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2015年2月16日 (月)

朝日新聞社の社長様への直訴・8

朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(22)

■邪馬台国説は【誤読】で日本を抹殺する(1)

◆卑弥呼が登場することで有名な史料の『魏志』倭人伝は、3世紀後半(280289)に晋(しん)王朝につかえた著作郎(歴史編纂管)の陳寿(ちんじゅ)によって作成された。
 A図は、現在の静岡県浜松北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形である。
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 A図は『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半(260290)に作成されたちょうど1千万坪の大鳥の形をした地宜(ちぎ╱平面的に図化された地図の形)の遺跡である。この遺跡を私は“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶ。「卑弥呼」の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや╱先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載された、A図上部の引佐(いなさ)町井伊谷(いいのや)に居住した遠江・現在の浜松市の豪族によって作成された。ゆえに、左に掲載した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』(幻冬舎ルネッサンス)では、私は「建比良鳥の地宜」と呼んだ。しかし、2014年の2月から“「卑弥呼」の地上絵”と名称を変えた。というのもA図は、倭女王の名が「卑弥呼」となった理由・根拠を保存する遺跡だからである。
 「卑弥呼」の地上絵は、『魏志』倭人伝のすべての記事が歴史的事実を伝えていることが科学的に明確に証明できる遺跡である。ゆえに、『魏志』倭人伝は全記事を忠実に読解すると真実の歴史が解明できる仕組みになっている。だから、新井白石(16571725)以後の学者たちが加えた〔文献批判〕はすべて【誤読】となる。わがブログ「卑弥呼の逆襲」では何回も繰り返して今日の邪馬台国説はすべて【誤読の空論】であることを解説し証明した。
 「卑弥呼」の地上絵によって、『魏志』倭人伝末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三にて王と為るしを立てて、国中遂に定まる」と記載される「壱与」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命」であり、『古事記』中巻の開化天皇紀に「伊耶河宮(いざかわのみや)で天下を治めた天皇が結婚した正妃の、丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)」であることが解明される。わがブログ「卑弥呼の逆襲・日本が滅びる・124」では、『魏志』倭人伝に列記される小国「伊邪(いや)国」は「丹波」であることを証明した。だから、開化天皇の正妃の本名竹野比売を、人民は「伊耶()国生まれの美しい女王」を略して「伊耶那美命」と愛称した。234年ころ、竹野比売=伊耶那美命は13歳で卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女に選ばれて倭国に属することになった隣国の東鯷人(とうていじん)国の女王として赴任した。この旧東鯷人国の国号は「日本」と改められた。小国・日本の女王・伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定めた。そして多分244年ころ、伊耶那美命は倭国に帰還することになって、倭女王に就任したと推測される。この歴史を上記したように『魏志』倭人伝は「卑弥呼の宗女の壱与、年十三にて王と為るしを立てて、国中遂に定まる」と記載した。
 『魏志』倭人伝末部の「壱与」は夏音(かおん)文字の名=夏音名である。夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられて現存し、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載されて現存する。
 そして、『古事記』上巻は真実の歴史は夏音文字を用いて解明する仕組みになっている。
 A図の「卑弥呼」の地上絵は夏音文字の学芸の全貌が科学的に解明できる貴重な遺跡である。遠江国造の先祖の建比良鳥命は、伊耶那美命=竹野比売=壱与が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】が永遠であれと願って「卑弥呼」の地上絵を作成した。この【日本建国の〔愛〕の理念】を永遠に残す方法は、下部に掲載する【 秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【字源・字形・字義】とする【夏音文字の学芸】であった。というのも、銀河各部の形状は永遠不変であるゆえ、数千年後の人々も3世紀と同じ銀河各部の形状を見ることができ、また夏音文字の学芸では【銀河各部の形状】が【文字(字源・字形・字義)】であったからである。

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 学者たちは『古事記』上巻の日本神話は神々の物語であり虚構であると定める。しかし、夏音文字の学芸の全貌を科学的に解明できる「卑弥呼」の地上絵によって、『古事記』上巻は歴史的事実を伝える記述であったことが証明される。

