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2015年2月 5日 (木)

朝日新聞社の社長様への直訴・7

朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
 
ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(21)

■信長、家康、井伊氏の
【日本建国の〔愛〕の理念】の復興の熱き願い(2)

◆今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国では【秋の銀河と夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする原初漢字の夏音(かおん)文字】が習得された。夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられ、また『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音文字として多数記載されて現存する。
 そして中国の正史の二書すなわち『隋書』倭国伝と『新唐書』日本伝には「わが国に確かに夏音文字があった」と書く記事が存在する。
 原初漢字の夏音文字は、天皇政治の権力基盤となる学芸であった。徳川家康は没する1年前の1615年に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し、その第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。この「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文は「天子・皇室にとって夏音文字の学芸が最も重要な学問です」と意味した。だから、わが国には、上記したように後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸は伝来し、夏音文字は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて現存する。
 にもかかわらず、新井白石(16571725)以後の学者たちは上記した4つの古文献に【誤読】を幾つも積み重ねて「夏音文字は存在しない」と断定して、「わが国では5世紀あるいは6世紀に始めて漢字を習得した」という意見を確立して、今日の学界の神聖にして犯してはならない定説とする。

◆前回のわがブログでは、太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』の序の初頭に「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()し、陰陽ここに開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」と記述した文は「夏代初頭、名門益氏が中国から日本列島に移住して夏音文字の学芸をもたらし、当時の日本列島に居住して土器・土偶を造化(造形)した芸術家たちによって夏音文字の学芸は習得された。この習得によって、わが国における夏音文字の学芸の歴史が始まった。陰の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念は陽の伊耶那岐命に受け継がれた。この伊耶那美命と伊耶那岐命の国作りの柱とした【日本建国の〔愛〕の理念】は日本のすべての生みの親となった」と述べていることを証明した。
 夏音文字の学芸は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を科学的に解明できる方法である。言い換えると、夏音文字の学芸は皇室が至上神として崇拝する皇祖・天照大御神(崇神天皇の生母の倭迹迹日百襲姫命)18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たちを多数殺して犠牲(いけにえ)にして伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原に築造された)に埋めた残虐な徇葬(じゅんそう)を決行し、また崇神天皇=天照大御神が【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を憎悪し呪って迫害した歴史を科学的に解明できる方法であった。
 ゆえに、朝廷は皇祖・天照大御神(倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇母子)の聖性を汚す科学的な方法の夏音文字の学芸と天照大御神が憎悪して祟(たた)った【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に努力した。このため、16世紀末から17世紀初頭になると皇室は夏音文字の学芸の多くを失った。ゆえに、夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生をささげた徳川家康は、上記したように「禁中並公家諸法度」の第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と定めて、「わが国の国家政治において夏音文字の学芸は最も重大です。ゆえに、天皇陛下・上皇陛下は夏音文字の学芸の勉学に励んでいただきたい」と要望したのである。

◆前々回と前回のわがブログでも指摘したように――1562年1月、29歳の織田信長と21歳の松平元康(のちの徳川家康)が結んだ“清洲 (きよす)同盟”は、『魏志』倭人伝末部に登場する13歳で卑弥呼の宗女(そうじょ╱卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女)として小国・日本の女王となり、247年より数年前に倭女王に就任した伊耶那美命を祭る熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)の牛王神璽(ごおうしんじ)に誓うものであった。伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。この伊耶那美命が提唱した〔愛〕は【日本建国理念】となって小国・日本の人民はじめ倭国の人民に尊重された。
 清洲同盟で信長と家康は熱烈に伊耶那美命に憧れていることを示した。
 二人にとって天下統一はあくまでも手段であって、この世に生きる目的は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載された【夏音文字の学芸】と『古事記』上巻の二度の淤能碁呂島の聖婚説話に示されて明記された【日本建国の〔愛〕の理念】を復興することであった。
 前々回と前回のブログで指摘したように、織田家は倭王権の祭祀を担当した忌部(いんべ)氏の血を継いでいたため、信長は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載される夏音文字の学芸の勉学に励んだと考えられる。
 家康は駿河の今川義元の人質となって軍師の臨済宗妙心寺派の高僧の大原雪斎(たいげんせっさい)8歳から14歳までの7年間、夏音文字の学芸の教育を受けた。雪斎の宗派の臨済宗妙心派の寺院である竜安寺(りょうあんじ)の石庭は、現在の私たちでも夏音文字の学芸を学ぶことができる施設である。
 家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされる仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちに“律儀(りちぎ)な人よ”と皮肉られ陰口をたたかれた。家臣たちには信長に卑屈に従うものと思われても気にとめなかった。それというのも、家康は信長をわが心願(夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興)を成就してくれる君主と仰ぐものであったからである。ゆえに、家康はあきれるほど我慢つよく愚直にひたすら20年ものあいだ信長の補佐役に徹することができたのである。
 信長と家康は【夏音文字と楷書の字源・字形・字義】はA図の【銀河各部の形状】であることを知っていた。また、二人は『魏志』倭人伝の34の小国名の配置は、B図のごとくであると知っていた。

