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2015年3月10日 (火)

日本が滅びる・161

邪馬台国説は【誤読の空論】である
■桂離宮の庭園は「日本国が〔愛〕を掲げて誕生した」と伝える遺跡である

◆タイトル名を以前の「日本が滅びる」にもどして、前回までの「朝日新聞社の社長様への直訴」の11回を数に入れて、今回は「日本が滅びる・161」と定めて一新することにした。(つまり、11回おこなった「朝日新聞社の社長様への直訴」を「日本が滅びる」の回数に組み入れた。ゆえに「日本が滅びる」は150160までは欠番とした)

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲」は首尾一貫して、今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に夏音(かん)文字が伝来していたことを詳細に解説し証明する。そして夏音文字とまた7世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書と、さらに楷書の伝統を受け継ぐ今日に用いられている漢字(楷書)も、ともにA図に示す【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字(字源・字形・字義)】とする事実もわがブログは解説・証明してきた。
 「銀河」は「銀漢」とも言われるゆえ、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と称された。したがって「に多数の字ありき」または「字の学芸ありき」を略して、A図に示す「銀河が輝く天」は「天文」と名づけられることになった。
 2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を記述した『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所の方位記事は一点の矛盾点もなく一ヵ所の不合理な箇所も生まれずに――夏音文字の学芸を政権基盤とした卑弥呼王朝は、B図に示すように「西(九州)を北・東(近畿地法)を南」と定めた転回日本列島地理を制定した――と歴史的事実を証言する。B図は現在の方位を時計回りに90度転回する[]の字(字源・字形・字義)に合致する錯覚の日本列島地理であった。このため、卑弥呼が統治する国の名は「倭国」と定められたのである。

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 上記したように、『魏志』倭人伝はすべての方位を忠実に読解すると論理が【合理】で完結する。にもかかわらず、新井白石(16571725)以来今日まで290年間、学者たちは『魏志』倭人伝の記事に幾ヶ所も【誤読(文献批判)】を加えて邪馬台国説を立論する。しかし、この方法だと多数の矛盾点と不合理が生じて論理が合理で完結できず、邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない【誤読の空論】となる。にもかかわらず学界や知識人たちは、邪馬台国説は正しいと思い込む深い迷妄(めいもう)に陥って抜け出すことができない。

◆上記したごとく、『魏志』倭人伝は「(1)A図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】が【漢字(字源・字形・字形)】であった、(2)卑弥呼王朝は[]の字(字源・字形・字義)となったB図の錯覚の転回日本列島地理を制定した」という歴史的事実を証言する。だから、『魏志』倭人伝の全記事は真実を伝えるものであり、【誤読】に“文献批判”という偽りの名前を付けて誤魔化す必要はまったくない。これゆえ、B図の錯覚の転回日本列島地理は738(天平10)にシナ天文が導入されて改められたが、それ以前に実在した日本地理であった。
 わがブログ「日本が滅びる」の135138や「朝日新聞社の社長様への直訴・10」にて解説し証明したように、234年ころに『魏志』倭人伝末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三にて王と為()る」と記される壱与が中国の正史『後漢書』の倭伝に記載された東鯷人(とうていじん))に赴任して、小国・日本が誕生した。「壱与」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命」であり、『古事記』中巻の開化天皇紀に記載された「丹波出身の竹野比売(たかのひめ)」であった。
 『魏志』倭人伝末部に登場する「載斯烏越(そしあお)」は、『古事記』上巻に登場する伊耶那美命の夫の小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の「伊耶那岐命」であり、『古事記』中巻の開化天皇であった。
 『魏志』倭人伝は280289年に著作された。C図に示す現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を示す地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)となって現存する遺跡は、『魏志』倭人伝の同時代の3世紀後半(260290)に作成された。この1千万坪の巨大な鳥の形をした遺跡を、私は左に掲示した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぶす』(幻冬舎ルネッサンス)では、“建比良鳥(たけひらとり)の地宜”と名づけた。というのも、C図の遺跡は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖である建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載される豪族が作成したからである。しかし、2014年頃から“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶことにした。なぜならば、C図の遺跡は卑弥呼王朝が制定したB図の転回日本列島地理にもとづいて、【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された遺跡だからである。
 C図に示す「卑弥呼」の地上絵は大鳥の顔の正面が向く「夏至の日の出の方角」で「卑弥呼王朝はじめその後の天皇政治の政権基盤は夏音文字の学芸であった」と表示する。論より証拠、C図の「卑弥呼」の地上絵を調査すると『魏志』倭人伝に記載された「卑弥呼」「壱与」「載斯烏越」などの人名や小国名に用いられる文字は夏音文字であると科学的に証明できる。また、『古事記』上巻の随所には多数の夏音文字が記載されて現存する。だから『魏志』倭人伝や『古事記』上巻に実在する夏音文字を「無かった」と主張する意見は、【誤読の空論】となる。

