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2015年1月26日 (月)

朝日新聞社の社長様への直訴・5

朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(19)

■信長と家康の生涯は邪馬台国学説と日本神話学説が【誤読の空論】であると証明する
 

234年ころ、小国・日本は『魏志』倭人伝末部に登場する卑弥呼の宗女(そうじょ╱倭女王卑弥呼が率いる巫女界を代表する女性)に選ばれた13歳の壱与(いよ)が赴任して誕生した。夏音名の「壱与」の愛称は「伊耶那美命」、本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。
 前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・4」で証明したように、『魏志』倭人伝は夏音文字の学芸にもとづき「卑弥呼王朝は、東に伸びる日本列島を南に伸びると定める錯覚の転回日本列島地理を制定していた」と証言する。この証言は一点の矛盾点も一ヵ所の不合理な箇所も無いゆえすべて合理となって【科学】が成立する。
 だから、A図に示すごとく卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定していた。A図の「日本列島の東が南に伸びる」という「時計回りに90度転位する転回方位規定」は、B図に示す[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、A図の転回日本列島地理を制定して卑弥呼が統治した国家の名称は[]となった。
 A図の転回日本列島地理を、『古事記』上巻は「淤能碁呂島(おのごろしま)」と記載する。[]の字義「どろ」であり、「日本列島の地底は淤(どろ)にようになる」とされた。[]は「熊が冬ごもりする縦穴と横穴」であり、[]は転回日本列島地理が成立した「碁石の石のごとくの日本列島の西端の沖ノ島と東端の伊豆諸島の神津島」であり、[][]と同じく[]の字を成立させる「時計回りに90度転位する転回方位規定」をあらわした。


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  要するに、A図の「転回日本列島地理」=B図の[]の字源・字形・字義=『古事記』上巻に登場する「淤能碁呂島」であった。

◆わが国には、今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に夏音(かおん)文字が伝来していた。この原初漢字・夏音文字は3世紀後半に著作された(1)『魏志』倭人伝の人名と幾つかの小国名に使用され、(2)712年に完成した『古事記』上巻に〔音〕という注が付いて多数の字が記載されて現存する。(3)『隋書』倭国伝と(4)『新唐書』日本伝には「わが国には夏音文字があった」と明確に証言する記事がある。
 夏音文字は〔秋の銀河と夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義と定める原初漢字〕であった。また、約5000年前の“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)が定めた(1)秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露した者、(2)文字(字源・字形・字義)を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者、(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者には神罰が下って即刻に死刑に処せられるという、3つの掟を夏音文字は厳重に守った。ゆえに、(1)の掟によって学者たちは夏音文字も後世の楷書の字源・字形・字義は銀河各部の形状であることにまったく気づかず、(2)の掟によって星座よりも断然明確な形を有する銀河各部には名称が存在しないので、私は銀河各部の名称を作った。そして、(3)の掟によって、わが国でも中国でも学者によって夏音文字であると断定された資料が一点も発掘されていない。
 しかし、上記したようにわが国に伝来した銀河各部の形状を文字とした夏音文字は『魏志』倭人伝の人名と小国名に用いられ、『古事記』上巻に〔音〕という注が付き――多数の夏音文字が楷書で表記されて現存する。楷書の字源・字形(原形)・字義もまた夏音文字と同じく銀河各部の形状であった。だから、夏音文字は(3)の掟を破った楷書に変換できた。その証拠に太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序の末部で「楷書の日下(にちげ)と夏音文字の玖沙訶(くさか)の字源は同一の銀河部であるから同義、楷書の帯(たい)と夏音文字の多羅斯(たらし)の字源銀河部は同一であるから同義である」と解説する。
 夏音文字は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻はじめ幾つかの古文献に記述された真実の歴史を解明できる科学的な方法である。しかし、1725年に没した新井白石以後の学者たちは【誤読】に【誤読】を重ねて「わが国には夏音文字は存在しない」と断定した。
 
 したがって、白石以後の学者たちは自らがおこなう【誤読】のために『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された歴史的事実を科学的に解明する方法の夏音文字の学芸を抹殺したために、その結果偽りの歴史を立論し主張することになった。

