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2014年12月25日 (木)

日本が滅びる・149

邪馬台国の会・第227回の会場移転講演 

新発見ニュースによる邪馬台国論争について(2)

 

●前回のわがブログに記したように、私が「ニュース 邪馬台国」と入力してブログを開くと――「第227回の活動記録講演報告」における邪馬台国の会は「現在の邪馬台国論争の状況だと、なぜ問題が解けないのか」と戸惑い訝(いぶか)しがる。

そして、邪馬台国の会は最後に「4.なぜ邪馬台国問題は解決しないか」と題して、学界や専門家の現在のあり様は非学問的であると下記のごとく批判する。

「自説に都合悪い事実は一切無視し、都合の良い事実のみ強調・宣伝して事終れりという風潮や、あるいは、矛盾を含んだ主張や極端な説が堂々とまかりとおる現象は、現在の古代史や考古学の専門家の世界が、上に述べた現象論的な考え方や権威主義的な押しつけが通用する非学問的な世界になっていることを示している。

このような世界に安住する学界の権威や専門家が、『科学的証明』や『事実にもとづく検証』を行わず、客観的に仮説の正しさを確認する手順を踏んでいないことが、邪馬台国問題の解決を阻む大きな要因である。」

◆前回のわがブログで証明したように、現在のすべての邪馬台国説論者たちが自由自在にあやつる“文献批判”の実体は【誤読】である。

すべての邪馬台国説は、下記の『魏志』倭人伝の2種類の記述を文献批判で排除・削除して成立する。

Ⅰ 『魏志』倭人伝のおよそ7割の記事は、今から約4050年前の夏代初頭にわが国が習得した夏音(かおん)文字と、魏と朝鮮半島(諸韓国)で用いられた楷書の【字源・字形(字形の原形)・字義】は【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】であったと伝える。

Ⅱ 『魏志』倭人伝は夏音文字の学芸の基軸である[]のキャッチ〕にもとづいて「日本列島は東に伸びず、南に伸びると考える錯角の転回日本列島地理を制定していた」と記載する。『魏志』倭人伝には〔方位〕を記す記事は全部で15ヶ所あるが、このすべての方位記事は錯覚の転回日本列島地理に合致して、一点の矛盾も生じず一つの不合理な点も生まれずに【科学】が成立する。(注 なお【科学】とは新村出編『広辞苑』╱岩波書店の「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」である)

◆前回のわがブログで解説したように、上記したⅠとⅡの記述が厳然たる歴史的事実であったことは『魏志』倭人伝(280289年の著作)と同じ3世紀後半に作成された私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた遺跡(260290年の作成)によって科学的に証明される。

A図が「卑弥呼」の地上絵である。「卑弥呼」の地上絵は、現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する。「卑弥呼」の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造の祖(おや╱先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載される歴史上の人物が作成した。

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(C) 2014 OHKAWA 

 B図右上に示す「天頂点を通過する銀河部位の46秒ぐらいで天頂を通過する精密な緯度を示す短い軌道と、天頂点と南または北の目星とを結ぶ子午線の測定」が、上記した夏音文字の学芸の基軸となる〔[]のキャッチ〕である。この[]によって精密に緯度と子午線が測量できる。つまり[]は「精密に緯度と子午線を測定する術」であった。

『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究者)における「緯度の測定」と題する文は下記のごとく指摘する。ただし、この文中の「北極」とは「天の北極」のことである。

「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算できる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」

上記の文のごとく〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕は不正確である。他方、B図の〔天頂緯度線と子午線をキャッチする方法〕=〔[]をキャッチする方法〕は精密に緯度と子午線が測定できる。

緯度の測量が不正確となる〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕では、A図の「卑弥呼」の地上絵は作成することができない。

なぜならば、「卑弥呼」の地上絵は(1)ちょうど1千坪の大きさに作られ、(2)『魏志』倭人伝の全記事は正しい、(3)『魏志』倭人伝末部に記載された壱与(いよ)は『古事記』上巻の伊耶那美命であり、壱与=伊耶那美命によって〔愛〕を国家理念とした日本国が誕生した複雑な歴史など、豊富な情報を貯蔵・保存する設計となっているからである。

