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2015年1月15日 (木)

朝日新聞社の社長様への直訴・2

日新聞の日本人大虐殺が始まった! 

ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(16)

 

聖徳太子が天皇になれなかった原因の解明

 

7世紀のわが国の様子を伝える『隋書』倭国伝は「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求得し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ずる」と記述する。

「文字無し」の「文字」は「仏教の経典に用いる、隋代に完成した楷書」のことであった。だから、「文字無し」から始める上記の文は下記のごとく現代語訳すべきことになる。

「倭には隋王朝が完成した楷書は無いが、五帝時代の倉頡(そうきつ)が考案した書契と三皇時代の結縄が有るのみ。仏法を敬い、朝鮮半島の百済から仏教の経典を輸入し、始めて隋王朝が完成した楷書を有することになった。中国の卜筮を知ろうとして巫女(みこ)と覡(かんなぎ╱神官)たちが仏教の経典に用いられた隋王朝に完成した楷書を解読した。ゆえに、わが国では楷書を正確に解読した巫覡が最も信頼されることになった」

倉頡が考案した「書契」を、わが国では「刻木」と呼んでいた。というのも「書契」は「む文字」と意味するゆえ、略して「刻木」と呼ぶことになった。

仏教の経典に用いられた楷書、そして三皇時代の結縄と五帝時代の刻木(書契)の字源・字形・字義」は下に掲載する「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」であった。

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「銀河」は「銀漢」とも呼称されるので「銀漢から作られた字」の略称が「漢字」であった。したがって「に多数の字ありき」という状況になったので、「天」は「天文」と称されることになった。

◆“漢字の始祖”と崇拝された五帝時代初頭に生存した倉頡は自らが考案した文字(刻木)が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学識を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると考えた。ゆえに、倉頡は(1)上に掲げた写真に撮影された「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露した者」、(2)「文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者」、(3)「書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者」には神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。

古代エジプトはじめ原シナイ・フェニキア・古代ギリシア・古代ローマ等においても、上記した倉頡の3つの掟の内の(3)の掟を除く(1)(2)の掟を破った人物には神罰が下って直ちに死刑にすると定めた。

したがって、世界中の古代王朝は上に掲げた銀河から作られた文字の学芸を独占管理して厳重にまもるために、明確な形を有する銀河各部に名称をつけなかった。このため、現在にあっても、世界中を探しても銀河各部には名称が存在しない。

そこで私は、A図のごとく「秋の銀河と夏の銀河全域」の各部に名称を付けた。

A図の左上の黒く塗りつぶした箇所の銀河を、私は「十字の銀河」と名づけた。

「十字の銀河」は今から約6000年前(三皇時代、わが国の前期縄文時代)から紀元前3世紀の秦代(しんだい)まで、中国とわが国の天頂にめぐってきた。

B図右図に示すように、倉頡は「十字の銀河の西半分」に「乳房」、「妊婦の円く突き出る腹部」、「子宮」に相当する銀河部が有るのを注目して――A図の「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作られたすべての文字は十字の銀河を母体にして生まれると定めれば、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を作成できる」という漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。漢字作成原理「鳥獣の足跡」は、B図に示す「十字の銀河の子宮」を「すべての文字を生む子宮」と定めた。

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(C) 2015 OHKAWA   

漢字作成原理「鳥獣の足跡」にもとづき、C図に示す「すべての文字を生む母体の十字の銀河」は「すべての文字が生まれた秋の銀河と夏の銀河全域」をあらわす[(べん)]の字源・字形・字義となった。そして、「すべての文字が生まれる十字の銀河の子宮」は「天頂にめぐってくる十字の銀河」に見立てられた。

「十字の銀河」の西隣にあって三皇時代から秦代まで天頂にめぐってきた「鬼の姿に似る銀河」は「母体から生まれる子」に見立てられて[]の字源・字形・字義となった。そして、[][]を加えて[]という字が作られた。

[]の字源・字形・字義が生まれたC図左図の銀河(十字の銀河・鬼の姿に似る銀河)は、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」をあらわした。