◆わが国には今から約4050年前、夏音文字の学芸が習得されていた。その証拠に、約5000年前の五帝時代の黄帝につかえた史官であった倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」が、わが国では失われずに正確に保存された。
 倉頡の時代から紀元前3世紀の秦代まで、中国と日本列島の天頂にC図左上に黒く塗りつぶした「十字の銀河」がめぐってきた。

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 D図に示すように「十字の銀河」の西半身には乳房・妊婦のおなかに相似する箇所があり、子宮の相当する箇所がある。ゆえに、倉頡は――C図の銀河各部から作られたすべての文字は「十字の銀河」を母体にして生まれるようにすれば、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を作成できる――という漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。
 E図の[]の字源解説図が示すように――「十字の銀河」は「すべての文字が生まれる母体」となって[(べん)]の字源・字形・字義となり、「鬼の姿に似る銀河」が[]の字源・字形・字義となって「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から生まれたすべての子(文字)」をあらわし、[]の下に[]が加わる[]の文字が形成される。この[]の字源銀河は、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を今日に伝えるものとなる。
 前述したように、A図の転回日本列島地理・淤能碁呂島はB図の[]の字源をあらわして「倭」という国号になったが、この[]の字源はF図に示す「夏の銀河の西南部」からも成立した。F図の「夏の銀河の西南部」は、C図左上の「十字の銀河」から遠く離れてC図の右下にある。
 F図中央図に示す「夏の銀河の西南部の東半分の形状」はG図に示す「胎児の命を守る女性生殖器と直腸や腰椎(ようつい)・仙骨・尾骨など」に類似すると見立てられた。ゆえに、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」によってB図の「十字の銀河の南にある禾(イネ)の穂が鬼の横顔に似る銀河がある西に垂れる様子」とF図の「胎児の姿に似る銀河の南から西へ転回する様子」は、漢字学における重大な定理[]の「転回方位」をあらわすことになった。
 F図の「夏の銀河の西南部」の形状を、藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社)は「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のように迫力に満ちた姿でせまる」と指摘する。

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 だから、F図の「夏の銀河の西南部」は[]の字源となり、「湧きずる入道」を略すると「出ずる雲」つまり「出雲」という語になった。
 H図に示すように、「十字の銀河の子宮から鬼の横顔に似る銀河の口までの銀河部」もまたF図の「夏の銀河の西南部」とともに[]の字源となり「出雲」の語源となった。また、この[]の字源銀河部は「ことばを云う」のイメージとなるので、[(うん)]の字源となった。だから、[][]の古文・契文(甲骨文字)の字形は同一形である。
 字書の聖典”とされる2世紀初頭に成立した後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字』は、「山川の气なり。雨に従ふ。云は雲の回転する形に象(かたど)」と解説する。『説文解字』の「云は雲の回転する形に象る」という字源解説は、F図中央の「夏の銀河の西南部における銀河系の中心方向の形状」に合致する。

◆上記したように、伊耶那美命は卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理をあらわす淤能碁呂島の聖婚(せいこん)儀式をおこなって小国の日本の女王となった。
 A図の錯覚の転回日本列島地理をあらわす淤能碁呂島の聖婚儀式は、[倭]の字源となるB図の「禾(いね)の穂」とF図中央の「胎児の姿に似る銀河」を演出するものであった。
 F図の「胎児の姿に似る銀河」は「男性と女性が愛し合って多数の子どもたちを生み、両親が愛(いつ)しみあって子どもたちを育てる」すなわち「愛」をあらわした。
 だから、壱与・伊耶那美命は〔愛〕を掲げて小国・日本の国作りに励んだ。
 伊耶那美命の小国・日本の国作りの柱となった〔愛〕は小国・日本の人民に尊重され、また倭国の人民にも尊重された。だから、〔愛〕は【日本建国理念】となった。
 【日本建国の〔愛〕の理念】は、『万葉集』巻二十の4321番から4436番までの116首の防人歌(さきもりうた)で表示されている。この116首の内の110(95パーセント)は、筑紫・壱岐・対馬など北九州の守備にあたる兵士となった防人たちが妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の歌である。116首のうち天皇について詠む和歌は4370番と4373番の2首のみで、他の4首は愛の和歌でもなく天皇を詠む歌でもない。小国・日本に住む人民たちは伊耶那美命を敬愛して【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重した。だから、防人たちは【日本建国の〔愛〕の理念】を題材にした和歌を作った。したがって、伊耶那美命が女王となって赴任した小国・日本は、I図に示す東海・関東地方であった。

