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2015年1月22日 (木)

朝日新聞社の社長様への直訴・4

朝日新聞の日本人大虐殺が始まった!

ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(18)

 

夏音文字の学芸を貯蔵・保存する4つの遺跡と天皇の王冠

 

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲」で幾度も証明したように、今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)、わが国に移住した名門益氏の王子(天祖)と若者たちがもたらした夏音(かおん)文字は習得された。この夏音文字は3世紀後半に著作された(1)『魏志』倭人伝の人名と幾つかの小国名に使用され、(2)712年に完成した『古事記』上巻に〔音〕という注が付いて多数の字が記載されて現存する。また、(3)『隋書』倭国伝と(4)『新唐書』日本伝は「わが国には夏音文字があった」と証言する。

また、夏代初頭に相当する秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石の万座遺跡・野中堂遺跡には、夏音文字の学芸が伝来した痕跡が明確に残る。

さらに、下記の4つの遺跡と天皇即位式に用いられる王冠には夏音文字の学芸が貯蔵・保存される。だから、わが国に夏音文字が存在したことは厳然たる事実である。

()私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた『魏志』倭人伝と同時代の3世紀後半に作成された遺跡。現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形

()「未だ夏音文字は習わず」と設計する大鳥の地上絵。現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形

() 京都市西京区桂清水町に所在する桂離宮の庭園

() 京都市左京区修学院室町に所在する修学院離宮の庭園

() 1738年に本格的に復興された皇室最大の神事である大嘗会(だいじょうえ)にて即位する天皇の頭上に掲げられる天皇の王冠・御菅蓋(ごかんがい)

上記した4つの確かな古文献と4つの遺跡と天皇の王冠に貯蔵・保存された夏音文字の学芸は、1725年に没した新井白石以後から現在までの学者たちが【誤読】の上に【誤読】を重ねる空論によって「存在しない」と抹殺された。

したがって、上記の4つの遺跡と天皇の王冠によって、現在のすべての邪馬台国説と日本神話学説は()古代史の真相を解明できる最良にして不可欠な方法の夏音文字の学芸を抹殺して、()【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺する空理空論・虚妄(でたらめ)であることが科学的に明確に証明されることになる。

この証明によって倭女王・卑弥呼が居住した王国・邪馬壱(やまい)国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であったことが明らかとなり、日本神話が証言する歴史は現在の学説とまったく異なって壮大な銀河ロマンに溢れるものであり、さらに夏音文字の学芸は古代エジプト文字(ヒエオログリフ)の字源・字形・字義の秘密を解明できる人類にとっても貴重な文化遺産であることを――これから数回のブログをもって証明する。

◆新井白石以前に作られた上記の4つの遺跡と天皇の王冠の意匠は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の最初の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を各々の方法で表現する。ところが、白石以後から現在までの学者たちは、淤能碁呂島の聖婚説話に秘められる【日本建国の〔愛〕の理念】を【誤読】を使って抹殺した。

A図は、ちょうど1千万坪の大鳥の形に設計された「卑弥呼」の地上絵である。この大鳥の地上絵の顔は「夏至の日の出の方向」を向いて「夏音文字」をあらわす。

A図に示すA地点は「卑弥呼」の地上絵を図化した経緯度原点となる。ちょうど1千万坪の大鳥の地上絵は緯度と子午線は精密に測量できない〔天の北極〕では、科学の法則にもとづき「卑弥呼」の地上絵を絶対に図化することはできない。したがって、「卑弥呼」の地上絵は緯度と子午線が精密に測量できる、B図の右上の〔[]をキャッチする方法〕で図化されたことになる。

現在の国土地理院の精密日本列島地図は、B図の右上に示す[]と同じく天頂緯度と子午線を測定して経緯度原点を旧東京天文台の子午儀の中心とする。この日本経緯度原点を基に三角形の網や鎖を形作り、その他の基準点を基にして日本列島地図は作製される。

