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2015年2月27日 (金)

朝日新聞社の社長様への直訴・10

朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
 
ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(24)

■邪馬台国説は【誤読】で日本を抹殺する(3)
 
◆前々回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・8」では――230(呉の黄竜2)に、呉の1万の軍が日本列島・東鯷人(とうていじん)国に遠征したが、大海に入ると正確な緯度も経度もまったく不明となって8割から9割の兵士たちが命を落して壊滅したことを解説した。
 『後漢書』倭伝の末部は「東鯷人国は倭国の奥(倭の小国の朱儒国・裸国・黒歯国が所在する奥)の隣国であった」と説明し、「東鯷人国の人民は時に(呉の)会稽(かいけい)に至りて市(あきな)う」と記した後に、中国(魏・蜀・呉)の人々にとって大海を渡って東鯷人国に到着できなかったことについて「所在絶遠(ぜつえん)にして往来すべからず」と記す。
 だから、『後漢書』倭伝は「東鯷人が往来する大海の道は中国人にとって遥か遠くまで続き途中で絶え、往来することができない」と証言していることになる。
 前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・9」で指摘したように――中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成し、司馬遷著『史記』天官書が「天極(てんきょく╱天の北極)は、太一(たいいち)神がいつもいる所」と記載するように――中国では北極星の太一・こぐま座βは天球の真北でいつもいる・不動の点となる神と信じられることになった。
 しかし呉の水軍が日本列島遠征を決行した3世紀、A図に示すように時の北極星・太一は不動の星ではなく、〔天の北極〕から約10度も離れて〔天の北極〕を中心にして円を描く星であった。

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(C) 2015 OHKAWA


 北緯2445分の大海に入った呉の水軍が東の日本列島に目指して航海を始めた時、太一がB図に示す〔天の北極〕の真東に位置したならば北の水平線からの高度は2445分であるので、北緯2445分と換算できる。しかし、太一は刻々と西へ西へ移動するので水軍は東へ向かうことができずに立ち往生する。また大海に入った時に、太一は〔天の北極〕の真南(高度は1445)に位置したとすると太一は刻々と西へ西へと移動するので呉の水軍は戸惑って立ち往生する。たまたま大海に入って時に、太一が〔天の北極〕の真西(高度は2445分、緯度に換算すると北緯2414分になる)に位置しても、太一は刻々と北へ北へ移動するので呉の水軍は東へ進むことができずに北へと向かう。同様に呉の水軍が太一の計測を始めた時、〔天の北極〕の真北に太一が位置すると(高度3445分、北緯3445分に相当する)、太一は刻々と南へ南へ移動するので呉の水軍は目指す東から外れて南に進むので大海原を漂流した。だから、日本列島へ目指した呉の1万の水軍は、紀元前1世紀に完成したシナ天文のために北極星・太一は天球の北に位置する不動の神であると信じたことが原因で8割から9割の兵士たちが行方不明となって壊滅した。

◆C図に示すように、呉から日本列島へ至るルートは二つしかない。
 その一つは、台湾→与那国島→石垣島→宮古島→北大東島・南大東島が所在する広大な太平洋→火山列島の南硫黄島・硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸島→東海・関東地方に到着する海の道である。この海の道を、C図に記すように「伊豆諸島ルート」と名づける。
 もう一つのルートは、台湾から東北へ進む、台湾→南西諸島→九州南部に到着する海の道である。このルートを「南西諸島ルート」と名づける。
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(C) 2015 OHKAWA 


 南西諸島ルートの場合、呉軍は南九州の海岸に上陸する。そうすると、呉軍は倭各地の小国の軍と激戦を交しながら倭地を突破し、倭の奥に位置する東鯷人国軍とも戦い、さらに帰路でも倭の各小国軍と戦って帰還することになる。このような作戦は常に敵軍に包囲されて戦わなければならないので兵士の消耗ははなはだしく、このような愚劣きわまりない作戦を中国史上最高の戦略家と評された諸葛孔明(しょかつこうめい)と呉角にわたりあった呉の皇帝の英才・孫権が命令するはずがない。
 伊豆諸島ルートならば、呉軍は敵地を通過しないで直接目指す国に到着できる。だから、伊豆諸島ルートで到着できる東海・関東地方が東鯷人国であったことになる。
 3世紀、B図で説明したように当時の北極星・太一では大海を往来することができなかったが――D図右上の〔[]のキャッチ〕ならば、日々眼力と技(わざ)を鍛錬すると大海を往来することができた。というのも、[]がキャッチできれば、約10度=約600分、この約600分の11分の緯度の差が測定できたからである。人間の目は鍛えれば1分の差を精密に測定できる能力を有し、その技術も工夫して進化させて精度を高める頭脳を有した。

