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2014年10月24日 (金)

日本が滅びる・136

すべての日本国民は真実の日本国誕生史を知る権利がある

ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(3)

 

■呉軍の東鯷人遠征と小国・日本の誕生史(2)

 

◆前回のブログ「日本が滅びる・135」で、小国・日本の誕生史を下記のごとく証明した。

Ⅰ 208年におきた赤壁(せきへき)の戦いで、曹操(そうそう)が率いる80万の魏の大軍はわずか2万の水軍の活躍によって撃破されて敗北した。この赤壁の戦いから21年後の230年、呉の皇帝の孫権は1万の水軍に東鯷人(とうていじん)国への遠征を命令した。この東鯷人国は、A図に示す台湾→宮古島→硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸を通過して到着できる東海・関東地方であった。

Ⅱ 呉の水軍は台湾を拠点にして宮古島へ目指して海の道を求めて次から次へと船を出航させたものの、B図に示す約1,650キロメートルも遠く離れる宮古島と硫黄島までの太平洋上における天頂緯度線(+赤緯2445)をキャッチできなかったので、一隻の船も海の道を探して遠征軍の将軍衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が待つ台湾に戻らず、結局8割から9割の兵は失って壊滅した。このため、遠征軍の将軍衛温と諸葛直は、“功無かりき”という罪によって誅殺(ちゅうさつ)された。

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(C)2014 OHKAWA 

 

東鯷人たちは定期的に呉の会稽(かいけい)港までやってきて交易をしていた。東鯷人たちはB図に示す硫黄島・宮古島の北緯2445分の天頂緯度を、C図右上に示す〔[]をキャッチできる眼力と技〕を日々鍛錬していたので測量することができた。だから、約1,650キロメートルも遠く離れる太平洋上の海の道を往来することができた。

他方、中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して〔天の北極〕を最も重視することになって、従来の〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れた。このために、呉の遠征軍は東鯷人が往来できる海の道を進むことができなかったので壊滅した。

したがって、【「天の北極では大海を往来できない」と定まる科学の絶対法則】が原因で、呉の東鯷人国遠征軍は壊滅した。

孫権は[]をキャッチできない呉軍には東鯷人国まで遠征できない事実(科学の絶対法則)を察知して、遠征を断念した。

◆今回の136回までのわがブログ「日本が滅びる」では何回も何回も繰り返して証明し解説したように、シナ天文が最も重視した〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕だと大海を往来することができなかった。

『魏志』倭人伝は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文から始まる。この文は「倭人国は帯方郡(現在のソウル市附近)の東南、大海の中に在る」と意味する。

中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して〔天の北極〕を最も重視されることになって、C図に示す〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が廃絶(はいぜつ)された。これが原因で、B図に示す広大な太平洋を渡ることが出来なかった呉の水軍と同様に、『魏志』倭人伝が「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」と書く「大海」すなわち「朝鮮海峡→馬海峡→玄界灘」を、魏と帯方郡の使節は渡ることができなかった。

わがブログ「日本が滅びる・132」で力説したように、「玄界灘」という名は「〔天の北極〕では緯度と子午線を精密に測量できないために命を失うが、[]をキャッチできれば精密に緯度と子午線が測定できるので往来できた波の荒い海」と、今日に伝えていることになる。したがって、卑弥呼時代の倭の使者も遣隋使も遣唐使も〔[]をキャッチして、緯度と子午線を精密に測定する方法〕で玄界灘を往来したことになる。

わが国では738年ころからシナ天文が習得されて〔天の北極〕を重視されるようになると、〔[]のキャッチ〕が疑問視され排除されるようになった。このため、玄界灘の往来に支障をきたして遣唐使の派遣が2回中止されるようになりやがて廃止されることになった。

玄界灘は北九州から長崎県壱岐や福岡県宗像市沖ノ島までの短い距離の一海であるが、〔[]をキャッチする方法〕ならば往来できたが、〔天の北極で緯度と子午線を測量する方法〕では渡ることができなかったのである。

だから、この事実を伝えて先人たちは「玄界灘」と呼び、[]の一点に絞って考えれば日本古代史における最も重大な歴史(今から約4050年前の中国の夏代初頭に原初漢字の夏音文字の学芸が伝来してわが国には高等な学術が存在した史実と、〔愛〕の理念が提唱された日本国誕生史)が直ちに解明できる「玄界灘」という名を残したのである。

◆上記のごとく、【〔天の北極〕では大海を渡ることができない科学の絶対法則】が存在した。この【〔天の北極〕では大海を渡ることができない科学の絶対法則】について孫権は東鯷人国遠征の大失敗で始めて気づいた。しかし、東鯷人国王と卑弥呼は〔天の北極〕でも大海を渡ることができるのではないかと思い込んだために再度呉の水軍は遠征してくると判断した。

