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2014年12月22日 (月)

日本が滅びる・148

邪馬台国の会・第227回の会場移転記念講演 

新発見ニュースによる邪馬台国論争について(1)

 

●「ニュース 邪馬台国」と入力してブログを開くと――邪馬台国の会の「第227回の活動記録」は「1.邪馬台国論争の諸説と現状」で下記のごとく記述してあった。

「長年にわたって邪馬台国がどこにあったか議論されているが、魏志倭人伝の記述が情報不足であるため、なかなか結論が出ない。

今回は、現在の邪馬台国論争の状況を眺めながら、なぜ問題が解けないか考えてみる。

上記の「『魏志』倭人伝の記述は情報不足である」という見解は誤っている。

『魏志』倭人伝は、すべての邪馬台国説論者たちの想像をはるかに超える日本古代における第一級の重大な歴史的事実を伝える豊富な情報によって構成されている

◆『魏志』倭人伝に記された重大な歴史的事実のうち下記の二種類の史実が、邪馬台国の会が「現在の邪馬台国説は、なぜ問題が解けないのか」と戸惑う直接の原因である。

Ⅰ 学者たちはわが国が漢字を習得したのは56世紀であると断定する。しかしこの定説に反して、『魏志』倭人伝のおよそ7割の記事は今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の縄文時代初頭)に習得した夏音(かおん)文字と、魏・朝鮮半島で用いられていた楷書の字源・字形・字義が銀河各部の形状であったと伝える。

夏音文字の学芸は、卑弥呼王朝の最も強力な政権基盤であった。

Ⅱ 『魏志』倭人伝は――卑弥呼王朝は、上記の夏音文字の学芸の基軸となった〔[玄]のキャッチ〕にもとづいて「日本列島は東に伸びずに、南に伸びる錯角の転回日本列島地理を制定していた」と記載する。

上記のⅠとⅡの二種類の記述は、厳然たる歴史的事実である。しかし、新井白石(16571725)から始まる邪馬台国説は「3世紀に漢字が習得されていたという記述は絶対に認めることはできない。また日本列島が南に伸びていることはあり得ないので、南に伸びているという説明は著者の陳寿(ちんじゅ)の誤解・誤記である」と断定する。

このように、すべての邪馬台国説はⅠの夏音文字の学芸とⅡの卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理の記述を強引に排除・削除して成立する。

白石以来今日まで約280年もの間、学者や研究者たちは『魏志』倭人伝に【誤読】に“文献批判”という名を付けて邪馬台国説を立論してきた。だから、上記のごとく邪馬台国の会が「現在の邪馬台国論争だと、なぜ問題が解けないのか」と戸惑うのは当然である。すべての邪馬台国説は【多くの誤読】を用いるために、邪馬台国論争は決着がつかないことになり――これから以後千年も続けても解決することができない。

魏志』倭人伝に“文献批判”という名の【誤読】を一点も加えずに全記事を忠実に読解すれば、たった一日の論争によって白石以後の学者たちによって確立されたすべての邪馬台国説は誤読の空論であったことが判明して一気に解決する。

白石以後から現在までの学者たちは『魏志』倭人伝に多数の文献批判を加えて【誤読の空論】に陥った。このために邪馬台国説は永遠に決着できない空論になった。しかし白石以前の先人たちは『魏志』倭人伝に【誤読=文献批判】を一点も加えなかった。ゆえに『魏志』倭人伝が記載する上記したⅠとⅡの重大な真実(歴史的事実)を知っていた。

また、現在の邪馬台国説論者たちは自説(誤読説)に適合する遺跡や遺物の発見に夢中になるが、「『魏志』倭人伝の全記事はすべて歴史的事実を伝える」と立証できる遺跡や遺物の発見に無関心でまったく努力しなかった。

ところが、『魏志』倭人伝の全記事は正しいと伝える遺跡が現存する。

山尾幸久著『魏志倭人伝』(講談社)は「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(280289)、陳寿の著作郎時代という以上には限定できない」」と指摘する。