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(C) 2015 OHKAWA

地図を開くと、上記の「伊豆諸島ルート」となる宮古島と硫黄島は同緯度で北緯2445分である。E図に示すがごとく、〔[]をキャッチする眼力と技〕を日々鍛錬していた東鯷人たちは、約1650キロメートルも遠く離れる宮古島・硫黄島間の太平洋上で天頂緯度線と子午線をキャッチして、呉の会稽と東鯷人国を結ぶ伊豆諸島ルートを往来していた。他方、〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕を失っていたために、呉軍は宮古島・硫黄島間の太平洋を渡ることはできなかった。さらに、台湾の外海に浮かぶ与那国島から宮古島の間を北へと流れる青黒い黒潮も針路から外れる要因・障害となったゆえ、呉軍は太平洋に入る以前に壊滅したと推理できる。というのも、[]をキャッチできた東鯷人にとっても与那国島・宮古島間は青黒い黒潮に流される最大の難所であったはずだからである。

◆わがブログ「日本が滅びる・25」で解説し証明したように、呉の水軍は再度日本列島に遠征すると考えた倭王朝は考えていた。というのも『魏志』倭人伝末部に「卑弥呼の宗女(そうじょ╱卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女)の壱与、年十三にて王と為()る」という記事は、壱与が東鯷人国に派遣されて防衛にあたったと証言するものとなるからである。壱与は敵軍(呉軍)の呪的(じゅてき)な戦力を奪う魔女(巫女)で、わが国では「眉(まゆ)」と呼び、中国では「媚蠱(びこ)」と呼んだ。
 ここに、倭国に属することになった「東鯷人国」の小国名は「日本」となった。小国・日本に赴任した巫女王の壱与は、『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であった。壱与の夫すなわち小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)は『魏志』倭人伝末部の247(魏の正始八年)の記事に登場する載斯烏越(そしあお)であった。
 わがブログ「日本が滅びる・16」で解説したように、載斯烏越は第9代開化天皇であり、『古事記』上巻に「伊耶那美命の夫」と記される伊耶那岐命である。壱与・伊耶那美命は『古事記』開化天皇紀に開化帝の正妃の丹波出身の竹野比売(たかのひめ)である。わがブログ「日本が滅びる・124」で証明したように、『魏志』倭人伝に列記される小国「伊邪(いや)国」は竹野比売の出身国の「旧国の丹波」である。ゆえに、小国・日本国や倭国の人民は竹野比売を「伊邪()国の美しい女王」を略して「伊耶那美命」と愛称したことになる。
 208年におきた中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いにおいて、わずか5万の呉・蜀の連合軍は80万の曹操(そうそう)が率いる魏の大軍を撃破して劇的な勝利をおさめた。
 魏の80万の大軍は揚子江沿岸の湖北省・赤壁附近に陣を張った。『三国志』の巻五十四に引用される「江表傳」は――呉の孫権の軍師周瑜(しゅうゆ)につかえる武将黄蓋(こうがい)と配下の兵たちは、敵から奪い取った軍船に油をかけた枯れ柴(しば)を隠し積んで乗りこみ、降伏を装いながら帆をあげて敵船に近づいていった。頃合いを見計らって枯れ柴に火をつけた軍船を敵陣へと突っ込ませた。その火は折から吹く強い東南風に煽(あお)られて次から次へと魏の軍船に燃え移り、さらに飛び散る火の粉が河岸一面に密集して設営した魏軍の陣営に雨霰(あめあられ)のごとく降って火の海と化して呑み尽くした。このように、わずかの呉の水軍の将兵たちの火攻めで80万の魏軍は大敗した。