孫権、東鯷人国王、卑弥呼たちばかりでなく、今日の学者たちもまた【〔天の北極〕では大海を渡ることができない科学の絶対法則】に一人も気づかず、またこの【科学の絶対法則】の存在に気づいて邪馬台国学説と日本神話学説は【誤読の空論】であると指摘した科学者はこれまで一人も出現していない。

でも、【〔天の北極〕では大海を渡ることができなかった科学の絶対法則】は実在した。

先人たちは【卑弥呼時代の魏と帯方郡の使節は玄界灘を渡ることが出来なかった事実】と【小国・日本は〔[]のキャッチ〕ができなかった呉軍の遠征から起源した事実】を伝えるために、「玄界灘」という名をもって【〔天の北極〕では大海を渡ることができなかった科学の絶対法則】を注目すれば、現在の邪馬台国学説と日本神話学説が直ちに【誤読の空論】であると断定できるようにした。にもかかわらず、学者たちは新井白石(16571725)以来約280年に及んで伝統を受け継ぐ邪馬台国説と戦後に間違いないと確立させた日本神話学説が正真正銘の【誤読の空理空論】であることにまったく気づかない。

わがブログ「日本が滅びる・132」で証明し指摘したように、学者たちが主張するすべての邪馬台国説は〔[]のキャッチ〕の一点に絞って考えると、直ちに【誤読の空論】であると断定できる。というのも、魏・帯方郡・倭の使節は〔天の北極〕では玄界灘を渡ることができなかったゆえ、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになって約2000字で構成される『魏志』倭人伝には文字が1字も書かれていなかった白紙となるからである。

◆呉軍の遠征の情報を伝えられた時に“東鯷人国は滅びる”という恐怖に襲われた東鯷人国王は――〔天の北極〕では大海を渡ることができない、呉軍は〔[]をキャッチする眼力と技〕を有する者が一人もいないから大海を渡って来ることができない――と考える余裕も知識も有していなかった。これゆえ、東鯷人国王は再度呉軍が遠征してくるにちがいないと脅えて、倭の属国になることを決意して倭女王卑弥呼に防衛軍の派遣を要請した。

東鯷人国王の意見と同様に卑弥呼も再度呉軍は遠征するにちがいないと考え、呉に東鯷人国が占領されたならば倭国も滅びる危機に瀕すると心配し、『魏志』倭人伝末部に登場する13歳の壱与(いよ)すなわち伊耶那美命・伊耶(いや)国出身の竹野比売(たかのひめ)を東鯷人国防衛の女王に選んで赴任させた。

かくして倭に属することになった「東鯷人国」の国名は「日本」と改められた。

小国・日本の女王・伊耶那美命は1718歳であったと考えられる伊耶那岐命と結婚した。

したがって、伊耶那岐命は再度遠征すると想定された呉軍の来襲を防衛する小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった。

上記したように、小国・日本はA図に示す伊豆諸島ルート(台湾→宮古島→硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸島)を通過して到達できる、D図に示す東海・関東地方であった。

◆『日本書紀』巻第三の神武天皇紀末部は「昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、この国を目(なづ)けて曰(いう)に“日本は浦安(うらやす)の国、細戈(くわしほこ)の千足(ちた)る国、磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつまの)国〔秀真国、これを袍図莽句儞(ほつまのくに)と云う〕と仰せられた」と記す。

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(C) 2014 OHKAWA

D図に示すように、小国・日本の磯(海岸線)は輪の形となる駿河湾・相模湾・東京湾の三つの湾が連なり、この輪の形をした海岸のどこかに呉軍は上陸することになる。ゆえに、呉軍が上陸地点となる小国・日本の「海岸線」を「磯の輪は上」と考えて伊耶那岐命は「磯輪上」と呼称し、D図のごとく上南下北の小国・日本の地理観のもとに防衛の戦略を立てた。しかし、呉軍は再度遠征しなかったゆえ戦争は起こらなかったので、伊耶那岐命は「日本は浦安の国」すなわち「日本の浦()で戦争が起こらなかった心安らぐ国」と表現した。小国・日本の浦(沿岸地域)には「小さく細い戈(ほこ)」すなわち「剣を有する精兵」が千足る(多数の兵士たちが防衛することになった)ので、伊耶那岐命は「細戈の千足る国」と小国・日本を誇り称えたのである。

