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2015年1月31日 (土)

朝日新聞社の社長様への直訴・6

朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
 
ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(20)

■信長、家康、井伊氏の
【日本建国の〔愛〕の理念】の復興の熱き願い(1)

 
◆太安万侶(おおのやすまろ)が書く『古事記』序の初頭には(1)「しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()し」と、直後に続く(2)「陰陽ここに開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文がある。
 上記の(1)(2)の文は、信長と家康が結んだ清洲同盟と密接にかかわる。
 (1)の文を、安万侶が生存した8世紀ではなく、時代を現在に移して注釈を加えて訳するとかなり長くなるが下記のごとくなる。
――今から約6000年前、日本列島の天頂に、「乾坤」すなわち「天」と「地」のイメージとなる銀河がめぐってきた。この今から約6000年前から始まる前期縄文時代の天頂を通過した銀河部はその形状から「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と呼ばれる神となり、今から約5000年前から始まる中期縄文時代の天頂を通過した銀河部はその形状から「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」、という名の神となり、そして今から約4050年前の後期縄文時代の天頂を通過した銀河部はその形状から「神産巣日神(かむむすひのかみ)」と呼称される神となった。このような前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの参神は、土器・土偶などを作った造化(造形芸術)の神々であった。
 今から約4050年前の神産巣日神の後期縄文時代初頭(中国では夏代初頭)、“夏()の始祖”の帝禹()の後を継いだ帝益の孫の王子(『日本書紀』神武天皇紀初頭に登場する天祖╱てんそ)と若者たちが大海を越えて日本列島に移住した。この名門益氏について、司馬遷『史記』五帝本紀は――五帝最後の帝舜(しゅん)の時代に「虞()」という重職に任命された――と記す。「虞」とは「中国海岸線の精密な地図を作製する官職」であった。益氏は代々200年余の間、「虞」の重職についた。ゆえに夏代初頭、益氏の頭領は帝禹の補佐役となり、禹から帝位を譲位された。禹は五帝時代以来の国家を作らず多数の氏族から最も優れた人物を帝に選ぶ氏族共同体制の王道政治の継続を望んだ。しかし、息子の啓(けい)は国家を作って特定(禹・啓)の家が代々帝となる世襲王朝国家体制に変革することを望んだ。だから、禹は補佐役の益に氏族共同体制の継続を託して益に天下をさずけた。益が帝に就くと、諸侯(氏族の頭領・王たち)は益のもとを去って、啓のももとに入朝した。これゆえ、益は禹の三年の喪が終わると啓に帝位を譲って箕山(きざん)の南の地に隠居して、禹の遺志・氏族共同体制を新天地・日本列島にて継続させると決意した。
 中国と日本列島は荒波逆巻く大海で隔てられる。老いた益は幾日も小舟を漕いで大海を渡ることができる体力を失っていた。ゆえに、禹の遺志を継ぐ日本列島移住事業は太い腕と屈強な体力を有する孫の王子(天祖)と益氏の若者たちによってなされた。夏音文字の学芸に精通する名門・益氏の若者たちは最先端の精密中国海岸線地図を携えて日本列島に移住した。しかし、縄文人には益氏が話す夏音の言葉はチンプンカンで理解できなかった。益氏が有した夏音文字の学芸は、A図に示す「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」が「字源・字形・字義」となった。一方、日本列島に居住する約2000年の造化参神の伝統を受け継ぐ後期縄文時代初頭の芸術家たちは、A図の銀河各部の形状を観て土器・土偶を作った。だから、夏音の言葉は理解できなくても、益氏が銀河部を指差し、地面に図を描き、手振り身振りで伝えようとする夏音文字の字源・字形・字義を、芸術家たちには理解できて習得された。
 以上のごとく、太安万侶は「参神造化の首(はじめ)を作()す」という短い文で「参神造化の伝統を受け継ぐ芸術家たちは益氏がもたらした夏音文字の学芸を習得した。この後期縄文時代初頭が夏音文字の学芸の始まりである」と表現した。

