朝日新聞社の社長様への直訴・9
朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
●ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(23)
■邪馬台国説は【誤読】で日本を抹殺する(2)
◆229年(呉の黄竜元)当時の魏・蜀・呉が鼎立(ていりつ)した三国時代(220-280)の状況は、A図のごとく魏を倒さんとする前面の敵は天下二分の計を結ぶ呉と蜀であり、燕(えん)地の公孫淵(こうそんえん)が背後の脅威であった。呉の皇帝の孫権(そんけん)は燕地を治める淵を味方に引き入れようとして密使を派遣したが、淵は軍事同盟を結ぶ魏軍と倭軍に攻撃されて燕が討伐されることを心配して呉・蜀の天下二分連合国との同盟をことわった。そこで、B図に示す倭の隣国にして倭の背後の東鯷人(とうていじん)国に注目した孫権は、230年(呉の黄竜二)に『三国志』呉書孫権伝が「将軍衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)を遣わし、甲士(武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)を求めしむ」と記載するように、日本列島・東鯷人国遠征を命令した。 (注 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「倭国の隣国の東鯷人国に夷州と澶州(せんしゅう)が有る」と記述する。ゆえに孫権は1万の水軍に東鯷人国への遠征を命令したことになる)。
(C) 2015 OHKAWA
呉軍の日本列島遠征決行の22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いで、わずか5万の呉・蜀の連合軍は80万の曹操(そうそう)が率いる魏の大軍を撃破して劇的な大勝利をおさめた。呉・蜀連合軍を勝利に導いた中心的な役割は2万の呉の水軍が担った。ゆえに、日本列島に遠征する1万の呉の水軍は、ザックリ言えば赤壁の戦いにおける40万の魏の大軍に等しいことになる。
孫権は――赤壁の戦いで活躍した呉の1万の水軍を東鯷人国に遠征すれば、呉に占領されまいと東鯷人国王は倭の卑弥呼に防衛を要請するにちがいない――卑弥呼は隣国が呉軍に占領されることを憂慮して大軍を東鯷人国に派遣する。そうなれば燕の背後の脅威となる倭の戦力は激減するので、魏につかえて不満を抱く淵に燕王の地位を約束すれば必ず淵は呉・蜀連合国の味方につくはずであると考えた。
ところで『後漢書』倭伝が「人民、時に会稽(かいけい╱A図参照)の至りて市(あきな)う」と記載するところの、定期的に呉の会稽港にて交易していた東鯷人たちが呉軍の遠征の情報をキャッチして東鯷人国王に伝えたのであろうか。しかし、孫権の日本列島遠征の目的は倭の大軍を東鯷人国の防衛に派遣させて淵が脅える背後の倭軍の戦力を減殺(げんさい)することであったゆえ、孫権は作戦を必ず成功させるためにわざわざ呉軍の東鯷人国遠征の情報を会稽で交易する東鯷人たちに伝わるように手配したのではあるまいか。
上記したように推測することはできるものの、倭国や東鯷人国が呉軍の日本列島遠征の情報をどのような方法でキャッチしたかについて記述する古文献は存在しない。けれども、呉軍の日本列島遠征の情報は倭女王卑弥呼の耳に届いたことは確実となる。なぜならば、『魏志』倭人伝末部には「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三にて王と為(な)る」という記事が存在するからだ。前回のブログで指摘したように、「卑弥呼の宗女」すなわち「卑弥呼が率いる巫女界(ふじょかい)を代表する巫女(みこ)」の13歳の壱与は、伊耶那美命であり開化天皇の正妃の丹波出身の竹野比売(たかのひめ)であった。この壱与・伊耶那美命・竹野比売は、呉の水軍の襲撃を防衛する女王に選ばれて東鯷人国へ赴任した。
◆しかし、呉の1万の遠征軍は大海に入るや直ちに正確な緯度と方角を見失い、8割から9割の兵士たちは大過に消えて壊滅した(『三国志』呉書孫権伝)。
呉の水軍は東鯷人国の海上に到着する以前に、大海と戦って敗北したのである。
というのも、中国では紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成して、精密に緯度と子午線(経度)を測量して大海を往来する術を鍛錬する習慣が廃(すた)れていたからである。
『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)における「緯度の測定」と題する記述は次のごとくである。なお、この記事に登場する「北極」は「天の北極」を意味する。
