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2015年3月 4日 (水)

朝日新聞社の社長様への直訴・11

朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
 
ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(25)

■邪馬台国説は【誤読】で日本を抹殺する(4)

◆このブログを最初に読んだ方々が理解できない事柄や疑問を抱いたならば、前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・10」を読んでいただきたい。

◆『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は――230(呉の黄竜2)、呉の1万の水軍が日本列島にある倭国の隣国の東鯷人(とうていじん)国への遠征の途についたが、8割から9割の兵士たちを失って壊滅した――と伝える。というのも前回のブログで証明したように、大海を渡るには1度の60分の11分の緯度差を測定できる〔[](天頂緯度線と子午線)をキャッチできる眼力と技(わざ)〕が必要であったからである。中国では紀元前1世紀に〔北極星(こぐま座β星)〕を「太一(たいいち)」と呼ぶシナ天文が完成し、太一は天球の真北でいつもいる・不動の点となる神と信じられた。しかし、3世紀の北極星・太一は〔天の北極〕から約10(600)離れて円を描く星であったので、大海は1分の緯度差を測定できる〔[]のキャッチ〕でなければ往来できなかったために、1分の600倍の10度も緯度が狂う太一で大海を渡る航法では呉の1万の水軍は壊滅することになった。
 この遠征の大失敗によって、呉の皇帝の孫権はシナ天文が完成する以前の〔[]をキャッチする方法〕を廃(はい)して北極星・太一で緯度・経度を測量する呉の水軍には、絶対に大海を渡ることができない事実を知って再度の遠征は断念した。
 しかし東鯷人国王と倭女王卑弥呼は、大海は当然〔[]をキャッチする方法〕で渡るものであるという先入観を抱くものであった。ゆえに、呉軍が北極星・太一で測量して大海を渡ろうとしたが原因で壊滅したことに気づかず、二人は230年における呉軍の遠征が失敗したのは暴風雨に遭遇したためであると考えた。
 というのも、当時の倭人や東鯷人は大海を渡ることが出来なかった失敗の原因は〔暴風雨との遭遇〕と思い込んだからである。なぜならば、1分の緯度差を計測できる〔[]のキャッチ〕においては、暴風雨になると天頂点を通過する銀河部がまったく見えなくなって緯度と子午線が計測できなくなったからである。そして、紀元前45世紀に生存した孔子と並ぶ中国二大思想家の老子の教えを伝える『老子』第1章末部では「これを玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門」という文で「玄は衆すなわち[]をキャッチするとすべての人々が命を手に入れることができる神妙・不思議な門」と指摘する。ゆえに、卑弥呼も東鯷人国王も『老子』が第1章で「[]のキャッチは人間にとって最も大事な生命を守る門(方法)である」と指摘する――大海を渡る人や遠くの地に旅する人が迷って落命せずに家族が待つ家に帰ることができる方法である精密に緯度と子午線が測定できる[]をキャッチする眼力と技(わざ)を失っていることに考えがまったく及ばなかったのである。

◆呉の1万の水軍の日本列島遠征の情報をキャッチした方法を記載した古文献は存在しない。しかし、『魏志』倭人伝末部には「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三にして王と為()る」という記事が存在し、「卑弥呼の宗女すなわち卑弥呼が率いる巫女界を代表して13歳の壱与が東鯷人国の防衛する女王となって赴任した」と証言する。というのも、前回のブログで、「壱与」という名は「大量の雨が降る暴風雨に遭遇して、渦を巻き逆巻く高波に呑みこまれる呉の軍船が転覆する」という呪力を有するものであることを証明した。
 『魏志』倭人伝末部に「載斯烏越(そしあお)」という武将が登場する。載斯烏越は壱与の夫で東鯷人国防衛を指揮する軍王(いくさのおおきみ)であった。これゆえ、「載斯烏越」という名は「呉軍の船を転覆させる青黒く渦を巻き逆巻く高波」という呪力を有した。
 「壱与」と「載斯烏越」という名は、東鯷人国王と卑弥呼が呉の遠征軍は大海に入って暴風雨に遭遇して失敗したと思い込んでいたことを示す。
 だから東鯷人国王と卑弥呼は、呉軍は再度遠征すると思い込んだ。呉軍と戦っても勝ち目が無いと考えた東鯷人国王は卑弥呼に倭国に属することを誓い、東鯷人国の防衛を要請した。ゆえに、倭国の一員となった「東鯷人国」の国号は「日本」と改まった。
 「壱与」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命」であり、『古事記』中巻の第9代開化天皇紀に記載される開化天皇の正妃「丹波出身の竹野比売(たかのひめ)」であった。
 「載斯烏越」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命」であり、後の「開化天皇」であった。
 したがって、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭にある〔淤能碁呂(おのごろしま)の聖婚〕の記事は、呉軍は必ず再度遠征してくると思い込みによって日本国(小国・日本)が誕生した歴史を語るものであったのである。

