色謎命(伊迦賀色許売命)を「開化天皇の継母」と記す。
『日本書紀』孝霊(こうれい)天皇紀は、崇神天皇の父孝元天皇の異母妹の名も「倭迹迹日百襲姫命」と記す。崇神天皇の叔母の名も「倭迹迹日百襲姫命」であったゆえ、伊香色謎命は崇高天皇の叔母「倭迹迹日百襲姫命」の名を襲名したことになる。だから、『日本書紀』崇神天皇紀は倭迹迹日百襲姫命(伊香色謎命)を「天皇の姑(おば)」と記した。
崇神天皇は叔母(姑)の倭迹迹日百襲姫命のために箸墓を築造したのではなく、生母の伊香色謎命のために築造した。崇神天皇はA図の中央下の「師木(しき)の水垣宮」(『古事記』は「礒城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)」に居住した。箸墓は師木の水垣宮から直線距離で北北西約1.8キロメートルのすぐ近くに所在するのは、箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の叔母ではなく生母の伊香色謎命であったからである。
◆師木の水垣宮趾と箸墓を結ぶ線をさらにそのまま延ばす北北西18キロメートルの遠い地点(奈良県奈良市油阪町)に、崇神天皇の養父の開化天皇陵が所在する。開化天皇陵は全長約105メートル、高さ8.5メートルの前方後円墳である。開化天皇陵は崇神天皇の生母(伊香色謎命=天照大御神)が葬られた箸墓(全長約280メートル、高さ約30メートル)よりもはるかに小規模である。しかも墳丘規模などから、開化天皇は5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。つまり、天照大御神=崇神天皇は養父の開化天皇から譲位されたにもかかわらず、養父の陵墓を築造しなかったことになる。
この理由は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国方面説話に登場する「伊耶那美神命」は「崇神天皇の生母の倭迹迹日百襲姫命=伊香色謎命=天照大御神」であったからである。
「伊耶那美神命」はC図・D図に示す和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社に祀られる主神の「天照大御神」つまり「崇神天皇の生母の伊香色謎命」であったことは、わがブログ「日本が滅びる・116」で証明した。
『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の主人公の伊耶那岐命は、若き日の開化天皇であり、伊耶那岐命=開化天皇は示す小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった。
◆『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚した。継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと╱『日本書紀』は「伊香色謎命」と記す)と結婚して生まれた御子は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)すなわち崇神天皇である」と記述する。
開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」は、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字である。ゆえに、開化天皇は若き日に人民に「伊耶那岐命」と愛称されていたことになる。
わがブログ「日本が滅びる・124」で詳細に解明したように、旧国の「丹波」は『魏志』倭人伝に記載された小国「伊邪国」であった。[邪]と[耶]は同字であるので、「伊耶那美命」は「伊邪那美命」ということになる。したがって、伊耶那岐命・開化天皇の正妃の丹波の大県主の娘の「竹野比売」は人民に「伊耶那美命」と愛称されていたことになる。わがブログ「日本が滅びる・124」の末部で証明したように、「伊耶那美命」は『魏志』倭人伝末部に登場する「倭女王の壱与(いよ)」でもあった。
伊耶那美命=竹野比売は日本建国の〔愛〕の理念を提唱した。ゆえに、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序の初頭の「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)と為(な)る」という文で「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命がここに〔愛〕の花が咲くようにわが国を開化なされ、二神がわが国のすべてのものの生みの親(先祖)となったのです」と伝える。
しかるに、現在出版される学者たちが『古事記』上巻を訳する本はすべて天照大御神をわが国における至上神であると賞賛し、伊耶那美命と伊耶那岐命を日本のすべてを誕生させた最も偉大な先祖であると解釈しない。この解釈・見解が明白に示すように、学者たちが訳する『古事記』上巻の書物はすべて誤読・誤訳・誤解の産物である。
◆上記した太安万侶が『古事記』序の初頭において「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に関して説明するものであった。この説話では〔事実に反する伊耶那美神命という名で事実は天照大御神であるとあらわす方法〕の〔反実仮装(はんじつかそう)〕を用いている。ゆえに、安万侶は読者に「慎重に、深く思考して読解するように。ゆめゆめ早合点して伊耶那美神命を伊耶那美命と誤読・誤訳・誤解するなかれ」と注意・警告するものであった。