『三国志』魏書東夷伝末部にある倭人伝を通称“『魏志』倭人伝”と呼ぶ。ゆえに、『魏志』倭人伝は280289年に著作されたことになる。

A図は、私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた260290年に作成された遺跡である。したがって、「卑弥呼」の地上絵は『魏志』倭人伝と同時代に作成された。

「卑弥呼」の地上絵は現在の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する。

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(C) 2014 OHKAWA

「卑弥呼」の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造の祖(おや╱先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」とい名が記載される歴史上の人物が作成した。

建比良鳥命は――(1)卑弥呼の歴史、(2)『魏志』倭人伝末部に記載された倭女王・壱与(いよ)=伊耶那美命は13歳の時にB図に示す小国・日本の女王となって赴任して国作りの柱を〔愛〕と定めた。そして(3)壱与=伊耶那美命の死後に倭女王となった天照大御神・第10代崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)=箸墓古墳に被葬された倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は王朝の権力に対抗する人民が尊重する伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を呪い憎悪して抹殺せんとした。このような3世紀の複雑な歴史――を、建比良鳥命は「卑弥呼」の地上絵の各部の地名と地形に貯蔵・保存するようにして、銀河を観察すれば3世紀の歴史が後世の人々に解明できるような仕組みにした。

要するに、「卑弥呼」の地上絵は上記した3世紀の複雑な歴史を貯蔵・保存した夏音文字の学芸遺跡である。

以上のごとく、()現在の学者たちは真っ先に文献を忠実に読解しなければならないという鉄則にして初歩的な心得をまったく守らない。また、()わが国の古代史学者たちは自説に適合する遺跡・遺物に夢中になったが、「『魏志』倭人伝の全記事はすべて歴史的事実を伝えている」と証明できる遺跡・遺物の発見にまったく努力しなかった。

A図の「卑弥呼」の地上絵は『魏志』倭人伝と同時代(3世紀後半)に作成された。この「卑弥呼」の地上絵によって、『魏志』倭人伝の全記事は事実を語るものであることが一点の矛盾もなく一つの不合理な点もなく証明される。

●上記したごとく『魏志』倭人伝の記事とA図の「卑弥呼」の地上絵によって、Ⅰ――『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝の最も強力の政権基盤は、後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に習得された夏音文字である」と伝えていることが科学的に証明される。 

またⅡ――夏音文字の学芸を政権基盤とした卑弥呼王朝は「日本列島は東に伸びるのではなく、中国の海岸地域の会稽(かいけい)や東治(とうじ)がある南に伸びているにちがいない」という錯覚の転回日本列島地理を制定していた――という事実も証明される。

したがって、ⅠとⅡの歴史的事実を【誤読=文献批判】を以て排除・削除して立論するすべての邪馬台国説は【誤読の空論】であったことになる。

ゆえに、古代史研究家の古田武彦氏が証明したように、倭女王・卑弥呼が居住した王国の名を『魏志』倭人伝は「邪馬壱(やまい)国」と記すゆえ「邪馬台国」は誤りとなる。

『魏志』倭人伝には方位を記す記事は全部で15ヵ所あるが、このすべての方位記事は「卑弥呼王朝は日本列島を時計回りに90度方位を転回させた錯覚の転回日本列島を制定していた」と伝える。だから、錯覚の転回日本列島地理にしたがって一点の矛盾も一つの不合理な点も存在しない「邪馬壱国」は「石見・出雲・伯耆(島根県と鳥取県西部)」となり、卑弥呼は倭国の首都が所在した出雲に居住していたことになる。そして、邪馬台国畿内説の「大和」は『魏志』倭人伝に記載される小国「邪馬国」であった。3世紀後半に創設された邪馬国(大和)の天照大御神・崇神天皇母子王朝が出雲に居住する大国主神を敵視したのは、卑弥呼王朝の首都所在地であった出雲の王朝が栄えることを畏れたからである。