◆学者たちは『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事は信用しないで【誤読】に“文献批判”という偽名を付けて、多数の【誤読】を加える。しかし、全15ヵ所の方位記事に一点の【誤読】を加えずに記事を1ヵ所も歪曲しなければ、全15ヶ所の方位記事には一点の矛盾点も一ヵ所の不合理な箇所も生じず、全記事の合理が成立する。
 この結果、A図に示す転回日本列島地理を卑弥呼王朝は制定していたことが事実となる。
 前回のブログで証明したように、『古事記』上巻に記載された〔淤能碁呂島の聖婚儀式〕はB図に示す京都府宮津市に所在する日本三景の一つに数えられる「天橋立」で行われた。

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(C) 2015 OHKAWA

 というのも、C図に示す修学院離宮の庭園の上御茶屋(かみのおちゃや)の中心となる浴竜池(よくりゅういけ)の設計で、淤能碁呂島の聖婚は天橋立で行われたと表示するからである。修学院離宮の庭園は【小国・日本の誕生史の復興】に一生をささげた徳川家康の心願を実現するために、江戸幕府は1655年ころから着工して1659年に完成させて後水尾(ごみずのお)上皇に献上した。

D図に示すように、B図に示した天橋立の西隣の阿蘇海(あそかい)は、浴竜池の形に相似するように設計された。ただし、D図の阿蘇海は、卑弥呼王朝が制定したA図の転回日本列島地理にもとづいて「西→北・東→南」になるように「時計回りに90度方角が転位する転回方位」に則る地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)である。

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(C) 2015 OHKAWA


 だから、D図左図の阿蘇海・天橋立の転回方位に則る形は、『魏志』倭人伝に記載された歴史的事実であったA図の転回日本列島地理にもとづいて伊耶那美命と伊耶那岐命が天橋立で小国・日本(旧東鯷人国)に赴任する前に結婚式をおこなった――と、日本国が誕生する直前(日の出前の夜明け)の出来事を現在に伝えていることになる。

◆わがブログ「日本が滅びる・136137」で、小国・日本はE図に示す東海・関東地方であることを証明した(ただし、E図における遠江は倭国であった)
 E図下図の転回方位にもとづく小国・日本の地宜の略図は、F図左図のごとくなる。したがって、卑弥呼王朝はF図左図のごとく小国・日本の地宜を略図化して、F図右図の阿蘇海・天橋立の地宜に小国・日本の略図は類似すると考えたことになる。

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(C) 2015 OHKAWA


 F図のごとく考えたがために、女王に選ばれた伊耶那美命と軍王に選ばれた伊耶那岐命は日本国に赴任する前に呉軍との戦いに勝利するために、天橋立で『古事記』上巻に記載された淤能碁呂島の結婚式がおこなわれた。
 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝には、702年に中国が渡った遣唐使が小国・日本国について「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸()な大海に至り、東界北界は大山ありて限りなし」と説明したという記述がある。E図上図の現在方位の小国・日本の地理だと「西界」は大海ではなく静岡県西部の遠江やさらに西隣の愛知県東部の三河の陸地となる。ゆえに、「西界は大海である」という記述に矛盾する。他方、E図下図の転回方位にもとづく小国・日本の地理だと「西界」は大海となる太平洋であるから合理となり、「南界」も鹿島灘がある大海となる太平洋なので、「西界南界は咸な大海に至る」という記述に矛盾しない。小国・日本の転回方位の東(現在の北)界には三国山脈や日光の山々や関東山地があり、北(現在の西)界には富士山と赤石山脈がある。ゆえに、「東界北界は大山ありて限りなし」という記述にも合致する。
 上記したように、現在方位だと「西界は大海である」と説明した遣唐使の言は矛盾するが、転回方位だと遣唐使の言はすべて合理となる。だから、A図の転回日本列島地理は738(天平10)にシナ天文が導入されて否定されたが、それ以前は真理であると思い込まれて実在した歴史的事実であった――卑弥呼王朝が制定した錯覚の地理であったことになる。
 G図左図に示すように東京湾の湾口は狭い浦賀水道である。日本軍は呉の水軍との主戦場はG図右図の現在の三島市東部・沼津市・富士市吉原西部にひろがる湖の浮島沼(うきしまぬま╱浮島原)であると考えていた。現在は浮島沼の湖はまったく存在しない状況となったが、3世紀においては広大な湖であり、G図右図に示すように浮島沼は現在の狩野川(かのがわ)河口から浮島沼の南岸までは呉の軍船が通過できる狭い水道となっていた。