 

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲」の【用語の解説】の〔1・漢字〕〔2・秋の銀河と夏の銀河〕〔3・夏音文字〕〔4・倉頡が死刑と定めた3つの掟〕〔5・漢字作成原理「鳥獣の足跡」〕〔6・易〕〔7[]のキャッチ〕では、夏音文字の学芸について概略的に説明した。
 『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて実際に目で見て確かに現存すると断定できる夏音文字を、学者たちは【誤読=文献批判】を用いて「夏音文字は存在しない」と抹殺した。
 夏音文字の学芸は(1)A図の「卑弥呼」の地上絵はじめ、(2)前回のブログで解説した3千万坪の彦根の「未だ夏音文字の学芸は習わず」と設計された大鳥の地上絵、(3)京都市に所在する桂離宮の庭園、(4)同じく京都市に所在する修学院離宮の庭園に保存されて現存する。だから、学者たちが幾つかの古文献に記載された夏音文字に関する記事に理屈を付けて否定しても夏音文字は間違いなく確かにわが国に伝来していたことになる。

その証拠に、前回のブログでは織田信長、徳川家康が夏音文字の知識を有していたことを証明した。またA図の「卑弥呼」の地上絵の守り番であった建比良鳥命の後裔の井伊氏によって、信長・家康・井伊氏が胸の奥に秘めた【日本建国の〔愛〕の理念と夏音文字の学芸の復興】への情熱は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地宜(地図の形)として現存する3千万坪の彦根の大鳥の地上絵に結実したことを証明した。

◆わがブログはこれまで幾度となく今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、原初漢字の夏音文字が伝来したことを証明した。
 秋田県の鹿角(かづの)市に所在する国の特別遺跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中遺跡には夏音文字が伝来した痕跡が現在も明確に残っている。
 だから、【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字(字源・字形・字義)】とした夏音文字の学芸をわが国が習得したことは確かな歴史的事実となる。
 上記したように、信長、家康、井伊氏は夜な夜な【夏音文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状】を眺めて【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとする情熱の炎(ほむら)で身を焦がして必ず心願成就するとひたすらいちずに努力した。
 B図は信長・家康・井伊氏が抱いた心願【日本建国の〔愛〕の理念と夏音文字の学芸の復興】を表現する「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と設計された3千万坪の大鳥の地上絵である。
 C図に示すように、彦根の大鳥の地上絵(彦根市)の南の境界線は「愛知川(えちがわ)」である。「愛知川」は「【日本建国の〔愛〕の理念】を知ることができる川」と表示して、信長・家康・井伊氏の心願を現在に伝えている。

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◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話〕には、伊耶那美命が小国・日本の国作りの目標を〔愛〕と定めた――この【日本建国の〔愛〕の理念】が明確に記述されていない。というのも伊耶那美命の没後に倭女王に就任した天照大御神は強大な権力を政治目標としたが、人民は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重し、天照大御神の権力至上主義の政策に反発して嫌悪したからである。このため【日本建国の〔愛〕の理念】が反乱や革命に利用されて朝廷と国家が崩壊することをおそれた天照大御神は、【日本建国の〔愛〕の理念】を敵視・憎悪した。ゆえに、天照大御神を崇拝した朝廷は、日本国誕生史(小国・日本誕生史)の抹殺に努めた。『古事記』が編纂された8世紀初頭、天照大御神は皇室が崇拝する至上神・皇祖と定められた。ゆえに、淤能碁呂島の聖婚儀式の基に伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した歴史を明らかにすることを皇室は天照大御神の聖性を汚すと定めて厳重に禁止した。