◆『古事記』上巻のテーマは「伊耶那美命が小国・国作りの柱を〔愛〕と定めた歴史」であり、この【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることが『古事記』上巻の作成目的であった。C図の「卑弥呼」の地上絵と『古事記』上巻は、現在の日本地図ではなく歴史上に実在した『魏志』倭人伝に記述された錯覚のB図の転回日本列島地理にもとづいて【日本建国の〔愛〕の理念】を保存した。また、『古事記』序に記載された『古事記』上巻の原典の『本辞(ほんじ)(『旧辞』または『先代の旧辞』とも言う)に用いられた文字は夏音文字であり、夏音文字はA図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字(字源・字形・字義)】とする卑弥呼と壱与・伊耶那美命の政権基盤となった神聖な文字であった。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるには【夏音文字の学芸】が必要となり、またB図の【卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理】も不可欠となった。
 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の67では――織田信長・徳川家康・C図の「卑弥呼」の地上絵を作成した建比良鳥命の後裔の24代頭首の井伊直政(なおまさ╱彦根藩の祖)は、【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】をなんとしても実現せんとする心願を抱いて一生をささげた――ことを証明した。

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 D図に示す現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地宜は、井伊直政の亡き後に井伊藩が1603年に着工して20年後の1622年に完成させた。徳川家康は関ヶ原合戦の4ヵ月後の1601年正月、譜代大名筆頭の「卑弥呼」の地上絵の北隣の引佐町井伊谷(いいのや)を本拠地とする井伊直政に石田光成の居城であった近江の佐和城に入るように命令したが、直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して翌16022月に没した。直政が佐和城に入った使命は【織田信長・徳川家康・井伊氏の心願である日本建国の〔愛〕の理念を復興するために夏音文字の学芸を用いて大鳥の地上絵を作成する事業】であった。
 だからわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の67で証明したように――彦根藩祖の直政が没した翌年(1603)には、井伊藩は直政の遺志を継いで【夏音文字の学芸と日本建国〔愛〕の理念の復興事業】に着手した。そして、D図に示すように大鳥の地上絵における「夏至の日の出の方角」で「夏音文字の学芸」をあらわし、「多賀大社」で多賀大社の主祭神の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を示し、「頭部から東端のAからBまでの彦根市の境界線」で「家康・信長・井伊氏の心願」をあらわし、その「羽の根元があるが翼が無い彦根市の東端の境界線の設計」で「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と図化する大鳥の地上絵を20年後に完成させた。家康は1616年に没しているので、一生を賭けて追い求めた【日本建国の〔愛〕の理念の復興】を皇室から承認を得るための彦根の3千万坪の大鳥の地上絵の完成を見ていない。