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(C)2015 OHKAWA 



 夏音文字の文字を習得によって、200年数十年余のあいだ代々、益氏が「虞」の官職に従事して調査した精密中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得された。
 これゆえ、『魏志』倭人伝には夏音文字が使用される34ヶ国の小国名は、B図のごとく精密な地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)をあらわした。というのも、中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』繋辞(けいじ)下伝には漢字の起源について「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して文字を作った」と説明する記事が存在するからである。「天象」とはA図の「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」であり、「地法」は「東から西へ移動する銀河各部の形状の日周運動と反対方向に西から東へ去る黄河・長江の水の流れ」であり、「鳥獣の文」は「“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理・鳥獣の足跡の別称」であり、「地宜」はB図に示す34の各小国の地図や西日本地図のごとく「平面的に図化した地図の形」である。
 前々回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・4」で証明したように、『魏志』倭人伝には全部で15ヵ所の方位記事があるが、この全15ヵ所の方位記事は現在の地理と同じく〔天の北極〕を基準とするものではなかった。全15ヵ所の方位記事は夏音文字の学芸にもとづいて上記した『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の文中にある「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」というぐあいに、「観測地点周辺(近くこれを身にとる)」と「大海を隔てる中国海岸線地域(遠くこれを物に取る)」の方位規定は両者独立して別なるものであった。したがって、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は夏音文字の学芸における「遠くはこれを物に取る日本列島地理」であった。だから、『魏志』倭人伝における全15ヵ所の記事は、B図に示すように「益氏がもたらした遠くの中国の精密海岸線地図に対して合理となるように考えた錯覚の日本列島地理」を証言するものとなった。このため、学者たちのように現在の日本地図の方位規定を用いると幾つかの矛盾点と数ヵ所の不合理な箇所が生じる【誤読の空論】となる。
 『古事記』の序の初頭で、安万侶は上記のごとく解説した(1)の文の後に、(2)「陰陽ここに開けて、二霊群品の祖と為る」という文を続ける。この文で安万侶は「二霊すなわち陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命国作りの柱と定めた【日本建国の〔愛〕の理念】が、日本のすべての生みの親となる」と表現した。
 要するに、長々と訳した安万侶が書いた『古事記』序の初頭の文は「後期縄文時代初頭、名門益氏が日本列島に移住して伝えた精密地図作製方法と夏音文字の学芸は縄文の芸術家たちによって習得された。伊耶那美命と伊耶那岐命が国作りの柱とした【日本建国の〔愛〕の理念】は日本のすべての生みの親となった」と表現していることになる。

◆前回のわがブログでも指摘したように――1562年1月、29歳の織田信長と21歳の松平元康(のちの徳川家康)は世にいう“清洲 (きよす)同盟”を結んだ。この同盟は『魏志』倭人伝末部に登場する13歳で卑弥呼の宗女(そうじょ╱卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女)として小国・日本の女王となった伊耶那美命を祭る熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)の牛王神璽(ごおうしんじ)に誓うものであった。熊野三山(那智大社・本宮大社・速玉大社)では年の始めに牛王を刷る神事が今も残り、那智大社の牛王神璽祭が最も古式を伝えるもので、牛王に誓った約束を違反した者に牛王神璽の紙の一片を飲ませると血を吐くと伝わる。
 伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。この伊耶那美命が提唱した〔愛〕は【日本建国理念】となり小国・日本の人民はじめ倭国の人民に尊重され、18世紀初頭までの先人たちの命と魂の根元となった。
 清洲同盟で信長と元康は熱烈に伊耶那美命に憧れていることを示した。
 二人にとって天下統一はあくまでも手段であって、この世に生きる目的は『古事記』序の初頭に記述された【夏音文字の学芸】と【日本建国の〔愛〕の理念】を復興することであった。
 織田家の先祖は福井県丹生(にゅう)郡織田町に所在する織田剣(つるぎ)神社の神官であった。また、夏音文字の学芸に精通する倭王権の祭祀を担当した忌部(いんべ)氏の血を継いでいた。このため、信長は夏音文字の学芸にくわしく『古事記』上巻に記述された歴史の真相を知っていたと考えられる。
 家康は駿河の今川義元の人質となって軍師の臨済宗妙心寺派の高僧の大原雪斎(たいげんせっさい)8歳から14歳までの7年間、夏音文字の学芸の教育を受けた。雪斎の宗派の臨済宗妙心派の寺院である竜安寺(りょうあんじ)の石庭は、現在の私たちでも【文字】はA図の【銀河各部の形状】であるという学芸が習得できる施設である。ゆえに、雪斎は夏音文字の学芸に精通していた。家康は雪斎から今川義元が天下を取った時の補佐役になるための教育を厳しく受けた。
 家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされる仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちに“律儀(りちぎ)な人よ”と皮肉られ陰口をたたかれた。家臣たちには信長に卑屈に従うものと思われても気にとめず、わが心願は信長公が成就してくれるにちがいないと信じ、あきれるほど我慢つよく愚直にひたすら20年ものあいだ信長の補佐役に徹した
 158262日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれた。
 信長と家康は夏音文字の学芸に励み、伊耶那美命に熱烈に憧れて【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生をささげた。