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 遠江(現在の静岡県西部)の武家の井伊氏は信長と家康よりも夏音文字の学芸に精通していた。井伊氏は3世紀後半の先祖以来1300年余、井伊氏は『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半に作成された夏音文字の学芸を貯蔵・保存する遺跡を守ってきた。
 この遺跡の名称を、私はC図に示すごとく“「卑弥呼」の地上絵”と定めた。「卑弥呼」の地上絵は現在の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となる。「卑弥呼」の地上絵は、3世紀後半に生存した井伊氏の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)によって260290年頃に作成された。建比良鳥命は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖」と記述される。ゆえに、「卑弥呼」の地上絵は確かな歴史上の人物によって作成された。「卑弥呼」の地上絵は夏音文字の学芸をもって【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された遺跡である。
 信長と家康と井伊氏は共に夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興をひたすら願っていた。
 井伊氏の先祖の建比良鳥命が作ったC図の「卑弥呼」の地上絵は〔夏音文字と楷書の字源・字形・字義はA図における銀河各部の形状であった歴史的事実を科学的に証明できる遺跡〕である。ゆえに、「卑弥呼」の地上絵は〔『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の全記事は歴史的事実を伝えるものであったと科学的に証明できる遺跡〕となる。したがって、学者たちは「夏音文字の学芸が無かった」というパラダイム(理論的枠組み)の基に『古事記』上巻の全記事を読解する。ゆえに、学者たちの意見は「卑弥呼」の地上絵によって【誤読の空論】であったことが明白なる事実となる。『古事記』上巻・日本神話は虚構(きょこう)ではなく、夏音文字の学芸を用いれば科学的に証明できる厳然たる歴史的事実を伝えるものであったのである。

158262日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれて49歳の生涯を閉じた。
 本能寺の変の4ヵ月後の10月、家康は甲斐(山梨県)に進軍した。ところが、徳川軍は信州(長野県)から南下してきた北条氏直(うじなお)の軍と甲斐で遭遇した。そこで家康は、北条軍との講和の使者に小姓組の一員として仕える弱冠22歳の井伊家24代頭首・直政(なおまさ)を任命した。直政は家康の期待にこたえて、講和の使者という大任を見事にやりとげた。この手柄を待っていた家康は、直政に武田家の遺臣74騎と坂東武者43騎を与えた。これが徳川軍最強の軍団と敵から恐れられた、紅蓮(ぐれん)の武具をまとって戦場を疾駆した“井伊の赤備(あかぞなえ)”である
 井伊直政は井伊氏の家督者である。直政は敵から“赤鬼”と恐れられ、彼を大将とする井伊の赤備えは夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】をなんとしても復興するという願いを有する真紅(しんく)の炎の軍団であった。
 関ヶ原合戦の4月後の1601年正月、家康の命令のもとに建比良鳥の地上絵の守り番の井伊直政は近江の佐和山城に入った。しかし、直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌16022月に42歳で没した。
 家康は信長に続いて再度同じ生きる目的を共有した直政を失った。残された家康は三人が胸に秘めて共有した天下を取って復興すると誓った事業に早速着手した。
 家康が近江の近隣7ヵ国12大名に井伊氏・彦根藩を助勢するように命令しておこなわれた彦根の大鳥の地上絵の作成事業は、1603年に着工して20年後の1622年に完成した。家康は1616年に75歳の生涯を閉じていますから、彼が何としてでもやりとげようとした大鳥の地上絵の完成を見ていない。
 D図に示すように、彦根の大鳥の地上絵(現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形)は琵琶湖の東岸に作成された。
 E図に示すように彦根の3千万坪の地上絵は〔夏至の日の出〕の方角を指し示して「夏音文字の学芸」をあらわす。彦根城の南々東にある多賀大社の主神は〔伊耶那美命と伊耶那岐命〕であるゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす。
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◆D図に示す琵琶湖の古称は「鳰(にお)ノ海」である。前回のわがブログで証明して解説したように、E図の彦根の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は、3種の鳰=カイツブリの合体形であった。
 井伊氏はC図上部の静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区に居住した。F図に示すように、〔金指・井伊谷地区の地宜〕は「鳰と浮巣の形」に作られた。