◆C図の「卑弥呼」の地上絵の守り番であった井伊氏に近江への移住を命令した徳川家康は、3世紀後半以来約1300年余もの長いあいだ【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念と[]の字源をあらわす転回日本列島地理(B図)】を保存・貯蔵する「卑弥呼」の地上絵が失われることを心配した。そこで、駿府城作事奉行の30歳の小堀正一(まさかず)に遠江守(とおとうみのかみ)に取り立てて、「卑弥呼」の地上絵の研究を命じた。というのも、A図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】が【文字(字源・字形・字義)】となった学芸の研究は芸術と科学(医学・天文地理学)の才能にめぐまれる人物が最適任者であったからである。小堀正一は当時の天才芸術家にして科学の才能にも抜きんでて優れていた。以後、1647年に69歳で没するまで「卑弥呼」の地上絵の研究に努めた正一は、「遠州」と号した。
 【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】は家康の遺志となり、代々の将軍と幕府が成就させる宿題となった。1622年にD図の彦根の大鳥の地上絵が完成すると、小堀遠州は近江奉行に任命され、彦根の大鳥の地上絵に注がれた夏音文字の学芸知識を習得した。翌1623年、小堀遠州は伏見奉行に任命され、京都市に所在する桂離宮に関する史料『桂御別業之記(かつらごべつぎょうのき)』の冒頭が「庭園は小堀遠州政一が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」と記しているように、伏見奉行屋敷で没する2年前の1645年に病床に就いた23年もの間情熱を傾けて桂離宮の庭園を作成した。
 E図に示すように、桂離宮の東北部にある庭園はC図の「卑弥呼」の地上絵から両翼が無い設計でD図の彦根の大鳥の地上絵と同じく「未だ夏音文字は習わず」と設計された。
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 F図左図の夏の銀河の形は、右図に示す桂離宮庭園池の東岸(G図参照)の設計となった。
 G図に示す桂離宮庭園の地宜をもって、遠州は【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念と卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理があらわした[]の字源】を設計した。
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 H図に示したように、遠州はA図の銀河各部の形状を3つの基本形に大別してG図の桂離宮庭園の地宜(平面図)を作成した。H図のⅡでは、①両手の形と➁人の横顔の形が明確になるように示した。Ⅲでは、Ⅰに示す➂オス鹿の横顔の形が明確になるようにし、そのオス鹿の角の部分が①両手の形と➁人の横顔の形になることを示した。

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 A図の左上端にある「オス鹿の横顔に似る銀河」は、H図のⅢの庭園の「オス鹿の横顔の地宜」と合致する。
 「オス鹿の横顔に似る銀河の角」は「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は「左手」をあらわす[]の字(字源・字形・字義)となった。「十字の銀河」の西隣は「鬼の姿に似る銀河」であり、「鬼の姿に似る銀河」は「右手」をあらわす[]の字となった(ただし、A図には「鬼の姿に似る銀河」の箇所を示さなかった)
 「鬼の姿に似る銀河における鬼の横顔に似る銀河」とA図に記した「人の横顔に酷似する銀河」は、H図に示した➁人の横顔の形に設計された庭園(G図における池の西側の月波楼・御殿がある庭園)で表現された。
 A図の右側に記したように、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は「秋の銀河(の西部)」となり、「人の横顔に酷似する銀河」は「夏の銀河の東北部」となり、F図に示す「夏の銀河像を形成する池の東岸」は「夏の銀河(夏の銀河の東北部と夏の銀河の西南部)」をあらわすゆえ、G図に示した桂離宮庭園の地宜はA図の【文字となった秋の銀河と夏の銀河の全域】を設計していることになる。
 だからG図の桂離宮庭園の地宜によって夏音文字はじめ楷書さらに現代の漢字のすべての字源が解明でき、また「漢字は【秋の銀河と夏の銀河】の各部の形状から作られた事実」が科学的に証明できる。