◆わがブログにおいて何度も何度も解説し証明したように、今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭に原初漢字の夏音(かおん)文字が伝来して習得されていた。夏音文字は、『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられて記載され、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数現存する。夏音文字は下に掲載するF図に示す【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字(字源・字形・字義)】と定める原初漢字である。
 わがブログで何度も何度もて解説したように、約5000年前の五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が定めた――(1)秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露した人、(2)文字を容易に習得するために、文字となった銀河各部に名称を付けた人、(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない人または消し忘れた人には神罰が下って即刻に死刑に処せられる――という3つの掟を、夏音文字は厳重に守った。これゆえ、夏音文字は遺跡から書いた文字が発掘されない。
 (3)の掟は今から約3300年前の殷代(いんだい)後半の甲骨文字(契文╱けいぶん)によって最初に破られた。しかし、甲骨文字は倉頡が定めた(1)(2)の掟を厳守した。また、甲骨文字以後の金文、篆文(てんぶん)、隷書、そして後漢時代(25220)から出現した三国時代(220280)の楷書もまた(1)(2)の掟を厳重に守った。だから、(1)の掟によって【漢字の字源・字形・字義】は【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】である事実に学者たちはまったく気づかなかった。そして、(2)の掟によって〔漢字となった銀河各部の名称〕が存在しないので、私はF図のごとく名称を定めた。

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(C)2015 OHKAWA


 下に示すG図は、2013年7月25日の朝日新聞に掲載された株式会社・キャノンの全面広告の一部分である。
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(C)2015 OHKAWA


 上記したように壁の戦いで魏の80万の大軍を枯れ柴にをつけた船を突っ込ませた撃滅した呉の水軍の呪的(神秘的)な戦力を、日本軍は呉軍を赤い火の軍と定義して、G図(F図の左上)の「北アメリカ星雲」を日本軍は〔呉軍〕と見立てた。というのも、G図のおけるに――あざやかに際立って赤く火のごとく輝く部分が北アメリカ星雲――であり、その印象から「北アメリカ星雲」は[]の字(字源・字形・字義)となったからである。

◆上記したように呉軍と戦う小国・日本の軍王の夏音名は「載斯烏越」(伊耶那岐命、後の開化天皇)である。H図に示す「十字の銀河」は「日輪の銀河」の上にあるゆえ「載()る」、すなわち[]の字(字源・字形・字義)となった。左手に武器の弓・剣を持つ姿に観える[]の字源の「十字の銀河」は〔雷が落ちて柝()ける樹木〕にも見立てられた。また「鬼の姿に似る銀河」は〔樹木の側(そば)に居て雷(側撃雷╱そくげきらい)に撃たれて死ぬ人〕に見立てられた。ゆえに「帯状の銀河」は〔樹木の側に居る人に落ちる側撃雷〕に見立てられて[]の字となった。これゆえ、字源・字形・字義について解説する“字書の聖典”と尊重される『説文解字』は[]の字源となる「帯状の銀河」を「柝()くなり」と解説した。この[]の「柝くなり」という字源解説は「落雷して木が裂け、側撃雷で人が死ぬ」、つまり「呉軍の兵士たちを大量に殺す」と意味した。「青黒く輝く激流の銀河」は「載斯烏越」の「烏越(あお)」すなわち「呉軍が渡る青黒くうねり逆巻く黒潮」をあらわした。このように、小国・日本の軍王「載斯烏越」という名は東鯷人たちが最大の難所とした〔呉軍の船を転覆させる青黒く渦を巻き高波が逆巻く黒潮〕の呪力を有していた。

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(C) 2015 OHKAWA
 

 上記したように小国・日本の巫女王の夏音名は「壱与」(伊耶那美命・竹野比売)である。I図に示すように「十字の銀河の子宮」が「壱与」の[]の字となった。倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」において、「十字の銀河の子宮」はF図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作られたすべての文字が生まれる子宮】と定められた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「一即多、多即一(十字の銀河の子宮即多数の文字、多数の文字即十字の銀河)」となる漢字作成理論をあらわして[]の字義は「一」となり、また「十字の銀河の子宮」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」によって〔巫女の雨乞いの願いがかなえられて雷鳴轟き大量の雨が降ってくる聖なる場所〕と定められた。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、[]の字源を「正字は與。上下左右の手で四方からものをもつ舁()と、与とに従う。四方より与をかつぐ形である」と解説する。つまりI図に示すように、[()]の金文形は「十字の銀河」・「鬼の姿に似る銀河」・「激流の銀河」・「東と西のニ連菱形銀河(長方形の暗黒天体部の南部)」を「上下左右の手、四方から神輿(みこし)をかつぐ人々」に見立てて、[()]の金文中央の[][]は「長方形の暗黒天体部の北部の正方形の銀河」を図案するものであった。上記の夫の伊耶那岐命の「載斯烏越」という名の「烏越」の語源となる「激流の銀河」は〔呉の軍船を転覆させる青黒く渦巻き高波逆巻く黒潮〕に見立てられた。ゆえに、「激流の銀河」は〔往来した東鯷人たちが最大の難所とした、渦巻く高波逆巻く黒潮〕に見立てられ、「激流の銀河」に隣接する[][]の字源となる「正方形の銀河」は〔高波逆巻く黒潮で転覆する呉の軍船〕に見立てられたことになる。 
 以上のごとく、日本軍はG図の[]の字となる「赤い北アメリカ星雲」を〔呉の水軍〕に見立てて、巫女王「壱与」と軍王「載斯烏越」という夏音名で「赤く燃える火を消す青い水の呪力」をあらした。また「壱与」と「載斯烏越」という夏音名は「大量の雨が降る暴風雨に遭遇して、激流の銀河のごとく渦を巻き高波逆巻く黒潮や太平洋の荒波に呑みこまれて呉の軍船が転覆する」という呪力を有した。

