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2015年4月19日 (日)

日本が滅びる・165

邪馬台国説は【誤読の空論】である
[]の字は“漢字の始祖”倉頡の伝説が真実にもとづき成立した(2)

学者たちは、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)の伝説について荒唐無稽(こうとうむけい)の空想であると断定する。しかし、わがブログは前回の「日本が滅びる・164」では、倉頡が生存した五帝時代に天頂にめぐってきた【秋の銀河の形状】(A図の左上)を見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)、倉頡伝説は歴史的事実であることを証明した。
 倉頡はA図の【「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】を【文字】とする(1)「一即多、多即一の理論」と(2)黄帝がおこなった〔女性生殖器と子どもの出産〕の研究をヒントにして漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明した。
 これより、前回のブログ同様にA図の銀河を「文字作成銀河」と呼ぶことにする。
 黄帝は、東洋最古の医学書『内経』を作ったといわれる。五帝時代以前の三皇時代(今から約6000年前~約5000年前)には――B図の右上に示す「[]のキャッチ」で精密に緯度と子午線を測定して遠くの地に旅する人々や大海を渡る人たちが、家族が待つ家に帰還する方法であった「易」に用いた記号の結縄(けつじょう)が考案されていた。しかし、この結縄では黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の研究をあらわすことができなかった。このため、黄帝につかえる史官(記録官)の倉頡が文字を考案した。

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 倉頡は、A図左上の「十字の銀河」の西側半身がC図に示すように、〔乳房、円く突き出る妊婦のおなか、子宮などの生殖器〕に観える形を有することに注目して、「黄帝の医学研究をあらわすことができる記号」すなわち【文字】を考案した。
 これより、C図に示すように「十字の銀河の生殖器」を「子宮」と呼ぶことにする。
 倉頡は「十字の銀河の子宮」を[]と定め、A図の「十字の銀河の子宮以外の全(すべ)ての銀河部」を[]と定めて、「[]の小さな十字の銀河の子宮には、[]の十字の銀河の子宮以外のすべての銀河部が示す文字の情報(イメージ)が入っている」――という「一即多、多即一の理論」を発明した。
 そして倉頡の文字作成目的は黄帝の医学研究をあらわす文字の作成であったゆえ、倉頡はD図に示す「十字の銀河」を「すべての文字を生む母体」と定めた。つまり、「十字の銀河の子宮以外のすべての銀河部=十字の銀河」という理論を定め、「十字の銀河」をも[]の字と定めた。次にE図に示すように、[]の字となる「十字の銀河」を[(べん)]、「鬼の姿に似る銀河」を[]の字と定めて――「すべての字は、十字の銀河を母体にして十字の銀河の子宮から生まれる」――と定めた。

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(C) 2015 OHKAWA


 前回のブログで指摘したように、倉頡は黄帝が研究した「女性の子宮」を「鳥獣の足跡」と名づけた。ゆえに、倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡からヒントを得て、倉頡は始めて文字を作った」という部分は「黄帝の女性の子宮の研究をヒントにして倉頡は始めて文字を作った」と述べていたことになる。

◆〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづくと、倉頡が生存した今から約5000年前、F図に示すように中国の天頂にE図の[]の字となった一部分の「鬼の横顔に似る銀河の両目と鬼の首に相当する銀河部の両目」すなわち「四つ目の銀河」がめぐってきた。だから、「四つ目の銀河」は「文字は黄帝の医学研究と倉頡の銀河の各部の形状を文字とする発明が合体する学芸遺産であった」と明確に示す。

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(C) 2015 OHKAWA

 したがってG図に示すように、古代の倉頡の肖像画の顔には〔四つの目〕が明確に描かれた。この倉頡の肖像画もまた「文字は黄帝の医学研究と倉頡の銀河の各部の形状を文字とする発明を合体して作られた」と表現するものであった。しかし、学者たちは倉頡伝説に登場する「四つ目」や倉頡の古代肖像画を見て「倉頡は目を四つ有していた」と早合点して――「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想の産物であって、多数の字数を有する漢字が倉頡一個人だけで発明されたことは事実とはとても思えない」と断定する。けれども、すべての漢字は上記した倉頡の発明によって生まれた基本字を組み合わせて作られた。だから、倉頡伝説における「倉頡がすべての漢字を作成した」という指摘は事実であったと言っても誤っていないことになる。 
 “字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に成立した『説文解字』は[]の字源を「穀の蔵(くら)なり。倉黄(そうくわう)として取りてこれを蔵(くらむ)。故にこれを倉と謂()う」と解説する。