◆上記した淤能碁呂島の聖婚儀式の基に伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した歴史は、A図の「卑弥呼」の地上絵に秘められ、B図の彦根の大鳥の地上絵にも秘められ、さらにD図の桂離宮の庭園の東北部にも明確に設計された。
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 さらに、E図の修学院離宮の庭園における上御茶屋(かみのおちゃや)の「浴竜池(よくりゅうち)」の設計でも明確に表示された。
 この秘密を解明するには、【夏音文字の字源・字形・字義】となり、【契文(甲骨文字)・金文・篆文・隷書・楷書の字源・字形(原形)・字義】となった【銀河各部の名称】が必要である。ゆえに、F図のごとく、私は銀河各部の名称を定めた。 
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 D図の桂離宮の庭園は、江戸幕府に命令された当時の天才芸術家・科学者・茶道家の小堀遠州によって作成された。A図の「卑弥呼」の地上絵の守り番であった井伊氏は1601年正月に近江・彦根の地に移住した。井伊氏が去った後、家康は「卑弥呼」の地上絵に貯蔵された夏音文字の学芸が失われることを心配した。そこで家康は、1608年に駿府作事奉行の小堀正一(まさかず╱30)の科学と芸術の卓絶たる才能に注目し、遠江守(とおとうみのかみ)に取り立てて、“遠州(遠江)”に所在する「卑弥呼」の地上絵に保存された夏音文字の学芸の研究を命じた。ゆえに、1608年以後、正一は遠州と号した。
 1616年に家康が没すると、家康が一生をささげた【日本建国の〔愛〕の理念と夏音文字の学芸の復興】は家康・権現様(ごんげんさま)の遺志となり、代々の将軍と江戸幕府が引き継ぐ宿題となった。このため、B図の彦根の大鳥の地上絵が完成した1622年、小堀遠州は近江国奉行に任命されて、井伊氏彦根藩が大鳥の地上絵にそそいた夏音文字の学芸知識の詳細を学んだ。翌1623年、遠州は京都の伏見奉行に任命されて、幕府から桂離宮の庭園作りを命じられた。桂離宮に関する資料『桂御別業之記(かつらごべつぎょうのき)』の冒頭は「庭園は小堀遠州政一が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」と記す。家康の遺志を実現するために桂離宮の庭園作りに23年間情熱をかたむけた遠州は、1645年に病に伏せ、2年後の1647年に伏見奉行の屋敷にて享年69歳で没した。

◆上記のようにA図の「卑弥呼」の地上絵と30歳から没する69歳までの40年間もの長きにわたって濃密に関わった小堀遠州が作った桂離宮の庭園の東北部には、G図左図のごとく「紅葉の馬場」がある(D図参照)。紅葉の馬場がある庭園の平面図は、G図の右図の「卑弥呼」の地上絵に類似する。紅葉の馬場がある庭園は、「卑弥呼」の地上絵の両翼を欠く形となる。つまり、「卑弥呼」の地上絵の両翼を無くした設計は、B図の彦根の大鳥の地上絵と同様に「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と表現するものとなる。
 G図とH図に示すように、紅葉の馬場の東南に「天の橋立」と名づけられた二つの橋が架かる築島(つきしま)がある。

I図に示すように、庭園池より東側の庭園は「夏の銀河像」の形に設計された(D図参照)。天の橋立・「卑弥呼」の地上絵をモデルとする庭園部は、「夏の銀河の西南部」となるように配置されている。

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 J図の左側は、天の橋立の中央の築島の南岸に漬かる岩の写真である。この岩は、J図の右図に示す形をしている。
 J図の岩は、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する。
 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・5」において、K図中央の「夏の銀河の西南部」は[]の字源となり、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすと証明した。
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 というのも、藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社)が「夏の銀河の西南部」について「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のように迫力に満ちた姿でせまる」と指摘するからである。「夏の銀河の西南部」は「湧き出ずる入道雲」すなわち「出ずる雲」そして「出雲」という語となった。「夏の銀河の西南部」は「出雲」の語源となり、K図中央図の「胎児の姿に似る銀河」によって、「出雲」は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことになった。『古事記』上巻の須佐之男命の大蛇退治説話には櫛名田比売(くしなだひめ)と新婚生活に入る時に、須佐之男命が「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣作る その八重垣に」と作った和歌が掲載される。この和歌に登場する「出雲」の語源は「夏の銀河の西南部」であり、「出雲」は須佐之男命の生母の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】をあらした。
 J図の岩の形は、K図中央図の「胎児の姿に似る銀河」に見立てられた。ゆえに「胎児の姿に似る銀河をあらわす岩」は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。したがって、「胎児の姿に似る銀河をあらわす岩」は、「出雲」の語源銀河となる「夏の銀河の西南部」(H図参照)における「胎児の姿に似る銀河」に相当する箇所に設置されたのである。

