« 日本が滅びる・161 | トップページ | 日本が滅びる・163 »

2015年3月17日 (火)

日本が滅びる・162

邪馬台国説は【誤読の空論】である
天皇の王冠は【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした!

◆新井白石(16571725)以来今日まで290年間、学者たちは古代歴史学や古文献学の鉄則をまもらずに『魏志』倭人伝に多数の【誤読】を加えて邪馬台国説を立論する。
 『魏志』倭人伝は一切【誤読】を必要としない。『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所あり、この15ヵ所の方位記事を忠実に読解するとA図のごとくなる。つまり卑弥呼王朝はA図のごとく錯覚の転回日本列島地理を制定していたことが事実となる。

44
(C) 2015 OHKAWA


 わがブログ「日本が滅びる」では幾回もくりかえして、漢字はB図の【秋の銀河と夏の銀河各部の形状】から作られたことを詳細に解説し証明した。
 『魏志』倭人伝は「倭の卜占の辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如く」という記述をもって、「令亀の法の如く」つまり「殷代(いんだい)の卜辞に用いた亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん╱甲骨文字)のごとき文字」があったと証言する。また、『魏志』倭人伝は「卑弥呼が文書に書く文字と魏の都・帯方郡(たいほうぐん╱A図の最上部)・諸韓国の文字は差錯(ささく╱相違)していたので、倭では伊都国の港で点検し確認して間違いが生じないようにしている」と記述する――つまり、魏都・帯方郡・諸韓国で用いた楷書と卑弥呼が用いた漢字は相違していたので、伊都国(A図上部にある)の港では夏音文字と楷書が作られたB図の銀河各部の形状を観て間違いが生じないように変換していたことになる。
 魏都・帯方郡・諸韓国で用いられた楷書はB図の銀河各部の形状から作られる文字(字源・字形・字義)であったが、幾つかの文字は字源を失っていた。他方、卑弥呼が用いた文字は今から紀元前21世紀末の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に伝来したB図の銀河の各部の形状に忠実な正しい字源を保存する原初漢字の夏音(かおん)文字であった。楷書も夏音文字もB図の銀河の各部の銀河から作られた文字であったため、伊都国ではB図の銀河を字書・辞典のごとく扱って魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭の夏音文字を正しく変換することができたのである。

◆今から約5000年前頃の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)はB図の銀河各部の形状から万物の情(イメージ)に類似する文字を作る漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明して“漢字の始祖”と崇拝された。わがブログ【用語の解説】の「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」で指摘したように――(1)B図の銀河各部の形状から文字が作られたことを暴露した者、(2)文字を容易に習得するために、文字となった銀河各部に名称を付けた者(3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者――には、神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。ゆえに、五帝時代の書刻(しょけい)と紀元前2070年からの夏音文字と紀元前1600年~紀元前1300年までの殷代前半期の文字は、倉頡が定めた(3)の掟を厳守したために文字が書かれた史料が出土しないことになった。(3)の掟は紀元前1300年の殷代後半に出現した契文によって最初に破られた。
 夏音文字そのものを書いた史料は存在しないが、『魏志』倭人伝の人名・小国名には契文と同じく(3)の掟を破った楷書で表記される夏音文字が幾つか用いられ、『古事記』上巻の随所にも〔音〕と注が付く1字1音の夏音文字が楷書で多数記載されて実在する。楷書で表記された「卑弥呼」を「ヒミコ」、「壱与」を「いちよ」と読まずに「イヨ」、「載斯烏越」を「さいしうえつ」と読まずに「ソシアオ」と読めば、すべて夏音文字となる。
 わが国に“奇跡”が起きた。わが国には学者たちが【誤読】を用いて「存在しない」と断定した夏音文字の学芸を保存した施設(遺跡)3世紀後半に作られ、この施設はわが国の夏音文字と中国・朝鮮半島で用いられた楷書は共に銀河から作られた学芸をも保存した。つまり、280289年に著作された『魏志』倭人伝と同時代の260290年に作られたC図に示す私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた遺跡に、夏音文字の学芸が保存されて現存するという“奇跡”が起きた。
 
 
「卑弥呼」の地上絵は現在の静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形である。「卑弥呼」の地上絵は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載された豪族一族が作成した。
44_2
(C) 2015 OHKAWA