「袍図莽(ほつまの)国」の[]の字は[]偏に[]が加わって成る。

D図に示す〔東京湾の海岸〕は〔衣つまり布で物を包む袋の形をした浦〕である。D図に示すように東京湾の北岸は東京ディズニーリゾートが所在する浦安市である。市名の「浦安」は「日本は浦安の国」と述べた伊耶那岐命の言に登場する。したがって、[]は「袋の形をした東京湾」を意味した。伊豆半島沖で呉の遠征軍が東に東鯷人国の都があると判断して相模湾→浦賀水道を通過して東京湾に進入するのを見とどけたならば、日本軍は狭い浦賀水道を多数の精兵で固めれば東京湾は袋を閉じる状態になって呉軍は“袋()のネズミ”となる。呉軍が“袋()のネズミ”となれば日本軍は勝てる。

この作戦において地理的に三浦半島側から浦賀水道を閉じるほうが容易であったゆえ、東京湾の西側の浦に多数の武士(兵士)(かく)して配備した。ゆえに、東京湾の西岸地域から奥の地の旧国名は「武蔵」(現在の東京都・埼玉県と神奈川県北東部)となった。というのも『説文解字』は[]の字源を「匿(かく)すなり」と解説するから、旧国の「武蔵」は「多数の武士を蔵(かく)して配備した」の略称となる。

わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作する『字統』(平凡社)は「浦賀水道」の[]の字義は「いわう。よろこび」とする。ゆえに、「袋()の形をした東京湾を閉じる口となる水道(狭い海路)は日本軍が勝つことができる祝い・喜ぶべき[]の要所」であった。だから、先人たちは日本軍の防衛の歴史を伝えて「浦賀水道」と呼ぶことにしたと考えられる。

呉軍の艦隊は伊豆半島に近づくと東か西に針路を決める。この呉軍が決めた針路の様子は、神奈川県の地から相()える。ゆえに、「模様(様子)を相()る」から神奈川県の旧国名は「相模」となったと考えられる。

ところが、呉軍は相模湾から東京湾へ進む可能性は低いと考えられた。というのも、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝における東鯷人国の記事は「紀元前3世紀、徐福は童男女(青年と乙女)数千人を率いて蓬莱(ほうらい)の神仙を求めて大海に入った」と書いてあるからである。ゆえに、呉の遠征軍は「徐福の移住した地域は、蓬莱の神仙郷である」という知識を有していたことになる。伊豆半島の沖でも富士山は見えるので、呉軍は伊豆半島の沖ですでに「蓬莱の神仙」(空高く隆起した仙人が住む美しい山)と呼ぶにふさわしい霊峰・富士を目撃していることになる。したがって、呉軍は東の相模湾に針路を取らず、富士山に目指して駿河湾に進入する可能性が大となる。

それゆえ、呉軍は駿河湾を北上して、E図に示す蓬莱山・富士山の南に所在する浮島沼(うきしまぬま)に上陸することになる。現在は静岡県東部の沼津市に「浮島沼=浮島原」と呼ばれる地域が残っているが、3世紀当時の巨大な湖であった浮島沼・浮島原は消え失せて存在しない。1860年(万延元)に江戸馬喰町の版元の丸谷徳三が板行した歌川貞秀の風景版画『東海道五十三驛勝景』を見ると、E図に示すように、浮島沼は現在の三島市から富士市吉原まで広がる現在の富士五湖を一つに合体したごとくの巨大な湖であった。

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 呉から遠征してきた呉の艦隊は東鯷人国の首都が蓬莱山・富士山周辺にあると考えて、必然的に船を浮島沼に停泊させ東鯷人国の都の情報を得るために兵士を上陸させて住民を捕えようとする。このように、呉軍との決戦場は船団の停泊地となる浮島沼となる公算が大であると予想できた。

浮島沼の東方の三島市には、その昔、国分寺があった。また三島市には伊豆国の一の宮の三嶋大社がある。この三島市に小国・日本の軍王伊耶那岐命は本陣を設け、呉軍との浮島沼における決戦にそなえた。そして、[][]の初文であるゆえ[]の初義には「頭」と「頭領」の意味がある。したがって、「伊耶那岐命が日本国の頭領()となって本陣を設営した地域」であったゆえ、「伊豆」という旧国名が生まれたと考えられる。