◆家康の遺志を継ぐ幕府は、後水尾(ごみずのお)天皇に【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】を願うために、遠州に桂離宮庭園の作成を命じた。しかし家康や幕府の願望を受け入れると夏音文字によって『古事記』上巻に記載された皇祖・天照大御神の聖性を汚す歴史が明らかになって、皇室が人民に憎悪されて滅亡すると心配した後水尾天皇は頑として桂離宮の庭園への訪問(御幸)を拒絶した。このため、遠州(1647年没)の生前において後水尾帝は一度も桂離宮の庭園を見学しなかった。
 1629年、後水尾天皇は将軍秀忠の娘の和子が生んだ興子(おきこ)内親王に譲位して上皇(法皇)となった。
 家康の遺志を実現するために幕府は、修学院離宮の庭園(E図)1655年ころから1659年にかけて造営して後水尾上皇に献上した。
 L図の左図に、上御茶屋の中心となる浴竜池の形を示した。L図の右図の「巨龍の銀河」と「浴竜池」とは[()]で共通し、「隣雲亭」と「出雲」は「雲」で共通し、ゆえに「浴竜池」は「胎児の姿に似る銀河」を表現する仕組みとなる。だから、「浴竜池」は「夏の銀河の西南部」の「出雲」=【日本建国の〔愛〕の理念】を表現していることになる。(なお、「浴竜池」の形が「胎児の姿に似る銀河」にあまり似ていない事情は、次回で証明することにするように、淤能碁呂島の聖婚儀式で主な舞台となった「海」の形に重点的に相似するようにしたためである)

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(C) 2015 OHKAWA


 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・5」で解説・証明したとおり、M図に示す「十字の銀河の子宮がある腹部」は「出雲」の[]の字源となった。ゆえに、[]の字源と「出雲」の語源は、F図において〔東北〕にある「十字の銀河の腹部」と〔西南〕にある「夏の銀河の西南部」が、[]の字源となり「出雲」の語源となって【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 またE図が示すように、修学院離宮の上御茶屋は〔東北〕にあり、下御茶屋(しものおちゃや)は〔西南〕にある。F図に示すように「十字の銀河」は〔東北〕にあり、「夏の銀河の西南部」は〔西南〕にある。これゆえ、「上御茶屋・浴竜池」は〔東北〕にある「十字の銀河」に見立てられ、「下御茶屋」は〔西南〕にある「夏の銀河の西南部」に見立てられた。
 H図に示すように、「夏の銀河の西南部」の形となる庭園部とJ図の「胎児の姿に似る銀河をあらわす岩」は桂離宮庭園の〔東北〕に所在する。だから桂離宮庭園の〔東北〕に位置する「夏の銀河の西南部に相当する庭園部・胎児の姿に似る銀河をあらわす岩」は、F図において〔東北〕にある「十字の銀河」にも見立てられたことになる。