「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算できる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」
C図に、〔黄道の北極〕を中心にして約2万6千年で大きな円を描いて一周する――約72年毎に黄道の北極を中心にした角距離で1度ずつ移動する〔天の北極〕の状況を示した。
D図に、『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻が「精密に測る方法」と指摘した「天頂点を通過する銀河部(天体部)の日周運動」を示した。この〔精密に緯度と子午線が測量する方法〕の名を、D図左上に示すように「玄」と呼んだ。
(C) 2015 OHKAWA
◆紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視したシナ天文が完成したことは――紀元前91年に成立した司馬遷(しばせん)著『史記』天官書に記載されている。
『史記』天官書は「天極(てんきょく╱天の北極)は、太一(たいいち)(神)がいつもいる所」と記載する。『史記』に記載された「いつもいる所、すなわち天球の真北でいつもいる・動かぬ点となる目印」の北極星「太一」は、C図に示す「こぐま座β星」であった。この北極星・こぐま座β星は、当時、C図が示すように〔天の北極〕から約9度も離れていた。
〔天の北極〕に最も近い北極星となったこぐま座β星や今日のこぐま座α星は地球から見るとほとんど動かないように見えるために、世界各地の人々に不動の星として認識された。しかし、こぐま座β星やこぐま座α星は〔天の北極〕を中心にして円を描いたゆえ不動の星ではなかった。
2015年2月1日の朝日新聞の「天声人語」初頭は「天球のほぼ真北で動かぬ北極星は、古くから旅や航海の目印となってきた」と指摘した。この指摘は、事実ではなく〔天の北極〕から約1度に接近する北極星にもとづく現代人特有の誤解・事実に反する意見である。
呉の水軍が日本列島に遠征した3世紀における北極星・こぐま座β星は〔天の北極〕から約10度、また3世紀においては現在の北極星であるこぐま座α星は〔天の北極〕から約11度離れていた。だから、呉の水軍が当時の北極星の太一・こぐま座β星は〔天の北極〕から約10度も離れて円を描く周極星であった。
E図に示すように、呉の水軍が北緯30度の大海に入って北極星測量を開始した時に〔天の北極〕の真北に太一が位置したならば――その高度は太一よりさらに北にある水平線から20度となり、本来ならば北緯30度の大海では高度は30度でなければならない。呉の水軍は日本列島へ目指して東へ進もうとすると、太一の高度=緯度は刻々と変わり6時間後には太一は〔天の北極〕の真東に位置するので北の水平線から30度の高度・緯度30度に相当する。しかし、呉の水軍は太一の円軌道に則って東へ進まずに南へ南へと進むことになる。だから、当時の北極星では緯度も子午線も正確に測量できなかった。この結果、呉の遠征軍は大海に入って北極星測量するやいなや緯度も子午線(経度)も刻々と混乱し深刻化して、針路がまったく不明となり軍船は海原を迷いつづけて挙句(あげく)に壊滅した。
(C) 2015 OHKAWA
現在の北極星は〔天の北極〕から約1度=約60分離れているが、呉の水軍が大海を渡って日本列島に到着するための北極星は〔天の北極〕から1度の60分の1となる、わずか1分だけ離れていなければならない。C図は、わずか1分だけ〔天の北極〕から離れる北極星はまったく存在しないことを示す。だから羅針盤が発明されていなかった太古や古代、航海者たちは北極星で緯度測定せずに「〔[玄]をキャッチ〕して大海を往来したことになる。
3世紀においてはD図に示す〔4~6秒間で計測する[玄]をキャッチする方法〕ならば、人間の目は鍛錬すると〔極細線となる天頂緯度線〕をキャッチできたゆえ、1度=60分の60分の1の1分の緯度差を測量できた。原始の時から人類は日々鍛錬した本能行動によって〔大脳に植え付けられた、1分の緯度差を精密に計測することができる能力〕がそなわっていた。この能力がそなわっていたから、獲物を追う移動生活にあって位置や方角を示す目印が地上に存在しなかった氷と雪がひろがる氷河時代においても、人類は「迷った、死ぬ!」とパニック状態に陥って発狂することもなく人類は絶滅しなかったのである。
中国では、シナ天文が完成した紀元前1世紀には〔[玄]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が廃れて、太一・北極星を北にある不動の点と信じたために大海を渡って日本列島に到着しようとした呉の水軍は壊滅した。
わが国では聖武天皇の時代にシナ天文を導入した738年(天平10)まで、精密に1分の緯度差を測量できる〔[玄]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が栄えていた。