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(C) 2015 OHKAWA


 B図に示す天橋立は文珠寄りで阿蘇海と与謝ノ海(宮津湾)をつながる水道になっており、この水道をかつては船が通過していた。したがって、天橋立の水道とE図・G図に示す小国・日本国の東京湾・浮島沼は〔船が通過できる水道〕で共通していた。
 そして、天橋立と浮島沼は共に名勝地であった。G図右図の浮島沼の南側に田子ノ浦があろ、万葉歌人の山部赤人(やまべのあかひと)が「田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」と詠んだように、富士山が浮島沼の湖岸の0メートルから頂上までの3776メートルがそのままそびえ立つ小国・日本第一の名勝地であった。
 中国の正史『後漢書』倭伝の末部は小国・日本=東鯷人国について「紀元前3世紀、秦の始皇帝が方士の徐福に命令して、蓬莱(ほうらい)の神仙を求めしむ地」であったと記す。「蓬莱」は浮島沼の湖面に映る「富士山」であったゆえ、日本軍は呉の水軍は東鯷人国の蓬莱山(富士山)を目指して来襲するにちがいないと考えた。だから、浮島沼は呉の水軍と日本軍が激突する主戦場となるにちがいないと考えたことを示して、浮島沼より北側の愛鷹山(あしたかやま)山麓には小国・日本誕生の年代(234年-245年ころ)に合致する軍事的施設の特徴を有する高地性集落の遺跡が多数分布する。

◆わがブログで何回も繰り返して証明したように、漢字は今から5000年前の五帝時代初頭に起源し、“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)は、H図に示す【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字(字源・字形・字義)】とする方法を考案した。

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(C) 2015 OHKAWA


 倉頡はH図左上の私が「十字の銀河」と名づけた銀河を【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作った文字】を生む母体、I図左図に示す「十字の銀河の子宮」をすべての文字が生まれる子宮と定めれば、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を生むことができる漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。
 今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に漢字作成原理「鳥獣の足跡」を伝える夏音文字の学芸が伝来し、【秋の銀河と夏の銀河】を【文字(字源・字形・字義)】とする夏音文字の学芸は卑弥呼王朝の政権基盤となって栄えていた。
 I図に示すように、阿蘇海・天橋立と小国・日本の略図は「十字の銀河の乳房(胸部)と妊婦のように円く突き出た腹部」に見立てられた。

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(C)2015 OHKAWA


 H図の右下の銀河を、私は「夏の銀河の西南部」と名づけた。
 J図に示すように、「夏の銀河の西南部の東側の巨龍の銀河」を「池に浴びる竜」と解釈して修学院離宮の庭園池は「浴竜池(よくりゅうち)」と名づけられた。だから、浴竜池は〔夏の銀河の西南部の西半分の胎児の姿に似る銀河の形に類似する〕と連想できるように設計された。D図に示したように阿蘇海は浴竜池の形に相似し、I図に示すように阿蘇海は「十字の銀河の乳房と腹部」に相似するゆえ、浴竜池は「十字の銀河の乳房と腹部」と「夏の銀河の西南部」を合体する形に作成されるものであったのである。

◆K図に示すように転回日本列島地理(A図)にもとづくと、阿蘇海・天橋立は小国・日本の東北に位置するのでH図において東北にある「十字の銀河の乳房と腹部」(I図参照)に合致する。また、K図の小国・日本は阿蘇海・天橋立の西南に位置するので、小国・日本はH図における西南にある「夏の銀河の西南部」に適合する。
 したがって、「阿蘇海・天橋立」を「十字の銀河の乳房と腹部」に見立て、「小国・日本」を「夏の銀河の西南部」に見立てて、J図に示す浴竜池は「伊耶那美命と伊耶那岐命は小国・日本に赴任するに先だって天橋立にて淤能碁呂島の結婚式をおこなった」と伝えていることになる。なお、天橋立は広い所で約110メートル、狭い所で37メートルである。
 だから、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭の〔淤能碁呂島の聖結記事〕に登場する「天の浮橋」はL図に示す「天橋立」であり、また「沼矛(ぬほこ)」は浮島沼の「沼」と天橋立の形(地宜)を「矛」に見立てて作られた矛であったにちがいない。
 「沼矛を指しおろしてかき回し、塩をコオロコオロとかき鳴らして引き上げた時、その矛の先よりしたたる塩がだんだんに累(かさ)なり積もって島になった。これが淤能碁呂島である」という文は、天橋立を形成した塩(対馬海流)と小国・日本の塩(日本海流・黒潮)によってA図の転回日本列島地理が成立したとする理論を表現していると考えられる。つまり、大海で囲まれる日本列島の地底は(どろ)のように柔らかいので、天橋立を形成した対馬海流と小国・日本の海を流れる日本海流の巨大な力によって、日本列島は([熊]の初文・だから、字義は「熊(クマ)」の冬ごもりする縦穴と横穴のごとくが「緯度」の「緯(よこ╱横)」が「経度」の「経(たて╱縦)」に変わって碁呂(ころ)がり転回した、つまりA図の卑弥呼王朝が制定した錯覚の「転回日本列島地理」は「淤能碁呂島」と名づけられた――と伝えていることになる。

