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2014年10月20日 (月)

日本が滅びる・135

すべての日本国民は真実の日本国誕生史を知る権利がある

ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(2)

 

■呉軍の東鯷人遠征と小国・日本の誕生史(1)

 

208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。

20095月と9月に、巨匠ジョン・ウーが監督する映画「レッドクリフ」の1部と2部が上映された。この映画名は「赤壁」を英語で「レッドクリフ」とよぶことにしたもので、赤壁の戦いを克明に描いていた。わずか5万の呉・蜀の連合軍は80万の曹操(そうそう)が率いる魏の大軍を撃破して劇的な大勝利となった。映画でも描いたように、呉・蜀の連合軍を勝利に導いた中心的役割は2万の呉の水軍が担(にな)った。

当時、中国は魏・蜀・呉の3国に分かれていたが、図Aに示すように、魏の北隣の背後に4番目の国として公孫淵(こうそんえん)が魏の持節(じせつ・揚烈(ようれつ)将軍・遼東大守(りょうとうたいしゅ)となって治める燕(えん)が所在した。

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(C) 2014 OHKAWA

B図は、赤壁の戦いから21年後の229年当時の中国における三国の敵・味方の様子を示すものである。呉と蜀は魏を倒して天下を二分すると誓約する軍事同盟を結び、魏は蜀の背後の脅威となる大月氏国と燕の背後の脅威となる卑弥呼が統治する倭と軍事同盟を結んでいた。

229年、孫権(そんけん)は呉の皇帝に即位した。孫権は、魏の背後の燕の軍が魏に反旗をひるがえして呉と蜀が前面から攻撃すれば魏は倒れると考えた。そこで、公孫淵が魏帝につかえる配下の地位にいることに不満を抱いているにちがいないと考えた孫権は、密使に託して公孫淵に「燕王(えんおう)」の地位を与えると約束した。しかし、公孫淵はこの説得に応じなかった。上のB図が示すように、燕の背後には魏と軍事同盟を結ぶ東夷(とうい)の大国の倭が存在したからである。公孫淵は、呉・蜀の天下二分連合国と同盟を結ぶ動きを魏に察知されれば、魏と倭の挟(はさ)み撃ちにあってみずからの命を失い燕が滅亡すると心配した。だから、孫権が派遣した密使の説得を、公孫淵はことわった。

中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は、倭の隣国は「東鯷人(とうていじん)国であった」と記述する。この「東鯷人国」をこれより以後、略称を「東鯷国」とする。

B図に示すように、東鯷国は倭国の背後に所在する。孫権は――東鯷国に水軍を遠征すれば、東鯷国が呉に占領されると東鯷国が倭の背後の脅威となるゆえ、倭の卑弥呼王朝は必ずや多数の兵を東鯷国へ出動させるにちがいない。そうなれば、魏の要請があっても倭は燕を挟み撃ちにする戦いに少数の兵しか送ることができない。したがって倭は燕の背後の脅威にはならないという説得に公孫淵は納得して味方(呉・蜀二分連合国側)に加わるにちがいない――と考えて呉の水軍の東鯷国遠征を企てた。

『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜(こうりゅう)2年(230)、皇帝の孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷国への遠征を命じた。このときの武装兵は1万」と記述する。

◆『後漢書』倭伝末部に東鯷人国の記事がある。この記事を注目すると、孫権が1万の水軍に遠征を命じた東鯷国はどこであったか明確にわかる。この記事を5つに分けて列挙すると下記のごとくなる。

Ⅰ 東鯷国は、倭国の陵地のいちばん奥となる黒歯(こくし)国の方に所在する

Ⅱ 呉の会稽(かいけい)から海に入る、その外に東鯷国がある

Ⅲ 秦(しん)の始皇帝の代(紀元前221-同206)に、方士(ほうし)の徐福(じょふく)が童(どう)男女(若い男女)数千人を率いて海に入ったが、始皇帝が探して来るように命じた蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の霊薬を発見できなかった。徐福は死刑となるのをおそれて帰国せず、東鯷国に定住した。この子孫が、現在(3世紀)、数万家となっている

Ⅳ 東鯷人は大海を渡って来て呉の会稽で定期的に交易をしている

Ⅴ 東鯷国が所在する日本列島はあまりにも遠く途中で海の道が絶えるので、中国の人々には往来することができない

 