A図の「卑弥呼」の地上絵は――国土地理院の精密日本列島地図の作製原理と同じくA地点を経緯度原点とし、A地点と同緯度となる滝峯不動尊を三角本点と定め、A地点と滝峯不動尊で経度線に対して29度の傾きとなる斜め線の交点となる八幡宮をも三角本点とした。この大三角を基にその他の基準点を設置して、「卑弥呼」の地上絵は作成された。

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(C) 2015 OHKAWA  

「卑弥呼」の地上絵によって、C図に示す『魏志』倭人伝の全15ヶ所の方位記事で示される対馬国から黒歯(こくし)国までの34小国名の位置と地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)が解明できる。C図は15ヶ所のすべての記事に対して一点の矛盾も一ヵ所の不合理も出現しないですべて合理となって【科学】が成立する。だから、『魏志』倭人伝には白石以後の学者たちのように“文献批判”という名の【誤読】を一点も加える必要がまったくないことになる。

◆C図の34小国名の夏音文字と楷書はじめ『魏志』倭人伝に用いられる夏音文字と楷書の字源・字形・字義(原義)は、D図に示す「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」であった。

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 中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)下伝は漢字の起源について「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、近くは諸(これ)を身に取り、遠くは諸を物に取る。ここにおいて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して文字は作られた」と説明する。

「仰いでは天象」とはD図の「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」である。天象の銀河各部は東から西へ、つまり東を前にして西を後にして日周運動する。ゆえに、天象の前()・後(西)の日周運動とは反対に、地上で観察すると西の銀河部が前に東の銀河部が後つまり前(西)・後()となる。この「前(西の銀河部)・後(東の銀河部)」が「俯しては地法」である。前述したように「地宜」はA図の「卑弥呼」の地上絵のごとき「平面的に図化した地図の形」であり、またD図の「34小国の地図の形」が「地宜」となる。

「地宜」の前に記される「鳥獣の文」は漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称である。漢字作成原理「鳥獣の文=鳥獣の足跡」は、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した。倉頡は(1)D図の銀河各部の形状から文字が作られたことを暴露した者、(2)文字(字源・字形・字義)を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者、(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者には神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。だから、白石以後の学者たちは(1)漢字の字源・字形・字義はD図の銀河各部の形状であったことに気づかず、(2)文字となった銀河各部には名称が存在しないので、私はD図に示すように銀河各部に名称を付けることにした。また、倉頡が定めた(3)の掟によって、原初漢字・夏音文字はわが国でも中国でも文字が書かれた資料が出土しない。このため、わが国と中国の学界において「夏代の文字」「夏音文字」と定められた文字は一文字も存在しない。

このようなD図の「銀河各部の形状」を「文字(字源・字形・字義)」とした夏音文字はC図に示す『魏志』倭人伝の小国名と「卑弥呼」などの人名に用いられ、『古事記』上巻の随所の〔音〕という注が付く1字1音文字で多数残った。この夏音文字は楷書で表記される。というのも、「楷書の字源・字形(原形)・字義」もD図の「銀河各部の形状」であったからである。『魏志』倭人伝には「卑弥呼が書く文字(夏音文字)と魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書は差錯(ささく╱相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港で点検・確認して間違いが生じないようにしていた」と証言する記事がある。伊都国の港ではD図の銀河を字書・辞典にして夏音文字と当時(3世紀)の楷書が差錯しないように正しく変換していた。したがって、夏音文字は上記した倉頡の(3)の掟を破った楷書で表記されて『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて多数現存することになった。

◆D図左上に、黒くつぶした「十字の銀河」がある。「十字の銀河」は今から紀元前31世紀末の五帝時代初頭から紀元前3世紀の秦代まで、中国とわが国の天頂にめぐってきた。倉頡はE図に示すように、「十字の銀河の西半身」に〔乳房、妊婦のおなか〕に相似する部分があり、腰の部分に「子宮」に相当する部分があることに注目した。ゆえに、倉頡はD図の銀河各部の形状から生まれたすべての文字は、「十字の銀河を母体にして生まれる」と定めた。したがって、「すべての文字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。それゆえ、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。だから、E図の[]の金文形は「妊婦の姿」を図案するものとなった。