◆J図に示すように、[]の字「十字の銀河の子宮」と[]の字「帯状の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河の口」までが[][]の字となった。

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(C) 2015 OHKAWA


 『説文解字』は[]の字源を「山川の气()なり。雨に従ふ。云は雲の回転する形に象(かたど)る」と解説し、白川静著『字統』は「云は雲気の流れる下に、雲中に竜が尾をうちに捲()いている形で、雲中に竜がいると考えられていた」と解説し、J図の右下端の[云=雲]の契文形が「雲中に竜が尾をうちに巻く形」を表現する。ゆえに、[]の字源と「云う」の字義は「巫女・覡(かんなぎ╱神官)が天(十字の銀河の子宮)に雨乞いする言葉を発する」であったことになる。
 F図の右下に「夏の銀河の西南部」がある。
 I図と同じくK図に示す「夏の銀河の西南部」も[雲=云]の字をあらわした。その証拠に「夏の銀河の西南部」は上記の『説文解字』と白川静著『字統』の[][]の字源解説に合致して「雲中に竜がいる銀河」であるからだ。

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(C) 2015 OHKAWA

 「夏の銀河の西南部」について、藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社)は「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のように迫力に満ちた姿でせまる」と指摘する。これゆえ、J図とK図の銀河の形状が示す[]は「巫女と覡が雨乞いして、雷鳴轟き大量の雨が降らせる入道雲」をあらわした。
 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・7」で解説したように、K図上図に示す「入道雲のように迫力に満ちた圧巻的な形状の夏の銀河の西南部は〔南→西(南を西とする)90度の転回方位」すなわち[]の字をあらわした。L図左図において「十字の銀河」左側に記したように「禾(か╱水稲の穂)が〔南→西〕に垂れる90度の転回方位」をあらわすので、〔イネ(水稲)〕に見立てられた「十字の銀河」は[]の字となった。

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(C) 2015 OHKAWA

 水稲(すいとう)は禾(穀類)のうちでも最も大量の降水量を欲する。ゆえに、J図とK図の[]の字形は「雨を降らす入道雲」をあらわすことになった。
 L図左図に示すように、「十字の銀河」は[]すなわち〔水稲の穂〕に見立てられ、[]の下に[]が加わる[]の字源・字形・字義となり、また[(人偏)][]が加わる[()]の字源・字形・字義となった。白川静著『字統』は[]の字源について「委は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形」と解説する。この「稲魂」が、L図に示す「転回方位」をあらわすものであった。ゆえに正しい字源を失わなかった原初漢字・夏音文字では、[]の字源は「現在方位の〔南〕が90度転位して〔西〕になる転回方位」をもあらわした。L図右図は、[]の字源の「現在の方位を90度移動させる転回方位」をあらわす。
 実際だと日本列島は〔東〕に伸びている。しかし、『魏志』倭人伝はM図に示すように〔東→南〕つまり「日本列島は〔南〕に伸びている」と[]の字源に則る錯覚の転回日本列島地理を証言する。『魏志』倭人伝には全部で15ヵ所の【方位名】が記載されているが、この全15ヵ所の方位記事はG図の[]の字源「転回方位規定」に一点の矛盾点も生じず一ヵ所の不合理な箇所もなく合理が成立する。だから前回のわがブログでも証明したように、卑弥呼王朝が「日本列島は中国海岸線地域の〔南〕のほうに伸びると制定した錯覚の地理」は、L図が示すように[]の字源をあらわすので国号は「倭」と定められたのである。