このように、「文字を生む母体」の「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となり、「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義となって漢字作成原理「鳥獣の足跡」をあらわした。だから、漢字は「文字」と呼ばれることになった。

◆D図右図に示すように「十字の銀河の頭部」は〔円い輪となる縄の束〕に見立てられ、「十字の銀河の頭部より北側の輪状の銀河」は〔三つの輪の形に結ぶ縄〕に見立てられて、三皇時代の易に用いる記号は「結縄」と名づけられた。

“字書の聖典”とされる2世紀初頭の後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字』は[]を「蜥易(せきえき)なり」と字源解説する。「蜥易」は「トカゲ」を意味する。内田亨代表著作者『原色現代科学大事典 5-動物Ⅱ』(学習研究社)は「トカゲにはかならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。したがって、「大海を渡る人、遠くの地に旅する人、山地や森林や荒野などで迷った人などが必ず家族が待つ家に帰ることが出来る術」が「易」であった。

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(C)  2015 OHKAWA

大海を往来する人や遠くの地に旅する人が家に帰ることが出来る術の「易」は、E図の右上にある「[]をキャッチする術」であった。[]とは「天頂点を通過する46秒くらいの天頂緯度線と天頂点とその南または北の目星となる天体部を結ぶ子午線のキャッチ」であった。人間の目は鍛錬すると[]をキャッチできる眼力が研ぎ澄まされ、たくましく生きてゆく本能行動とうまく生きてゆく適応行動によって技(わざ)が鍛えられて[]をキャッチすることができた。〔[]をキャッチする時の心得・鉄則〕は「産道を通過する出産児=幺(よう)のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、E図右上に示す[(とう)]の字源・字形・字義は「精密に緯度が測定できる天頂緯度線と子午線の測量」となり、この[]に〔[]をキャッチする時の心得・鉄則〕すなわち「産道する出産時のごとく無欲になれ」の[]が加わって、[]の字が成立した。

孔子と並ぶ中国の老子の教えを伝える『老子』上篇(道経)37の章は「倉頡の発明によって文字は秋の銀河と夏の銀河全域から生まれた(作られた)」と漢字の起源の秘密を暴露して、中国の歴代王朝が即刻に死刑にすると厳重に定める大罪を犯すものであった。

『老子』第1章は「倉頡が発明した漢字作成原理『鳥獣の足跡』」を「万物の母」と表現し、「ゆえに常に無欲にしてもってその妙を観、常に有欲(ゆうよく)にして以てその皦(きょう)を観る」という文で、「[]をキャッチする心得・鉄則」について「産道を通過する幺(出産児)のごとく無欲であれば巧妙に生きてゆくことができるが、必ず[]をキャッチするという欲を有して測量すると皦(風雨にさらされる髑髏・白骨体)となる」と表現した。そして、『老子』第1章は「玄の又()た玄、衆妙の門」という文で「玄は民衆万人が巧妙に生きてゆく命の門である」と表現して終わる。

『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)における「緯度の測定」と題する記事は下記のごとく指摘する。ただし、この文中の「北極」は「天の北極」のことである。

「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算できる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」

上記のごとく、天の北極の高度を緯度に換算する方法だと緯度が精密に測量することができないので、大海に入ると直ぐに迷って命を落とし、また遠くの地に旅する人も風雨にさらされる白骨体となった。だから、中国でもわが国でも、上古の人々は精密に緯度が測量できる〔[]をキャッチできる易の術〕を鍛錬して生きた。

一方、天の北極で緯度測定すると必ず命を失った。だから、“いのちあってのものだね”という諺のごとく上古の人々はまず“生きてゆける”という保障がなくてみすみす“死ぬ”ことになる天の北極では緯度を測量せずに、「易=[]のキャッチ」に命を委(ゆだ)ねた。

前述したように、『隋書』倭国伝の「文字無し。唯刻木・結縄のみ云々」の「結縄」は今から約6000年前の三皇時代に出現した「易の術に用いる記号」であったので、「文字」ではなかった。つまり、「結縄」は銀河から万物の情に類する多数の記号を作ることができず、また三皇となった包犧(ほうぎ)氏・女媧(じょか)氏・神農氏の氏族名をあらわす記号を作れず歴史を後世に伝えることができないので「文字」ではないと定義された。