Ⅲの記事について、熊野地方史研究会・新宮市立図書館編『熊野誌』第36号の【徐福研究特集号】(1990年発行)で下村巳六(しもむらみろく)氏は「徐福は富士山麓の阿曾谷小室(あそやこむろ╱現在の山梨県河口湖附近)の家基都(かきつ)に到着して、この家基都で没した」と指摘する。また、奥野利雄(おくのとしお)氏は「長男の福永(栄╱ふくえい)が後を継ぎ、山梨県の富士吉田市に居り、次男の福萬(ふくまん)は熊野に在住した」と指摘する。

山梨県富士吉田市は、上記のⅠの記事に合致して倭地の奥の方に位置する。だから、徐福が定住した家基都が所在した山梨県・河口湖附近は東鯷国であったことになる。

ⅡとⅣの記事に登場する呉の会稽から日本列島へ渡る航路は、C図に示すように二つしかない。その一つは、台湾→与那国島→石垣島→宮古島→北大東島・南大東島が所在する広大な太平洋→火山列島の南硫黄島・硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸島→東海・関東地方に到着する海の道である。この海の道を、C図に記すように「伊豆諸島ルート」と呼ぶことにする。もう一つのルートは、台湾から東北へ進む、つまり台湾→南西諸島→九州南部に到着する海の道である。この海の道を「南西諸島ルート」と名づける。

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(C) 2014 OHKAWA

C図に示すように、南西諸島ルートは近回りのルートとなる。ゆえに、南西諸島ルートは上記のⅤの記事に対して不合理となる。燕地へ密使として派遣された呉の使者や兵士たちは、山東半島から遼東半島までの渤海(ぼっかい)を三度往来した。この渤海を往来した南北距離は、南西諸島ルートの島から島への最長距離と等しい。だから、南西諸島ルートならば呉軍は東鯷国までの海の道を往来できたことになるので、呉軍の針路は南西諸島ルートではなかったことになる。

いっぽう、伊豆諸島ルートならばⅤの「遠くて海の道が途中で絶たれている、中国の人々が往来できない」という記事に合致する航路となる。宮古島から硫黄島までは広大な太平洋となり、D図に示すように、その距離はおよそ1,650キロメートルである。D図に示すように、宮古島と硫黄島は同緯度で北緯2445分である。その天頂緯度は「+赤緯(せきい)2445分」であり、これまでわがブログ「日本が滅びる」で何度も何度も繰り返して解説したようにE図の右上の〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を有する人々ならば、+赤緯2445分の天頂緯度線が測量できる。だから東鯷人たちは〔[]をキャッチする眼力と技〕を有していたということになり、ゆえに1,650キロメートルも遠く離れる太平洋の海の道を往来できたことになる。いいかえると、〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕では精密に緯度を測定できないので、約1,650キロメートルも離れる+赤緯2445分の天頂緯度線を測定できないゆえ広大な太平洋の海の道を往来することができなかったことになる。

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(C) 2014 OHKAWA

 東鯷国では倭国と同じく、紀元前1世紀に完成した〔天の北極〕を最も重視するシナ天文を習得していなかった。上記のⅢの記事となった徐福が生存した紀元前3世紀、シナ天文が未完成であったため〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が廃絶(はいぜつ)されていなかった。ゆえに、徐福と童男女たち一行は〔[]をキャッチする方法〕で大海を渡って日本列島へ移住した。