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 M図に示すように、「十字の銀河」は東半分が手に弓または剣を持つ男性の姿となり、西半分が乳房・子宮を有する女体に相似する。ゆえに、〔淤能碁呂島の聖婚〕の記事には男女の身体の相違について記述される。また、伊耶那美命は先に「なんとまあ、すばらしい男性でしょう」と讃えたのは「小国・日本の軍王としてなんとまあ、立派な武士(ますらお)でしょう」とあらわすものであり、伊耶那岐命の「なんと、美しい乙女だろう」という言は「日本の女王として、呉軍の呪的な戦力を奪う魔女・眉(まゆ)にふさわしい美しい乙女」と意味した。伊耶那岐命が「女が男より先に唱えたのは良くない」と言った訳は、「十字の銀河」は東から西へと移動するから「十字の銀河」に呉軍に勝利する呪力を祈願する儀式においては「良くない」、また軍王の伊耶那岐命が小国・日本の先頭に立って呉軍と戦うゆえ「良くない」と批判するものであったと考えられる。しかし、「十字の銀河の女体に相似する西側」が先に子午線通過し、「十字の銀河の男性の姿に相似する東側」が後に子午線通過するので、結婚式では伊耶那美命が先に伊耶那岐命は軍王にふさわしい男性(ますらお)であると讃えたことになったのである。

◆伊耶那美命と伊耶那岐命が天橋立でおこなった結婚式は、N図の転回方位に則って琵琶湖と淡路島の地宜の呪力で日本軍が呉軍に勝利する祈願する儀式であったのである。

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 O図に示すように、兵庫県に所在する「狭い明石海峡と鳴門海峡にはさまれる淡路島」は、G図右図の〔浮島沼の湖底の沼地(湿地)にはまった呉の大きな軍船〕に見立てられた。
 
世界でも最高級の速度となる潮流の「鳴門の渦潮」は〔富士山の雪溶け水が地下水となって浮島沼の湖底から渦を巻いて湧き出る無数の泉〕に見立てられた。浮島沼は無数の湧水泉からなる湖であった。ゆえに、呉の軍船は無数の湧水泉に揺さぶられて形勢不利となり、またあちこちの沼地にはまって立ち往生する。日本軍は湧水泉による揺れを防ぐとともに沼地にはまらないように底を浅くして平らにして小回りがきく小さな軍船を多数作った。そして、日本軍の敏捷に動き回ることができる小舟は矢を通さないように堅牢(けんろう)な楠(くすのき)で作られた。ゆえに、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話の〔神生み〕には「鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)」が記載され、この神の別称は「天鳥船(あめのとりふね)」であったと記される。したがって、呉軍との戦いで勝利するために日本軍が作った多数の軍船は「鳥之石楠船」または「天鳥船」と呼ばれたことになる。