以上のごとく、『三国志』呉書孫権伝の呉軍の東鯷人国遠征記事と『後漢書』倭伝の東鯷人が大海を往来して呉の会稽にて交易した記事は「天の北極では大海を渡ることができないが、[玄]をキャッチする術ならば大海を往来できた【科学】の法則」を今日に伝える。
◆倭ではD図に示す〔[玄]をキャッチする習慣〕が栄えていた事実を、下記に列挙する『魏志』倭人伝にある6つの記事が示す。
(1)古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に到着すると、皆みずから“大夫”と称した
(2)魏の景初二年(238)六月、倭は大夫の難升米(なしめ)等を帯方郡に派遣した。
(3)難升米は魏の正始六年(245)に倭に帰還していた
(4)魏の正始四年(243)、倭王が大夫の伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややこ)の八人の使節を派遣した
(5)魏の正始八年(247)、倭は載斯烏越(そしあお)等を派遣して帯方郡政庁に到着した。載斯烏越一行が帰還する船に帯方郡使の張政(ちょうせい)等は便乗して倭に到着した
(6)倭は大夫の掖邪狗等二十人を派遣して、帯方郡の使節・張政一行を帰還させた
◆『魏志』倭人伝には「その道里を計るに当(まさ)に会稽・東治の東に在るべし」という記事がある。
F図に示す転回日本列島地理は『魏志』倭人伝の記事の通りに会稽・東治の東に在るので合理となる。一方、邪馬台国説を主張する学者たちの立論基盤である〔天の北極〕が在る方角を「北」とする実際の日本地図は会稽・東治の東北に在るので矛盾する。
(C) 2015 OHKAWA
倭の使節は、F図の中央に記す「玄界灘」を往来した。この「玄界灘」は「古代、天の北極では往来できなかった大海原。しかし、[玄]をキャッチすれば往来できた灘(陸地から遠く離れた波が荒い大海原)」であると、上記した【科学】にもとづく事実を伝える。
日本地図上に現存する「玄界灘」はわれわれが真実の歴史を直(ただ)ちに明確に知ることができる方法を先人たちが残したメーセージにしてプレゼンントだったのである。
G図に示す玄界灘に浮かぶ沖ノ島は、伊豆諸島の神津島(こうづしま)と同緯度(北緯34度15分)である。C図に示す3世紀の北極星・太一は〔天の北極〕から約10度・約600分も離れる円を描く星であったゆえ、沖ノ島と神津島が同じ北緯34度15分であることは測量できなかった。他方、1分の緯度差を測定できるD図の〔[玄]のキャッチ〕ならば沖ノ島と神津島が同じ北緯34度15分であることが測量できた。
(C) 2015 OHKAWA
沖ノ島は日本列島の西端にあり、神津島は日本列島の東端に所在する。
沖ノ島は冬になると雪が降るが、亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。ゆえに、日本列島の西端と東端の気候をあらわすと〔西冷東暖〕となる。
H図に示すよう中国海岸線地域の北部の気候は冷たく、南部の気候は暖かい。ゆえに、中国海岸線地域の北部と南部は〔北冷南暖〕となる。日本列島の〔西冷〕と中国海岸線地域の〔北冷〕は〔冷たい気候〕で合致し、日本列島の〔東暖〕と中国海岸線地域の〔南暖〕は〔暖かい気候〕で一致するので、卑弥呼王朝は「日本列島は東に伸びるのではなく、中国海岸線の南の方に伸びる」という錯覚の転回地理を制定したのである。
以上のごとく、邪馬台国説は北極星がある方角を「北」と定める実際の日本地図を立論基盤とするが、当時の北極星・太一では玄界灘や大海を渡ることができなかった。したがって、立論基盤を〔天の北極や北極星〕を基に〔方位〕を定める邪馬台国説の論法だと魏・帯方郡の使節も倭の使節も大海や玄界灘を渡ることができなかったことになる。
そうすると魏と倭は国交を結ぶことが出来なかったので、『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていない白紙であったことになり、『魏志』倭人伝には「邪馬台国」の4字も「卑弥呼」の3字も記されていなかったことになる。ゆえに、様々な邪馬台国説が取り上げるAとかBとか「箸墓古墳は卑弥呼の墓であるから纏向遺跡は邪馬台国であった」などと提示する理由や根拠はすべて直ちに無効・無意味となる。邪馬台国説の論法だと『魏志』倭人伝はこの世にまったく存在しないものとなるため、まったく存在しないものにはいかなる理由や根拠を提示してもまったく無駄、いかなる理由も根拠も全部ウソとなる。このように学者たちが主張する邪馬台国は完全なる誤読の空論・妄想であったことが――C図の〔北極星〕とD図の〔[玄]のキャッチ〕による緯度測定にもとづく【科学】の法則によって簡単明瞭に事実となる。