 建比良鳥命はC図上部の引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)に居住した。1010年、建比良鳥命の末裔は武家の井伊氏を樹立し、24代頭首の井伊直政(なおまさ)は譜代大名筆頭の地位につき、徳川家康の命令で1601年の正月に近江の佐和城に入った、しかし、1600年の関ヶ原合戦で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して翌16022月に没した。藩祖が死去した翌1603年から井伊氏・彦根藩は20年後の1622年、D図に示す3千万坪の大鳥の地上絵を完成させた。D図は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存する。
 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の67で詳細に解説して証明したように、彦根の3千万坪の大鳥の形をした地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は織田信長・徳川家康・井伊直政が一生をささげた【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】の心願をあらわして「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と設計された遺跡である。
 C図の「卑弥呼」の地上絵は、『魏志』倭人伝末部に「卑弥呼の宗女の壱与、年十三にて王と為()る」と記された、小国・日本の女王となった13歳の夏音名が壱与すなわち伊耶那美命(愛称、本名は「竹野比売(たかのひめ))が国作りの柱を〔愛〕と定めた歴史を後世に伝えるために、伊耶那美命と同時代に生存した建比良鳥命の一族によって作成された。ゆえに「小国・日本の女王の伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念」を私は【日本建国の〔愛〕の理念】と名づけた。上記したように、彦根の3千万坪の大鳥の地上絵の作成目的は【夏音文字の学芸】ならば伝えることができる【日本建国の〔愛〕の理念】となった。
 上記のごとく、文字がB図の銀河の各部の形状から作られた秘密を保存する「卑弥呼」の地上絵は歴代天皇王朝にその存在を知られたならば即座に一族が滅亡する大罪であった。しかし、建比良鳥命の一族そして井伊氏と姓を変えた一族は代々厳重に「卑弥呼」の地上絵を直隠(ひたかく)しに守ったために朝廷に知られなかった。
 C図の「卑弥呼」の地上絵は3世紀に生存した建比良鳥命の一族が作成したゆえ、(1)「卑弥呼王朝はA図の錯覚の転回日本列島地理を制定した」、(2)「夏音文字と楷書はB図の銀河の各部の形状から作られた」、(3)「『古事記』上巻の伊耶那岐命・伊耶那美命と天照大御神・須佐之男命の説話は歴史的事実であった」ことが完全証明できる遺跡である。

◆前回のわがブログ「日本が滅びる・161」で証明したように、D図の彦根の3千万坪の大鳥の地上絵が完成した翌年の1623年から病床に伏せた1645年までの23年間、小堀遠州はE図の桂離宮庭園の地宜(平面図)の作成に情熱を傾けた。桂離宮庭園の地宜作成は江戸幕府の【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興事業】として行われた。
45
(C) 2015 OHKAWA


 夏音文字は、中国の五経の第一に挙げられる『易経』の繋辞(けいじ)下伝が「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と伝える漢字の起源の秘密を保有した。「天象」とはB図の「文字となった銀河各部の形状」であり、「地法」とは「中国を代表する黄河・長江の水が、東から西へと移動する天象(銀河)の運行とは逆向きに西から東に流れる法則」であり、「鳥獣の文」は「倉頡が発明した〔鳥獣の足跡〕」の別称であった。そして、「地宜」はA図・C図・D図の「平面的に図化した地図の形」、そしてE図の「桂離宮庭園の平面図」であった。
 夏音文字において「地宜」は字(字源・字形・字義)となった。これゆえ、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に夏音文字を表記する楷書の「地名」を「地宜」に変換すれば、A図・C図・D図・E図の「地宜」が証明するように歴史的事実を伝えることになった
 
 F図の岩は、桂離宮庭園の天の橋立(E図の中央左側にある)の中央の築島(つきしま)の南側にある。F図の岩の形は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における最初の〔淤能碁呂島(おのごろじま)の聖婚〕は現在の京都府宮津市の特別名勝・天橋立(上記の「天の橋立」と同じ)でおこなわれたと日本国誕生の夜明けの歴史を伝えるものとなった。
45_2
(C) 2015 OHKAWA


 G図の大山島の地宜(E図の上部にある)は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔国生み〕の二度目の淤能碁呂島の聖婚の箇所で「伊予国の祭神は愛比売(えひめ)と謂()い、讃岐国(香川県)の祭神は飯依比古(いいよりひこ)と謂う」と記された歴史を設計するものであった。旧国・伊予国は現在の「愛媛県」であり、その「愛」は信長・家康・井伊氏が復興しようとした心願【日本建国の〔愛〕の理念】であった。