 したがって、信長と家康が考えた『魏志』倭人伝の34小国の配置図はB図のごとくであった。信長と家康は【夏音文字と楷書の字源・字形・字義】はA図の【銀河各部の形状】であることを知っていた。夏音文字の学芸は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された真実の歴史を解明できる科学的な方法であった。いいかえると、厳然たる歴史的事実であった夏音文字の学芸を抹殺すると、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された真実の歴史は【誤読の空論】に支配されてまったく不明となる。だから、信長と家康の夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に情熱を傾けた生涯によって、学者たちが主張する邪馬台国学説と日本神話説は【誤読の空論】であったことが証明される。

信長の命が本能寺で尽きた時、徳川家康は堺に滞在していた。家康は信長が亡くなったとの情報を聞いて“一生の夢破れた!”と激しいショックを受け「手勢で明智光秀と一戦を交えて斬り死する!」と半狂乱になって従う家臣たちを困らせた。三河譜代(ふだい)の股肱(ここう)の老臣の酒井忠次(さかいただつぐ)が家康を諌止(かんし)して説得し、家康は茶屋四郎次郎や伊賀者などに助けられ、伊賀越えの間道を通って三河岡崎に帰還した。
 本能寺の変の4ヵ月後の10月、家康は甲斐(山梨県)に進軍した。ところが、徳川軍は信州(長野県)から南下してきた北条氏直(うじなお)の軍と甲斐で遭遇した。そこで家康は、北条軍との講和の使者に小姓組の一員として仕える弱冠22歳の井伊家24代頭首・直政(なおまさ)を任命した。直政は家康の期待にこたえて、講和の使者という大任を見事にやりとげた。この手柄を待っていた家康は、直政に武田家の遺臣74騎と坂東武者43騎を与えた。これが徳川軍最強の軍団と敵から恐れられた、紅蓮(ぐれん)の武具をまとって戦場を疾駆した“井伊の赤備(あかぞなえ)”である
 3世紀後半の先祖以来1300年余、井伊氏は『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半に作成された夏音文字の学芸を貯蔵・保存する遺跡を守ってきた。
 この遺跡の名称を、私はC図に示すごとく“「卑弥呼」の地上絵”とした。「卑弥呼」の地上絵は現在の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となる。