1,650キロメートル離れる太平洋の海の道について、上記したように『後漢書』倭伝末部は「中国の人々には所在絶遠(ぜつえん)にして往来すべからず」と明記する。

だから、東鯷国は中国の人々が往来することができなかった伊豆諸島ルートで到着できる、徐福が定住した山梨県がある東海・関東地方であったことになる。

このように、〔[]のキャッチの科学〕の一点に絞って考えれば、呉の1万の水軍が遠征しようとした東鯷国は東海・関東地方であったことが容易に明らかとなる。

◆他方、南西諸島ルートだと呉軍は南九州の海岸に上陸することになるので、呉軍は南西諸島ルートを遠征するものではなかったと断定できる。

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(C) 2014 OHKAWA

 それというのも、F図が示すように南九州に到着した呉軍は倭地を横断することになるので倭の多くの小国軍と激戦を交して倭地を突破し、ようやく倭の奥にある東鯷国に到着しても戦うことになる。さらに帰路においても、また倭の各小国の軍と戦いながら倭地を横断して南九州の海から帰還しなければならない。このような戦略だと呉軍の本隊が南九州にもどってくる間に、倭軍は南九州に停泊した少数の兵がまもる呉軍の船団を攻めてすべての船を沈没させる作戦を実行する。それゆえ呉軍は常に倭の小国軍と東鯷軍に包囲されて戦うことになるので兵士の消耗ははなはだしいうえに、呉軍は船を失って帰還することができない羽目になる。このような遠征を立案する以前から目的が達成されずに大失敗すると断定できる愚劣きわまりない作戦を孫権が考えるはずがない。中国史上最高の軍事戦略家と評された諸葛孔明(しょかつこうめい)と互角に渡りあった英才孫権が、こんな無茶で無謀な戦略を立てるはずがない。

だから、呉軍の遠征ルートは明らかに南西諸島ルートではなかった。

C図に示した伊豆諸島ルートならば、呉軍は倭地を横断しないで、直接に徐福の子孫が居住した山梨県がある東鯷国(東海・関東地方)に到着できる。

21年前の赤壁の戦いにおいて2万の呉の水軍は、80万の魏の大軍を撃破した。ゆえに、東鯷国へ遠征する1万の水軍は、ザックリ言えば赤壁の戦いにおける40万の魏の大軍に匹敵した。つまり公孫淵を味方に引き入れる説得のために孫権は、40万の魏軍に匹敵する戦力を示す呉の1万の水軍に東鯷国遠征を命じたことになる。孫権は――遠征軍が東鯷国の海に出現すれば、東鯷国の人々は恐怖に陥(おちい)るにちがいない。そして東鯷国王は、倭の卑弥呼に支援を要請するにちがいなく、倭は呉軍に東鯷国を占領されることは倭国の脅威にもなって国が滅亡する危機に瀕することになるので、多数の兵士を東鯷国防衛のために出動することになる――と戦略を立てていたことになる。だから、呉の遠征軍は一兵も上陸しないで東鯷国の海上に出現して停泊したままでいれば、その厳めしい不気味な艦隊の様子は東鯷国の人々を恐怖のどん底に陥(おとしい)れることになるので、呉の水軍は遠征の目的を達成したことになる。したがって、孫権は東鯷軍と一戦も交えずに帰還せよと命令していたことになる。というのも、B図が示す前面から呉・蜀連合軍が背後から公孫淵が率いる燕軍が魏を挟み撃ちにして倒すための大戦において、呉の1万の遠征軍は重大な戦力であった。だから、東鯷国との戦いのために一人の兵士も死なせるわけにはいかなかったはずである。

以上のごとく、上記のⅠ~Ⅴまでの5つの記事に対して南西諸島ルートはまったく不合理であるが、伊豆諸島ルートならば合理となる。

したがって、東鯷国は伊豆諸島の北側の霊峰富士が見える東海・関東地方一円であったと断定できる。

◆ところが、孫権の戦略には大誤算があった。『後漢書』倭伝の末部が「所在絶遠にして往来すべからず」と明記するように、呉の水軍は東鯷国の海に到着できず、大海に惨敗することになった。

 呉の1万の遠征軍は大海に入るや直ぐに緯度と方角を見失い、8割から9割の兵士たちは大海に消えて壊滅した。遠征軍の将軍衛温と諸葛直は“功無かりき”という罪によって誅殺(ちゅうさつ)された。

前述したように――中国では紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成して、E図に示す〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れていた。東鯷人が大海を渡って定期的に呉の会稽にやって来て交易することができるならば、孫権は呉の水軍の〔天の北極の高度を緯度に換算する航法〕でも大海を往来できると思い込んだのではあるまいか。
 今回の135回までのわがブログ「日本が滅びる」で何度も何度も繰り返して指摘したように、シナ天文が最も重視した〔天の北極=太一(たいいち)〕の高度を緯度に換算する方法だと、E図に示す〔[]のキャッチ〕と相違して精密に緯度と子午線が測定できない。このため、〔天の北極で緯度と子午線を測量する方法〕で大海に入ると直ぐに8割から9割の兵士たちは海原をさまようことになって、呉の遠征軍は壊滅した。
 3世紀、東鯷人や倭人が有していた〔日々鍛錬した[]をキャッチする眼力と技〕ならば大海を往来することができた。ところが紀元前1世紀に完成したシナ天文のために、呉の遠征軍の将軍はじめ兵士たちは〔[]をキャッチする眼力と技〕を鍛錬するものではなかったため、およそ1,650キロメートルの広大な太平洋上において位置(緯度)と子午線(方角)が不明となって海の道が絶たれた8割から9割の兵士たちは大海の藻屑(もくず)となって死滅したのである。

