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2015年1月18日 (日)

朝日新聞社の社長様への直訴・3

朝日新聞の日本人大虐殺が始まった!

ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(17)

 

【日本建国の〔愛〕の理念】は【誤読】に【誤読】を重ねる空論で抹殺された!

 

◆わが前回のブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・2」で解説したように、『魏志』倭人伝には「倭の占いにおける卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如き」と、「卑弥呼が文書に用いる文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる文字(楷書)は差錯(ささく╱相違)していたが、倭の伊都(いと)国の港で間違いが生じないように点検・確認していた」という二つの記事がある。この二つの記事は――今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に伝来した夏音(かおん)文字について記述するものであった。夏音文字は「卑弥呼」の「ひみこ」はじめとする人名や小国名に用いられている。ゆえに、『魏志』倭人伝の7割から8割の記事は「夏音文字の学芸は、2世紀末~3世半ばまでの卑弥呼王朝の根本権力基盤であった」と証言していることになる。

◆夏音文字は『古事記』上巻の随所に、〔音〕という注が付く1字1音文字となって多数現存する。

わがブログ「日本が滅びる・107」で解説したように――『古事記』序は「臣安万侶(しんやすまろ)(もう)す。それ混元すでに凝()りて、気象未だ効(あらは)れず。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化の首(はじめ)を作()す」という文から始まる。この冒頭文は「前期縄文に天頂を通過した天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の天頂にめぐってきた高御産巣日神(たかみむむすひのかみ)、後期縄文時代初頭の天頂にめぐってきた神産巣日神(かむむすひのかみ)の参神を造化する土器・土偶が作られた。この前期縄文初頭から後期縄文初頭までの約2000年の参神造化の歴史と伝統を受け継ぐ後期縄文初頭の芸術家たちによって、当時、夏王朝の始祖の帝禹()の後を継ぐ帝益の孫の王子(天祖)と若者たちが日本列島に移住してもたらした夏音文字の学芸を習得した。ここに、わが国の夏音文字の学芸の歴史が始まった」と証言するものであった。

さらに、安万侶は序の末部で「楷書と夏音文字の字源・字形・字義は秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作られた。ゆえに楷書の日下(にちげ)と夏音文字の玖沙訶(くさか)の語源となる銀河部は同一であるから同義である、楷書の帯(たい)の字源と夏音文字の多羅斯(たらし)の語源となる銀河部は同一であるから同義である」と解説する。

“字書の聖典”と尊ばれる2世紀初頭に完成した後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字』の序は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」と証言する。この文は「銀河から字源・字形・字義が作られた文字は科学の経(医術・天文地理学)と芸術の根本であり、王道政治が始まった根本権力基盤であり、また文字の銀河各部の形状から生まれた字源は歴史の真相を科学的に知る最良の方法である」と証言するものであった。

『古事記』の序には――天武天皇が「諸家で受け継いで以ている帝紀(歴代天皇の系譜を中心とした記録)と旧辞(『古事記』上巻・日本神話の原本となった上古の夏音文字で記述した歴史書)は邦家(ほうけ)の経緯、王化(おうか)の鴻基(こうき)である」と述べた――という記事がある。「邦家の経緯」とは「国家組織の根本」であると訳される。「経緯」は「夏音文字の学芸のおける天文地理学における用語である経度と緯度」の略称であった。ゆえに、「邦家の経緯」は「夏音文字の学芸は国家組織の根本」と意味することになった。

「王化の鴻基」は「王道政治の基礎」と訳され、「鴻基」を直訳すると「鴻(大鳥)の基礎」となる。わがブログ「日本が滅びる・149」にて証明したように――『魏志』倭人伝の7割から8割の記事は「卑弥呼王朝は夏音文字の学芸にもとづいて、東に伸びる日本列島が南に伸びるという錯覚の転回日本列島地理を制定していた」と証言していることになる。