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 「卑弥呼」の地上絵は、3世紀後半に生存した井伊氏の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)によって260290年頃に作成された。建比良鳥命は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖」と記載される。ゆえに、「卑弥呼」の地上絵は歴史上の人物によって作成された。「卑弥呼」の地上絵は夏音文字の学芸ならば『古事記』上巻の二度にわたる淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に示され明記された【日本建国の〔愛〕の理念】を解明することができることを後世に伝えるために作成された遺跡である。
 というのも、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男説話は、下記のごとく歴史を証言するからである。
 「【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪する天照大御神・第10代崇神(すじん)天皇母子王朝を倒して熊野に須佐之男命王朝を樹立するために、五人の王がクーデターを計画した。しかし、須佐之男命の実父の伊耶那岐命(10代開化天皇)が臨終の間際に『お前を生んだ母・伊耶那美命が二度目の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)の後に誓った【多賀(多くの子どもたちが生まれ、多くの農産物を収穫するために平和を第一とする政策理念)】をまもって、天照大御神・崇神天皇王朝に天下を譲ってクーデターを断念せよ』と説得した。ここに生母・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】の遺志を継ぐことを決意して須佐之男命は父開化天皇の異母弟である崇神天皇(天照大御神)と不戦の誓約をおこなった。ゆえに、五人の王たちのクーデターは失敗した。このクーデターに北九州の宗像(むなかた)王の天菩比命(あめのほひのみこと)が率いる一派が参加していた。天菩比命は七人の建比良鳥命を率いており、七番目の建比良鳥命が遠江国造の先祖であった。」
 ゆえに、クーデター失敗を悲嘆した遠江の豪族・建比良鳥命は「卑弥呼」の地上絵を作成することにした。「卑弥呼」の地上絵は、発見されたならば夏音文字の学芸知識を私有化するものゆえ一族が滅亡することになる大罪を犯していた。したがって、建比良鳥命の子孫となる、C図上部の引佐町井伊谷(いいのや)に居住した井伊氏は、「卑弥呼」の地上絵が朝廷に発見されて一族が討伐されて絶滅しないように、3世紀後半の先祖・建比良鳥命からおよそ1300年余もひたすら隠してその秘密を守っていたことになる。
 だから、信長と家康と同じく、「卑弥呼」の地上絵の守り番であった井伊氏もまた夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興をひたすら願っていたことになる。
 井伊直政は井伊氏の家督者である。直政は敵から“赤鬼”と恐れられ、彼を大将とする井伊の赤備えは夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】をなんとしても復興するという願いを有する真紅(しんく)の炎の軍団であったのである。

関ヶ原合戦の4月後の1601年正月、家康の命令のもとに建比良鳥の地上絵の守り番の井伊直政は近江のD図に示す佐和山城に入った。しかし、直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌16022月に42歳で亡くなった。
 家康は信長に続いて再度同じ生きる目的を共有した直政を失った。残された家康は三人が胸に秘めて共有した天下を取って復興すると誓った事業に早速着手した。
 家康が近江の近隣7ヵ国12大名に井伊氏・彦根藩を助勢するように命令しておこなわれた彦根の大鳥の地上絵の作成事業は、1603年に着工して20年後の1622年に完成した。家康は1616年に75歳の生涯を閉じているゆえ、彼が何としてでもやりとげようとした大鳥の地上絵の完成を見ていない。

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 E図に示すように、彦根の大鳥の地上絵は〔夏至の日の出〕の方角を指し示して「夏音文字の学芸」をあらわす。彦根城の南々東にある多賀大社の主神は〔伊耶那美命と伊耶那岐命〕であるゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす。
 これゆえ、彦根の大鳥の地上絵は夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】を復興しようと願った信長・家康・直政が胸に秘めた一生の願いを明確に示す遺跡となった。
 E図の下部に示す織田信長の居城であった7層造りの天守閣を有した安土城は1576年1月から開始されて3年近い歳月を費やして完成した。ゆえに、井伊氏の居城・彦根城も3年で完成したにちがいない。残る17年はE図に示すようにちょうど3000万坪にして夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】を保存する設計図通りの形の地上絵を作成するために要した年月であったことになる。現在は精密に天頂緯度を測定できる機器があり、光波測距儀によって簡単に三角測量することができるので、多分半年、いや1年あれば彦根の大鳥の地上絵を完成することができよう。
 F図に示した信長が居住した旧国の「尾張」は、B図に示すように、『魏志』倭人伝に記載される小国「弥奴 (みな)国」であった。
 G図に示すように、[]の字源は「カンムリカイツブリ」であった。[]の字源「カンムリカイツブリ」には強い力で体をもち上げて水面に直立となる姿勢となって雌雄がたがいに頭振り・水草くわえなどをおこなう繁殖行動をする習性がある。
G図左図の「尾張」の上南下北図は、右図の〔直立姿勢をするカンムリカイツブリ〕の姿に類似する。「弥奴」の[]の字源は「カンムリカイツブリ」であり、[]の字源は「強大な力」、「堅い地面でも耕作・開墾できる18歳くらいの青年」、「鳥の翼が有する体を空中に浮かせて飛ぶことが出来る強い力」などを意味した。だから、「弥奴」は「[]のカンムリカイツブリが[]も強い力で直立姿勢する姿」を意味することになるので、G図のごとく「弥奴国」は旧国の「尾張」であったことになる。