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(C) 2015 OHKAWA


 K図下図のカラー写真の「夏の銀河の西南部」は「黄色」すなわち「秋に収穫する時の稲の穂の色」に輝く。ゆえに、K図上図に記したように[]の字源は「時計回りに南→西になる90度方角が転位する転回方位」をあらわすことになった。また、K図に示す「実る稲の穂のごとく黄色に輝く夏の銀河の西南部」は白川静著『字統』が「委は稲魂を被って舞う女の形」と解説する「稲魂」を示すものであったゆえ、K図上図に記したように「稲魂」が[]の字源の「転回方位」をあらわした。

◆わが前々回のブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・8」で、N図に示すように京都市に所在する〔桂離宮庭園池の東岸〕は「夏の銀河像」(F図参照)に設計される。
 これゆえ、桂離宮の庭園における「天の橋立」と名づけられた築島(つくしま)は、K図に示す「夏の銀河の西南部における胎児の姿に似る銀河」に相当する。

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(C)  2015 OHKAWA


 「天の橋立」の中央築島の南側に、O図に示すようにK図の「胎児の姿に似る銀河をあらわす岩」が衝立(ついたて)のごとく池の水に漬かる。

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(C) 2015 OHKAWA


 なお、P図は1623年から1645年までに幕府の命令で伏見奉行の小堀遠州が全情熱を傾けて【銀河各部の形状を文字とする漢字(夏音文字と楷書など)の秘密】を保存・貯蔵した桂離宮庭園意の全域平面図である。桂離宮の庭園は後水尾(ごみずのお)上皇が夏音文字の学芸を学習するために幕府が遠州に命令して作らせた。しかし、遠州が1647年に69歳で没した時まで、後水尾上皇は桂離宮を御幸(みゆき)しなかった。
 幕府は徳川家康が生涯情熱を傾けて復興しようとした心願を家康の遺志と定めて、古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚〕の条(くだり)に明記されなかった「伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚儀式と【日本建国の〔愛〕の理念】の歴史の復興」を後水尾上皇に願った。しかし、上皇は桂離宮の庭園に一度も御幸しなかった。そこで、家康に遺志を実現するために幕府は1655年のころから1659年にかけて、Q図に示す修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)と下御茶屋(しものおちゃや)を完成して上皇に献上した。

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(C) 2015 OHKAWA

 R図に示すように上御茶屋の中心となる「浴竜池(よくりゅうち)」は「夏の銀河の西半分の、胎児の姿に似る銀河」への相似性が乏(とぼ)しい。ゆえに、この欠陥を補うために「夏の銀河の西南部の東部にある、巨龍の銀河」から池の名を「浴竜池」と定めて、「浴竜池」は「夏の銀河の西南部の、胎児の姿に似る銀河」をあらわすものであることが察知できるようになっている。 
 S図は京都府宮津市に所在する日本三景の一つに数えられる特別名勝「天橋立(あまのはしだて)」で二分される阿蘇海(あそかい)と与謝(よさ)ノ海(宮津湾)の現在方位にもとづく地図の形である。
 T図左図に示す転回方位(L図とM図参照)にもとづくと、注目すべきは「阿蘇海」は「浴竜池」の形に相似することである。だから「浴竜池」は「阿蘇海」に相似するように重点的に作成されるものであったゆえ、「胎児の姿に似る銀河」への相似性は劣ることになった。また、O図の桂離宮庭園の「天の橋立の中央築島の南側に設置される岩」もまた、T図左図の「阿蘇海」の形に相似するが「胎児の姿に似る銀河」への相似性が劣っている。

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 以上からして、O図の岩とT図の浴竜池はH図の「斯烏越」とI図の「壱与」という名の呪力(呉の軍船を転覆させる青黒い渦を巻き波高く逆巻く黒潮と太平洋の荒波)を示すとともに、『古事記』上巻に記載される〔伊耶那美命と伊耶那岐命がおこなった淤能碁呂島の聖婚儀式〕はS図に示す天橋立を舞台にして行われたと表示するものであったのである。
 次回は、淤能碁呂島の聖婚が天橋立を舞台にして行われた秘密をさらに明らかにする。

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