『魏志』倭人伝と「卑弥呼」の地上絵の合致によって、世界の人々が“あっ”と驚くびっくり仰天玉手箱の――漢字と古代エジプト文字(ヒエログリフ)は共に同一の下に掲げる写真「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作られた歴史的事実」が発見される。というのも、両者のあいだに同じ字源銀河部・同義または類似する字義となる幾つかの文字が存在するからである。ゆえに、一気に多数の古代エジプト文字の字源(銀河部)が解明され、古代エジプト文字は漢字と同じく「秋の銀河と夏の銀河」から作られたことが科学的に証明できる。これゆえ、『魏志』倭人伝は第1級の重大な文献史料であったのである。
 
 このように、『魏志』倭人伝と「卑弥呼」の地上絵によって得られる「倭には夏音文字があった」という科学的証明は、古代エジプト文字の字源・字形・字義もまた下に示す「秋の銀河と夏の銀河各部の形状」であったことになって、世界史的にも重大な発見となる。
 

この事実・発見は誇大妄想や虚妄では決してない。厳然たる事実である。

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「銀河」は「銀漢」とも言い、「銀から作られた文」の略称が「漢字」である。

上掲した写真の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】は【文字(字源・字形・字義)】となった。だから、「天には多数の文字ありき」ということになって「天」は「天文」と呼ばれることになったのである。

◆中国の五経の第一に挙げられる『易経』繋辞下伝は漢字の起源を「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と説明する。

漢字が起源した「天象」とは上掲した写真の「銀河」のことである。

孔子と並ぶ中国の思想家の老子の教えを伝える『老子』上篇(道経)37に分けられるすべての章は、上掲の「銀河から文字が作られた」と証言するものである。

だから、『老子』上篇の第1章の「道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべきは常の名に非ず。天地の始めには名無し、万物の母で名有り云々」という冒頭の文は、下記のごとき歴史的事実を伝えていることになる。

「世の常識では地上の人・車などが行き来するところを“道”と呼ぶが、ほんとうの[]は天頂にめぐってきた[]の字源となった銀河部である。常日頃人々は“名”を事物に付けられた名称と思い込む。しかし、[]の原義は【文字】であった。【文字】は上古(五帝時代・夏代・殷代前半期)では【銀河各部の形状】であって、学者たちが定義する〔書いた文字を消さないで残す、ことばを記す記号〕ではなかった。【上古の文字】は【書いた文字を必ず消して残さない、銀河から生まれた文字の学問に用いられる記号】であった。この【文字】は五帝時代初頭の黄帝につかえた史官であった“漢字の始祖”と崇められた倉頡(そうきつ)が銀河から多数の文字を作ることができるように発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕によって、文字が始めて存在することになった。つまり、老子が“万物の母”と呼ぶ倉頡の漢字作成原理の発明によって始めて〔文字〕が存在することになった。」

ゆえに、有名な『老子』第二十章の冒頭の「学を絶てば憂い無し」という文は「学すなわち銀河から作られた文字の研究を断念して止めれば、王朝が“文字が銀河から作られたと暴露した者は王朝と国家の崩壊を謀る大罪人ゆえ即刻に死刑にする”と最も厳重に定める大罪を犯す者として役人に日々追われる心配もなくなるので、屈託なく人生を過ごすことができる」とあらわすものであった。そして第二十章の終りの「我れ独(ひと)り人に異なりて食母(しょくぼ)を貴(たっと)ぶ」という文は「死刑を畏れて“文字研究は命知らずの愚か者がやることだ”と批判する人々とは異なって、我は一人多くの正しい字源が失われてゆくのを見るに見かねて何万年後にもすべての字源が正しく伝わるように我は乳母(食母)となって、文字の学芸を貴ぶ」と表現するものであった。

◆わが国には、老子が生存した紀元前45世紀よりずっと以前の今から約4050年前(倉頡から950年後)の夏代初頭に夏音文字が伝来していた。

前述したように『老子』第1章の冒頭の文は「文字は銀河から作られた。〔五帝時代・夏代・殷代前半期における文字(字源・字形・字義)〕は〔銀河各部の形状〕であった」と伝えるものであった。したがって、わが国に伝来した卑弥呼が精通していた夏音文字は【銀河各部の形状】が【文字(字源・字形・字義)】となって、地中から夏音文字を書く資料が出土しないことになった。中国においても、夏音文字は発掘されない文字となった。