このような〔[]をキャッチできれば大海を往来できるが、天の北極では大海を往来できないという科学の絶対法則〕に、呉の遠征軍は敗れて壊滅した。

◆編年体の歴史書『資治通鑑(しじつがん)』は中国の北宗の司馬光が1065年の英宗の詔によって編纂して1084年に完成させた。

この『資治通鑑』は孫権が1万の武装兵に東鯷国への遠征を命令した目的について「其の民を俘(とりこ)にし以て衆を益()さんと欲す」と記載する。

この記事は誤っているが、呉が東鯷国遠征の失敗を誤魔化すために流した偽りの情報が史料となって『資治通鑑』に記されることになったと考えられる。

呉軍の東鯷国の遠征は魏が倭国に伝え倭から東鯷国王に届いたものなのか、あるいは定期的に呉の会稽で交易をした東鯷人が東鯷国王に伝えたものかは不明であるが、『魏志』倭人伝末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三にて王と為()る」という記事が存在するように、13歳の壱与が東鯷国防衛の女王となって赴任することになった。

東鯷国王も卑弥呼も『資治通鑑』に記載された情報――つまり、孫権は呉の人口を増やすために東鯷国の人民を捕虜にして魏を倒さんと考えて再度遠征するのではないか――という情報に惑わされたのであろう。また両人は――呉の遠征軍の将軍や兵士たちは〔紀元前1世紀以前の[]をキャッチする眼力と技〕を有しているのではあるまいか、また〔太一(天の北極)の測量〕でも大海を渡ることができるのではあるまいか――と考えた。だからこそ、13歳の壱与が東鯷国防衛の女王に選ばれて赴任することになった。

◆わがブログ「日本が滅びる・96」の後半で詳細に解説して証明したように、「壱与」は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「伊耶那美命」であった。つまり、「壱与」は夏音名(夏音文字による名称)であり、「伊耶那美命」は人民が敬愛して呼んだ愛称であり、本名は「竹野比売(たかのひめ)」であった。

『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇の正妃の竹野比売は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘である」と記す。

わがブログ「日本が滅びる・124」で証明したように、竹野比売の出身国の「旧国の丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)」は『魏志』倭人伝で12番目に記される小国「伊邪(いや)国」であった。[][]を同字であるので、「伊耶那美命」は「伊邪那美命」となる。人民は「伊耶国出身の美しい女王」を略して、「伊耶那美命」と愛称していたのである。

わがブログ「日本が滅びる・96」で指摘したように、竹野比売の出身国の伊耶国は“霧の丹波”と呼ばれて霧の深い地として有名である。伊耶那美命は、丹波のごとく霧深い山中にある那智の大滝の精霊となった。伊耶那美命は那智の大滝の精霊であったゆえ、最初は本殿が設けられずに拝所だけであった。

伊耶那美命は熊野那智大社の主祭神である。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三熊野(みくまの)には“牛王神璽(ごおうしんじ)”と呼ばれる悪魔退散、陰陽和合の護符(ごふ)がある。三熊野では年の初めに牛王神璽を刷る神事が現在も残り、G図の熊野那智大社の牛王神璽は最も古い形式を伝える。

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◆三熊野の牛王神璽のデザインは各々異なる。しかし、G図の那智大社の牛王神璽と同じく、本宮大社・速玉大社の牛王神璽の中央にも「日本第一」の4文字が配置される。この三熊野が共通する「日本第一」という4文字は「伊耶那美命・壱与は13歳の時、東鯷人国から国号を日本と改めた小国の女王となって赴任した」とあらわしている。

また、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の末部には「むかし、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、この国を目(なづ)けて、日本は浦安(うらやす)の国、細戈(くわしほこ╱精兵)の千足(ちた)る国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまのくに)、〔秀真国、これを袍図莽句儞(ほつまのくに)と云った〕と仰せられた」という記述がある。