このような大量な情報を貯蔵して設計される「卑弥呼」の地上絵は、〔[]をキャッチする方法〕ならば作成できる。

◆A図の「卑弥呼」の地上は――都田川の河口東岸のA地点を経緯度原点地と設定して[]を測量した。次に、同緯度上の滝峯不動尊においても[]を測量した。さらに、A地点と滝峯不動尊の2地点の子午線(経度線)から夏至の日の出の方角の29(注 「卑弥呼」の地上絵の大鳥の顔の向き)となる斜めの線の交点となる引佐町八幡宮を結ぶ大三角を作った。この大三角本点やその他の基準点を基にして三角形の網や鎖を形作って図化作成された。

ゆえに、「卑弥呼」の地上絵の作成原理は現在の国土地理院の精密日本列島地図作製原理と同じである。現在の精密日本列島地図は経緯度原点を旧東京天文台の子午儀の中心とし、三角測量して図化作製されるからである。

 人類は地上に東西南北の目印がない氷と雪の氷河期にあって、食料となる獲物を求めて地上の道を切り開いて種を保存した。前回のブログで解説したように『老子』第1章の冒頭は「道の道とすべきは常の道に非ず」という文で「ほんとう道は天頂に在る」と表現した。ある学者は、人間を“心配する動物だ”と定義した。この心配症の動物である人類は“迷った!”と感ずると即座に“死ぬ”と考える。ゆえに、人類はB図の[]をキャッチして、“迷った! 死ぬ”とパニック状態になる死の恐怖を取り除き、“迷っていない。天(天頂)の神は位置(緯度)と方角(子午線)を精密に示して我らのいのちを救う”と信じることができる〔[]をキャッチすることができる能力〕がそなわっていた。氷河期の人類はじめ縄文人と3世紀の弥生人は日々の生活で感覚を研ぎ澄まして[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬した。だから、彼等はC図に示す簡単な道具で[]をキャッチして精密に緯度と子午線が測量できた。

C図の中央図とD図が相似するように、卑弥呼が生存した後期弥生時代に使用されたD図の“青銅祭器”と呼ばれる銅矛・銅剣・銅戈は[]をキャッチする道具だったのである。

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(C) 2014 OHKAWA

E図に示すように、現在まで「卑弥呼」の地上絵内から9口の近畿式銅鐸と三遠式銅鐸が出土している。これら9口の銅鐸の製作・使用年代は260290年と推定されている。

E図に示す滝峯鐸には第1号鐸と第2号鐸の2口がある。私は地元の渡辺板金所の御主人(渡辺進一氏)に、滝峯第1号鐸の精密な原寸大の銅板模造鐸の作成を依頼した。完成した模造鐸の身()に上半身を突っ込んで天を仰いで、F図に示すように銅鐸の身が垂直に立つようにするとそれまで身が少し斜めに傾いていた時の舞孔から見える鈕(ちゅう)の影は痩せて〔極細線〕となった。この〔極細線〕はB図右上の[]の〔天頂緯度線とぴったりと重なる線〕となる。したがって、〔鈕影でできる極細線〕は〔天頂緯度線をキャッチする線〕となる。また、鈕の頂上に取りつけられる“渦巻状双耳(そうじ)”という名の部分に刻まれる文様は矢を射当てる的のような同心円形となり、その的の中心点が天頂点とぴったりと重なる仕組みになっていた。

だから、学者たちが主張は間違いで銅鐸は鳴器や祭器ではなかった。ちょうど1千万坪に作られた「卑弥呼」の地上絵は、要するに地図の形である。したがって、F図の銅鐸とD図の銅矛・銅剣・銅戈は[]をキャッチして『魏志』倭人伝に記載された34の小国の地図を作成するために用いられた[]をキャッチする道具だったのである。

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(C) 2014  OHKAWA

◆G図に示すように、〔天の北極の位置〕は〔黄道の北極〕を中心にして約26000年で一周する。そして、ほとんどの時代においては〔天の北極〕と重なるように接近する北極星は存在せず、今日のようなこぐま座α星は特例であった。

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(C) 2014 OHKAWA

氷河時代、もしも人類がG図に示す状況の〔天の北極〕で緯度測定していたならば、人類は“迷った! どうしよう。死ぬ”という恐怖に押しつぶされて狂い死にして絶滅していたにちがいない。だが人類は緯度と子午線が精密に測量できる〔[]をキャッチする眼力と技〕を有するものであったために、氷河期に絶滅しなかった。