というのもわがブログ【用語の解説】の「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」にて解説したように――倉頡は(1)「秋の銀河となつの銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露した者」、(2)「文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者」、(3)「書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者」には神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めたからである。

倉頡は自らが考案した文字の学芸が強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、上記の3つの掟を定めた。

今から約3300年前の殷代後半の甲骨文字(契文)によって上記の(3)の掟は破られたが、中国の歴代王朝は(1)(2)の掟を厳重に守ったために、現在の中国とわが国の学者たちは【漢字が銀漢(銀河)の各部の形状から作られた歴史的事実】にまったく気づかない。

今から5100年前から突然に完成された形で出現したかのごとき古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた、漢字と同様に(1)(2)の掟を定めた。このため、現在の学者たちは古代エジプト文字も上掲した写真の【銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】としたことにまったく気づかない。

◆古代エジプトの歴史においては、【銀河から文字が作られた学芸】に精通した一族が革命を起こして歴代の王朝を創設した。

中国の歴代の王朝にあっても【漢字が銀河(銀漢)から作られた文字の学芸】に精通した一族が革命をおこして天下を掌握した。

わが国でも、【漢字が銀河からつくられた文字の学芸】を習得した源頼朝が鎌倉政権を、足利氏が室町幕府を、織田信長が天下取りにあと一歩のところで失敗し、【銀河から文字が作られた学芸】に精通した徳川家康が江戸幕府を創設した。(ただし、【銀河から文字が作られた学芸】に精通しなかった豊臣秀吉という特例がある。しかし、秀吉は【銀河から文字が作られた学芸】を知る武士や千利休などの協力を得て天下を治めた)。

上記した『老子』第二十章冒頭の「学を絶てば憂い無し」の先頭字の[]と家康が死去する2年前の1615年に制定した「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」の第一条の「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文中の[]は同義である。この文は――天子、[]すなわち【銀河から作られた文字の学芸】が衰退したならば天皇政治もわれら江戸幕府も、そして日本国もまた滅亡します。ですから、【夏音文字の学芸】の保存と復興は天子本来の役目です。日本国にとって第一に大事なものは【わが国の学芸の根本となり、また日本のすべてのものの生みの親となる銀河各部の形状を文字とした夏音文字の学芸】です――と意味した。

A図の遺跡を作成した遠江の豪族・建比良鳥命は、A図の北隣の引佐(いなさ)町井伊谷(いいのや)に居住する井伊氏の先祖であった。井伊氏24代頭首の直政は譜代大名筆頭の地位についた。というのも、3世紀後半の先祖・建比良鳥命以来約1300年の間井伊氏が守った「卑弥呼」の地上絵に貯蔵・保存された()夏音文字の学芸と()壱与=伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した歴史を復興することが、家康が死ぬまで命を賭けて追い求めた心願であり夢であったからである。家康の夢は井伊氏の心願・夢であった。関ヶ原合戦の4カ月後の1601年正月、家康は井伊直政が近江の佐和山城に入ってC図に示す3千万坪の大鳥の地上絵の作成を命じた。

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(C) 2014 OHKAWA

夏音文字の学芸と伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとした家康と井伊氏の心願と夢は、C図の滋賀県彦根市の行政地域を表示する地図の形となって現存する。彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と設計された。だから、「習わず」と表現するために彦根の地上絵の東の境界線は付け根から翼がもぎ取られた形となる。そして彦根城の南南東に所在する多賀大社は、【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命と【日本建国の〔愛〕の理念】を継承した夫の伊耶那岐命を主祭神として祀る。彦根の大鳥の地上絵は1603年に着工して20年後の1622年に完成した。家康は1616年に没しているので、完成した彦根の大鳥の地上絵を見ていない。しかし、『魏志』倭人伝に記載された歴史的事実(夏音文字と倭女王・壱与=伊耶那美命の記事で示される日本国誕生史)を復興することが家康と井伊氏の胸の奥深く秘める心願であり熱き夢であったことは、C図に示す彦根市の地図の形を見れば明確に知ることができる。C図の彦根市とA図の細江町は単なる大鳥の地上絵ではなく、その各部分は『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられまた『古事記』上巻の随所に〔音〕と注が付いて記載される夏音文字の全貌と3世紀の歴史が解明できる事典のような仕組みになっている。