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 前回のわがブログで証明したように、家康の生誕地であるG図に示す転回方位(B図と同じ東が南に転位する方位規定)にもとづく三河(現在の愛知県東部)の地宜は、H図下部の「ハジロカイツブリの姿」に類似すると見立てられた。というのも三河の「渥美半島」の[]について、白川静著『字統』(平凡社)は「久しく水に漬()けることを渥という」と解説するからである。これゆえ、「(久しく水に漬かって浮かぶ)のハジロカイツブリの顔と金栗色のしい飾羽(かざりばね)」を略すると「渥美」となる。だから、H図のごとく「三河の地宜」は〔水に浮かぶハジロカイツブリの姿〕に見立てられたことになる。
 前回のわがブログで証明したように、信長が居住した旧国の尾張(現在の愛知県西部)は、I図の左図に示すように、『魏志』倭人伝に記載される小国「弥奴(みな)国」であった。この小国名の「弥奴」は、I図の右図の「強い力で体を持ち上げて水面に直立姿勢となって雌雄がたがいに頭振り・水草くわえなどをおこなう[]の字源・カンムリカイツブリの繁殖行動する姿」と意味した。

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 以上のごとく、E図の彦根の地宜は、信長が住んだ尾張の地宜に相似する「カンムリカイツブリ」と、直政が居住した引佐町金指・井伊谷の地宜が示す「鳰」と、家康が生まれた三河の地宜が相似する「ハジロカイツブリ」の3種のカイツブリの合体形であった。そして、彦根の地宜はC図の1千万坪の「卑弥呼」の地上絵の3倍の3千万坪に作られた。
 H図に示すハジロカイツブリは水に浮いているあいだは黒っぽいが、飛び立つと羽根の内側に白い部分が見えるので、この「羽白(ハジロ)」が名の由来となった。「羽白」すなわち[][]が加わると「習う」の[]の字となる。
 前述したように、中国の正史『新唐書』日本伝には――702年に中国に到着した遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と中国王朝に告げた――という記事があり、この記事は「壬申の乱の、持統上皇は歴史書編纂スタッフに天照大御神が精通した夏音文字の学芸を稍々習え(復興せよ)と欲求した」と伝える。この10年後の712年に完成した『古事記』上巻には多数の夏音文字が記載されているゆえ、わが国には夏音文字が実在した。
 3種のカイツブリの合体形となるE図の彦根の大鳥の地上絵は、上記した『新唐書』日本伝に記述された702年の遣唐使が述べた「夏音を習う」という言が設計モチーフとなった。彦根の大鳥の地上絵の〔東端のグニョグニョと複雑に曲がりくねる境界線〕は〔羽のつけ根〕の形をあらわしている。しかし、その境界線より東側の【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命とその理念を受け継いだ伊耶那岐命を祭る多賀大社が鎮座する地域には羽の形が存在しない。ゆえに、彦根の地宜の設計は「夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】は未だ習わず(復興せず)」と表現するものであった。

◆J図の彦根の大鳥の地上絵の内側に、琵琶湖南岸の地宜を図示した。
 J図に示すように、彦根市・多賀町の境界線となるA(名神高速道路と国道307号線が立体交差するあたり)からa(彦根市・多賀町・甲良(こうら)町の境界)までの境界線の形は、内側の琵琶湖南岸のCの近江八幡市の宮ヶ浜からcの日野川(ひのがわ)の河口までの湖岸の形に合致する。しかし、aからb(豊郷町)までの彦根市の境界線はcからdまでの琵琶湖の湖岸の形と異なり、bからの彦根市の境界線はdまでの湖岸の形とも異なる。

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 K図の中央に、井伊氏が居住した遠江の浜名湖北岸の大崎半島先端から都田川河口までの湖岸の地宜を示した。
 L図に、彦根市の地図の内側にK図に示した〔大崎半島先端からD地点(引佐細江の北岸)までの湖岸の形〕を図示した。

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 彦根市のaからB(愛知川 (えちがわ)上の彦根市・愛知川町・能登川町の境界)までの境界線は、大崎半島先端からD点までの湖岸の形に合致する。
 