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(C) 2015 OHKAWA

A図に示すように、中国の海岸線地域における北の冷たい気候・〔北冷〕と日本列島に西端の沖ノ島の冷たい気候・〔西冷〕とが合致し、中国海岸線地域の南の暖かい気候・〔南暖〕と沖ノ島と同緯度(北緯3415)の日本列島の東端の亜熱帯地区の東京都の神津島の〔東暖〕が合致する。だからに、A図右側の日本地図と同じく『魏志』倭人伝には「日本列島の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)に在るべし」という記事がある。学者たちは会稽・東治の東北にある実際の日本地図を立論基盤とする。ゆえに、学者たちの邪馬台国説は15ヶ所の方位記事に対して多数の矛盾点や不合理な点を有する。しかし、A図に示す転回日本列島地理は『魏志』倭人伝にある全15ヶ所の方位記事と一点も矛盾せず不合理な箇所も一ヵ所もなくすべてが合理となって【科学】が成立する。

だから、卑弥呼王朝は日本列島の東は中国海岸線地域の会稽や東治がある南の方に伸びるという錯覚の転回日本列島地理を制定したことが厳然たる事実となる。

この卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理は、中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)上伝にある「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文にもとづく産物であった。

高田真治・後藤基巳訳者『易経()(岩波書店)は「弥綸」という語を「つくろいおさめる、洩れなく包みこむ」と訳する。ゆえに、「弥綸」は「中国全土をもれなく包みこみ中国海岸線の形状」を表現する語であった。その証拠に、A図の卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の基準となった中国海岸線は中国大陸を洩れなく包み込む。この中国海岸線にあって、山東半島の付け根から北と南に伸びる海岸線は[]の字源「両翼を広げて空を飛ぶ大鳥のカンムリカイツブリの姿」に類似すると見立てられた。[]の南の翼の部分が裂けてほころびるような形となる杭州湾(会稽の北側湾)より南方の海岸線はつくろいおさまって大きな弧を描いて続く。杭州湾は「大きな鳰(にお╱カイツブリの姿」に類似すると見立てられた。[鴻基]を直訳すると「大鳥の基本」であるゆえ、転回日本列島地理の基準になった「大きなカンムリカイツブリと鳰の姿に似る中国の海岸線」が「鴻基」となる。

天武天皇は686年に没した。それから52年後の738(天平10)、聖武(しょうむ)天皇によって天の北極を最も重視するシナ天文の考えを取り入れて卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本地理は東に伸びると改定された。2世紀末から738年まで、『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文にもとづいて制定されたA図右側に示す転回日本列島地理は実在した。ゆえに、『魏志』倭人伝の全15ヶ所の方位記事は卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を証言するものであったことになる。

新井白石(16571725)以前の源頼朝、足利将軍たち、織田信長、徳川家康等の武士(ますらお)たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された王道政治の根本政権基盤である鬼神(かみ)の言葉である夏音文字の学術の勉強に励み、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に一点の【誤読】を加えないパラダイム(考え方)で真実の歴史を知っていた。

しかし、1725年に没した新井白石以後から現在までの学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数記載されて確かに存在する夏音文字はまったく存在しないと断定し、卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を抹殺する虚妄(でたらめ)の空論を吹聴するようになった。このように、現在の日本古代史学者たちのパラダイム(理論的枠組み)は【誤読】であり、日本考古学のパラダイムもまた【誤読】である。

空論・偽りの歴史を捏造した学者たちは【誤読】に“文献批判”という美名をつけて、二枚舌を使って日本国民を騙(だま)す。

◆前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・2」で解説したように、『隋書』倭国伝の「文字無し。唯、刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬い、百済において仏経を求得し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」という文もまた、「倭には夏音文字の学芸が存在した」と証言するものであった。

「文字無し」という「文字」は「隋代に完成した楷書」であった。ゆえに、「始めて文字有り」とは「百済から輸入した仏教の経典に用いられる楷書を夏音文字の学芸に精通する巫女と覡(かんなぎ╱神官)たちが解読した偉業によって始めて隋の楷書が倭に存在することになった」と意味した。