上記したように、『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻は「緯度の測定」の箇所で「天の北極の高度を緯度に換算する測量法では不正確となる」と指摘する。さらにG図が示すように、3世紀においては北極星が〔天の北極〕から遠く隔たり〔天の北極〕は暗闇であったゆえ、倭地から〔天の北極〕で緯度測定して中国の地に到着しようとする人々は位置と子午線が直ぐに不明となって大海原を迷える漂流物となって骸骨と化したことになる。

しかし、A図の「卑弥呼」の地上絵が示すように倭では〔[]のキャッチ〕が卑弥呼王朝の政権基盤となり、権力と多くの富と高い地位を手に入れる方法であった。だから、倭の王・女王・氏族の長・豪族・巫女・神官たちや魏や帯方郡へ派遣された使者や船乗りは、勿論、[]をキャッチすることができた。そして遠くの山地まで獲物を追った男子も山菜採りで山奥まで踏み入った女子も〔玄〕をキャッチして家族が待つ家に帰ることができた。

人間には死を畏怖し拒否する本能がそなわっている。これゆえ、3世紀の日本列島に居住する人々はみすみす死ぬことになる〔天の北極〕では緯度測定しなかったことになる。

卑弥呼によって始めて国家が創設されたわが国と異なり、紀元前2070年の夏代に最初に国家が創設されて歴代王朝と国家体制によって東西南北を示す道路網や建物・施設などが普及・整備された中国では、紀元前1世紀になると人々は高度の技術が要求されまた面倒くさい[]をキャッチする必要がなくなった。そして、当時、シナ天文が完成して〔天の北極〕が最も尊重されるようになった。このため〔[]をキャッチする習慣〕が廃(すた)れて、3世紀になると中国の人々は大海を越えて日本列島に到着できなくなった。

中国の正史『後漢書』倭伝末部は「紀元前3世紀に生存した方士・徐福と童男女数千人は大海を越えて日本列島に到着して中国に帰還しなかった。徐福一行の子孫は卑弥呼が治める倭人国の隣国の東鯷人(とうていじん)国の洲に居住し、3世紀において数万家となっている。東鯷人たちは定期的に呉の会稽(かいけい)までやってきて交易をする。中国の人々には東鯷人が住む日本列島は遥か遠くに所在し、東鯷人が往来する大海の道は途中で絶えてしまうので中国の人々には往来することができない」と記述する。

紀元前3世紀の徐福一行が日本列島に到着できて、3世紀の三国時代の中国(魏・蜀・呉)の人々が日本列島に到着できなくなったのは、紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も尊重するシナ天文が完成して〔[]をキャッチする習慣〕が失われたことが原因となる。

◆『魏志』倭人伝に記載される下記の6つの記事は、倭の使節と船乗りが〔[]をキャッチ〕して大海を往来して魏と帯方郡と国交を結んだと明確に伝える。

(1)(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に到着すると、皆みずから“大夫”と称した。

(2)魏の景初二年(238)六月、倭は大夫の難升米(なしめ)等を帯方郡に派遣した。

(3)魏の正始四年(243)、倭王は大夫の伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややこ)の八人の使節を派遣した。

(4)魏の正始六年(245)、魏の斉王は倭の外相の難升米に魏の軍旗の黄幢(こうどう)を仮に授けた。(注 上記の『後漢書』倭伝末部に記述されたように魏と帯方郡の使節は大海を渡れなかったので、魏の軍旗・黄幢は倭の伊聲耆・掖邪狗の使節一行が大海を渡って帰還して難升米に仮授したことになる。)

(5)魏の正始八年(247)、倭が派遣した載斯烏越(そしあお╱『古事記』上巻の伊耶那岐命)等は帯方郡政庁に到着した。載斯烏越一行が帰還する船に帯方郡使の張政(ちょうせい)等が便乗して倭に到着した。

(6)倭は大夫の掖邪狗等二十人を派遣して、帯方郡の使節・張政一行を帰還させた。その折、掖邪狗一行は魏の朝廷(洛陽)に参内した。

◆『魏志』倭人伝には「その道里を計るに会稽・東治の東に在るべし」という文がある。

H図に示す転回日本列島地理は『魏志』倭人伝の記述とおりに会稽・東治の東にある。ところが、邪馬台国説の立論基盤とする実際の日本列島地図は会稽・東治の東北に在るので矛盾する。

H図の中央にある玄界灘を、倭の使節を往来した。この「玄海灘」は「天の北極では往来できないが、[]をキャッチすれば往来できた陸地から遠く離れた(地域)となる(波の荒い海)」の略称であった。