1160年に源氏の頭領である源頼朝は三島市に近い伊豆市韮山(にらやま)の蛭(ひる)ヶ小島に流された。このため、3世紀の歴史が残存する地域に流された頼朝は伊耶那岐命が三島市に本陣を構えたことを知った。また、伊豆での写経と読経の20年余りの流人生活において頼朝は蛭ヶ小島に近い伊豆市奈古谷(なごや)寺に住む僧侶文覚(もんがく)上人を師と仰ぐものであったゆえ、頼朝は三島市に伊耶那岐命の本陣があったことを知っていた。というのも、那智の大滝から約50メートル南の滝が「文覚ノ滝」と名づけられているように、那智の大滝近くで修行した文覚上人は伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史について詳しかったからである。だから、三島市の三嶋大明神(三嶋大社の祭神)に百日の日参をおこなって源氏再興を祈願した頼朝は、1180816日から17日にかけて挙兵して山木判官平兼隆(かねたか)を討ちとった。頼朝の鎌倉幕府創設は伊耶那岐命の本陣があった三島市の三嶋大社の百日祈願からスタートするものであったから、D図に示す「浦安の磯輪上の細戈の千足る袍図莽国」のほぼ中央の神奈川県鎌倉市を頼朝は幕府所在地と定めたのである。

3世紀当時、駿河湾と浮島沼はつながっていて、呉軍の巨大な船が浮島沼にも進入できたるようになっていた。浮島沼の湖口は浦賀水道よりも狭く、浮島沼は東京湾よりさらに増して呉軍を“袋のネズミ”にすることができる日本軍に有利な「袍」であった。

前述したように現在の富士五湖を一つにしたごとくの巨大な湖であった浮島沼は、満面に豊富な水を湛(たた)えていたので一見すると深い湖のごとく見えた。しかし、「浮島沼」という名が示すように湖の到る箇所は水底が浅く葦や植物の根が腐った層が厚く堆積した泥と沼になっていた。したがって海のごとく深いと思って進入した呉軍の巨大で重い船を、日本軍が沼地となる箇所へ追い込むようにすれば立ち往生することになった。

日本軍は舟底を浅くして沼にはまらないようにして敏捷(びんしょう)に動き回ることができる多数の小舟を作り、船団を組む幾艘の小舟から矢を放ち威嚇(いかく)しながら巨大で重い呉の軍船を沼地へ追い込んで立ち往生させて一艘一艘を袋のネズミにして矢を雨霰(あめあられ)が降るがごとく放って仕留めれば、日本軍は呉軍を撃滅することができる。

だから、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説にある神生みの条に記載される「鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)」またの名が「天鳥船(あめのとりふね)」は「浮島沼の底の沼にはまらないように底を浅くした小舟、また水鳥のように湖面に浮いて敏捷に動きまわることができるようにした小舟、また呉の軍船から放たれた矢が射ぬかないように楠(くすのき)で堅牢(けんろう)に作った小舟の発明」であったことになる。

◆浮島沼の北側は愛鷹山(あしたかやま)である。この愛鷹山の標高160メートルくらいの中腹からは、駿河湾を北上してくる呉軍の船団をとらえることができる。

浮島沼の北方の愛鷹山の中腹に、弥生時代後期後半に相当する集落遺跡の八兵衛洞(はちべぼら)遺跡が所在する。この遺跡は標高160メートルの高地に在る。1978年に静岡県沼津市教育委員会によって発掘調査されて、愛鷹山の中腹の3つの尾根の上に84軒の竪穴住居趾が発見された。不思議なことに、これほどの大規模な住居趾にもかかわらず、遺物の量は少なく、器形を復元できる資料は極めて少なかった。この調査にあたった石川治夫学芸員は静岡県考古学会編集『静岡県のあけぼの』に、この状況を「当時の住人がこの村から村を廃して移住する際に、使用できる物を持ち去ったと思われる。また、一点の青銅製の鏃(やじり)が住居趾内から発見されていることから、貧しい村ではなかったようである。愛鷹山の高所には同時期の遺跡が多数存在するが、なぜこのような生産性の低い土地に短期間に大規模な集落群を営んだのか大きな謎となっている」と記述した。

愛鷹山の高地に所在する3世紀の多数の集落群遺跡は、呉軍の再度の遠征を予想して迎え討つ日本軍の軍事施設であった。伊耶那美命が小国・日本の女王として赴任したのは233234年ごろと推測され、伊耶那美命が倭地に戻されて倭女王に就任したのは243245年と考えられるので、わずか10年間ぐらいの短期間の軍事施設であった。