石原道博編訳者『新訂 魏志倭人伝他三篇』(岩波書店)は「文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ」と誤読する。このように、学者たちは「三皇時代の出現した結縄」を「縄を結ぶ」と誤読し、「五帝時代の書契(しょけい)と夏音文字」を「木を刻み」と誤読して確かに存在する夏音文字を抹殺した。

千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)には――「卑弥呼」を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」となる――いう注がある。

わが国の古代中国研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)9頁末部から10頁の初頭で「わが国の漢字音」について下記のごとく指摘する。

「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」

したがって、「卑弥呼」を「ヒミコ」という字音は中国における最古の上古音「ピミカ」よりも古い夏音となる。ほとんどの学者たちは「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む。だから、学者たちは語るに落ちてわが国には確かに夏音文字が実在したことになる。

7026月、遣唐使船は九州の港から出帆した。この第7回遣唐使の任務は「倭」から「日本」への国号改変の承認を中国王朝から承認を得ることであった。

時の持統天皇と文武天皇は天照大御神を朝廷が最も崇拝する先祖・皇祖と定めた。ゆえに、4年前の698(文武2)に天照大御神を祀る壮大な伊勢神宮を創建した。持統上皇は中国王朝から「日本」と国号の承認を得るならば、後世の学者たちは「日本」という国号は天照大御神・日神(にちじん)に由来すると騙(だま)されるちがいないと企んだ。

702年の10年後の712年に完成した『古事記』編纂スタッフの頭領は、天武天皇の第三皇子の27歳の舎人皇子(676735)であった。舎人皇子は皇居に住んでおらず、藤原京より東方の片田舎の高屋(たかや)つまり現在の奈良県宇陀郡榛原町高星(たかへ)に住んでいた。舎人皇子は当時の強力な武将であった大伴朴本連大国(おおともえのもとのむらじおおくに)の養子であった。

672626日、大海人皇子(おおあまおうじ╱のちの天武天皇)は女性と子供と舎人(護衛兵)をふくんでわずか50人足らずで吉野を去って東国へ逃れた。この日の朝、B図に示す甘羅村(かんらむら)つまり現在の榛原駅の附近の要衝(ようしょう)で大海人皇子一行は大国一行と合流した。大国は20人余りの配下と美濃国の王(豪族)を率いていた。
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(C) 2015 OHKAWA 

近江朝は大海人皇子の暗殺部隊を吉野に向けても、東海道・東山道の武士たちを束ねる棟梁の大伴連大国が住む郷の要衝を通過しなければならないので大国に阻止される。大国は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を強く欲求し、近江朝は天照大御神の【日本建国の〔愛〕の理念】への憎悪・祟りにしたがって防人(さきもり)の制度を設けて小国・日本(東国)の人民を苦しめていた。ゆえに、大国と近江朝は敵対関係にあったので、護衛する舎人はわずか20人余で吉野に住む大海人皇子の殺害を後回しにして、近江朝は大敵の大国の殺害計画を決意した。672年におきた壬申の乱は近江朝が大国を討伐するために近江朝が大国の配下の武士たちが住む美濃・尾張両国の国司に「天智天皇の山陵を造るため、あらかじめ人夫を徴集し武器を持たせておけ」と命令から始まった。この近江朝の命令は大国を討伐する陰謀にちがいないと察知した美濃国の王は、棟梁の大国が住む高屋に駆けつけて報告した。だから、大国一行と大海人皇子一行が合流した時、美濃国の王が大国に従っていたのである。当時最も強力な武将であった大国がいち早く吉野方に合流し、大国が束ねる東山道と東海道の武士たちが吉野方に続々と合流したため、1ヵ月後には吉野軍は大友皇子・近江軍に大勝利して壬申の乱は終息した。