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(C) 2015 OHKAWA


 F図中央の「夏の銀河の西南部」とH図の[]の字源は「出雲」の語源となり、F図の
「銀河系の中心方向の西隣にある胎児の姿に似る銀河」によって、「出雲」は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことになった。

◆『古事記』上巻には、伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話がある。
 J図に示す熊野は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台となった。この説話では、J図下部に示す「神倉(かんのくら)神社の参道」は「黄泉比良坂(よもつひらさか)」と表記された。この説話における最後の文は「今(『古事記』が完成した712年当時)出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂()ふ」である。だから、『古事記』が完成された当時、「熊野」は「出雲国」と呼ばれていた。『古事記』は「黄泉比良坂」は「出雲国の伊賦夜坂」であったと証言する。この「黄泉比良坂」は「神倉神社の参道」である。そして神倉神社に祭られる主祭神は「天照大御神」である。『古事記』は「伊耶那美命を号して黄泉津大神(よもつおおかみ)である」と記す。したがって、「神倉神社の主祭神の天照大御神」が「伊耶那美命」にして「黄泉津大神」であったことになる。
 編纂スタッフは、「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺して、【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し呪い祟った天照大御神を絶賛する偽書を作成せよ」と欲求する朝廷の命令に背き、真実の歴史を記述する『古事記』を作成して正史にしようと企んだ。当時、『古事記』を正史にするためには「多数の青年と乙女たちを犠牲(いけにえ)にして殺して伊耶那美命の墓に埋めた残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した天照大御神」を「天照大御神」と書くわけにはいかなかった。そこで編纂スタッフは、皇室の崇拝する至上神「天照大御神」を自分たちが崇拝し敬愛する「伊耶那美命」に「神」の字を加えた「伊耶那美命」と表記することにした。これゆえ『古事記』序に「夏音文字は真実の歴史を科学的に解明できる方法である」と指摘する文を秘めやかに挿入(そうにゅう)し、『古事記』上巻を夏音文字の学芸を用いれば真実の歴史が解明できる仕組みにした。
 この謀略・仕掛けに気づいて『古事記』献上を拒絶した元明天皇は、『古事記』が完成した翌71352日、「全国(畿内・七道諸国)の郡郷の名に好字(よきじ)を著()(郡・郷の地名に好きな字・二字で表記せよ)」と命令する風土記編纂を命令した。風土記編纂は伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部の「今出雲国の伊賦夜坂と謂ふう」と文に登場する「出雲国」はじめ伊耶那美命が提唱して伊耶那岐命が受け継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える郡・郷はじめ山川原野などの地名の由来や古老たちが【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える古伝承や珍しい話を廃絶するための事業であったのである。なぜならば、夏音文字の学芸では、「出雲」という地名はじめA図が示す地名(小国名)と地宜(平面的に図化した地図の形)は字源をあらわして真実の歴史を伝えることができたからである。
 J図下部の熊野那智大社の主祭神は【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命であり、熊野速玉大社の主祭神は【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那岐命である。J図左上の熊野本宮大社の主祭神は伊耶那美命と伊耶那岐命が結婚して生まれた須佐之男命である。だから、J図の「熊野」は「出雲国」と呼ばれた。
 しかし元明天皇が命令した風土記編纂事業によって、神倉神社の参道(黄泉比良坂)や三熊野(那智大社・速玉大社・本宮大社)一帯が「出雲国」と呼ばれていた事実が消滅された。
 須佐之男命は母伊耶那美命と父伊耶那岐命の遺志を継ぎ、A図に示す卑弥呼が居住した邪馬壱(やまい)国に移住した。ゆえに、邪馬壱国の中心地である現在の「島根県東部」は「出雲」と呼ばれることになった。『古事記』上巻の須佐之男命の大蛇退治説話には、櫛名田比売(くしなだひめ)と新婚生活に入る時に須佐之男命が「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣作る その八重垣に」と作った和歌が掲載される。この和歌に登場する「出雲」は生母・伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