◆徳川家康は1616年に没したが、その一年前の1615年には「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し、その第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。つまり家康は「第一に大切なのは夏音文字の学問と考え、B図の銀河各部の形状を文字(字源・字形・字義)とした夏音文字の学問は諸々の日本文化の生みの親となった芸術的才能を高めて修得する学術であった」ゆえ、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と天子(天皇・上皇)に欲求したのである。
 「禁中並公家諸法度」の第一条「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文は【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】をあらわす家康の遺志となり、歴代将軍と幕府が実現すべき宿題となった。これゆえ、第一条の文中にある「天子」は真っ先に時の「後水尾(ごみずのお)上皇」を指した。ところが、【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】を復興するために作庭された桂離宮の持ち主は八条宮智仁(としひと)親王であり、後水尾上皇は智仁親王の甥であった、したがって、桂離宮の庭園は智仁親王に献上されたことになるので、上皇は無関係であると振る舞って遠州が存命中に一度も桂離宮に御幸(みゆき)しなかった。というのも皇祖・天照大御神が【日本建国の〔愛〕の理念】は朝廷滅亡の原因となると憎悪し祟(たた)ったがために朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念】を隠蔽(いんぺい)し抹殺に努めた。これゆえ、幕府の要望は到底受け入れることができない問題であったので、上皇は“我関せず”と振る舞った。
 智仁親王所有の桂離宮の庭園作りは幕府の要望について考えなくてよいと上皇に口実を与えたことに気づいた幕府は、【夏音文字の日本建国の〔愛〕の理念の復興】を直接的に要望するために、H図に示す修学院離宮(京都市左京区修学院室町)の大庭園を1655年から着工し1659年に完成させて上皇に献上した。

46
(C) 2015 OHKAWA


 幕府は【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】の願望を明確に示すために、修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)の隣雲亭(りんうんてい)は眼下にI図左図に示す浴竜池(よくりゅうち)の地宜(平面図)が見える高い展望台にした。ゆえに隣雲亭から見下ろすI図左図の「浴竜池の地宜」は、I図右図の〔竜(巨龍の銀河)が池に浴びる形〕に観える「夏の銀河の西南部」をあらわすことを明確に示した。また、H図に示すように浴竜池は下御茶屋(しものおちゃや)の東北に所在するので、「浴竜池」はB図の左上・東北にある「十字の銀河」と右下にある「夏の銀河の西南部」に見立てられたことになる。このことは、わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の1011で詳細に解説し証明した。
 H図に示す下御茶屋の「寿月観(じゅげつかん)」という名の書院の一の間には後水尾上皇宸筆(しんぴつ)、すなわち天子の筆跡の篇額(へんがく)がある。

◆J図に示すように、F図に示す岩がある天の橋立の西方に「月波楼(げっぱろう)」がある。「寿月観」と「月波楼」という書院名は「月」の字で共通する。

46_2
(C) 2015 OHKAWA

 
 わがブログ「朝日新聞社の社長様への直訴」の1011と前回のブログ「日本が滅びる・161」で、K図に月波楼の東方にあるF図に示した岩は女体に相似する「十字の銀河の乳房」に見立てられ、また岩がある「天の橋立」は「夏の銀河の西南部の設計部」に相当することを証明した。ゆえに、I図左図の修学院離宮の浴竜池の地宜とF図の岩の両者は「十字の銀河」と「夏の銀河の西南部」に見立てられて【日本建国の〔愛〕の理念】を表現した。
 そして、F図の岩は、L図に示す[]の字(字源・字形・字義)をも表現した。L図の[]の上部の[(べん)]は「十字の銀河」を図案するものであり、下部の[]は「鬼の姿に似る銀河」から図案された。F図の岩は、L図の「十字の銀河の子宮が重なる大きな乳房に観える銀河部と鬼の横顔に似る銀河の口と舌が繋がる帯状の銀河」は「乳児が母親の乳房を嘗()める姿」つまり「乳する」という語を連想するために設置された。
46_3
(C) 2015 OHKAWA


