G-T0XYQT12LL 日本が滅びる・164: 卑弥呼の逆襲

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2015年4月14日 (火)

日本が滅びる・164

邪馬台国説は【誤読の空論】である

[]の字は“漢字の始祖”倉頡の伝説が真実にもとづき成立した(1)
 
◆倉頡(そうきつ)伝説は、漢字の起源の歴史を伝える。
 だから、先人たちは倉頡を“漢字の始祖”と崇拝した。
 しかし、現在の学者たちは倉頡伝説を強引に「四つ目の怪人の倉頡伝説は空想の産物であって、多くの字数を有する漢字は長い歴史を経て発展してしだいに増加して組織されたと考えるべきことになる。多数の漢字が一挙に一個人が発明したと伝える伝説は歴史的事実とは思えない」と否定して、倉頡伝説は歴史ではないと排除する。
 倉頡が漢字を作ったと語る伝説は下記のごとくである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡からヒントを得て、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して粟(ゾク╱穀物)を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたという。」
 古代の倉頡の肖像画の顔には、A図に示すように目がはっきりと4つ描かれる。このため、学者たちは倉頡伝説をバッサリと荒唐無稽(こうとうむけい)の空想の産物であると決めつける。
 しかし、倉頡はB図に示す【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】から【漢字】を作る方法を発明した。このB図の銀河全域を、これより以後「文字作成銀河」と呼ぶことにする。
 世界中を探しても文字作成銀河各部の名称は存在しないので、私はB図に記したごとく文字作成銀河の各部に名称を付けることにした。

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 わがブログ「日本が滅びる・121」でも解説したように、〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづくと、倉頡がつかえた黄帝の時代(今から約5000年前)、中国の天頂に「四つ目の銀河」がめぐってきた。C図に示すように、B図の左上にある「鬼の横顔に似る銀河」の〔顔に両目、首に両目〕の形をした銀河部位が存在するので「四つ目」となる。
 だから学者たちの「倉頡伝説は歴史的事実を伝えない、荒唐無稽の空想である」という定説の理由・根拠は成立しない。

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 倉頡はC図とD図の「十字の銀河」を「黄帝」に見立てて[]の字(字源・字形・字義)と定め、D図に示す「鬼の姿に似る銀河」を「黄帝(十字の銀河)に平伏してつかえる己(おのれ╱倉頡)」に見立てた。このD図の銀河各部から、最も多くの漢字が作られた。

◆黄帝は、東洋最古の医学書『内経』を作ったといわれる。黄帝は〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究に情熱をそそぐものであった。その証拠に、[]という字はD図「十字の銀河の子宮」を「矢を入れる匚(はこ╱靭・ゆぎ)」に見立てて、火で焼いた鏃(やじり╱矢の先端)を解剖する器具の小刀(メス)に用いた。
 人間の目は本人の意志にかかわりなく、視界の中に入る光の量で瞳孔径(どうこうけい╱瞳孔の直径)が約2~約7mmに変化する。明るい所では約2mm縮小され、光がまったく入らない暗闇では約7mmまで拡大される。
 瞳孔径が45mmだと、「十字の銀河の子宮」は「黄帝が火で焼いて消毒した光る解剖に使ったメスの鏃」の形にそっくりとなる。だから、「十字の銀河」は「黄帝」をあらわすとともに上記したように[]の字となった。
 瞳孔径が6mmぐらいだと「十字の銀河の子宮」はD図に図示した形に変わる。
 上記した倉頡伝説に登場する黄帝時代以前の三皇時代の「結縄」は「易」に用いる記号であった。「易」は「遠くの地や大海を渡る旅人が、家族が待つ家に帰還できる精密に天頂緯度と子午線を測定した術」であった。この易に用いられた結縄は黄帝の研究をあらわす文字を作ることができなかったので、倉頡が文字を発明することになった。
 「易」は「天頂点を通過する銀河部位の軌道における、それ以上の上が無い至高(高度が90)の時に46秒で天頂緯度線と子午線を肉眼測定する術」のことで、要するにE図右上の[]のことであった。したがって「易=玄」となり、遠くの地や大海を渡る人々は[]をキャッチして家族が待つ家に帰還していた。