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(C) 2015 OHKAWA


 ゆえに、H図に示す「鬼の姿に似る銀河」が「穀物を入れる蔵(くら)」と解されて[]の字となった。「倉黄として取りてこれを蔵(くらむ)」という解説文は、H図が示すように「収穫した穀物の果実が黄色くなった穂を天日干(てんぴぼ)していた時ににわかに雨が降ってきたのであわてふためいて蔵に入れる」と意味した。というのも、「倉黄」には「あわてふためく」と意味があるゆえ、黄色く実った穀物をあわてふためいて蔵に納めるその時は、にわかに雨が降ってきた時だからである。
 H図右下の[]の金文形上部の大字形は大字形となる「十字の銀河」をデザインするものである。そして、「十字の銀河の子宮」が[]の下部の[]となった。ゆえに、[]の字は黄帝が研究した「子どもの出産」と字源銀河の「十字の銀河の子宮」をあらわした。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の字形について「顔を中心とした人の側身形」と解説する。これゆえ、[]の字形はH図の「鬼の横顔を中心とした鬼の姿に似る銀河」を図案するものであった。というのも、前回のブログで指摘したように倉頡は「十字の銀河」を「女性の生殖器を研究した黄帝」に見立て、「十字の銀河を仰ぎ見る四つ目(F図参照)を有する鬼の横顔に似る銀河」を「自分」に見立てたからである。
 「倉頡」の[]の字の左側の[吉]の字となった「十字の銀河の子宮」は「黄帝の女性生殖器と子どもの出産の研究」をあらわす共に「倉頡が発明した漢字作成原理におけるすべての文字が生まれる子宮」をあらわした。
 このように、「倉頡」という名にも「文字は黄帝の医学研究と倉頡の銀河各部の形状を文字とした発明によって作られた事実」が秘められる。

◆前回のブログにて、『魏志』倭人伝が「卑弥呼が統治した」と記述する国名の[]の字は、倉頡伝説に登場する「天は祝福して粟を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたという」の語りを発展させて生まれたことを証明した。
 I図左図のごとく[]の字は「南→西になるように、時計回りに90度方位が転位する転回方位」をあらわした。「十字の銀河」は[]の字となったので、人偏に[]を加えた[]もまた、「南→西になる転回方位」をあらわした。
 前回のわがブログで証明したように、[][]の「転回方位」は(1)J図の胎児の出産の状況、(2)K図の「十字の銀河と娩出期(べんしゅつき)の胎児の顔の向き」、(3)K図の「夏の銀河の西南部における胎児の姿に似る銀河の南→西のイメージ」を合体して成立した。

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(C) 2015 OHKAWA


 子宮に宿る胎児の命をまもる羊水ははじめ無色透明であるが、妊娠末期には胎児の皮脂(ひし)などによって淡黄色を帯びる。実った禾()の穂は、産道を湿潤(しつじゅん)にして胎児の通過をスムースにする羊水の淡黄色に相似するようになる。ゆえに、K図左図の「十字の銀河と娩出期に頭が誕生した時の出産児の顔の向き」に代わって、I図左図に示すように「禾(いね)の穂の穂」で「南→西の転回方位」があらわされた。
 前回のわがブログで詳細に解説したように、J図に示す出産児は出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期まで、産道を通過するときに頭を複雑に回転させて誕生する。この「産道を通過する出産児の頭の複雑な神秘的な回転」は「周旋(しゅうせん)」と称された。
 ゆえに、I図右側の[]の契文形の「[]の頭部の渦巻」は「産道を通過する時の出産児の頭の周旋」をあらわす。また、禾が大きく図案されるのは、禾が大きく育ち穂が黄色く実る収穫期の夜にK図右図の「夏の銀河の西南部」が長時間見えることを示す。そして[]は「女性が下を俯(うつむ)いて見つめる、南→西の転回方位」を表示した。
 I図の[]の契文形は、あくまでもL図に示す「時計回りに90度方位が転位する転回方位の定義」を表現する図案であった。