◆修学院離宮の庭園が造営中の1658年、後水尾上皇は桂離宮に初めて御幸(みゆき)し、幕府による修学院離宮の庭園造成が終了した1663年にも桂離宮を御幸した。この二度の御幸によって、後水尾上皇は修学院離宮の庭園の東北にある〔上御茶屋・浴竜池〕は「十字の銀河」と「夏の銀河の西南部」の両方を表現するものであることを確認したことになる。
 D図下部の約230メートル続く桂離宮の①「桂垣(かつらがき)」は、竹やぶの小竹を折り曲げて編んだ竹の葉をそのまま生垣(いけがき)とする。ゆえに、「桂垣」は「桂の笹垣(ささがき)」とも呼ばれる。上記したように、丹波出身の伊耶那美命の本名は竹野比売であった。したがって、桂離宮の庭園の〔東端〕の「笹垣」は「竹野比売」をあらわし、桂離宮の南端の「丹波街道」は「竹野比売の出身地の丹波」をあらわした。ゆえに、N図の左下のごとく笹垣=丹波街道と考えて「胎児の姿に似る銀河をあらわす岩」を90度転回して縦にする形は、N図の右図の「十字の銀河の乳房と腹部」を表現するものとなる。

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(C) 2015 OHKAWA


 わがブログ「日本が滅びる・146」にて解説したように、白川静著『字統』は[]の字形を「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする姿を写したものであろう」と解説する。O図に示すように、「十字の銀河」の形状は「後ろに(鬼の姿に似る銀河)に心を残しながら、立ち去ろうとする姿」に観える。

またわがブログ「日本が滅びる・146」で解説したように、P図に示す「伊予」という小国名は[]をあらわした。P図右上に配する[]の契文形は「神の杖(つえ)をもつ人」すなわち「精密に緯度と子午線を測量する杖を持つ人」をあらわす。[]の契文形の内の[][]は「十字の銀河」を図案するものであり、「神の杖(精密に緯度と子午線を測量する杖)を持つ右手」は「右手」に見立てられて[]の字源となった「鬼の姿に似る銀河」である。天体の運行においては、西の銀河が先に東の銀河が後に子午線通過する。ゆえに、西側にある「十字の銀河と乳房と子宮となる銀河部」は東側にある[]の字源の「十字の銀河に暗黒天体部」の「前に」すなわち「予(あらかじ)めに」通過することになる。だから、[][]を加える「伊予」は「十字の銀河の乳房と腹部」をあらした。N図に示す「十字の銀河の乳房と妊婦のように前へ突き出る腹部(おなか)」は「愛」をあらわすゆえ、「伊予」という小国名は[]をあらわした。その証拠に、『古事記』上巻の二度目の淤能碁呂島の聖婚がおこなわれた国生み説話は、小国「伊予」の祭神名は「愛比売(えひめ)」であると記載する。「愛比売」の「愛」は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

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 1668年、後水尾上皇は中御茶屋(なかのおちゃや)に朱宮(あけのみや)御所を造営した。のち、「朱宮御所」は「林丘寺」と名づけられた。
 Q図に示す[]の字源を、『説文解字』は「平土に叢木あるを林といふ」と解説する。「平土」すなわち「平の土」は「十字の銀河の腹部と接する鬼の姿に似る銀河」があらわす。ゆえに、「十字の銀河」が[]の字源となる。『説文解字』は[]の字源を「土の高きものなり。人の為(つく)る所に非ざるなり。北に従ひ、一に従ふ。一は地なり。人の居は丘の南に在り。故に北に従ふ。中邦の居は、崑崙(こんろん)の東南に在り。一に曰く、四方高く、中央下(ひく)きを丘と為す。象形」という長文で解説する。多分、この長文を注目した上皇は、Q図のごとく「十字の銀河の西側半身」を〔女性の左右の乳房〕の形に見立て、また〔女性の左右の乳房〕から「丘」を連想し、「十字の銀河の西側半身」を[]の字源と考えたのであろう。ゆえに、「朱宮御所」を「林丘寺」と改名したにちがいない。
 上皇は従来の皇室の政策を改めて【日本建国の〔愛〕の理念】は皇室・日本国にとって重大であることを認めて「林丘」という寺号であらわした。しかし、天照大御神の聖性をまもるために積極的に【日本建国の〔愛〕の理念】を復興する意志・行為を示さなかった。
 次回は、J図の天の橋立中央の築島南側の岩とL図左図の浴竜池が造形表現して伝える史実を――他方、『古事記』の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には明確に記載されなかった淤能碁呂島の聖婚説話の秘密について解明する。

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