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 [(とう)]の下に[(よう)]が加わると[]の字となる。[]は「天頂緯度と子午線」を、[]は「無欲で産道を通過して出産する胎児」をあらわした。精密に[]=天頂緯度と子午線をキャッチする極意(ごくい)は、「[]=産道を通過して出産する胎児のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、孔子と並ぶ中国の思想家の老子は『老子』第1章で「常に無欲にしてもってその妙を観()、常に有欲(ゆうよく)してもってその皦(きょう)を観る」という文で「常に産道を通過する胎児のごとく無欲であれば不可思議な本能によって[]がキャッチできて命をまもることができるが、必ず家に帰るのだと欲を有すると[]をキャッチできずに道に迷って皦(風雨にさらされる白い骸骨)になる」と指摘した。
 中国でもわが国でも太古・上古の人々は原始から頭脳にそなわる本能行動によって[]をキャッチして生命を保持し、[]がキャッチできなければ道に迷って死んだ。
 倉頡は天頂緯度線が通過した「十字の銀河の西側半身」に〔乳房・妊婦のおなか・子宮〕のような形にあることに注目して、「十字の銀河」を「文字作成銀河(B図)から作られた全ての文字を生む母体」、「十字の銀河の子宮」を「すべての文字を生む子宮」と定めた。
 F図のごとく「十字の銀河」は[]の字となった。
 そして、倉頡は(1)「十字の銀河の子宮」を[]、「十字の銀河の子宮以外のすべての銀河部」を[]と定め――「[]の小さい十字の銀河の子宮には十字の銀河の子宮以外のすべての銀河部の[](多数)の情報(イメージ)が入っている」という「一即多、多即一とする理論」を発明した。この「理論」はG図に示す[(べん)]となり、(2)「鬼の姿に似る銀河」をE図の[]の下部の「幺(胎児や新生児)」に見立てて[]と定める漢字作成原理を発明した。だから、G図に示される「すべての字は十字の銀河の子宮から生まれる子ども」と倉頡が定めた発明は、黄帝の医学研究をヒントにして考案されたことになる。

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 H図に示す「女性生殖器の側身形」は「鳥(水鳥)の姿」に相似すると見立てられた。

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 I図に示す「ジャコウウシ」は「第5週のはじめころの胎児」の姿に類似すると見立てられて倉頡が発明した漢字作成原理を象徴する聖獣となった。また、ジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると子を中心に隠して円陣を作って防御した。女性の生殖器の大部分は骨盤に包囲されて収まり、骨盤は外からの衝撃を防いで子宮に宿る胎児の命を守る。これゆえ、「ジャコウウシ」は女性生殖器をまもる「骨盤」に見立てられた。

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 J図に示す「フタコブラクダの両目」は「第7週の胎児の両目」のごとくに両端に離れているので、フタコブラクダもまた漢字作成原理を象徴する聖獣となった。フタコブラクダはゴビ砂漠の長く遠い距離を往来できた。砂漠で死んだ人を深く掘った穴に葬った墓に一匹のラクダを徇死(じゅんし)させると、墓は雑草に覆われて位置が判らなくなっても、ラクダが殉死したラクダの血を嗅ぎあてことができた。ゆえに、ラクダは太古や上古の人々の命を守る方法の「[]のキャッチ」に見立てられた。
 F図に示すように、「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」と重なる。だから、H図から「鳥」、I図とJ図から「獣」、F図の「右足」を加えて、倉頡が発明した漢字作成原理と女性の生殖器は「鳥獣の足跡」と呼ばれた。また、F図の[]の字源「十字の銀河」は「全ての文字を生む母体」であるゆえ、「鳥獣の足跡」は「鳥獣の文」とも称された。
 上記したように「女性の生殖器」は「鳥獣の足跡」と名づけられた。ゆえに、倉頡伝説における「鳥獣の足跡からヒントを得て」という部分は「黄帝が研究した女性の生殖器の研究からヒントを得て、倉頡は文字を作った」と述べていることになる。しかし、学者たちは「雪や砂に残る鳥や獣の足跡からヒントを得て、倉頡は文字を作った」と誤訳する。
 以上のごとく、漢字は黄帝の医学研究と倉頡の銀河から文字を作る発明によって起源した。ゆえに黄帝の両目と倉頡の両目をあらわして、古代の倉頡の肖像画には〔四つの目〕が明確に描かれた。だから、学者たちは歴史的事実を伝える倉頡伝説を強引に単純化して「歴史ではない」と抹殺したことになる。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」となった。したがって「天に多数文字ありき」となったので、これを略して「天」は「天文」と呼ばれた。「漢字」という語から「銀漢から作られた文字」を連想するのはそんなに難しいことではないはずであるゆえ、学者たちの意見は早合点と言わざるをえない。