孫権は再度の遠征を断念したので小国・日本の防衛は伊耶那美命と伊耶那岐命の二人の事績にはならなかった。当時、呉軍が再度遠征して来るか否(いな)かは、当然、占い(呪術)で卜(ぼく)して小国・日本を防衛すると決めた筈である。ところが、卜(ぼく)した卦()は誤ったと判断されて、村は廃されることになった。このような場合には、呪術の習わしによって村を廃する時にすべての武器を持ち去って移住すれば後日に吉を招くことになると信じられていたにちがいない。ゆえに、住居趾から青銅製の鏃などの軍事的資料が多数発見されなかったと考えられる。それゆえ、『古事記』の上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話の最初の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚の条の末部には「伊耶那岐命は女人(伊耶那美命)が先に“なんとまあ、素晴らしい男性でしょう”と讃える結婚儀式は良くないと言った」という記事がある。この記事は「伊耶那岐命が伊耶那美命の夫として素晴らしい男性であると選ばれて小国・日本の軍王となったものの、呉軍が来襲して来なかったために一つの軍功をも得ることができなかった」と意味するものであったと考えられる。

愛鷹山の南の平地となる浮島沼(浮島原)周辺から住居の遺構が発掘されている。これらの遺構は生活するのに極めて不便の沼の傍(低湿地)に作られている。ということは、これらの住居趾は駿河湾上に出現する呉の軍船を見張るための集落であったと考えられる。その証拠に、浮島原の雌鹿塚(めがつか)遺跡からは戦闘に使われる青銅製の鏃が発見され、鳥形木製品も出土している。この鳥形木製品は日本の軍船・天鳥船の呪力を増すために作られた呪具であったにちがいない。

したがってもしも呉軍が再度遠征して伊耶那岐命が決戦場とした浮島沼で呉軍と日本軍の戦っていたならば、浮島沼は“日本国発祥の地”として注目されていたことになる。

◆『魏志』倭人伝の末部は「13歳で小国・日本の女王となった壱与・伊耶那美命を倭女王に即位させると、卑弥呼の墓を作る時におこなった徇葬を憎悪する国中の反乱が遂に平定された」と記述する。

上記が伝える伊耶那美命の倭地への移住は、東鯷人国王も倭政府も――〔天の北極〕では大海を往来できない。〔[玄]をキャッチする眼力と技〕を有する者が一人もいないために呉軍は大海を渡ることができずに壊滅した科学の絶対法則――に気づいたことを示すものとなる。

気づいていなければ、伊耶那美命を日本国に止めて防衛に担当させ、天照大御神を倭女王に就任させて狗奴(くな)国討伐をおこなっていたことになる。小国・日本の女王伊耶那美命を倭地へ帰還させて倭女王に就任させたということは、東鯷人国王も倭政府も呉軍は〔天の北極〕で大海の道を渡ろうとしたが原因で壊滅したと確信したことになる。これゆえ、愛鷹山の高地集落群の住居趾に住居人たちがこぞって移動して去った痕跡が明確に伝えるように、[]をキャッチできない呉軍は大海を渡ることができないと断定されたゆえ小国・日本の防衛は必要がないと決定されたことになる。

◆最後に、伊耶那岐命が小国・日本の呼称に登場する「袍図莽」は小国・日本軍の防衛作戦をあらわすものであったことを明確にする。

「袍図莽」の[]は、前述したように「呉軍を“袋のネズミ”にして壊滅することができる戦場の東京湾あるいは浮島沼」をあらわした。

「袍図莽」の[]の字源を『説文解字』は「畫計(かくけい)、艱(かた)きなり」と解説してつまり「計画」を意味すると伝える。

[]の字源を『説文解字』は「犬の善()く菟(うさぎ)を艸中(そうちゅう)に逐()ふものを謂()ひて莽と為す」と解説する。ゆえに、[]は「呉軍」を「菟」に見立て、「日本兵」を「犬」に見立てる作戦をあらわしていることになる。つまり、[]は「呉軍が相模湾から東京湾へ向かったならば浮島沼軍の兵たちは一斉に東京湾へ目指して磯輪上(海岸線地域)の艸中(草原や荒野)を犬のごとくの全力で走って東京湾の戦場へ集合するようにする。また、予想したとおりに呉軍が駿河湾を北上したならば東京湾軍の兵たちは一斉に浮島沼の戦場へ磯輪上の草原や荒野を犬のごとくの走力で駆けつけて浮島沼の戦場に集合して、軍王の伊耶那岐命の指揮のもとに呉軍の船団を天鳥船で包囲して壊滅させる作戦計画」を意味したことになる。

要するに、「袍図莽」は「浮島沼もしくは東京湾に進入する呉軍の行方を見届けて、東京湾か浮島沼のどちらかで日本軍が呉軍の船団を壊滅させる作戦計画」をあらわした。ゆえに、作戦名に[]の字が加えられ「日本は磯輪上の草原を犬のように敏捷に走る精兵たちが千足る(具備する)国」と伊耶那岐命は表現したのである。

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