◆『魏志』倭人伝末部は「卑弥呼の没後、男王が倭の大王となったが、卑弥呼が没した時に百余人の奴婢 (ぬひ╱18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女)を殺して卑弥呼の墓に埋める徇葬を憎悪する反乱がおきて倭の政府軍は千余人の反乱者を殺した。この反乱を鎮めるために、小国・日本の女王の壱与(伊耶那美命)を倭国に帰還させて倭女王に就任させた。倭女王となった〔愛〕の女王・伊耶那美命を信頼して反乱者たちは武器を捨てた。ゆえに、倭の反乱は遂に平定された」と記述する。
 『魏志』倭人伝末部に登場する「載斯烏越(そしあお)」は「小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命」であった。伊耶那岐命は後の第9代開化天皇であり、伊耶那美命(正妃)と天照大御神(2)の夫であった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は「伊耶那美命は没した。伊耶那美命の後を継いで倭女王に就任した天照大御神(伊耶那美)は、伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原╱おおゆのはら)に、多数の青年と乙女を殺して埋める徇葬を陣頭指揮した。伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む戦士たちの協力のもとに、多数の徇葬者とともに葬られた伊耶那美命の墓から棺を奪うクーデターを起こし、J図に示す現在の熊野速玉大社の境内にて伊耶那岐軍は倭の政府軍を撃破した。捕虜となった天照大御神(伊耶那美)は、J図に示す現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体である千引石(ちびきのいわ╱現在の“ごとびき岩”)の前で伊耶那岐命に離縁を告げられた。この離縁と倭女王失脚に怒った天照大御神は『伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなるように呪(のろ)い祟(たた)って一日に千人の胎児の頭を狭い産道で絞め殺す』と誓った。この呪詛(じゅそ)に対して、伊耶那岐命は『吾は一日に千五百の産屋が立つようにする』と述べ、【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐと誓った。この【日本建国の〔愛〕の理念】によって、わが国では一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれることになった」と記述する。
 上記したように、千引石(神倉神社の御神体の“ごとびき岩”)の前で天照大御神が「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしら)り殺さむ」と呪った誓いは「【日本建国の〔愛〕の理念を尊重する母親たちの狭い産道の箇所(子宮頸管╱しきゅうけいかん)で必ず一日に千人の胎児の頭を絞め殺す」と意味するだけではなかった。「是(これ)を以()ちて一日に必ず死に、一日に必ず千五百人生まるるなり」という文で、「わが国では【日本建国の〔愛〕の理念】を最も尊重することになったので絶対に人口減がおこらないようになった」と伝えている。
 しかし、現在、千引石の前で伊耶那岐命がおこなった誓いは夢幻(ゆめまぼろし)と化した。現在、わが国は【日本建国の〔愛〕の理念】によって絶対に少子化が起きないはずの人口減が加速度的に進み危機的状況に陥った。20141219日の朝日新聞は――政府自ら人口減対策には「決定打はない」と発表した――という記事を掲載した。この新聞記事によると――2020年代初めには年60万人程度減少し続け、2040年代ごろには年100万人程度まで加速し、出生率向上が5年遅れるごとに将来の定常人口はおおむね300万人ずつ減少することになると、政府は「待ったなしの課題」と強調した――とのことである。
 
学者たちは「夏音文字は存在した」と証言する『魏志』倭人伝・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝・『新唐書』日本伝の記事に【誤読】の上に【誤読】を重ねて夏音文字の学芸を排除する。この学者たちの【誤読の空論】によって、日本人にとって絶対に失うことができない【日本建国の〔愛〕の理念】が排除された。この結果、政府が「決定打となる対策はない」「待ったなしの課題となった」と発表する段階まで追いつめられて、今や日本は人口減で困窮しやがて衰退し滅亡する危機的状況に陥ったのである。