わがブログ「日本が滅びる・18」にて、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の正しい現代語訳を掲載した。
この正しい現代語訳語を要約すると、下記のごとくなる。
◆伊耶那岐命=開化天皇の正妃の倭女王伊耶那美命の亡き後を、伊耶那美神命=天照大御神(伊香色謎命・倭迹迹日百襲姫命)が受け継いだ。伊耶那美命の陵墓は、D図に示す黄泉国=熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)に築造されることになった。この時、前年に卑弥呼の墓を作った時におこなった百余人の奴婢(ぬひ╱18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たち)を殺す徇葬(じゅんそう)を、天照大御神は再度決行した。この徇葬を、『古事記』は「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と書く。生前において伊耶那美命は八雷神=徇葬儀式に猛反対し、徇葬禁止は伊耶那美命の遺志となった。
伊耶那岐命(開化天皇)は、E図に示す小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった。ただし、E図の左下の「遠江」は小国・日本に属さず、倭国に属する小国「不呼(ふこ)国」であった。
伊耶那岐命が小国・日本の軍王であったのは、伊耶那美命が『魏志』倭人伝末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、十三にて王と為(な)るしを立てて」と記述された「十三歳で小国・日本の女王に即位して赴任した壱与」であったからである。つまり、小国の日本の女王・伊耶那美命=壱与と伊耶那岐命は結婚したゆえ小国・日本の軍王となったのである。
伊耶那美命は、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。これゆえ、伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命は倭女王に即位すると、〔愛〕の理念に真っ向から背く徇葬=八雷神の儀式に猛反対した。
ところが、伊耶那岐命の第二后の天照大御神は〔強大な権力〕を国作りの柱にすべきであると考えた。徇葬=八雷神の儀式は倭国の威信を賭けて雷神に雨乞い祈祷するものであるので、最もたくましく18歳くらいの青年と暗い銀河部までよく見える最も澄んだ瞳を有する13歳くらいの乙女を犠牲(いけにえ)にして豊かな農作物の実りを天神(銀河)に祈願するのは国家と王朝の当然の権利であると、天照大御神は考えた。したがって、天照大御神は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し敵視して、伊耶那美命の遺志を故意に無視して八雷神儀式を陣頭指揮したことになる。
伊耶那美命を愛する伊耶那岐命は伊耶那美命の遺志を侮辱する八雷神儀式に憤激し、熊野に住む戦士たちの協力を得て伊耶那美命を敬愛する配下の日本兵(ますらお)たちの怒りの先頭に立って倭女王・天照大御神王朝を倒すクーデターを挙行した。
伊耶那岐命たちは伊耶那美命の陵墓の玄室から棺(ひつぎ)を奪い、日本軍の兵士たちが神輿に担ぎ、他の日本兵は松明(たいまつ)の灯で真っ暗な熊野路を明るく照らして神輿を担ぐ兵士たちが転ばぬようにして逃走した。伊耶那岐命一行は黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本=現在の熊野速玉大社の境内(D図参照)を目指した。この黄泉比良坂の坂本には、日本軍の本隊と熊野の戦士たちが待機して潜んでいた。松明の灯に誘導された天照大御神の命令で伊耶那岐命一行を追跡する政府軍の千五百之黄泉軍(ちいほのよもついくさ)は、黄泉比良坂の坂本で伊耶那岐軍に大敗して逃げ返った。
驚いたことに、女のか弱い足で夜の熊野路を天照大御神自らが追跡してきた。天照大御神は伊耶那岐軍の兵士に捕らわれて、黄泉比良坂(よもつひらさか)=D図に示す神倉神社の急坂な参道を登るとさらに続く参道を塞(ふさ)ぐ千引石(ちびきのいわ)の前に連行された。この「千引石」は現在の神倉神社の御神体となる「ごとびき岩」である。「ごとびき岩」は「岩に綱を縛って千人で引っ張ってようやく動くような巨大」であるから「千引石」と名づけられた。この千引石の前の空洞で伊耶那岐命は、天照大御神を待っていた。
千引石の前で伊耶那岐命は天照大御神と対(むか)いあった時に、離縁を言い渡した。
この離縁に怒った天照大御神は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と誓った。
この天照大御神の「千頭絞り殺さむ」という言は、F図の「狭い子宮頸管(しきゅうけいかん)で千人の胎児の頭を絞め殺す」と意味した。ゆえに、天照大御神の言は「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民の母親たちの子宮頸管が狭くなるように呪って、一日に千人ずつ胎児の頭を絞め殺す」と誓ったことになる。
そこで伊耶那岐命は「吾一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と誓い、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を継承すると表明した。