『魏志』倭人伝には方位を記す記事が全部で15ヵ所ある。この15ヵ所の記事は、I図に示す日本列島が南に伸びる錯覚の転回日本列島地理に一点の矛盾点もなく一ヵ所の不合理もなく合致する。卑弥呼王朝は政権基盤である天文地理学の基軸であった〔[玄]のキャッチ〕で立論した錯覚の転回日本列島地理を制定していた――これが歴史的事実だったのである。言い換えると学者たちは多数の“文献批判”という名の【誤読】を加えるが、『魏志』倭人伝には文献批判=【誤読】を一点も加える必要がなかったことになる。
(C) 2015 OHKAWA
わがブログで幾度となく解説・証明したように、I図の「日本列島の東が南に伸びる」という「時計回りに90度転位する転回方位規定」は、J図に示す[倭]の字源・字形・字義となった。ゆえに、I図の錯覚の転回日本列島地理を基に卑弥呼が統治した国家名は「倭」と定められたのである。
◆わがブログで何度もくりかえして証明し・解説したように、わが国には今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に夏音(かおん)文字が伝来していた。夏音文字は(1)上記した『魏志』倭人伝の「卑弥呼(ひみこ)・壱与(いよ)・難升米(なしめ)・伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややこ)・載斯烏越(そしあお)等の人名と幾つかの小国名に使用され、(2)712年に完成した『古事記』上巻の随所に〔音〕と注が付いて多数記載されている。また、(3)中国の正史『新唐書』日本伝には「わが国には夏音文字」があったと明確に証言する記事がある。
『魏志』倭人伝の「倭の占いにおける卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事にある「令亀の法の如く」は「今から約3300年前の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に刻む甲骨文字(契文╱けいぶん)の如く」と意味するゆえ、わが国には甲骨文字(契文)の如き夏音文字が存在したことになる。
また、『魏志』倭人伝の「倭女王卑弥呼が書く文書に用いられる文字と魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる文字は差錯(ささく╱相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港では点検し確認して間違いが生じないようにしていた」という記事は――「卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書は共に【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【字源・字形・字義】としたので、伊都国の港では【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を観て字義が相違しないように夏音文字と楷書を正しく変換していた」と証言するものとなる。
だから、夏音文字は【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義と定める原初漢字】であった。また夏音文字は、約5000年前の“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が定めた(1)秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露した人、(2)文字を容易に習得するために、文字となった銀河各部に名称を付けた人、(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない人または消し忘れた人には神罰が下って即刻に死刑に処せされるという、3つの掟を厳重に守った。これゆえ、夏音文字は遺跡から書いた文字が出土しないことになった。
(3)の掟は殷代後半の契文(甲骨文字)によって最初に破られた。しかし、契文は上記した倉頡が定めた(1)と(2)の掟を厳守した。また、契文以後の金文、篆文(てんぶん)、隷書、そして後漢時代(25―220年)から出現して7世紀初頭の隋代に完成した楷書もまた、倉頡が定めた(1)と(2)の掟を厳重に守った。これゆえ、(1)の掟によって【漢字の字源・字形・字義】は【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】である事実に学者たちはまったく気づかず、(2)の掟によって【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状が字源・字形・字義であった証明】には〔銀河各部の名称〕が必要であるゆえ、K図のごとく私は〔文字となった銀河各部の名称〕を定めた。
(C) 2015 OHKAWA