◆今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡は漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明して、銀河から万物の情に類する多数の記号が作れるようにし、王道政治が始まった屋台骨(政権基盤)となり、三皇氏族やその他の氏族の名をあらわすことができて歴史を後世に伝えることもできたので、「倉頡が考案した刻木から文字は起源する」と定められた。ゆえに、倉頡が“漢字の始祖”となった。
 文字は倉頡から始まる事情を、『説文解字』の序は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文であらわした。この文は「文字は経(科学╱医術・天文地理学)と芸術の根本であり、王道政治を起源させた政権基盤となり、過去に起きた歴史を後世の人々が正しく知ることができる方法となった」と意味した。

B図の[]の字源銀河の「十字の銀河」とC図の[]の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河」は、共に中国の天頂にめぐってきた。したがって、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」は三皇時代の易=[玄]のキャッチの伝統を受け継いだ。

そして〔易=[]をキャッチする術〕は五帝時代の刻木から隋代に完成した楷書までの漢字学体系の基軸となった。

◆上記したD図を、再度参照していただきたい。

倉頡が生存した五帝時代初頭に中国各部の土地の天頂にめぐってきた「十字の銀河の頭部より南側の銀河」は、D図右図に示すように「切り株。立木」に見立てられた。これゆえ「切り株。立木」に見立てられた「十字の銀河の部分」は「中国各地の天頂緯度の目盛りがまれる」と見立てられて、倉頡が考案した文字は中国では「書契」、わが国では「刻木」と称されることになった。

F図に示す小篆(しょうてん)と隷書が出現した紀元前3世紀の秦代(しんだい)まで、「切り株。立木」に見立てられた「十字の銀河の部分」が中国の首都の天頂にめぐってきた。これゆえ、F図に示す夏代の夏音文字・契文(甲骨文字)・金文・大篆(だいてん)・小篆・隷書は「刻木」と呼んでも誤りでなく正しいことになる。ゆえに、遣隋使は「夏音文字」も「刻木」と呼んでも正しかったので、「五帝時代の文字と夏音文字」を「刻木」と称した。

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(C) 2015 OHKAWA
 

秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に相当する。この大湯環状列石の万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字が伝来した痕跡が現在も明確に残っている。

したがって、1725年に死去した新井白石以前においては――『魏志』倭人伝と『古事記』序冒頭で夏音文字の伝来と習得が記述され上巻には多数の夏音文字が記載され、『隋書』倭国伝に「夏音文字」を「刻木」と呼び、わが国には夏音文字が存在すると記載された。だから、わが国には夏音文字が伝来している――という意見が定説であった。

しかし、白石以後の学者たちは『魏志』倭人伝に「わが国には夏音文字があった」と書かれている記事を誤読した。また、『古事記』序の冒頭にある夏音文字の伝来と習得を伝える文を誤読し、序の末部で「楷書の日下(にちげ)と夏音文字の玖沙訶(くさか)の字源と語源は同一の銀河であるので同義である。また、楷書の帯(たい)と夏音文字の多羅斯(たらし)の字源と語源は同一の銀河であるから同義である」という記事を誤読した。さらに、『隋書』倭国伝の「文字無し。唯刻木・結縄のみ」という文は上記したように「隋代に完成した銀河から作られた楷書(文字)は無い。唯、五帝時代・夏代初頭の夏音文字を総称する刻木と三皇時代の結縄が有るのみ」と言うのが真意であったにもかかわらず、白石以後の学者たちは軽率に「文字は無い。唯、木を刻み、縄を結ぶのみ」と誤読して「56世紀以前にはわが国には文字(漢字)が無かった」と断定した。