この伊耶那岐命の誓いによって、わが国は一日に千人死んでも、一日に必ず死人に勝って千五百人が生まれることになったので人口が減少するような事態にはならなくなった。これゆえ、伊耶那美神命は黄泉泉大神(よもつおおかみ)と名づけられた。亦の名は、伊耶那岐命に追いついたことによって道敷(ちしきの)大神となった。また黄泉比良坂(神倉神社の参道)を塞ぐ石は道反之(ちかへしの)大神と名づけられ、亦の名は黄泉戸(よみどの)大神とも言う。ゆえに、そのいわゆる黄泉比良坂は、今(『古事記』が完成した712年当時)「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」と言われている。
◆701年の6月29日~7月10日、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念の抹殺を画策して天照大御神を皇祖と定める持統上皇は吉野宮行幸をおこなった。この行幸の途中で、柿本人麻呂は持統上皇に抗議して吉野川に入水(じゅすい)自殺した乙女たちと遭遇した。この乙女たちは熊野那智大社に祭られる伊耶那美命を敬愛して身を投げて抗議するものであった。この事件を詠んだ和歌が『万葉集』429番・430番の「溺(おぼ)れ死にし出雲の娘子(をとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る和歌二首」である。この二首の和歌は『古事記』が完成する11年前、「熊野」は「出雲」と呼ばれていたと証言する。ゆえに、『古事記』伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部の「今出雲国の伊賦夜坂と謂う」という文は「今、熊野の黄泉比良坂(神倉神社の参道)は伊賦夜坂といわれている」と伝えていることになる(この証明はわがブログ「日本が滅びる・19」で詳細に解説した)。
◆黄泉比良坂の産道を塞ぐ千引石=ごとびき岩は、天照大御神を主神と祭る神倉神社のご神体である。だから、「伊耶那美神命」は「倭女王から失脚された天照大御神」であり、「箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命」であり、「崇神天皇の生母の伊香色謎命」であった。
現在、欧米・わが国では資本主義・自由経済の政治機構の基に貧富の格差が拡大し諸々の障害が生じていずれ対立が激化するような状況となる。香港では共産主義一党の中国政府に反発して学生たちが自由を求めて対立する。このような現在の対立のごとく、伊耶那美命の没後(3世紀後半)から江戸時代まで、わが国では天照大御神王朝の政策を模範にして強大な権力を求める王政と日本建国の〔愛〕の理念を政治の基本とすべきと欲求する反王政勢力が対立することになったのである。
◆上記したように、崇神天皇は開化天皇の異母弟であった。このため、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する黄泉比良坂の坂本(熊野速玉大社の境内)で伊耶那岐軍に大敗した千五百の黄泉軍の大将は崇神天皇であった可能性が大となる。
ゆえに伊耶那岐命に倭女王の地位を奪われた天照大御神=倭迹迹日百襲姫命(伊香色謎命)と崇神天皇王朝は、伊耶那岐命を憎悪して開化天皇陵を築かなかったのである。
黄泉国クーデターを怨み開化天皇が復讐の連鎖を絶つために大王の地位を譲った恩を忘れて天照大御神・崇神天皇王朝は千引石の前で「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民への祟(たた)りを基本政策と定めた。
この天照大御神・崇神天皇王朝の基本政策は、『日本書紀』崇神天皇紀の箸墓築造記事において象徴と暗喩(あんゆ)を用いる秘義(抽象的な表現)で示された。
わがブログ「日本が滅びる」の94~109までで詳細に解説して証明したように、箸墓記事に登場する「櫛笥(くしげ)に入る小蛇(こおろち)」は天照大御神・崇神天皇王朝の基本政策である「日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民の母親たちの子宮頸管が狭くなるように呪って、一日に千人ずつ胎児の頭を絞め殺す祟り」を表現するものであった。
A図に示す天照大御神・崇神天皇王朝の宮殿(師木の水垣宮)の東北に、箸墓築造記事に登場する御諸山(みもろやま╱三輪山)が所在する。この三輪山頂上付近には、G図に示す奥津磐座(おくついわくら)がある。この奥津磐座の主石は、F図を参照すれば「狭い子宮頸管(F図)で頭を絞め殺される胎児」であることが察知できるように、H図の2図で示すように天照大御神が千引石の前で「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った祟りを表現する石像である。
わがブログ「日本が滅びる・100」で指摘したように、A図の狭井(さい)神社の社名先頭字の[狭]は「狭い子宮頸管」をあらわす。この狭井神社は、A図では大神(おおみわ)神社の右手に所在する。A図の大神神社と三輪山を線で結ぶと、右手にあったはずの狭井神社は左手側に移動する。
I図は大神神社と三輪山頂上を視線で結ぶと、右手→左手に移動することになる狭井神社図である。このような〔狭井神社と三輪山頂上を結ぶ線だと大神神社は右(東側)に在るのに対して、大神神社・三輪山頂上を結ぶ線では狭井神社が右から左へと移動する――この(1)狭井神社・三輪山を結ぶ糸と(2)大神神社・三輪山を結ぶ2本の糸が交わる状況〕は、千引石の前で誓った天照大御神の「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」という呪いにある[絞]の字をあらわす。