◆桂離宮庭園の作成は、幕府が時の天子・後水尾(ごみずのお)上皇から家康の心願であった【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】の承認を得るための事業であった。しかし、上皇は夏音文字の学芸を復興すると『古事記』上巻に「天照大御神は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を呪い祟(たた)り、尊重する人民を苦しめた」と記述された歴史が明白となり、天照大御神を皇祖・至上神として崇拝する皇室が人民に憎悪されて滅亡することを心配して、幕府の要望を受け入れて遠州の生前には一度も桂離宮に御幸(みゆき)して庭園を見学しなかった。
 そこで幕府は、1655年頃から1659年にかけて修学院離宮(京都市左京区修学院室町)の庭園を完成させて後水尾上皇に献上した。前回のわがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴・11」にて証明したように――『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭にある〔淤能碁呂島の聖婚〕の箇所には明確に記されなかったが、この聖婚儀式は〔小国・日本に赴任する女王・伊耶那美命と軍王・伊耶那岐命が呉の水軍に勝利する呪力(じゅりょく)を祈願する儀式〕であった。この史実を、幕府は修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)の浴竜池(よくりゅうち)の地宜(平面図)であらわした。
 ゆえに、浴竜池の地宜を調査すると淤能碁呂島の聖婚が京都府宮津市に所在する特別名勝の天橋立でおこなわれ、滋賀県の琵琶湖と兵庫県南部の淡路島の地宜をも加えて、日本軍が呉の水軍に勝利する呪力を祈願する儀式であったことが科学的に証明できる。
 I図の右側に示す〔三つに折れる天の橋立中央の築島(つきしま)〕の南側には、J図上図の岩が池の水に漬()かる。J図上図は、北側から南にある岩を見た形である。J図下図も同じく北側から南の阿蘇海(あそかい)・天橋立(あまのはしだて)を見た地宜である。
 天文学では〔北〕を正面とせずに、J図のごとく〔南〕を正面と定める。ゆえに、「天体(銀河や星や太陽など)が天頂より南の子午線を通過すること」を「南中」と言う。〔南〕を正面とすると、J図のごとき〔右側が西、左側が東〕となる(A図と同じ)
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J図上図の桂離宮庭園の「天の橋立」とJ図下図の京都府宮津市に所在する「天橋立」は同名である。だから、夏の銀河の西南部となる庭園部に配置された天橋立南側のJ図上図の岩は、伊耶那美命と伊耶那岐命が淤能碁呂島の聖婚儀式をおこなった特別名勝・天橋立をあらわしていることになる。
 J図上図の岩が配置された「夏の銀河の西南部となる庭園部」は、「小国・日本」をあらわした。というのも、前回のわがブログで証明したように、K図のごとくB図の転回日本列島地理にもとづくと「小国・日本」は「西南」となるからである。ゆえに、「小国・日本」は「夏の銀河の西南部」に見立てられたことになる。
 L図左図に示す「夏の銀河の西南部」には「銀河の中心方向」があり、「時計回りに方位が90度転位して南→西となる転回方位」を示して[]の字(字源・字形・字義)をあらわした。また、L図左図の「夏の銀河の西南部における西半分の胎児の姿に似る銀河」は、L図右図の「阿蘇海・天橋立の地宜」に類似すると見立てられた。このため、「胎児の姿に似る銀河」は日本国の女王・伊耶那美命が国作りの柱とした〔愛〕をあらわした。だから、J図下図の「阿蘇海・天橋立の地宜」をあらわす「天の橋立中央の築島の南側にある岩」は[]の字とともに【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

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 M図の上部に「南→西」と記したように、[]の字はM図右図に示すように「現在方位が時計回りに方角が90度転位する転回方位規定」をあらわした。B図に示す「日本列島の東→南に転位する地理」はL図左図の「夏の銀河の西南部」とM図の「十字の銀河」の左側に記した「南→西にする時計回りの90度の転回方位規定」に合致して[]の字をあらわす。だから、B図の転回日本列島にもとづき卑弥呼が統治した国の名は「倭」となった。 

◆A図の【文字となった銀河各部の形状】は立体的ではなく平面的である。だから、桂離宮の庭園の平面図(地宜)は「文字が平らな銀河各部の形状から作られた」と伝える遺跡となり、「『魏志』倭人伝や『古事記』上巻に登場する各地の地宜(平面的に図化した地図の形)は歴史を伝える文字(字源・字形・字義)となった」と今日に伝えている。
 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)はA図の左上の「十字の銀河」が〔妊婦の姿〕に相似するのを注目して――A図の【銀河各部の形状】から作られたすべての字は「十字の銀河」を母体として生まれ、N図に示す「十字の銀河の子宮からすべての字は生まれるように考えると、万物の情(イメージ)に類似する多数の字を作ることができる――漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。
 ゆえに、N図左側に配する「十字の銀河」から作られた[]の金文形は「母体の子宮に胎児が宿る妊婦の姿」を図案して漢字作成原理「鳥獣の足跡」を表現した。