大海人皇子は翌673年に即位し、ただちに皇室と国家の権力の強大化をはかる律令体制の推進に着手して、天照大御神を尊重する政治をおこなって【日本建国の〔愛〕の理念】を排除して復興しなかった。これゆえ、壬申の乱における最高の武勲者の大国は失望して天武朝には参加せずに庶民として高屋に居住した。ゆえに、天武天皇は大国と東山道・東海道の武士たちを敵にまわすことになった。もしも敗北した近江朝の残党を集めて東海道・東山道の武士たちにクーデターの決起を訴えて大国が立ち上がれば、発足したばかりの天武朝は大国軍に敗北して崩壊する可能性があった。そこで、天武天皇は大国が反乱を決意する芽を摘むために、わが子を大国の養子に与え、この捨てた子に〔第三皇子(天武帝の子において皇位継承順位が第三番目の皇子)〕という高い地位をさずけて東海道・東山道の武士たちの労をねぎらって怒りをおさめた。

天武天皇はもしも将来、【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を願って東海道・東山道の武士たちが反乱をおこした時、大国の養子となる強力な武将となったわが子が武士たちを説得するか、説得できなければ強引に反乱を武力で制圧するにちがいないと目論(もくろ)んだのである。

この天武天皇に捨てられ、養父の大伴連大国に育てられたれ子が舎人皇子である。

舎人皇子は成長すると、実父天武天皇の目論みは大誤算となり、養父大国の遺志を継ぐ皇室と律令体制に歯向かう、『古事記』と『日本書紀』の作成を指揮し【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える『万葉集』編纂を命令して没した日本古代史上の希代(きたい)の反逆児となった。

下記する『万葉集』117番は、舎人皇子が作った和歌である。

「大夫(ますらを)や 片恋せむと 嘆けども 鬼(おに)の益卜雄(ますらお) なほ恋ひにけり」

〔武士たる者、片恋するなんてみっともないことだ。吾は上古の【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命に片恋して熱烈に憧れる鬼道(おに)の武士(ますらお)だ。夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に恋して命を賭ける益荒男だ!〕

◆前述したように、「倭」から「日本」の国号改変の承認を得るための任務についた第7回遣唐使が中国に渡った702年当時、編纂スタッフは持統上皇が中国王朝に献上せんとした偽書の作成を拒絶することができた。なぜならば、当時最も強力な武将にして文武天皇よりもむしろ皇位継承順位が優る第三皇子の舎人皇子が歴史書編纂スタッフの頭領(黒幕)であったからである。

 中国の外交官が第7回遣唐使と面談した時の印象は、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝に下記のごとく記述されている。

「中国の外交官や王朝は自国で国号の改変を決定すればよいにもかかわらずなぜ倭は使節を派遣してまで中国王朝の承認を得ようとするのかと疑い、また国号改変の使節を派遣するならば当然日本と改変しなければならないかを説明する歴史書をなぜ作成せずに手ブラで中国に渡ってきたのかと疑った。さらに、これらの疑問の説明を求めると、彼等は大変自尊心が高く、なぜか言葉を濁して事実を答えようとしなかった。」

皇祖・天照大御神は、伊耶那美命の陵墓を作る時に多数の18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たちを殺して犠牲(いけにえ)にする徇葬を決行し、「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の母親たちの産道を狭くして一日に必ず千人ずつの胎児の頭を絞め殺す」と呪い誓った。このような天照大御神がおこなった歴史が後世に伝わらなくするために、持統上皇は「日本」への国号改変を中国王朝から承認を得るならば、後世の学者たちは必ずや〔天照大御神は日神であるから、日神から日本を連想して、日本という国号に改めた〕と騙されるにちがいないと企んだのである。

しかし、中国の外交官たちは国号改変にはなにか陰謀があるのではあるまいかと感づき、舎人皇子に偽書作成を阻止されて中国の外交官に一体なぜ歴史書を持ってこないだと怪しまれ、上皇の陰謀を成功させるための任務をつく遣唐使たちは良心に苛(さいな)まれて自分を誤魔化して自尊心を前面に示す態度をとった。というのも、事実を正直に述べれば帰国した時に死刑に処せられるので事実を語ることができなかったからである。