『後漢書』倭伝は「東鯷人国の人民は時に会稽(かいけい)に至りて市(あきな)う」と記述する。会稽は呉地に所在し、P図に示す現在の紹興市であった。呉の会稽が面する上南下北の杭州湾(こうしゅうわん)の地宜は鳰(にお╱カイツブリ)の姿に相似すると定められて[]の字(字源・字形・字義)となった(「杭州湾」が[]の字源となった証明は、わがブログ「日本が滅びる」の126127で詳細に解説した)
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 Q図上図の「杭州湾」は「水面に浮かぶ鳰の姿」に相似する。ゆえに、「呉の杭州湾」は「呉の軍船」に見立てて、Q図下図の「琵琶湖」は「日本軍の船」つまり上記した「天鳥船」に見立てたにちがいない。というのも、Q図下図の「琵琶湖」の形は「天()を飛ぶ鳥の姿」に観えるからである。
 Q図下図に示す「琵琶湖の地宜」は[]の字となった〔鳰の姿〕に相似すると見立てられた。ゆえに、「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」となった。『魏志』倭人伝はA図に示すように近江・琵琶湖の小国名は「呼邑(こお)国」であったと記す。白川静著『字統』は[]の字形を「城中に多くの人のあることを示し、城邑・都邑をいう」と解説する。そうすると「琵琶湖」を「ヒナを育てる鳰の浮巣(うきす)」に見立てて、さらに「鳰の巣」を[]すなわち「壁をめぐらす城」に見立てて、「近江」は「呼邑国」と名づけられたことになる。なぜならば、Q図下図の「琵琶湖はヒナをねらう敵に襲いかかって攻撃する鳰の姿」に観えるからである。また、N図における「琵琶湖は呉軍に見立てられた淡路島に襲いかかる鳰」の姿に観える。だから、鳰ノ海・琵琶湖は呉軍に勝利する呪力を有する地宜となった。
 これゆえ、伊耶那美命と伊耶那岐命はO図の「淡路島」を〔転覆した呉の軍船〕に見立て、「鳰ノ海・琵琶湖」を〔呉の軍船を転覆させる浮島沼の湖〕に見立て、「天橋立」を〔沼矛〕に見立てて塩(鳴門の渦潮)のごとくかきまわしてコオロコオロとかき鳴らして日本軍に勝利をもたらす呪力を祈願する儀式を、天橋立でおこなったのである。

◆前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・10」において、208年におこった(せきへき)の戦いで2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を攻めで劇的な勝利をおさめたゆえ、日本軍は呉の水軍を“赤い火の呪力”を有すると考えたと指摘した。また、R図の赤く輝く「北アメリカ星雲」は[]の字となったとも指摘した。

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 S図に示す「北アメリカ星雲」に隣接する東西の「暗黒天体部」は〔日本軍に攻撃されて転覆し破損した呉の軍船〕の形に観える。というのも、「激流の銀河」は〔呉の軍船を転覆させる逆巻く高波〕のような形状だからである。前回のブログで解明・証明したように、「激流の銀河」は「壱与」の[]の字源となり、「載斯烏越」の「烏越」の語源となって「逆巻く高波で呉の軍船を転覆させる呪力」をあらわした。
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T図に示すように、[]の金文形は「十字の銀河」を持つ右手となる「鬼の姿に似る銀河の右手となる帯状の銀河」と「日輪の銀河」から成立した。
 ゆえに、[](太陽が水平線・地平線の下に近づく夜明け)の上部の[]は「三つ輪の銀河」が「水平線・地平線の下に近づく春分・秋分と夏至と冬至の太陽」となり、「十字の銀河」が「水平線・地平線」となって[]の下部の[]をあらわした。
 したがって、「北アメリカ星雲」は日没の太陽で空を火のごとく赤く染める「夕日」をあらわすことになって[]の字(字源・字形・字義)となった。
 だから、S図に示す「北アメリカ星雲に隣接する東西の暗黒天体部」はN図の転回方位にもとづいて西にある[]の字に適合する「淡路島」に見立てられたことになる。
 そして、N図に示した「鳰の海・琵琶湖」は[]をあらわすことになった。
 
N図の転回方位にもとづく「天橋立」は[]をあらわした。その証拠に、『古事記』中巻の開化天皇紀は伊耶那美命・竹野比売の生地の「丹波」を「旦波」と表記するからである。ゆえに、阿蘇海・天橋立が所在する「丹後」は「旦後」であったことになる。上記したように、[]の下部の[]の字源は「十字の銀河」であり、I図に示す「阿蘇海・天橋立」は「十字の銀河の乳房と腹部」に見立てられて、[]をあらわす地となった。
 したがって、「阿蘇海・天橋立」は[]の「夜明け」をあらわす地宜となり、伊耶那美命と伊耶那美命が赴任して国作りをおこなう旧東鯷人国は「太陽が水平線上に昇る日の出の国」となったので「日本」と国号が定められた。その証拠に、中国の正史『新唐書』日本伝は――702年に中国に渡った日本国の使者は「国日の出ずる所に近いので、日本と改名されたと言った」――と記述する。
 以上のごとく「日本」という国号は、K図の転回方位にもとづいて天橋立と小国・日本(旧東鯷人国)に琵琶湖と淡路島も加えて、日本軍が勝利する呪力を祈願した淤能碁呂島の聖婚儀式から生まれたことになる。

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