 “字書の聖典”と尊重された後漢時代の2世紀初頭の文字学者・許慎(きょしん)が著作した『説文解字』はL図の[]の字源を「乳するなり」と説く。
 M図に、『説文解字』が[]の字源を「乳するなり」と説いた銀河部をあらわした。
 ゆえに「天子諸芸能ノ事」と文のごとく「銀河各部の形状を文字と解する芸術的能力」によって――F図の岩はK図とM図に示すがごとく「十字の銀河の小さな乳房と大きな乳房」に見立てることができる。また、「F図の岩の東側の大きなコブ」は「乳児が母親の乳房を嘗()める、つまり乳するなりの十字の銀河の大きな乳房」をあらわすことになる。
 N図に示す桂離宮庭園の「乳するなり」をあらわす部分は、池の岸辺で占められる。だから、修学院離宮の庭園造営着工から3年後の1658年と8年後の1663年に桂離宮に御幸(みゆき)して庭園を見学した芸術的才能に優れる後水尾上皇は、平面図を見なくてもN図の池の岸辺の形が「乳するなり」を設計するものであることが察知できた。
 N図の「乳するなり」の「大山島の大きな乳房をあらわす庭園部」には「園林堂(おんりんどう)」が所在する。大山島は小高い「丘」の形からなる。「園林堂」の「林」に「丘」を加えると「林丘」となるゆえ、修学院離宮の中御茶屋(なかのおちゃや)の後水尾上皇が1668年に造営した「林丘寺」という寺号に合致する。

47
(C) 2015 OHKAWA


 N図の「乳するなり」と設計された庭園部が示す「林丘」という寺号は、F図の岩があらわす「『古事記』上巻に記述された最初の淤能碁呂島の聖婚で小国・日本の女王に就任した伊耶那美命は小国・日本に赴任して国作りの柱を〔愛〕と定めて治めた」、またG図の大山島の地宜があらわす「二度目の淤能碁呂島の聖婚においても、倭女王伊耶那美命は四国・伊予国の祭神を愛比売(えひめ)と名づけて、倭国・日本国の国作りの柱を【日本建国の〔愛〕の理念】と定めたと事実を証言するものであった」と後水尾上皇が認めたことになる。
 しかし夏音文字の学芸を復興すると、朝廷が伝統的に隠蔽と歪曲と抹殺に努めた『古事記』と『日本書紀』に記述された皇祖・天照大御神が【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を憎悪し苦しめた歴史が明確となる。ゆえに上皇は夏音文字の学芸を復興すると皇室が人民に憎悪されて滅亡すると心配した。このため、上皇は幕府の要望【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の復興】を受け入れなかった。

1709年、甲府(山梨県)藩主の家宣(いえのぶ)6代将軍になると、甲府以来の学問の師である新井白石を幕政に当たらせた。白石は7代将軍家継の幕政も担当した。しかし1716年、吉宗が8代将軍になるとたちまち追放され、わずか7年で白石の政治生命を終えた。その後、白石は歴史を研究して著書『古史通或問(こしつうわん)』で「邪馬台国は大和である」と論じ、後に著した『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』他にて、「邪馬台国は筑後の山門(やまと)郡である」と比定した。
 この白石の邪馬台国説は【誤読】で立論する【空論】であった。現在の邪馬台国説は白石の【誤読の空論】の考え方をそのまま受け継ぐ。というのも、C図の「卑弥呼」の地上絵・D図の彦根の3千万坪の大鳥の地上絵・E図の桂離宮庭園の地宜・H図の修学院離宮地の大庭園によって、『魏志』倭人伝はA図の転回日本列島地理とB図の【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字】とした夏音文字の学芸を記述するものであったことが科学的に証明されるからである。また、1738年に皇室は本格的に大嘗会(だいじょうえ)を復興して、転回日本列島地理と夏音文字の学芸は歴史的事実であったと認めたからである。
 
 皇祖・天照大御神は夏音文字の学芸を土台にして朝廷の強大な権力の基礎を築き、幕府は夏音文字の学芸を復興の基に樹立された。ゆえに、白石が立論した【誤読の空論の邪馬台国説】は皇室と幕府の屋台骨を崩壊させる脅威となった。
 だから白石の死から13年後の1738年、霊元(れいげん)上皇の孫の家仁(いえひと)親王が所有した桂離宮庭園から、時の天子・霊元上皇は将軍吉宗の協力を得て、【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念】は歴史的事実であったと認めて皇室を基礎から立て直すために大嘗会を本格的に復興した。

 
◆D図に示した彦根の大鳥の地上絵は、信長・家康・井伊氏の歴代頭首が伊耶那美命に熱烈に憧れて【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】に一生をささげた情念を設計した遺跡である。
 O図はA図の転回方位にもとづく伊耶那美命を主祭神とする熊野那智大社と信長の出身地の尾張・家康の出身地の三河・井伊氏の出身地の遠江の地宜である。「伊勢湾」は「松の葉冠(ようかん)」のごとく、「三河湾」は「松の樹木」のように観える。