大神神社には社殿がなく拝殿のみしか所在せず、拝殿の奥に三つの鳥居があり、その向こうに大神神社の神体山の三輪山がある。だから、拝殿から三輪山を眺めて参拝する人々は天照大御神の祟りを知らずに天照大御神の霊に代わって日本建国の〔愛〕の理念を呪うことになる。
◆G図中央に示す三輪山の頂上付近の奥津磐座の主石は、天照大御神の千引石の前で「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った祟りをあらわす「櫛笥に入る小蛇の神体像」であった。このため、三輪山は神宿る山とされ、常人は足を踏み入れることのできない禁足の山となり、この秘密を江戸幕府は知っていた。ゆえに、江戸時代にあっては幕府より厳しい政令が設けられ、神社の山札がないと入山できなかった。明治以降はこの伝統にもとづき「入山者の心得」なる規則が定められ、現在においてもこの規則に従えば誰にでも入山できるようになった。入山を希望する者は、狭井神社の社務所で許可を得なければならない。そこで氏名、住所、電話番号を記入し入山料(300円)を納める。行程は上り下り約4キロメートルで、通例は2時間ほどで下山できるが、3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。この規則は奥津磐座を長時間見学した人が一角にある石像は『古事記』に記述された天照大御神の千引石の前の誓いを表現する偶像であることに気づいて、この石像を破壊しないように後世まで歴史的遺物として残す江戸幕府の対策によるものであったと考えられる。また、山中では、写真撮影、飲食や喫煙の一切が禁止され、下山以降も山で見た情報を他人に話すことを禁止されている。このような規則が示すように、奥津磐座にある石像は箸墓築造記事に登場する「櫛笥に入る小蛇」をあらわすものであり、天照大御神の日本人民への祟りをあらわす神体であったのである。
◆以上のごとく、H図に示す三輪山の奥津磐座にある石像は天照大御神の祟り【産道に潜(ひそ)む小蛇の悪霊に頭を絞め殺された日本人の胎児の無惨な姿】をあらわすものであった――この秘密は、J図に示す1738年(元文3)に本格的に復興した大嘗祭(だいじょうさい)における天皇即位式に用いられる王冠=菅蓋(おかんがい)によって明らかとなる。
K図に示すように、天皇の王冠の上の飾りはL図の【「卑弥呼」の地上絵】(現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形)をデザインするものであり、下の菅笠(すげかさ)は家々の神棚にある【日本建国の〔愛〕の理念】を表象する【水器(すいき)の蓋(ふた)】を造形する。下の飾りは【水器の蓋】を造形するものであるので、天皇の王冠の名称は「菅(すげ)」に「蓋」が加わる「菅蓋」となった。
【日本建国の〔愛〕の理念】は熊野の那智の大滝の精霊となる伊耶那美命が提唱した。那智の大滝の正面には、M図に示す三体の神具がある。この三体の神具のうち、下段の滝に向かって左側の盤(ふね)には水器と富士山の形をした神具が載る。前述したように、E図は13歳の伊耶那美命が女王として赴任した富士山周辺の小国・日本の範囲を示す(この小国・日本の範囲は『万葉集』巻二十の防人歌(さきもりうた)の作者の出身国で示される)。
K図に示すように、L図の【「卑弥呼」の地上絵】は天皇の王冠の上の飾りのモデルとなり、【夏音文字と楷書の字源・字形、字義は秋の銀河と夏の銀河各部の形状である】とあらわした。「卑弥呼」の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に記載される遠江国造(とうとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が天照大御神の「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」という呪いを憎悪して、【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために、“愛、あざやかに永遠であれ”と願って260年~290年に作成した。だから、三輪山の奥津磐座にある石像は天照大御神の祟り【産道に潜む小蛇の悪霊に頭を絞め殺された日本人たちの胎児の無惨な姿】をあらわした。
◆前回のわがブログ「日本が滅びる・132」で指摘したように――“文献批判”という名の先入観を抱く前に、(Ⅰ)先人が著作した文献の記事を忠実に読解し、(Ⅱ)【科学】が成立する意見を立論することが古代史学の原則であり、初歩的心得であり、鉄則である。この古代史学の基礎がそなわっていないために、学者たちは邪馬台国説と同様に『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記載された日本神話を誤読して空論に陥ったのである。
次回のブログから、学者たちが文献批判=誤読を駆使してことごとく排除した日本人にとって最も重大な歴史、つまり日本人が日本人として生きるためにどうしても【日本建国の〔愛〕の理念】は必要であると欲求してついに皇室は天皇の王冠の意匠でその願望をかなえた【ますらおたちの抵抗の歴史】について解説する。
この準備のために、次回は7~10日間くらいブログの掲載を休止させていただく。
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