◆第7回遣唐使が「倭」と「日本」について説明した言葉は、中国の正史『新唐書』日本伝にも下記のごとく記載されている。

「後稍(のちやや)夏音を習い、倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に近し、ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の并(あわ)す所となる」

(1) 上記の「後稍夏音を習い」という文は「壬申の乱の、夏音文字の学芸に精通した天照大御神は偉大な先祖であったと後世へ伝えるために、少しだけ(稍々)夏音文字を習うすなわち復興する偽書を作れ。したがって、偽書には天照大御神が徇葬を決行した史実と【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を一日に必ず千人ずつ殺すと呪い祟った史実を削除せよ」という、持統上皇の命令を伝えるものであった。

712年に完成した『古事記』は、上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話において「天照大御神」を「伊耶那美命」と表記して、天照大御神がおこなった残虐な徇葬儀式と「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を必ず一日に千人ずつ殺す」と誓った冷酷な呪詛(じゅそ)を記述した。

夏音文字は日本国誕生史とその後の歴史の真相を科学的に伝える最良にして不可欠の方法であった。だから、持統上皇の「稍々」という欲求に逆らい、真実の歴史が解明できるように『古事記』上巻には〔音〕という注を付く多数の夏音文字を記載した。

(2) 上記の「倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す」という文は「倭女王伊耶那美命の死後に倭女王を継いだ天照大御神は残虐な徇葬を決行し、小国・日本の女王であった伊耶那美命が提唱した『【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を必ず一日に千人ずつ殺す』と呪い祟った。ゆえに人民は倭の名を憎み、〔愛〕の理念が提唱された小国・日本の国号の改変を欲求した」と伝えるものであった。

(3) 上記の「使者自ら言う、国日の出ずる所に近し。ゆえに名となすと」という文は「遣唐使が説明した日出ずる所に近い小国・日本は、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を題材にして詠む『万葉集』巻二十の4321番から4436番までの116首の防人歌の作者たちが出身した国々であった」と表現するものであった。

したがって、C図に示す防人たちが住んだ東海・関東地方が日出ずる所に近い小国・日本であったことになる。

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(4) 上記の「日本はすなわち小国、倭の并す所となる」は――C図に示す「防人の出身国の日本国」は小国であり、日本国より西側の「大きな西日本」が「倭国」であった。また、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命が小国・日本と倭国を併合した――と説明するものであった。

『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原╱おおゆのはら)を作る時に残虐な徇葬儀式を陣頭指揮した倭女王・天照大御神を憎悪した伊耶那岐命は、クーデターを起こして失脚させた――と記述する。

伊耶那岐命は後の第9代開化天皇である。『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の名は由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)と結婚した。第二后は開化帝の父・孝元天皇と結婚された継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった」と記述する。

開化天皇の居住した宮殿「伊耶河宮」と先頭から2字と「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字は「伊耶」で同字となる。だから、伊耶那岐命は開化天皇であった。また、開化天皇の正妃の「竹野比売」の愛称が「伊耶那美命」であった。『魏志』倭人伝に列記される小国「伊耶(いや)国」は竹野比売の出身国の「丹波」である。だから「丹波・伊耶国出身の竹野比売」は「伊耶那美命」と人民に尊敬されて愛称されていたことになる。伊耶那岐命・開化天皇の継母にして第二后の「伊迦賀色許売命」が「天照大御神」であった。

◆『古事記』上巻には『新唐書』日本伝の「後稍夏音を習う」という記事に登場する「夏音」は[]という注を付けて多数記載されている。

夏音文字は『古事記』上巻に記述された歴史の真相を科学的に解明できる最良にして不可欠の方法である。だから、夏音文字によって『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された真実の歴史が解明できる。

今日の学者のごとく「夏音文字は存在しない」と断定して、【誤読】に〔文献批判〕という偽名をつけて歴史を解明するパラダイム(考え方)だと必ず空理空論となる。

すべての邪馬台国説と日本神話学説は()歴史の真相を解明できる最良にして不可欠の科学的方法である夏音文字の学芸を抹殺した。だから、両説は()【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺する【誤読の空論】であったのである。

 

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