この結果、L図の彦根市の東端の〔Aからaまでの境界線〕は安土山の西方の近江八幡市の宮ヶ浜から日野川河口までの湖岸の形に合致する。だから、近江八幡誌の宮が浜から日野川河口までの湖岸は、その東方に所在する安土城に居住した〔織田信長〕をあらわしていることになる(D図参照)
 また、L図の遠江の浜名湖北岸の大崎半島先端からDまでの引佐細江北岸の形を図化する〔aからCまでの境界線〕は〔井伊氏〕をあらわすものとなる。
 したがって、Aより北側の彦根の大鳥の頭部は、H図のハジロカイツブリの頭部を設計するものとなり、〔徳川家康〕をあらわす。
 L図の場合、彦根の東端の境界線の〔信長〕をあらわす〔Aからaまでの距離〕は、〔井伊氏〕をあらわす〔aからBまでの距離〕より短い。しかし、地図で調べると〔信長〕をあらわす〔宮ヶ浜から日野川河口までの実際距離〕と〔井伊氏〕をあらわす〔大崎半島先端からD地点(引佐細江の北岸までの実際距離)はほぼ同じである。このように、彦根の東端のグニョグニョと曲がる境界線は精緻(せいち)・玄妙(げんみょう)な設計となって「未だ夏音文字と日本建国の〔愛〕の理念」は未だ習わず」と表現するものとなる。
 以上のごとく、翼が無い3種類のカイツブリの合体形となる彦根市の行政区域を表示する地図の形は、信長・家康・井伊氏が『古事記』上巻の二度の淤能碁呂島の聖婚説話に記された【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとした心願から作られた遺跡である。
◆信長・家康・井伊直政が生存した時代、A図に示す「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)の部分」が尾張・遠江そして家康が居住した駿河の天頂にめぐってきた。
 M図中央図に記すように「人の横顔に酷似する銀河の額の部分」を、天文学では「北天の最輝部(さいきぶ)」と呼ぶ。「北半球における人々にとって最も銀白色に輝いて見える」ゆえ、「北天の最輝部」と略称された。「北天の最輝部」は[]の字源「カンムリカイツブリ」に相似すると見立てられた。というのも、「北天の最輝部」の形は〔カンムリカイツブリの頸(くび)以下の胴体の下面までの形〕に相似し、その〔カンムリカイツブリの頸以下の胴体の下面まで〕は「北天の最輝部」の形のごとく銀白色だからである。ゆえに、「北天の最輝部」は[]の字源銀河となった。

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 淤能碁呂島の聖婚儀式がおこなわれた3世紀、N図に示すように現在の彦根市=彦根の大鳥の地上絵(北緯3515)となった地所の天頂に「北天の最輝部の北端」がめぐってきた。
 O図に、(1)3世紀と(2)彦根の大鳥の地上絵が作成された17世紀初頭と(3)現在の彦根市の天頂緯度線が「北天の最輝部」を貫通する様子を示した。
 P図の左図は右図に合わせて、左東右西形式の図にした。P図に示すように、彦根の大鳥の地上絵が作成された17世紀初頭、彦根の南の境界線がある愛知川(えちがわ)河口(北緯3513)の天頂に「北天の最輝部の南端」が通過した。わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の字源について――『説文解字』に「眉目の閒(かん)なり」というのは、正面の額の部分をいうのであろう――と解説する。[][]は同義とされる。[閒は一説には「門のすきまから月の光のさしていることを表す会意字」と指摘される。「月の光」や「月面」は〔銀白色〕であるから、『説文解字』の[]の字源解説は「人の横顔に酷似する銀河の両眉・両目の間となる上部の銀白色に輝く額の部分なり」となる。したがって、『説文解字』の[]の字源解説は「人の横顔に酷似する銀河の額にある北天の最輝部なり」と意味するものとなる。

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 [][]を加えると[]の字となる。白川静著『字統』は[]の字形について「顔を中心とした人の側身形」であると指摘する。A図に示すように「人の横顔に酷似する銀河の南部」は〔人の上半身の側身部〕となる。ゆえに、「[]の中心部となる顔」は「人の横顔に酷似する銀河」となる。P図の右図の「人の横顔に酷似する銀河」はまさに「顔」である。また、『説文解字』の[]の字源解説は「北天の最輝部」であった。したがって、「北天の最輝部」が「彦根」の[]をあらわしていることになる。
 Q図に示すように、「北天の最輝部」は〔木の根〕の部分となる。
 だから、P図のごとく「北天の最輝部」は[]を、Q図の「北天の最輝部」は[]をあらわすので、「北天の最輝部」は地名の「彦根」をあらわすことになる。

◆P図の右図に示すように、彦根の大鳥の地上絵の天頂に「北天の最輝部の南端」がめぐってきた時、彦根の大鳥の地上絵の西南の空にR図に示す「銀河系の中心がある夏の銀河の西南部」が輝いて見えた。

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 P図の左図に示すように、彦根の大鳥の地上絵の西南に京都御所が所在した。
 前々回のわがブログで詳細に解説したように、R図の「夏の銀河の西南部」は[][]の字源となり、「出雲」の語源となって伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 P図の左図に示すように彦根市の南の境界線は「愛知川」である。「愛知川」は「愛を知る川」である。つまり、「愛知川」は「【日本建国の〔愛〕の理念】を知る川」であった。
 したがって、信長、家康、井伊氏は夜な夜な金色に輝く巨大な〔夏の銀河の西南部〕を眺めて夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとする願いを胸深く秘めてその炎(ほむら)で身を焦がしていつか心願成就させると誓っていたことになる。
 だから彦根の大鳥の地上絵は、その西南に所在する皇室・京都御所に〔【日本建国の〔愛〕の理念】の復興〕を願って作成された遺跡であったのである。

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