そして[]の字源の「十字の銀河」は「すべての文字を生む母体」であったゆえ、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称は「鳥獣の文」となったのである。

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F図に示すように、「すべての文字を生む母体の十字の銀河」は[(べん)]となり、「鬼の姿に似る銀河」は「十字の銀河を母体として生まれるすべての子」と定められた。ゆえに、[][]が加わって、[]の文字が形成された。F図の[]の字源解明図は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」をあらわすことになった。

倉頡伝説の「倉頡には目が四つあった」という伝承を、学者たちは“荒唐無稽(こうとうむけい)の話”と断定した。しかし、F図の「鬼の横顔の両目」と「鬼のアゴと後頭部につく両目」で目は四つとなる。[]の字源となった「目が四つある鬼の姿に似る銀河」は[][]と字源・字形・字義となった。したがって、「倉頡は目が四つあった」という伝承は、F図が示すように「文字は銀河各部の形状から作られた。倉頡は漢字作成原理を発明した」と伝承するものであり、学者たちは早合点して“荒唐無稽”と断定したことになる。

◆『魏志』倭人伝は「その道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」と証言する。

C図の転回日本列島地理像を、G図の中央下部に示した。転回日本列島地理は会稽・東治のに所在するので正しい。しかし、G図中央上部に図示した学界の実際の日本地図は会稽・東治の東北に所在して矛盾する。

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G図中央に示す北九州の沖の「玄界灘」は「緯度が精密に測量できない〔天の北極〕で玄界灘を渡るとその荒波のために〔天の北極〕による緯度測量は誤差が大となるため命を落とす。他方、〔[]のキャッチ(B図)〕ならば精密に緯度と子午線が測定できて往来することができる灘(陸地から離れた波の荒い海)」と意味した。

したがって、G図に示す学者たちの立論基盤となる実際の日本地図は〔天の北極〕を基準にして方位を定めるゆえ、倭と魏・帯方郡の使節は玄界灘を往来できなかったことになる。ゆえに学者たちの主張だと、倭と魏は国交を結ぶことができなかったことになるので約2000字で構成される『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていない白紙であったという、まったく辻褄(つじつま)のあわない荒唐無稽の話となる。

だから、「玄界灘」によって直ちに白石以後の学者たちが主張するすべての邪馬台国説は【誤読の空論】であったと断定できる。

 H図に示すように、玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうずしま)は同緯度(北緯3415)である。沖ノ島は日本列島の西端に在り、神津島は日本列島の東端に在る。日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島は遥か遠くに離れるが、B図に示す〔[]のキャッチ〕ならば同緯度であることが測量できる。しかし、〔精密に測量できない天の北極の高度を緯度に換算する方法〕だと、沖ノ島と神津島が同緯度であることは測量できない。

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(C) 2015 OHKAWA

 I図に示すように、中国海岸線の北部は冷たい気候であるので〔北冷〕となり、日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降るゆえ〔西冷〕となり、中国海岸線地域の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕は冷たい気候で合致する。中国海岸線の南部は暖かいゆえ〔南暖〕、日本列島の東端の亜熱帯地区の神津島は一年中暖かいから〔東暖〕となる。中国海岸線の〔南暖〕と日本列島の東端の〔東暖〕は暖かい気候で合致する。だから、卑弥呼王朝は――日本列島の東は会稽・東治がある中国海岸線の南の方に伸びている――と、I図左側とC図に示す転回日本列島地理を制定したのである。 

上記したように、『易経』繋辞下伝にある漢字の起源記事は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る云々」と記す。

B図右上に示す「〔玄〕を観測して測定した方位」が「近くはこれを身に取る」をあらわし、I図の「中国海岸線地域を基準にして制定した転回日本列島地理」が「遠くこれを物に取る」をあらわす。夏音文字の学芸の方位規定では、〔[]をキャッチした地所近くの方位規定〕と〔遠くの物との方位規定〕とは両者が独立して異なるものであったのである。