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 O図に示す「十字の銀河」は[(べん)]となり、[]はA図の「銀河各部の形状から作られたすべての字が生まれる母体」をあらわした。「鬼の姿に似る銀河」は[]の字となって「銀河各部の形状から生まれたすべての子」をあらわした。ゆえに[][]が加わって[]の字が成立し、[]の金文形もまた漢字作成原理「鳥獣の足跡」をあらわした。
 “字書の聖典”と尊重された2世紀初頭の後漢時代の文字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字』は[]の字源を「乳するなり」と解説する。
 O図とP図が共に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」を「乳児の横顔」に見立てて、「十字の銀河の子宮と重なる部分の乳房」を「母親の乳房」に見立てて、『説文解字』は[]の字源を「乳するなり」と解説した。
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 Q図に示すように、「十字の銀河の子宮と重なる銀河部」は「右足」または「妊婦の腹部」そして「母の大きな乳房」に観える。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」を「乳児の横顔」に見立てると、「十字の銀河の大きな乳房となる銀河部」は「母」を意味する古語の「垂乳女(たらちめ)」の語源となった。そして「鬼の横顔に似る銀河の口や舌」は「乳児の口や舌」に観えるゆえ、「母の乳房となる銀河部と乳児の口や舌となる銀河部の中間の帯状の銀河」が「乳するなり」をあらわした。

◆H図の中央Ⅱに示したように、池の西側の岸の地宜は〔人の横顔〕に相似するゆえ、R図のごとく「池の西側の岸」は「乳児の横顔に似る地宜」となり、大山島における「園林堂(おんりんどう)がある庭園部」が「十字の銀河の子宮と重なる大きな乳房」をあらわし、「園林堂がある庭園部と梅の馬場をつなげる橋」が「乳するなり」の字説部分となった。

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 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔国生み〕は――伊耶那美命は、S図に示す「四国」に「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」という名を付けて生み、「伊予国」の祭神を「愛比売(えひめ)」と謂()い、「讃岐国」の祭神を「飯依比古(いいひこ)」と謂い、「粟(あわ)国」の祭神を「大宜都比売(おおげつひめ)」と謂い、「土左(とさ)国」を「建依別(いいよりわけ)」と謂うことにした――と記載する。
 ゆえに、二度目の淤能碁呂島の聖婚をおこなわれた〔国生み〕において、倭女王・伊耶那美命は小国・日本と同じく倭国・日本国の国作りの柱を〔愛〕とする決意を表明して、「四国」を「伊予之二名島」と名づけた。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]について「尹(いん)は神杖をもつ形で、神意を媒介する聖職の人をいう」と解説する。T図に示す「十字の銀河の身体部にある暗黒天体部」は紀元前41世紀から紀元前3世紀ころまで中国とわが国の天頂にめぐってきて「精密に天頂緯度と子午線を測定できる基準(ものさし)」となったので「神の杖(つえ)」となり、王・女王や巫女・神官などの聖職者たちは「杖(真っすぐな棒)」を用いて天頂緯度と子午線を測定した。
 T図において、「神杖」をあらわす「十字の銀河の身体部の暗黒天体部」よりも「十字の銀河の乳房の銀河部」のほうが先つまり「予(あらかじ)め」に子午線通過する。ゆえに、伊耶那美命は「十字の銀河の乳房」から「伊予」という名を生み、「伊予」は「愛」を意味することを明確に示すために「伊予国」の祭神名を「愛比売」と定めたのである。
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  J図にて説明したように「銀河や太陽が天頂より南の子午線を通過する現象」を「南中」という。南中する天体の高度は最大となる。U図に記した「山上小亭跡」が桂離宮の庭園において最も高い。ゆえに、U図は南中に則る地宜の図(平面図)とした。わがブログ「日本が滅びる・142」で詳細に証明したように『古事記』の〔国生み〕の記事における「讃岐国」の祭神「飯依比古」は「讃岐富士・飯野山」のことであった。U図に示すように、大山島の東部の地宜は富士山の形に設計されて「讃岐富士・飯依比古」をあらわし、西部の地宜は乳房の形で「伊予・愛比売」をあらわす。U図の庭園で最も高い山上小亭跡と天の橋立の築島を結ぶと〔子午線と南中〕をあらわし、U図の大山島の地宜とJ図上図の岩の形は共に【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす仕組みになっている。
 以上のごとく、遠州は『古事記』上巻の最初の淤能碁呂島の聖婚の歴史をJ図の岩であらわし、二度目の淤能碁呂島の聖婚がなされた〔国生み〕にて「伊耶那美命が伊予国の祭神を愛比売と名づけて、国家理念を〔愛〕と定めた」と伝える歴史をU図の大山島の地宜であらわしている。
 だから、小堀遠州の桂離宮の作庭は明らかに江戸幕府の【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興事業】としておこなわれるものであったことになる。

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