I図に示すように、玄界灘に浮かぶ沖ノ島は伊豆諸島の神津島と同緯度(北緯3415)である。列島の西端の沖ノ島と列島の東端の神津島が同緯度であることは、〔[]のキャッチ〕ならば測量できたが、〔天の北極〕の高度を緯度に換算すう方法では測量できない。

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(C) 2014 OHKAWA

 沖ノ島は冬になると雪が降るが、亜熱帯気候区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。だから、日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島の気候の特徴をあらわすと〔西冷東暖〕となる。

J図に示すように、中国海岸線地域の北部の気候は冷たく、会稽・東治がある南部の気候は暖かい。ゆえに、中国海岸線地域の北部と南部の気候の特徴をあらわすと〔北冷南暖〕となる。日本列島の〔西冷〕と中国海岸線地域の〔北冷〕は〔冷たい気候〕で合致し、日本列島の〔東暖〕と中国海岸線地域の〔南暖〕は〔暖かい気候〕で合致する。だから、卑弥呼王朝は〔日本列島は東に伸びるのではなく、日本列島の暖かい東端は中国海岸線地域の暖かい南の方に伸びる〕という錯覚の転回日本列島地理を制定した。

邪馬台国説は〔天の北極〕がある方角を〔北〕と定める実際の日本地図を立論基盤とするが、前述したように〔天の北極〕では倭の使節は玄界灘を往来できなかった。

したがって、邪馬台国説の考え方だと倭の使節も魏・帯方郡の使節も大海を渡ることができなかったゆえ、倭と魏は国交を結ぶことができなかったことになる。したがって『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになり、様々な邪馬台国説がA地とかB地とかに卑弥呼が居住したと主張する理由や根拠は直ちに無効となる。邪馬台国説の考え方だと、『魏志』倭人伝は「卑弥呼」の3字も「邪馬台国」の4字も書かれていなかった、1字も書かれていない白紙となる。このような非科学的な意見は、いかなる理由や根拠を提示しても直ちに無意味となる空理空論である。

◆『易経』繋辞下伝は漢字の起源について下記のごとく伝えるが、夏音文字の学芸に精通する倭の人々はその部分的な誤りを知っていた。

「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下の王たるや、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観、近くは諸(これ)を身に取り、遠くは諸を物に取る。ここにおいて八卦を作り、以て神明の徳を通じ、以て万物の情に類して、結縄を作った。」

上記の文中にある「鳥獣の文」は五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称である。また、包犧氏が作った「結縄」は〔易に用いる記号〕であって、包犧氏は文字を発明することができなかった。

ゆえに、上記の漢字起源記事を正しく直すと下記のごとくなる。

「倉頡は、仰いでは天象(秋の銀河と夏の銀河の各部の形状)を観、俯しては地法を観、鳥獣の文(鳥獣の足跡)と地宜を観、近くは諸を身に取り、遠くは諸を物に取る。ここにおいて八卦を作り、以て神明の徳に通じ、以て万物の情に類して、最初の漢字の書契(しょけい╱わが国では“刻木”と称した)を作って文字は起源した。」

わが国が習得した夏音文字の学芸では上記の文が示すように、C図・D図・F図に描いた[]を測量した時の方位規定を「近く諸を身に取る」とあらわし、J図の〔遠い中国海岸線地域と日本列島との方位規定〕を「遠くは諸を物に取る」とあらわした。そして「近く諸を身に取る方位規定」は「東・西」は〔天の北極〕を基準にする現在方位と同じであったが、〔天頂点の真下=測量地点〕は「南」、現在の「南」と「北」は共に「北」と名づけられた(B図右上の[]の上部の[(とう)]の字形を参照)。そして、「遠くは諸を物に取る方位規定」ではJ図に示すように時計の針の進む方向に方位が変わる「北→東・東→南・南→西・西→北」となる転回方位規定と、逆時計回りの「北→西・西→南・南→東・東→北」の逆転回方位規定があった。要するに、夏音文字の学芸における方位規定は「緯度と子午線を測量する近く」と「遠くに離れた地」とに独立して分かれる二元論であった。

邪馬台国説論者たちは、〔天の北極にもとづく単一方位規定〕を用いて立論する。

ゆえに、二元論の方位規定で構成された『魏志』倭人伝の15ヶ所の方位記事は、異質の邪馬台国説の〔天の北極による単一方位論〕では解明できないことになっていたのである。