だから、伊耶那岐命と伊耶那美命が居住した小国・日本は旧東鯷国であったことになる。

赤壁の戦いで少数の兵力で魏の大軍に大勝利した呉軍と戦っても東鯷軍にはまったく勝ち目がないと判断した東鯷国王は倭国の属国になることを決意して倭女王卑弥呼に防衛を要請した。そこで、卑弥呼が率いる巫女界を代表して(卑弥呼の宗女に選ばれて)伊耶国・丹波出身の竹野比売が呉の遠征軍が襲撃する小国・日本を防衛する女王壱与となった。

したがって、伊耶那美命の夫の伊耶那岐命は呉の遠征軍との戦いを指揮する小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であったことになる。

東鯷国王も卑弥呼も、最初の失敗に懲りずに再び呉の水軍は遠征してくるにちがいないと判断した。ゆえに、小国・日本(旧東鯷国)が誕生した。

しかし、孫権は東鯷人が往来できる海の道を呉軍は往来できない事実を知って再度の遠征をまったく考えなかった。

以上のごとく、呉軍は再度遠征するにちがいないという恐怖によって、小国・日本は誕生した。

◆現在でも、13歳くらいの乙女が最も澄んだ瞳を有する。ゆえに、13歳くらいの乙女たちはE図に示した[]をキャッチする能力に優れ、暗い銀河部も見える能力に秀でている。このため、13歳の眼力が優れる乙女は敵の呪的(じゅてき)な戦力を奪う魔女にふさわしいと信じられていた。だから、13歳の竹野比売・伊耶那美命は80万の魏の大軍を2万で敗北させた呉の水軍の呪的な能力を奪う魔女・壱与に選ばれた。

このような「敵軍の呪的な能力を奪う魔女となる巫女」を中国では「媚蠱(びこ)」と呼び、わが国では「眉(まゆ)」と呼んだ。伊耶那美命は「眉」であったのである。

『万葉集』429番と430番は「溺れ死にし出雲娘子(いずものおとめ)を吉野に火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首」という題詞がつく。

わがブログ「日本が滅びる・19」にて、題詞と二首の和歌に登場する「出雲」は「山陰出雲」ではなく、701年当時、「熊野」は「出雲国」と呼ばれていたことを証明した。ゆえに、題詞の「出雲娘子」は「熊野の乙女たち」であったことになる。

人麻呂が作った429番の和歌の初句の「山のまゆ」は、「熊野那智大社の主祭神の伊耶那美命は呉軍と戦う時の魔女の眉であった」と詠むものである。この429番の和歌は下記のごとくである。

山のまゆ 出雲の児()らは 霧なれや 吉野の山の 嶺(みね)にたなびく

〔那智の大滝の精霊となる伊耶那美命は、13歳の時に呉の水軍が来襲すると予想されて小国・日本を防衛する女王・魔女の眉となった。この伊耶那美命を慕う熊野・出雲国の乙女たちは吉野川に身を投げて、壮大な伊勢神宮を建造して天照大御神を皇祖と崇拝して伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺せんとする持統上皇に抗議して溺死した。この眉となる年頃の13歳くらいの乙女たちは那智の滝の水飛沫(みずしぶき)や伊耶那美命の出身国の丹波の霧の精霊なのだ。彼女たちの死体を焼く煙は、まるで咽(むせ)び泣くように、吉野山の嶺にたなびいている。〕

『魏志』倭人伝は「卑弥呼の墓に奴婢(ぬひ)百余人を殺して埋める徇葬(じゅんそう)をおこなった」と記載する。この犠牲(いけにえ)となった「奴」は「木製のクワやスキの刃先で堅い地面を開墾し耕作することができる筋肉隆々の太い腕を有する18歳くらいの青年」であり、「婢」は「最も澄んだ瞳を有する13歳くらいの乙女」であった。最も優れる体力を有する青年と最も澄んだ瞳を有する乙女を犠牲にすれば、天上の卑弥呼の霊は感激して地上に慈雨(じう)を降らせて豊かな実りをもたらすと信じられて徇葬がおこなわれた。

当時は13歳の乙女が魔女の眉となって敵軍の呪的な戦力を奪い、18歳の青年が軍を指揮する大将になるのが習わしであった。したがって、伊耶那美命の夫の伊耶那岐命は1718歳くらいで小国・日本の軍王となったことになる。

中国においても、魏の文帝・曹丕(そうひ)18歳で戦場に出ており、孫権は15歳で呉軍の頭領となった。当時は強靭な体力を有する青年が従軍しあるいは軍を指揮すれば天は祝福して呪的な戦力を与えると信じられていたのである。

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