◆中国の五経の第一に挙げられる古典『易経(えききょう)』の繋辞(けいじ)下伝は漢字の起源について「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象(てんぞう)を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して結縄を作った」と記載する。しかし、この記事の一部には誤りが存在する。というのも、文中初頭にある「包犧」の2字は倉頡が考案した文字=書契(しょけい)であるからだ。三皇時代初頭の包犧氏が易に用いる記号の結縄は、自らの氏族名をあらわす[][]2字を作れなかった。また『易経』繋辞下伝の文中にある「鳥獣の文」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称である。
 だから、「黄帝につかえた倉頡が、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情(イメージ)に類して文字(書契)が作った」と改めれば正しくなる。
 ゆえに『易経』繋辞下伝の漢字起源記事もまた、倉頡伝説と同じく「倉頡一個人が、多数の漢字を発明した」と伝える。というのも倉頡は多数の文字を作らなかったが、前述したとおり多数の文字を作る「一即多、多即一理論([]の字源)」を発明したからである。
 1716年に成立した『康煕(こうき)字典』には最多の4735字を収めているが、これらすべての漢字は上記した倉頡の(1)「一即多、多即一理論」と(2)漢字作成原理「鳥獣の足跡」の二つの発明から生まれた基本字を組み合わせて作られた。だから、「倉頡一個人がすべての漢字を作成した」といっても過言ではないことになる。
 前回のわがブログ「日本が滅びる・163」で解説したように、上記した『易経』繋辞下伝の文中に登場する「天象」はB図「文字作成銀河」、「地法」は「黄河の水が銀河の運行の逆向きに西から東に流れる法則」、「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」の別称、「地宜」は「平面的に図化した地図の形」である。

◆三皇五帝時代の文明は華北の黄河中流流域から発生した。というのも、当時のクワやスキは原始的で刃先が木製であったため、大量の雨が降って黄河の水が氾濫(はんらん)すると中流沿岸地域の堅い地面が泥のようにやわらかくなって開墾・耕作にともなう負担が大幅に軽減されたからである。ゆえに、洪水で地面がやわらかくなる黄河中流流域は豊かな実りに恵まれたためにいち早く文明が発達した。
 黄河流域の主食は粟であった。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の契文形について「上部は粟など穀類の実のある形」と解説し、「粟をゾクの音でよむときは、穀類の総称としても用いる」と指摘する。
 粟の穂につく小粒の果実は黄色く熟して垂れさがる。
 上記したように[]の字となった「十字の銀河」は、K図に示すように[]の字となった。また前述したように、「十字の銀河」は「全ての文字を生む母体」となった。
 L図に、黄帝が研究した出産の状況図を示した。

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 M図の左図は「十字の銀河」を「母体」に見立てて、L図の右図の娩出期(べんしゅつき)の胎児の顔の向きを当てはめた図である。M図の左図の出産児の顔は東を向くが――中国大陸の東は大海(黄海・東シナ海)となるので、すべての出産児は大海に産み落とされることになって矛盾する。
 この矛盾を解消するために、M図の右図に示す「地法」が必要になった。黄河の上流は大陸西側の渭水(いすい╱現在は渭河・ウェイホ)であり東方の中流で黄河となり、さらに東方の開封(カイフォン)のあたりを南端にして東北へ向かって黄河口(ホワンホー)に至る。つまりM図の右図に示すように、上流は「鬼の姿に似る銀河の胃のあたり」に見立てられた「渭水」と称され、黄河口の南にある「開封」のあたりは「鬼の横顔に似る銀河の舌のあたり」に見立てられ、「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の舌を結ぶ帯状の銀河」は「東北へ向かって水が去る(流れる)黄河」に見立てられて[][][][]の字となった。「子宮に繋がる産道」は「子宮口と膣口(ちっこう)まで」であるので[]の字となった。ゆえに、「黄河の河口」は「黄河口」と称さられることになった。前述したように、〔銀河部の運行とは逆向きに黄河の水は西から東へ去る〕ので「地法」ということになり、M図の左図下部に記した「南→東」はE図に示した銀河部の運行「南(天頂)→西」の逆向きになるゆえ、この逆向きの「黄河の水の移動」を「地法」と定めた。
 すべての出産児が中国大陸で生まれるためには、E図の〔南・天頂から→西の地平線へ没する銀河部の運行〕に合致するようにN図の左図のごとく、出産児が母体の腹側の西に顔を向くことになる天象、すなわち「夏の銀河の西南部」を倉頡は注目した。