◆『魏志』倭人伝の記事が約7割となる箇所にある「又裸国・黒歯国有り」という文で終わる倭の34の小国名と全部で15箇所の方位を示す記事は、K図左図のごとく歴史的事実を伝えるものであったのである。

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(C) 2014 OHKAWA

K図右図は、1402年に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)(龍谷大学大宮図書館蔵)の一部分を略図化したものである。この地図に描かれる転回日本地図について、学者や研究家たちは「この日本地図は、『魏志』倭人伝の方位記事とすべて合致する。しかし、この日本地図は中国人が古くから抱いていた誤った地理観、または著者の陳寿あるいは魏使が抱いた誤った地理観である」と主張した。

K図左図が示す転回日本列島地理は『魏志』倭人伝の15ヶ所のすべての記事に対して一点の矛盾点も一つの不合理の点もなく【科学】が成立する。だからK図右図の「混一疆理歴代国都之図」に描かれた日本地図は卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を今日に伝えるものであったのである。

K図左図に示す倭国の範囲は、いわゆる“青銅祭器の分布圏”と称される西日本の範囲に合致する。だから、前述したように“青銅祭器”のD図の銅矛・銅剣・銅戈とE図・F図の銅鐸は34の小国の地図を作成する時に用いられた[]をキャッチする道具であった。

百人一首の〔字札〕を〔小国名〕、〔絵札〕を〔小国の地宜(地図の形)〕のごとく扱い、字源・字形・字義となった「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」と白川静著『字統』(平凡社)の字源・字形・字義の解説が合理になるように考え、さらに旧国の範囲を参考にして【科学】が成立するように一点の矛盾もなく一つの不合理な点もないようにすると、K図左図のごとく倭の34小国の位置が解明できた。 

 K図左図の卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の誤りは、738(天平10)に聖武天皇の代に全国に国郡図作成を命令してシナ天文にもとづいて改定しようとした。しかし、転回日本列島地理は正しいと信じる従来の慣習は一気に廃することができず、796(延暦15)にも朝廷は再び国郡図の重修を命じた。だから、卑弥呼王朝の錯覚の転回日本転回地理は歴史的事実だったのである。

L図の左側に示す「東松浦」「北松浦」「西松浦」という地名に冠する「東」「北」「西」は現在方位だと矛盾するが、K図の転回方位だと合理となる。前述したように、夏音文字の天文地理学では「天頂点の真下の測量地点」が[]であるので、「北松浦・東松浦・西松浦の境界線の合致する地点」が「南」となり、「南松浦」の面積は無(ゼロ)であるゆえ「南松浦」の地名は存在しないことになったのである。

また、「東彼杵」とその南の「西彼杵」の「東」と[西]は転回方位だと合理、現在方位だと矛盾する。

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 西松浦の東方にある岩戸山古墳は、転回日本列島地理の転回方位が改定されない6世紀に反乱を起こした筑紫国造の磐井の墓である。『筑紫国風土記』に記された磐井の墓の記事は、森貞次郎氏の詳細な研究によって実際に合致して正確である、ただし「南北各六十丈、東西各四十丈」という記事の「南北」と「東西」だけが入れ違っていると指摘された。つまり「南北各六十丈、東西各四十丈」は転回方位に則るものであったことになる。

このように、「玄界灘」ばかりでなく松浦地方と彼杵地方の地名と『筑紫国風土記』の磐井の墓の記事にも、卑弥呼王朝が錯覚した転回日本列島地理が実在したと伝える痕跡がいまだに残っている。

以上のごとく、邪馬台国説の立論基盤となる〔天の北極〕では大海を渡れず魏と倭は国交を結ぶことが出来なかったゆえ、『魏志』倭人伝には1字も文字が書かれていない白紙であったことになる。これゆえ、邪馬台国説の実体は〔誤読の空論〕で学術意見の体をまったくなしていない。このような邪馬台国説の考え方だと千年続けても決着することができないが、〔[玄]のキャッチ〕の一点に絞って論争すれば一日で邪馬台国説は【誤読の空論】であったと決着することができる。

文献を忠実に読解する古代史学の初歩的心得を守らずに【誤読】を正しいと断定する学界と専門家のパラダイム(理論的枠組み)が邪馬台国問題の解決を阻む原因だったのである。

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