47_2
(C) 2015 OHKAWA


 P図の右側の「卑弥呼の地上絵を示す庭園」は「卑弥呼」の地上絵を保存したO図の「遠江の井伊氏」をあらわす。また、P図の「桂離宮の池」はO図の「伊勢湾・三河湾」と同じく「松の木の形」に設計されるので、O図の「尾張の信長と三河の家康」をあらわす。そして、「大山島」は「熊野」と「熊野那智大社」に見立てることができる。

47_3
(C) 2015 OHKAWA


 Q図左図に、那智大社の御神体である那智の大滝の正面にある三種の神具を示した。
 Q図右図に、滝に向かって下段左側の神具を示した。この神具のうちの「富士山の形をした神具」はG図に示した「讃岐富士・飯依比古」に合致する。ゆえに、「水器(すいき)」はG図に示す「伊予・愛比売」を合致する。というのも家々の神棚に置いてある水器は手の平に載せてまじまじと見れば察知できるように、「水器の蓋」は「乳房」の形をしており、「水を入れる容器」は「妊婦のおなか」の形となるからである。そして、日々取り替える水は「子宮に宿る胎児の命を守る羊水」をあらわし、「水をいれる容器」は「子宮などの女性生殖器」をあらわし、「水器の蓋と蓋につくミゾ」は「胎児が無事に誕生するための産道の内壁にあるミゾ」をあらわす。だから、「水器」は「伊予・愛比売」をあらわした。
 R図右図に示すように、M図とN図に「乳するなり」と記した銀河部は「嘗()める」をあらわして、[]の字となる。また、R図左図の「十字の銀河」は大字形であるゆえ[]の字となった。[][]を加えると、「大嘗会」という皇室最大の神事をあらわす。
 大嘗会は戦国時代にて中断した。旧来の大嘗会はR図右図の銀河にもとづいて「皇祖・天照大御神に神饌(しんせん)の初穂を奉る神事」であったゆえ、その銀河の形状を「天照大御神が初穂を嘗める」と見立てて「大嘗会」と名づけたにちがいない。
 そしていままで証明してきたように、幕府が要望する【夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興】はR図右図の銀河の形状は「大嘗会」という名にぴったり合致した。だから白石の【誤読の空論】は皇室を滅ぼす脅威・原因になると心配した霊元上皇は、大嘗会を本格的に復興することにしたのである。

48
(C)2015 OHKAWA

大嘗会において天皇の即位式に用いられる王冠の意匠は、S図の「卑弥呼」の地上絵が上の飾りの意匠となり、下の飾りはQ図左図に示す「水器の蓋」の意匠となった。だから、天皇の王冠は[]の字が加わって「御菅蓋(おかんがい)」と名づけられた。

48_2


 T図に示すように、天皇の王冠は「卑弥呼」の地上絵をデザインして【夏音文字の学芸】を、水器の蓋をデザインして【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす。だから即位する天皇の頭上に掲げられる王冠の意匠は、白石以後の学者たちの『魏志』倭人伝と『古事記』上巻を研究した意見は実在した夏音文字の学芸とA図の転回日本列島地理を排除した【誤読の空論】であると明確に示す。
 大嘗会の祭場は二ヵ所に設けられる。この二ヵ所の祭場はB図の文字が作られた銀河の「左東・右西」の形式と同じく「左東・右西」と定められている。ゆえに、大嘗会は銀河各部の形状を文字とした夏音文字の学芸を祭る神事であった。その証拠に左・東の祭場は「悠紀」と表記されて「卑弥呼」と同じく1字1音の夏音文字で「ユキ」、右・西の祭場名の「主基」は夏音文字で「スキ」と読む。
 邪馬台国説は【誤読】を用いて夏音文字の学芸を排除する。上記した「禁中並公家諸法度」の第一条の「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文が示すように「わが国の諸々の芸能の生みの親は銀河各部の形状を文字と解した夏音文字の学問であり、この夏音文字の学問は最も大切であり、排除することは絶対にできない」という考えの基に、天皇の王冠は1738年の大嘗会の本格的な復興から新たに加えられた。
 以上のごとく、学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に加える【誤読】に“文献批判”という偽名を付ける方法をもって、転回日本列島地理と夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を抹殺した。

|

« 日本が滅びる・161 | トップページ | 日本が滅びる・163 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本が滅びる・161 | トップページ | 日本が滅びる・163 »