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(C) 2015 OHKAWA

 したがって、[]の契文形における[]の頭部の「渦巻」は「転回方位」とは別の[]の生育と密接に関わる要素・条件を示す字の秘密を表現していることになる。この秘密については後述する。

◆前回のブログの末部で――わがブログ「日本が滅びる・の118131回までの14回をもって、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は、L図に示す[]の転回方位規定に則ると矛盾点・不合理な点が一点も生じずすべて合理となることを証明した。
 だから、M図のごとく『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕を〔南〕に転回する錯覚の日本列島地理を制定していた」と重大な証言を書く史料であったことになる。

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(C) 2015 OHKAWA


 M図の「錯覚の転回日本列島地理」は、I図・J図・K図・L図をもって解説した[]の字(字源・字形・字義)と合致する。だから、卑弥呼が統治した国号は「倭」となった。
 1402年に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図 (こんいつきょうりれきだいこくとのず)」に描かれたN図の日本地図は、M図の「[]の字に則る転回日本列島地理」に合致する。学者たちはN図の日本地図について「この地図は『魏志』倭人伝のすべての方位記事に合致する。しかし、中国では古くから倭国は南北に連なる島々の集まりと考えられていたので、このような観念を抱いていた『魏志』倭人伝の著者の陳寿 (ちんじゅ)が錯覚したものと考えるべきである」と推断する。
 しかし、卑弥呼が統治した国名に用いられる[]の字は、前述したとおり「時計回りに90度方位が転位して、東南となる転回方位」をあらわし、『魏志』倭人伝の方位を記す全記事は[]の字の「転回方位」に一点の矛盾点も一ヵ所の不合理な点も生じずに合理が組織的に成立する。だから、「混一疆理歴代国都之図」に描かれた〔東南〕となる日本地図は卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を描いたものであったことが事実となる。現在の日本列島地図を立論基盤とする全ての邪馬台国説は多数の矛盾点と不合理な点を有するゆえ【科学】に反し、さらに明瞭なことには卑弥呼が統治した国名は「倭」ではないことになるので、全ての邪馬台国説は実際にこの世に事実としてありえない荒唐無稽の絵空事(えそらごと)であったことになる。

◆I図の右側に配する[]の契文形頭部の「渦巻」は「周旋」すなわち「産道を通過する時の出産児の頭の神秘的・複雑な回転」をあらわした。この「周旋の渦巻」は[云=雲]の古文(中国の戦国時代に出現した古代文字)の頭部の「渦巻」をあらわした。そして、「周旋の渦巻」はO図の「十字の銀河の子宮」とP図の「夏の銀河の西南部」を図案するものであったのである。

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(C) 2015 OHKAWA


 したがって[委=倭][云=雲]の両者の字源銀河はK図に示す共に「十字の銀河の子宮と夏の銀河の西南部」であった。しかし、[委=倭]は「転回方位」を意味し、[云=雲]は「禾(いね)はじめとする穀物の豊かな実りを得るための必要欠くべからずの要素・条件となる雨を降らす積乱雲(入道雲)」を意味して、両者の意味は異なった。
 