したがって、C図の転回日本列島地理は厳然たる歴史的事実であり、卑弥呼王朝の根本的政権基盤であった夏音文字の天文地理学の原則から生まれた錯覚の地理だったのである。

2世紀初頭に成立した“字書の聖典”とされる後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。「至高にして上なし」は「それ以上の上が無い、最も高い天体部」と意味するゆえ、B図に示す「天頂緯度。天頂点」を『説文解字』は「[]の字源・字形・字義である」と解説していることになる。

ゆえにF図の[]の字源となる「十字の銀河」が、J図に示す[]の字源となった。『説文解字』は[]の字源を「一大に従ふ」とも解説するゆえ、「十字の銀河の子宮」は[]の字源、大字形の「十字の銀河」は[]の字源となった。

五帝時代初頭から秦代まで、「十字の銀河」は中国とわが国の天頂にめぐってきて精密に天頂緯度と子午線が測定できる基準(ものさし)となった。ゆえに、大海を往来する人々、遠くの地に旅する人々、山野や森林で迷った人たちは「十字の銀河」に命を委(ゆだ)ねて生きのびるかそれとも野ざらしの骸骨・白骨体になって死ぬかの運命に分かれた。

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K図左図に示すように、「十字の銀河」は[()]すなわち「穀物」の字源・字形・字義となった。また「十字の銀河」は[]に〔すべての文字の母体〕となる[(女性)]が加わって[]の字となった。「十字の銀河」は〔人の正面・背面・側身の形に観える〕ので[]の字となった。[][人偏][]の字が加わって[]の字が成立した。

K図左図に示すように、[]の字源は「時計回りに南が西になる・90度転位する方位」をあらわした。K図右図に示す[]の転回方位はC図とI図左図の「日本列島の東が中国海岸線の南部の方に伸びる転回日本列島地理の方位規定」となった。

『魏志』倭人伝は「卑弥呼が統治した国の名は倭であった」と記載する。C図のごとく「時計回りに日本列島の東は南になる」と制定したために国号は「倭」となったのである。

◆C図に示す「転回日本列島地理」を、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話は「淤能碁呂島」と表記した。

日本列島は大海中に在る。ゆえに、「大海に包囲される日本列島の地底は淤(どろ)のようにやわらかくなっており、[]の字のごとく90度方位を転回するようになっている」ということになった。

『説文解字』は[]の字源を「熊の属なり」と解説する。熊は縦穴と横穴の巣に冬ごもりする。ゆえに、「淤能碁呂島」の[]は「[]の字源をあらわす90度の転回方位」をあらわした。

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[]の字義は「碁に用いる石」であるゆえ、[]はH図の〔沖ノ島と神津島〕を指す。

H図に示した沖ノ島と神津島の両島の北端の緯度の差はわずか30秒ぐらいしか違わない。宗像市沖ノ島には宗像大社三宮のうちの沖津宮があり、L図左図の宗像市大島には中津宮が鎮座する。L図に示すように、大島と神津島の両島の地宜は「十字の銀河の子宮」の形に類似する。大島の中津宮と神津島の物忌奈命(ものいみなのみこと)神社の緯度の差は18分である。が、大島と神津島の地宜は夏音文字の学芸で最も重視された「十字の銀河の子宮」に形に類似する、これを優先すると[]は〔玄界灘に浮かぶ大島と神津島〕と考えてもよいことになる。

M図に示すように、「女性の骨盤口の形」は「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」の形に相似する。

これゆえ、N図に示すように「十字の銀河の頭部の暗黒天体部と十字の銀河の骨盤口に相当する部分」が上下の[]の字源となり、[]の契文(甲骨文字)の字形となった。『説文解字』は[]の字源を「脊骨(せきこつ)なり。象形」と解説する。したがって、[]の篆文(てんぶん)形中央の上下の[]を結ぶ[]の字源は「脊柱(せきちゅう)の骨」となる。