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 わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「久しく水に漬()けることを渥という」と指摘する。F図とH図の上図に示す家康の生誕地の三河の〔渥美半島〕は「久しく水に漬かる[]」の字源に合致することになる。H図の下図に示す〔ハジロカイツブリ〕は金栗色の美しい飾羽(かざりばね)を有する。ゆえに、H図の上図の「三河の地宜」は「[]の久しく水に漬かって浮かぶハジロカイツブリの顔と金栗色のしい飾羽」をあらわすことになる。
 F図に示すように、C図の「卑弥呼」の地上絵が所在する「遠江」の小国名を『魏志』倭人伝は「不呼(ふこ)国」であったと記す。
 I図に、現在の浜名湖の地宜(地図の形)を示した。
 1498(明応7)825日、大地震のために遠江国荒井崎(I図上部の新居町東部)が破壊されて浜名湖と外海とが通じるようになった。ゆえに、古代浜名湖は現在の浜名湖よりも小さく、J図のごとくであったと推測されている。

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 白川静著『字統』は[]の字源について「もと象形で花の萼柎(がくふ)の形である」と解説する。J図に示すように、〔古代浜名湖〕は〔ツツジなど花冠〕の形に相似し、浜名湖の支湖の「引佐細江(いなさほそえ)」は[]の字源「花の萼柎」に相当する。
 『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。K図の下部に示す「都田(みやこだ)川の水は引佐細江に流れて、上流から土砂を引佐細江へ外く(吐く)」ゆえ、[]の字源をあらわす。また、K図右側の「大崎半島の付け根・寸座(すんざ)岬・引佐細江の西岸」は〔人の横顔〕に相似して、『説文解字』の[]の字源解説「息を外くなり」のイメージとなる。また、引佐細江の東南にある〔舘山寺〕を〔鼻〕に見立てると、〔伊目(いめ)の地宜〕は〔人の下唇からノド〕に観え、また〔内浦〕は〔人の口〕のごとくに観えるので『説文解字』が「息を外くなり」と解説する[]の字源をあらわす。
 これゆえ、K図の「引佐細江周辺の地宜」は[][]の字源をあらわした。だから、「現在の静岡県西部・遠江」の小国名を、『魏志』倭人伝は「不呼国」と記したのである。

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 L図の〔中国の海岸線〕は〔人の横顔〕に類似すると見立てられ、〔山東半島〕は〔頭にかぶる笠〕、〔山東半島の付け根〕は〔人の額(ひたい)〕、〔長江口の北岸〕は〔鼻〕、〔杭州湾(こうしゅうわん)〕は〔口〕に観えるとされた。
 M図に示すように、〔口〕に見立てられた〔杭州湾〕には〔銭塘江(せんとうこう)の水が吐き出される〕ので、『説文解字』は[]の字源を「息を外くなり」と解説することになった。そして、〔杭州湾の形〕はN図の下図の〔鳰 (にお╱カイツブリ)〕にも相似するゆえ、[]の字源は「鳰」にもなった。

14

 N図の上図に示すように、井伊氏が居住した引佐町の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区の境界線を〔鳰の形〕に設計され、[]の字源が「鳰」であることを今日に明確に伝える。
 D図に示す「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
 この「鳰ノ海」の東岸に、E図の彦根の地上絵が作成された。だから、E図の彦根の大鳥の地上絵は、信長が居住した尾張の地宜に相似する「カンムリカイツブリ」と、家康の生誕地の三河の地宜が相似する「ハジロカイツブリ」と、井伊氏が居住した引佐町金指・井伊谷地区の地宜が示す「鳰」の3種のカイツブリの合体形となった。したがって、彦根の大鳥の地上絵は1千万坪の建比良鳥の地上絵の3倍の3千万坪になったのである。
 次回は、E図の彦根の3種のカイツブリがどのように合体されたか、その接合部を詳細に解明して、信長・家康・井伊氏が夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を熱烈に願っていたことを証明する。

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