 白川静著『字統』で[]の字を――声符は云(うん)。云は雲の初文。のち雨を加えて雲となった。『説文解字』は「山川の气なり。雨に従ふ。云は雲の回転する形に象(かたど)る」とするが、云は雲気の流れる下に、雲中の竜が尾をうちに捲いている形で、雲中に竜がいると考えられていた――と解説する。
 私が「巨龍の銀河」と名づけたように、P図に示す「夏の銀河の西南部の東半分」は「竜の姿に相似する銀河」である。だから、『字統』と『説文解字』の両者の[]の解説は正しいが、両者の解説は単独だと不十分であるゆえ両者の解説を合体させる必要がある。
 []の上部の[(いね)]は多くの雨が降る湿潤(しつじゅん)な風土で生育する。また五帝時代はじめ太古・上古の原始的なクワやスキの歯先は木製であったので、大雨が降って黄河が氾濫(はんらん)して堅い干からびた土地がやわらかくなって泥のようにやまらかくになると開墾や耕作が容易となるので豊かな実りに恵まれた。だから、[云=雲]の字は「大量の雨をもたらす、渦巻く積乱雲」を表現するものであった。当時は呪的(じゅてき)能力に優れる巫女や神官となった女王や王たちが天の神「十字の銀河の子宮」に向かって願いの詞(ことば)を云うと、積乱雲が出現して恵みの大雨が降ると信じられていた。だから、上記した白川静著『字統』が指摘するように「積乱雲」をあらわす[]の初文(最初の文字)[]となったのである。 
 産道を湿潤にする羊水は出産児の産道通過を容易にして命をまもると同様に、粟などの穀物を育てる土地は大量の雨が降ると泥のようにやわらかくなって開墾・耕作が容易になって豊かな実りを恵んで人々の命をまもった。太古・上古の人々は「十字の銀河の子宮と夏の銀河の西南部」に向かって雨が降って豊かな実りを願う詞(ことば╱つまり祝詞・のりと)を云い、たくさんの子どもが無事に出産して健やかに育つ願いをあらわす詞(ことば)を云った。というのも、雨が降らず堅くなった地面は老人には耕作できないことになったので、子どもたちが丈夫に育って筋骨たくましい青年になると堅い地面でも耕作できたため、一族は滅亡せずに人口が増えて栄えたからである。このように、当時は雨乞いと子授けの祈願を「十字の銀河の子宮と夏の銀河の西南部」を同一視しておこなっていたことになる。ゆえに、[][]の字形は同一形となった。
 
 しかし、上記したようにI図の[]における[]の上部の「渦巻」は「積乱雲」と「周旋(産道を通過する時の胎児の頭部の回転)」の異なる意味をあらわした。そして、[]の字においては[]の頭部の「渦巻」があらわす「周旋」は「円を描いて一周する」と意味するものではなく、あくまでも「90度方位が転位する転回方位」を意味した。[]の頭部の「渦巻」の「周旋」はO図とP図に示す[云=雲]の「禾(いね)が枯れないで生育する要素・条件となる雨が降ってくる雲が渦巻く積乱雲」を指すことになった。

1623年から1645年にかけて、当時を代表する芸術家にして庭園作りの名人として名高い小堀遠州は、江戸幕府に命令の基に、夏代初頭(今から約4070年前のわが国の縄文時代初頭)にわが国に伝来した原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を保存する遺跡を作成した。この遺跡は京都市西京区に所在する桂離宮の庭園である。

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(C)2015 OHKAWA

 Q図は、小堀遠州が作った桂離宮庭園の地宜(ちぎ╱平面図)である。Q図の右下に「東」と記した上隣の「紅葉の馬場」がある庭園を、わがブログではR図に示すような事情にもとづいて「卑弥呼の地上絵の庭園」と称した。
 R図左図の下に示すように、卑弥呼の地上絵の庭園のおける「天の橋立」の中央の築島(つきしま)から東隣の直角状にカーブを描いて橋でつながる築島は「東→南」を表示して[]の「転回方位」をあらわす。ゆえに、「天の橋立」はK図左図の「十字の銀河の子宮」に見立てる仕組みになっている。

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(C) 2015 OHKAWA


 S図に示すように、「十字の銀河の子宮」に見立てられた「天の橋立」はK図右図の「夏の銀河の西南部」の形に設計された庭園に包まれる。だから、「夏の銀河の西南部の形に設計された庭園」と「天の橋立」には、O図とP図に示した[云=雲]の字源が秘められて保存されていることになる。

 幕府は1655年ころから1659年にかけて、T図の修学院離宮庭園の上御茶屋(かみのおちゃや)と下御茶屋(しものおちゃや)を造営して時の後水尾(ごみずのお)上皇に献上した。ゆえに、上・下の御茶屋は、夏音文字の学芸を保存する遺跡であった。地宜(平面図)に夏音文字の学芸を秘める修学院離宮は京都市左京区に所在する。なお、中御茶屋(なかのおちゃや)の林丘(りんきゅう)寺は1668年に後水尾上皇が造営した。
 T図右上の上御茶屋は下御茶屋の東北に配置されるので、「上御茶屋」は東北の方角から昇る「十字の銀河」に見立てる仕組みになっている。上御茶屋は「浴竜池(よくりゅうち)」と呼ばれる池を中心とした大庭園である。ゆえに、「浴竜池」はO図の「十字の銀河の子宮」(A図の東北に在る)とP図の「夏の銀河の西南部」(A図の西南にある)に見立てる役割を有する。
 U図に示すように、「浴竜池」は「夏の銀河の西南部」をあらわすように設計されている。U図左図の右下の「隣雲亭(りんうんてい)」は浴竜池の地宜(平面図の形)を目撃するための展望台として造られた簡素な建物となる。展望台「隣雲亭」の名には、U図右図に示す「[]の字源となる胎児の姿に似る銀河の隣に渦巻の中心の銀河系宇宙の中心と巨龍の銀河がある」と示す役割がある。だから、隣雲亭から見下ろすようになっている池は「雨となる雲中の水に浴びる竜の姿となる巨龍の銀河」をあらわして「浴竜池」と名づけられた。