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E図とF図に示すように、漢字の造字法において「十字の銀河」は〔縦〕となりあるいは〔横〕となったゆえ、K図に示す[]の「90度の方位の転回」をあらわすことになった。

以上のごとく、C図の「転回日本列島地理」は「淤能碁呂島」と称された。だから、「転回日本列島地理=淤能碁呂島」は、K図の[]の字源をあらわした。

◆D図右下の「夏の銀河の西南部」は天頂を通過した「十字の銀河」から遠く離れた西南部に在る。ゆえに、[]の「転回方位論」はK図の「十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河」とO図の「夏の銀河の西南部」から確立された。というのも、K図の「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の距離は短いゆえ「近くはこれを身に取る」というイメージとなるゆえ、「十字の銀河」が天頂にめぐってきた時にはるか遠くの西南部にある「夏の銀河の西南部」の形状にもとづいて「遠くはこれを物に取る=[]の転回方位論」が確立された。

O図中央図に示すように、「胎児の姿に似る銀河」は銀河系宇宙の中心方向の回転にしたがって、[]の字源「南から西へ90度転位する転回方位」をあらわす。というのも、P図に示すように、「夏の銀河の西南部」のうち「胎児の姿に似る銀河」は「女性の生殖器や腹部」に相当し、「巨龍の銀河」は「直腸・腰椎・仙骨・尾骨など」に相当するからである。

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O図左側の写真「夏の銀河の西南部」の形状を、藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社)は「わが銀河系の中心方向にむらが無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と記す。

白川静著『字統』は、Q図の[]の字源を「声符は云(うん)。云は雲の初文。のち、雨を加えて雲となった」と解説する。ゆえに、[][]の古文形と契文形は同一である。

Q図の「鬼の横顔に似る銀河の口」は「云う口」である。ゆえに、「十字の銀河の子宮から鬼の横顔に似る銀河の口までの銀河部」が[][]の字源となった。また、『透視版 星座アルバム』は「銀河系の中心方向は入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と指摘するように、O図中央図の「夏の銀河の西南部」は[][]の字源となった。だから、『説文解字』はO図の銀河系の中心方向の形状を観て、[]の字源を「山川の气なり。雨に従ふ。云は雲の回転する形に象(かたど)」と解説した。

O図の「夏の銀河の西南部」の〔湧きずる入道〕のイメージが「出雲」となった。

『古事記』上巻の須佐之男命の大蛇退治説話における〔須賀の宮〕の箇所に、須佐之男命が櫛名田比売(くしなだひめ)への愛を詠む「八雲立つ 出雲八重垣(やえがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」という和歌がある。

淤能碁呂島の聖婚儀式をおこなって小国・日本の女王となった伊耶那美命は、O図中央右図の「胎児の姿に似る銀河」を見て日本国の国作りの柱を〔愛〕と定めた。これが【日本建国の〔愛〕の理念】となった。伊耶那美命から生まれた息子の須佐之男命は【日本建国の〔愛〕の理念】すなわち「男性と女性が愛し合って、多数の子ども生み、愛(いつく)しんで育てる」という理念を題材にして「八雲立つ 出雲八重垣 云々」と詠んだのである。

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A図に示した「卑弥呼」の地上絵の中央を都田(みやこだ)川の水が東から西へ流れて、浜名湖の支湖となる引佐細江(いなさほそえ)へと流れ込む。

R図に示すように、〔都田川流域の沖積(ちゅうせき)平野の地宜〕は「出産する胎児の姿」に相似する。「出産する胎児の姿」は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

だから、「卑弥呼」の地上絵は夏音文字の学芸をもって【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える――これを目的にして作られた遺跡であった。この【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとする先人たちの願いは、遂に1738年に即位する天皇の王冠の意匠となって結実した。3世紀後半から18世紀まで続いたますらおたちの“愛、あざやかに永遠であれ”という熱き願いと魂は、白石以後の学者たちの【誤読の空論】で抹殺された。

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