その証拠に、今日の学界は「わが国では5世紀または6世紀に最初に漢字を習得した」という【誤読説】を定説とする。

注目すべきは、上記した『説文解字』の序の「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり」という文が証言するように、「夏音文字の経(科学)は正しく過去の歴史を解明する方法」であった。他方、現在の古代史学と考古学は『魏志』倭人伝・『古事記』序と上巻・『隋書』倭国伝の記事を【誤読】して――歴史を科学的に解明できる方法の夏音文字は抹殺した――ゆえ、白石以後の古代史学は「誤読の古代史学」、現代の考古学は「誤読の考古学」となった。

◆『魏志』倭人伝には「京都(けいと╱魏の都)・帯方郡・諸韓国の楷書で書く文書と倭女王・卑弥呼が書く文書の夏音文字は(字義が)差錯(ささく╱相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港では(外交にトラブルが生じないように)点検・確認していた」という記事がある。魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は、ともに「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」を字源・字形・字義とするものであった。このため、伊都国の港では正しく楷書と夏音文字を変換できたのである。

『魏志』倭人伝には「倭の易における卜辞に用いられる文字は令亀法(れいきのほう)の如くである」という記述がある。「令亀の法」とは「殷王朝の卜辞を書いた亀の甲羅に刻む契文(甲骨文字)の法の如くである」と意味する。だから、『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられた夏音文字となる。「卑弥呼」を「ひみこ」と発音すると夏音となり、中国に残る最古の上古音だと「卑弥呼」は「ぴみか」となる。中国の上古音の「ぴみか」より「ひみこ」と読む夏音のほうが古い(参考文献は千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』╱小学館発行)

だから、上記の二つの記事は「わが国に夏音文字が伝来していた」と伝えている。

そして、『古事記』上巻に多数記載された〔音〕という注が付く1字1音文字は「令亀の法の如き夏音文字」であったことになる。

G図に示すちょうど1千万坪の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形は夏音文字の学芸を貯蔵・保存する遺跡である。この遺跡を、私は“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶ。「卑弥呼」の地上絵は280289年に著作された『魏志』倭人伝と同時代の260290年に作成された。「卑弥呼」の地上絵によって、『魏志』倭人伝のすべての記事は歴史的事実を正確に伝えていることが【科学】が成立して証明される。

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以上のごとく、白石以後の学者たちは『魏志』倭人伝・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝が「夏音文字があった」と伝える記事を【誤読】して「夏音文字はない」と断定した。

夏音文字は倉頡の「書いた文字が用済みなったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者は神罰が下って即刻に死刑に処せられる」という掟を厳重にまもった。このため、夏音文字は出土しないことになった。これゆえ、B図右図の「十字の銀河」とC図左図の「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河」のごとく、銀河各部の形状が夏音文字(字源・字形・字義・字音)となった。

『魏志』倭人伝に記述されたように、「[]のキャッチ=易」で吉凶を占った巫女と覡は秋の銀河と夏の銀河を字典にして夏音文字と魏の楷書に精通していた。だから、『隋書』倭国伝にも「中国の卜筮を知ろうとした巫覡たちは、仏教の経典に用いられた隋王朝が完成した楷書を解読したので倭では最も信頼されるようになった」と記述されることになった。

学界は――倭には銀河から作られた夏音文字・楷書の学芸は存在しなかった――と断定する。この学界の定説の場合、難解きわまりない語彙(ごい)と深奥な思想・哲学をあらわすうえに画数の多い隋王朝が完成させた楷書を用いる仏教の経典の解読はまったく不可能となる。漢字の素養がある現在の大学生や漢字を知らない外国人を一堂に集めて仏教の経典を解読できるか実験してみれば彼等は手も足も出ないことになって解読不可能とギブアップする。ゆえに、学界の定説は事実に反する机上の空論であったことになる。

◆『隋書』倭国伝の大業三年(607年・推古天皇15)の記事は――倭の推古天皇が派遣した使者は朝貢(ちょうこう)して、「海西(かいせい)の菩薩天子が重ねて仏法を興す、と聞いています。ゆえに遣わして朝拝させ、かねて沙門(しゃもん╱僧侶)数十人が、隋に来て仏法を学ぶのである」と述べた。遣隋使が献上した聖徳太子が書く国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々」という文があった。隋の煬帝(ようだい)はこれを見て不機嫌となり、鴻臚卿(こうろけい╱現在の外相)に「野蛮な東夷の書には無礼な箇所がある。再び以聞するな(上表するな)」と命令した。しかし、翌年、煬帝は文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい╱裴世清)を使者として倭に派遣した――と伝える。