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(C)2015 OHKAWA


◆V図に示す[()]の篆文形は、[]の字の向きを180度変え、I図に示した「南→西」をあらわして[]の字を90度転回して、[][90度のカーブ]を合体させた字部の上に90度転回した[]の字を載せて構成される。[]上部の[]を転回した[]を載せる[]は「巻貝の構造」で「出産児の産道における周旋」をあらわし、[90度のカーブ]はI図に示した「南→西の転回方位」をあらわす。つまり、[]で示される「周旋」は[90度のカーブ]があらわす「転回方位」と同義となる。だから、[]の篆文形を構成する[]はJ図に示した「開口期から娩出期における産道を、頭を周旋して通過する出産児」をあらわしている。また[]の篆文形は「時計回りに方位を90度転位する転回方位」をあらわす。

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 したがって、[]の篆文が出現するまで、[]は「真理。真実」をあらわす文字であったことになる。

 以上のごとく、Q図の「桂離宮」とT図の「修学院離宮」の両庭園には、日本古代史における最も重大な歴史の秘密が保存された。この二つの庭園は(1)A図の文字作成銀河における【秋の銀河】を観れば倉頡伝説は真実であることがわかると伝え、(2)わが国にはA図の【文字作成銀河の各部の形状】が【文字】であった原初漢字・夏音文字が伝来したと伝え、(3)『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が伝える転回日本列島地理は[]の字源を伝える真実であると伝え、そして(4)わがブログ「日本が滅びる」の162回と163回で解説・証明したように、『古事記』上巻には日本国が〔愛〕を掲げて誕生した歴史とその【日本建国の〔愛〕の理念】が記載されていることが解明できるよう作られている。
 学者たちは約300年前に新井白石が立論した方法を踏襲(とうしゅう)し、『魏志』倭人伝の記事を慎重に読解せずに強引に単純化して誤読し歪曲する考え方を正しいと断定する〔文献批判〕を用いて邪馬台国説を立論する。
 しかし、『魏志』倭人伝に一点の〔文献批判〕を加えなければ一点の矛盾点も一ヵ所の不合理の箇所も生じずに【科学】が成立する意見となり、この意見が事実であると証明できる遺跡と遺物も複数実在することをわがブログは指摘した。
 これらの遺跡と遺物は、(1)夏代初頭にわが国に夏音文字の学芸が伝来した痕跡が明確に残る秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)における万座遺跡と野中堂遺跡、(2)『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半に作成された丁度1千万坪の「卑弥呼」の地上絵(静岡県浜松市北区細江町)(3)彦根市の3千万坪の「夏音文字の学芸は未だ習わず」と設計された地上絵、(4)桂離宮庭園の地宜、(5)修学院離宮庭園の地宜、(6)枯山水の庭園で有名な京都市に所在する竜安寺(りょうあんじ)の石庭、(7)大嘗会(だいじょうえ)における天皇の即位式に用いられ王冠などである。
 だからこそ、『魏志』倭人伝に一点の〔文献批判〕を加えない解釈こそが正しい意見となり、『魏志』倭人伝の全文は真実を伝えるものであったことになる。一方、すべての邪馬台国説は荒唐無稽の誤読の空論であることも真実となる。
 〔誤読〕を自由自在にあやつって立論する邪馬台国説は、上記に列挙した最も重大な日本古代史の秘密となった真実を闇に葬り、政府自ら対策に「決定打はない」と発表した人口減の最も有効な決定打になるにちがいない【日本建国の〔愛〕の理念】を絞め殺し、さらに日本人の命と魂とそして学問と芸術の源(みなもと)をも消滅させて、日本を滅ぼす祟(たた)りとなる。

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