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 N図の右図の「夏の銀河の西南部の西側半分」は「胎児の姿に似る銀河」である。この「胎児の姿に似る銀河」の「南→西」をあらわす転回イメージは、N図の左図の出産児の顔の向き「南→西」に合致する。「夏の銀河の西南部」は粟の収穫期の果実・穂の色のごとくに黄色く輝き、また粟の収穫期には長時間見ることができる。
 L図の出産第1期・開口期(かいこうき)の胎児は子宮口がすっかり開くと、骨盤で包囲される骨産道(こつさんどう)の入口では胎児はあごを胸につけた姿勢で背中を母体の左または右に向ける。児頭(胎児の頭)が骨産道の中ほどにおし下げられると胎児は斜め後ろ(母体の背側)に顔を向ける。児頭が骨産道の出口に到達すると顔をすっかり後方に向ける位置となり、開口期の終わりにはほぼこの状態になる。出産第2期・娩出期では児頭は母体の直腸を圧迫するので母体は大声を挙げる怒責(どせき╱いきみ、きばること)がおこり、陣痛と腹圧で児頭はますます押し下げられ、ついに膣口から胎児の頭が見えるようになる。さらに進んで児頭の最も大きな部分が膣口を通過しようとする時の直後に頭はふたたび母体の左または右を向くが、これは肩の部分が骨産道の出口を通るためである。肩はまず上(母体の腹側)にあるほうから先に、ついで下(母体の背側)の肩が出ると、あとは一気に生まれる。このような産道を通過して誕生する胎児の頭の周旋(しゅうせん)の様子は、N図右図の夏の銀河の西南部の形状のごとくに観える。
 というのも、夏の銀河の西南部には銀河系の中心方向があるからである。つまり無数の星や様々な星間物質が銀河系の中心方向から外へと渦を巻く様相は、胎児の頭が周旋して誕生する時の様子のごとくに観えることになる。
 倉頡は〔M図左図のごとく、すべての胎児は大海で出産することになる矛盾〕を、N図右図の〔熟した粟の穂のように黄色い夏の銀河の西南部のイメージ〕で解決した。
 だから、倉頡伝説では「天は祝福して粟を降らせ、死霊は感激して泣く声が夜な夜な空に聞こえたという」と語られることになった。
 「死霊」は自らの氏族名をあらわす文字を作ることが出来なかった「包犧氏、女媧(じょか)氏、神農氏などの三皇時代の氏族たちの霊魂」であり、「感激して泣く」は「大量の雨」を指し、「泣く声が夜な夜な空に聞こえた」は「夜な夜な見える銀河各部の形状が文字となって三皇氏族の歴史を伝えた」と述べていることになる。だから、「大量の雨が降って黄河の氾濫によって地面がやわらかになって開墾・耕作が容易になって粟はじめとする穀物が豊かに実った状況」は「天は祝福して粟を降らせた」と表現されることになった。

◆倉頡の〔粟と夏の銀河の西南部〕を用いて矛盾を解消した理論には、新たな問題点が生じた。粟は乾燥した風土を好むのに対して、胎児は羊水で湿潤(しつじゅん)した産道を通過して誕生するからである。この矛盾を解消するために、湿潤な風土を好む〔禾(いね)〕が用いられた。羊水ははじめ無色透明であるが、妊娠末期には胎児の皮脂などによって淡黄色を帯びる。実った禾()の穂は粟の真っ黄色の穂よりも淡い黄色であるゆえ、産道を湿潤にして胎児の通過をスムースにする羊水の色に近いことになる。
 O図に示すように、胎児の顔に代わって禾(いね)の穂で「南→西」の転回方位が表現される[]の字が作られた。[][]に共通する。O図右端の[]2字の契文形について白川静著『字統』は[]の字の解説で「委は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう」と指摘する。しかし、『字統』の16頁に掲載されたO図右端の[]2字の契文形は「委は稲魂を頭に被って舞う女の形」ではない。つまり、[]は「稲魂を頭に被る女性が舞う姿」をあらわすものでなかったのである。
 []は「南→西になる転回方位規定」をあらわすものであった。