煬帝は暴君であったが、若い時には学問を好み文字が銀河から作られた学問に精通していた。「日没」の語や[]の字源には「死」や「没落」の意味が無い。「日没」に「死」や「没落」の意味があったならば毎日日没ごとに天は死に、[日没時]の別称は「没落時」となる。また、倭の使者は隋の煬帝を「海西の菩薩天子」と崇めた。ゆえに、「日没する処」には「死」や「没落」の意味はまったく無いことになる。だから、煬帝は倭には銀河から文字が作られた学芸体系・刻木が存在すると察知した。ゆえに、聖徳太子が書いた国書の文を【誤読】したことを認めて、翌年に裴清を倭に派遣したのである。

594年、推古天皇は聖徳太子と大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう╱仏・法・僧)を興隆せよ」と詔(しょう)し、積極的に仏教を崇拝する政策をおこなうように命令した。聖徳太子は旧来の鬼道(きどう)につかえる夏音文字の学芸に精通する巫覡を邪魔もの扱いして冷遇し、崇仏(すうぶつ)政策を推進した。従来の朝廷は巫覡を体制の中に組み入れ、文字が銀河から作られた学芸を独占管理して厳重に機密を保持していた。巫覡たちは自分たちを粗末にあつかう聖徳太子を見限り、大臣の蘇我馬子に頼るとともに太子の鼻をへし折るために仏教の経典に用いられた楷書を解読した。ゆえに、倭では皇太子の聖徳太子よりも巫覡が最も尊敬されて信頼されることになり、太子の巫覡を排除した政策は天皇政治が根底から崩壊する軽率きわまりない失政であると批判された。だから、聖徳太子は天皇に即位する資質に欠けると評され、馬子はじめ皇族たちに虚仮(こけ)にされ愚弄されることになった。天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の銘文(めいぶん)は、太子は妃(きさき)の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、唯仏(ほとけ)のみ是真なり」と語ったと伝える。

聖徳太子が「唯仏のみ是れ真なり」と自己弁護しても、蘇我馬子はじめ皇族たちは「わが国の王道政治の始まりである夏音文字の学芸も是れ真なり」と批評して太子の軽率な思慮を虚仮にした。ゆえに、巫覡たちの仏教の経典から楷書を解読した業績は絶賛され、太子の信頼は地に堕ちて尊敬されなくなった。

聖徳太子の崇仏政策は夏音文字の学芸に精通する巫覡に見限られ、その強大な権力は巫覡を擁護した蘇我大臣家が手に入れた。このため、朝廷の勢力は一気に衰退した。この失政によって聖徳太子は天皇にふさわしい深い思慮・資質・政治手腕に欠けることが決定的となった。だから、太子は天皇になれなかったのである。

聖徳太子の天皇になれなかった原因は夏音文字の学芸・銀河から文字が作られた学術に精通する巫覡を軽率に扱ったことであった。そして、夏音文字の学芸は最高機密であったために、太子が天皇になれなかった原因は隠滅されて不明になるように処理された。その証拠に、太子が天皇になれなかった原因が隠滅された影響で、『魏志』倭人伝・『古事記』序と上巻・『隋書』倭国伝に「わが国に夏音文字が伝来している」と記述されているにもかかわらず、現在の学者たちは夏音文字が『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数記載されて両書を開けば“夏音文字が目撃できる”という厳然たる事実にまったく気づかない。

以上のごとく、現在の歴史学では【誤読】をパラダイム(理論的枠組み)にもとづいて「実在する夏音文字は存在しない」と断定する。ゆえに、「現在の古代史学」は「誤読の古代史学」であり、「現在の考古学」は「誤読の考古学」である。

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