◆秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石の万座遺跡・野中遺跡は、今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に相当する。万座と野中堂の両遺跡には夏音文字が伝来した痕跡が現在も明確に残っている。

わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)9頁末から10頁初頭の〔わが国の漢字音〕と題する記事は、下記のごとく指摘する。

「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。

白川静著『字統』が「いま残されているもののなかで、最も古い時期の漢字音を有するわが国の国語として残る文字」こそが「夏音文字」である。

千賀四郎編集『日本古代史の旅5 邪馬台国』(小学館)には〔卑弥呼の発音について〕と題して「卑弥呼の文字を中国の上古音で読めば〔ピミカ〕になる。また魏以前の中古音で読めば〔ピミエクゥオ〕となる」と指摘する。「卑弥呼」を、邪馬台国説論者たちは〔ヒミコ〕と読む。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むのは夏音文字の字音である。中国には夏音文字が残らず、最も古い中国の上古音では「ピミカ」となる。だから、「卑弥呼」を「ひみこ」と読む邪馬台国説論者たちは「わが国には夏音文字が存在した」と述べていることになる。「壱与」を「いよ」、「載斯烏越」を「そしあお」、「難升米」を「なしめ」、「掖邪狗」を「ややこ」と読めば夏音となり、夏音文字は存在したことになる。

中国の正史『新唐書』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。云々」と中国王朝に告げた――という記述がある。上記の白川静著『字統』の〔わが国の漢字音〕と題する記事が指摘するように、8世紀初頭に中国では夏音文字を失っていたので、「後稍夏音を習う」という文は「壬申の稍々夏音文字を習う(復興する)」と意味したことになる。その証拠に702年より10年後の712年に完成した『古事記』上巻には〔音〕と注が付く夏音文字(1字1音文字)が多数記載されて現存する。

◆『魏志』倭人伝には「倭には文字があった」と明示する下記の二つの記事がある。

『魏志』倭人伝は(1)倭の易における卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の如く」すなわち「倭には殷代後半の亀の甲羅に刻む甲骨文字の如き文字があったと記述する。だから、わが国では甲骨文字の如き夏音文字が習得されていたことになる。前述したように夏音文字は用済みになった文字は必ず消さなければならないという掟を厳重に守るものであったゆえ、中国でもわが国でも書いた文字が出土しないことになった。

『魏志』倭人伝には(2)卑弥呼が文書に書く文字(夏音文字)と魏都・帯方郡・諸韓国と国交を結ぶ文書に用いる楷書は差錯(ささく╱相違)していたので、倭の伊都国の港では点検し確認して間違いないように正しく変換していた」という記事もある。

3世紀の魏・帯方郡・諸韓国で用いられた楷書の字源・字形・字義】もまた、上掲した【銀河各部の形状】であった。だから、伊都国の港では卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書を正しく変換することができたのである。

この二つの記事に加えて、邪馬壱国はじめとする34の小国名に用いられる夏音文字と楷書みよって【銀河各部の形状は字源・字形・字義であった事実】が証明できる。

次回のわがブログでは、白石以後から現在までのすべての邪馬台国説が正真正銘の【誤読の空論】であることが簡単に証明できる方法について語る。

これによって邪馬台国説が誤読の空論であることは決定的事実となり、早速、D図に示す現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブラブ文字・現代アムハラ文字の先祖である古代エジプト文字(ヒエログリフ)が上掲の「秋の銀河と夏の銀河」から作られた研究を多くの人々が取り組むことができるようになる。

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漢字と古代エジプト文字が銀河から作られたということは、欧米が用いるABCアルファッベットはじめとする世界各国で用いられる様々なアルファベットも、また漢字も同一の銀河から起源したということになり――人類は文字の起源で一つに結ばれている、この歴史的事実にもとづく世界平和のために日本人が世界の人々に貢献しなければならない古代史学の課題である。

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