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 O図に示す[]の契文形は〔果実〕の部分が図案されているが、その他の契文形は〔果実〕がない〔穂〕だけの形となる。そして、O図右端の[]のごとく〔頭部が渦巻となる穂の形〕となる[]の契文形は1字も存在しない。だから、O図右端の[]の契文形頭部の「穂の渦巻」は「羊水で湿潤した産道を通過する出産児の頭の周旋」をあらわしていることになる。また禾が大きく図案されるのは、禾が大きく育ち黄色く実る収穫期の夜に「夏の銀河の西南部」が長時間見えることを表現するものとなる。ゆえに、O図右端の『字統』16頁に掲載された2字の契文形は「[]の頭部で出産児の頭の周旋を、[]は女性が下を俯(うつむ)いて南→西の転回方位を見る形」を表現するものと考えるべきことになる。
 司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝軍は揚子江まで遠征した」と記述する。
 P図に示すように、中国地図出版社編集『中国国勢地図』(帝国書院)1987年当時、黄帝軍が遠征した揚子江地域の年間降水量(雨量)1,0261,200mm、黄帝陵・黄河中流地域の年間降水量は600mmと記す。禾の生育に適する揚子江地域は〔南〕となり、黄帝陵や三皇氏族が居住した黄河中流地域は〔西〕となる。だから、南の揚子江のように大量の雨が降って黄河が氾濫して土地が泥のようにやわらかくなって豊かな実りに恵まれる願望は転回方位の「南→西」となって、[]の字が成立しことになる。

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 無敵の黄帝軍は揚子江まで遠征した。ゆえに、白川静著『字統』は[]の字について「いねの象形。また軍門の象形」と指摘する。つまり、「軍が出動する時の門は稲が勢いよく育つ揚子江まで遠征した黄帝軍の無敵の軍力を示すために、稲の意匠で飾られることになった」ために、[]の字は「いねの象形。軍門の象形」となったことになる。
 人の正面形・人の背面形・人の側身形に相似する「十字の銀河」は[]の字や人偏となり、人偏に[]が加わって[]の字が作られた。
 以上のごとく、Q図に示すように[][]の字は「南→西」つまり「時計回りに方位が90度転位する転回方位規定」をあらわした。

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◆わがブログ「日本が滅びる」の118131までの14回をもって、(1)『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は、Q図に示す[]の転回方位規定に則ると矛盾点・不合理な点が一点も生じずすべて合理となることを証明した。また(2)倭の34小国名の文字をB図の文字作成銀河の各部の形状で字源・字形・字義を調べると各小国の地宜(平面的に図化した地図の形)との間に、矛盾点・不合理な点が一点も発生しないことをも証明した。
 これゆえ、R図のごとく『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕を〔南〕に転回する錯覚の日本列島地理を制定していた」という重大な歴史的事実を証言していることになる。
 R図の「錯覚の転回日本列島地理」は[]の字源・字形・字義を表示する。だから、卑弥呼が統治した国号は「倭」となったのである。

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 1402年に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」に描かれたS図に示す日本地図は、R図の「[]の字に則る転回日本列島地理」に合致する。学者たちはS図の日本地図について「この地図は『魏志』倭人伝のすべての方位記事に合致する。しかし、中国では古くから倭国は南北に連なる島々の集まりと考えられていたので、このような観念を抱いていた『魏志』倭人伝の著者の陳寿(ちんじゅ)が錯覚したものと考えるべきである」と主張する。
 しかし、O図・P図・Q図に示したように[]の字は「時計回りに90度方位が転位して、東→南となる転回方位規定」をあらわすゆえ、「混一疆理歴代国都之図」に描かれた〔東→南〕となる日本地図は卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を描いたものであったことになる。その証拠に、この転回日本地図ならば「倭地図」と呼べるからである。学者たちが主張する邪馬台国説の立論基盤とする日本地図は[]の字に則(のっと)るものでないので「倭地図」と呼べない。
 以上のごとく、現在の日本地図を立論基盤とするすべての邪馬台国説は[]の字に合致しない誤読の産物である。『魏志』倭人伝には一点も“文献批判”を加える必要がない。誤読や歪曲に“文献批判”という名を付ける新井白石以来の約290年に及ぶ考え方(パラダイム)は、卑弥呼王朝が制定した倭地理と同じく錯覚の産物であったのである。

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