1562年1月、29歳の織田信長と21歳の松平元康は世にいう“清洲 (きよす)同盟”を結んだ。江戸時代の幕臣の木村高敦(たかあつ)が著した『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』は、清洲同盟で信長は「和議早速御許諾欣然(わぎさっそくごきょだくきんぜん)タリ 此上(このうえ)ハ両旗ヲ以て天下一統スベシ 今ヨリ水魚ノ思(おもい)ヲナシ互(たがい)ニ是ヲ救(すくわ)ン事聊(いささか)モ偽リ有(ある)ベカラズ」と書く起請文 (きしょうもん)を作ったと記す。そして、信長は小さな紙に“牛”という字を書いて、それを三つにちぎり、信長と元康と同盟を斡旋(あっせん)した信元 (のぶもと╱元康の生母の於大の兄)の三人で茶碗の水に浮かべて飲んだとのことである。この“牛”という字を書く小さな紙をちぎって飲んだ儀式は、K図に示す伊耶那美命を祭る熊野那智大社の牛王神璽(ごおうしんじ)に誓うものであった。熊野三山(那智大社・本宮大社・速玉大社)では年の始めに牛王を刷る神事が今も残り、那智大社の牛王神璽祭が最も古式を伝えるもので、牛王に誓った約束を違反した者に牛王神璽の紙の一片を飲ませると血を吐くと伝わる。

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(C) 2015 OHKAWA


 この清洲同盟で信長と元康は熱烈に伊耶那美命に憧れていることを示した。
 二人にとって天下統一はあくまでも手段であって、この世に生きる目的は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興することであった。
 清洲同盟を結んだ翌年、元康は家康と改名した。25歳の時、家康は姓を「徳川」に改める勅許(ちょっきょ)を得た。家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされる仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちに“律儀(りちぎ)な人よ”と皮肉られ陰口をたたかれた。家臣たちには信長に卑屈に従うものと思われても気にとめず、わが心願を信長公が成就してくれると喜び愚直にひたすら20年ものあいだ信長の補佐役に徹した。
 清洲同盟から9年後の1571年、信長は比叡山を焼き打ちにして山上山下(さんじょうさんげ)の僧侶から老若男女まで数千人を殺した。天台宗総本山の比叡山は「天照大御神は天台宗の本尊である大日如来である」という神仏習合説をとなえて、天照大御神が残虐な徇葬をおこない【日本建国の〔愛〕の理念】を崇拝する人民を憎悪した史実を消滅させて、皇室から多大な庇護を受けて日本の宗教界に君臨した。ゆえに、伊耶那美命に熱烈に憧れる信長の“真実をまもるべき宗教が真実の歴史を葬って自らの利益を貪(むさぼ)る所業はあまりにも醜悪”と怒る怨念(おんねん)はすさまじく、比叡山を容赦なく焼き打ちした。織田家の先祖は福井県丹生(にゅう)郡織田町に所在する織田剣(つるぎ)神社の神官であった。また、夏音文字の学芸に精通する倭王権の祭祀を担当した忌部(いんべ)氏の血を継いでいた。このため、信長は夏音文字の学芸にくわしく『古事記』上巻に記述された歴史の真相を知っていたと考えられる。
 家康は駿河の今川義元の人質となって軍師の臨済宗妙心寺派の高僧の大原雪斎(たいげんせっさい)8歳から14歳までの7年間、夏音文字の学芸の教育を受けた。雪斎の宗派の臨済宗妙心派の寺院である竜安寺(りょうあんじ)の石庭は、現在の私たちでも【文字】はC図の【銀河各部の形状】であるという学芸が習得できる施設である。ゆえに、雪斎は夏音文字の学芸に精通していた。家康は雪斎から今川義元が天下を取った時の補佐役になるための教育を厳しく受けた。これゆえ、家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされても裏切らずに、あきれるほど我慢強く心願成就のために20年ものあいだ愚直に信長につかえた。
 158262日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれた。
 光秀が本能寺を急襲した時に信長は弓を引き槍を手に取って奮戦したが、燃え上がる火炎に包まれて没した。『古事記』は「伊耶那美命は火之迦具土神 (ひのかぐつちのかみ╱鉄の刃先の農具を作る製鉄事業)を生むときの火災事故で火傷を負って没した」と伝える。だから、信長は伊耶那美命の懐(ふところ)に抱かれて49歳の生涯を閉じたことになる。
 信長と家康は伊耶那美命に熱烈に憧れ、夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生をささげた。

 したがって、二人の意見はA図のごとくであった。そして、二人はF図とH図のごとく[]の字を解釈し、I図とJ図のごとく日本古代史を考えていた。だから、現在の学者たちが主張する邪馬台国学説と日本神話説は正真正銘の【誤読の空論】であったのである。

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