◆今から約4050年前にわが国が習得した夏音文字の学芸は、約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を失わずに3世紀まで正確に受け継いでいた。漢字作成原理「鳥獣の足跡」は、I図の錯覚の転回日本列島地理を成立させた。H図にて解説した〔中国海岸線地域の北冷南暖と日本列島の西冷東暖の合致〕と共に、漢字作成原理「鳥獣の足跡」は錯覚の転回日本列島地理に密接に関わっていた。
倉頡が生存した紀元前31世紀の五帝時代初頭から紀元前3世紀の秦(しん)代まで、中国と日本列島の天頂にK図左上に黒く塗りつぶした「十字の銀河」がめぐってきた。
L図の[文]の字源解説図に示すように「十字の銀河の西半身」は〔女性の乳房・妊婦のおなか〕に相似する箇所があり、また〔女性の子宮に観える部位(女性の子宮が透けて見えるような箇所)〕がある。ゆえに、[文]の金文は「十字の銀河」をモデルにして「おなかに宿る胎児が透けて見える妊婦の正面像」を図案する形となった。だから倉頡は――K図の銀河各部から作られたすべての文字は「十字の銀河」を母体にし、すべての文字は「十字の銀河の子宮」から生まれると考えれば、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字が作成できる――という漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。
(C) 2015 OHKAWA
M図の[字]の字源解説図が示すように――「十字の銀河」は「すべての文字が生まれる母体」となって[宀(べん)]の字源・字形・字義となり、「鬼の姿に似る銀河」が[子]の字源・字形・字義となってK図の「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作られたすべての子(文字)」をあらわし、[宀]の下に[子]が加わる[字]の文字が形成された。この[字]の字源銀河の様子は、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を今日に伝えている。
L図に示す「十字の銀河の子宮」は〔すべての文字が生まれる子宮〕であるゆえ、漢字作成原理「鳥獣の足跡」において基本となる部位にして聖なる中枢部となる。
G図左側の沖ノ島には、福岡県宗像(むなかた)市に所在する宗像大社の沖津宮(おくつみや)が鎮座する。
N図上図の左に、宗像大社の中津宮が鎮座する宗像市大島の地図の形を示した。N図上図の中央の神津島(G図右側をも参照)の地図の形は、大島の形に相似する。大島も神津島も共にN図上図の右に配した漢字作成原理「鳥獣の足跡」で〔すべての文字を生む子宮〕と定められた「十字の銀河の子宮の形」に類似する。大島の中津宮と神津島の物忌奈命(ものいみなのみこと)神社の緯度の差はわずか19分である。
(注 日本列島の西端・宗像大社の三宮は三女神を祀り、日本列島・東端・神津島の物忌奈命神社の由来によると当社は神津島の開祖にして三嶋明神の長子すなわち男神である。神津島の北隣の式根島が三嶋明神つまり三つ島神の次男、さらに北にある新島が三嶋明神の三男であろう。L図に示す「十字の銀河の西半身」は〔女体〕に似るゆえ日本列島の西端の宗像大社の祭神は女神となり、「十字の銀河の東半身」は〔弓を左手に持つ男性〕に観えるので日本列島の東端の神津島・三嶋明神の祭神は男神になったのである)。
N図下図に示すように、「十字の銀河の子宮」に類似する大島の地図の形の尖った部分は〔東北〕を向くのに対して、「十字の銀河の子宮」に類似する神津島の地図の形の尖った部分は〔西南〕に向いて、両島の向きは180度の転回となる。
O図に示すように、子宮に宿る胎児は180度の転回をする。
だから、G図の同緯度の沖ノ島・神津島を基に立論されたJ図の[倭]の字源を示す転回日本列島地理は、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」をあらわす神聖な真理であると卑弥呼王朝は確信したのである。このため『魏志』倭人伝に記載されたI図の卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理は真理であると信じられて、聖武天皇が全国に国郡図作成の命令を下した738年(天平10)まで改められなかった。
前回のブログで「次回は『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に記述されなかった歴史を表現する桂離宮庭園の天の橋立南側の岩と修学院離宮の上御茶屋の浴竜池の秘密を解明する」と約束したが、予想以上に前置きが手間取ったので約束を守れなかった。次回はこの約束を守るようにする。
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