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2015年4月23日 (木)

日本が滅びる・166

邪馬台国説は【誤読の空論】である


◆邪馬台国説論争は、永遠に決着がつかい。邪馬台国説学者たちの言い分を聞いていたら、千年経っても一万年経っても、一向に埒(らち)が明かず決着がつかない。
 なぜだと思いますか――邪馬台国説の実体は〔誤読の空論〕だからである。
 学者や邪馬台国説に賛同するマスコミは、詐欺師まがいの方法をもって人々を騙(だま)す――しかし、邪馬台国論争は学術問題であるから絶対に「詐欺」とか「詐欺師」という語を用いてはならないことになっている。この決まりは御尤もであるが――完全なる〔誤読の空論〕を述べても大学教授の職に止まっていることができ、箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓であるから奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が邪馬台国であるというデマを流すマスコミは大目にみられて許されることになるが――我らのような小市民にあってはこの類(たぐい)の行為は“詐欺”となって罰せられる。

◆新井白石以来約300年間、学者たちは『魏志』倭人伝を誤読して空論を垂れ流す。
 なぜ邪馬台国説が誤読の空論かと言えば、『魏志』倭人伝のすべての記事は真実を伝えるものであり、この真実を科学的に証明できる幾つかの確かな遺跡と遺物は現存するからである。
 
 論者が「邪馬台国」と発言した途端に〔誤読の空論〕となる。
 古代史研究家の古田武彦氏は、『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住して王国の名は「邪馬壱(やまい)国」と記してあることを綿密に証明したからである。古田氏は『三国志』全体に記された86個の[()]56個の[()]を一つ一つ調べて、「壱」と[]の誤記が一例も存在しないことを証明した。
 “『魏志』倭人伝”は通称で――西晋(せいしん)の著作郎(歴史編纂管)の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』魏書東夷伝末部にある〈倭人伝〉を“『魏志』倭人伝”と称する。
 山尾幸久(やまお・ゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社)は「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(280289)、陳寿の著作郎時代という以上には限定できない」と指摘する。したがって、『魏志』倭人伝は280289年に著作された。

◆『魏志』倭人伝の冒頭の「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」という文から早々、邪馬台国説は〔誤読の妄想〕であることが露呈する。
 上記の文中に登場する「帯方」は現在の朝鮮半島のソウル市周辺だったとされる「帯方郡」のことで、この帯方郡に魏の出張機関の政庁が所在した。
 A図に示すように、当時(2世紀末から3世紀中半)の北極星(こぐま座β星)は天の北極から約10度離れていた。帯方郡の東南の大海中に在る倭地(西日本)には、10度=600分の600分の1の1の緯度差を測定できる方法ならば到着できた。だから、当時の約600分の円を描く北極星では、600分の1の1分の緯度差を計測できる精密さが求められた大海を絶対に渡ることができなかった。

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(C) 2015 OHKAWA


 というのも――現在の日本地図で立論すると、倭地でも中国同様に北極星を最も尊重する天文学が確立されていたことになって、1分の緯度差の測定が必要条件となる大海を倭と魏・帯方郡の使節は往来できなかったことになるからである。したがって、魏と倭は国交を結ぶことが出来なかったゆえ『魏志』倭人伝はこの世に存在するものではなかったことになり、「卑弥呼」の3字や「邪馬台国」の4字どころか1字も記載されていなかった白紙同然であったことになるので、直ちに邪馬台国説は妄想であったことが判明する。

 
◆中国では紀元前1世紀に、北極星(こぐま座β星)を「太一」と名づけて最も重視するシナ天文が完成した。ゆえに、中国の人々は帯方郡の東南の大海中に在る倭地に到着することができなかった。これゆえ、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝末部には「シナ天文が完成されない紀元前3世紀に生存した徐福とその一行は、中国から大海を渡って日本列島に到着して移住した。しかし、3世紀になると中国の人々には日本列島ははるか遠くに在り海の道は途中で絶えており往来することができない」と指摘する記事が存在する。
 当時、魏と帯方郡の人々は北極星を最も重視したために大海を渡ることができなかった。他方、日本列島に住む倭の使者たちは、B図に示す〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛えていたので大海を往来できた。というのも、〔[]をキャッチする方法〕だと精密に600分の1の1分の緯度の差を測定できたからである。

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(C) 2015 OHKAWA


 B図の右上に示すように、精密に1分の緯度差を測定できる[]は「天頂点を通過する銀河部が天頂点に接近する時の46秒間における天頂緯度線と、この天頂緯度線で測定できる子午線」からなる。原始の時から人間の大脳辺縁系 (だいのうへんえんけい)に分担される本能行動によって、人間の目は鍛錬すると[]をキャッチすることができる能力がそなわっていた。
 だから『魏志』倭人伝冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文は「倭人は北極星で緯度と子午線を測定せず、[]をキャッチして大海を往来した。しかし、魏と帯方郡の人々は北極星を最も重視して[]をキャッチする習慣を紀元前1世紀に失ったために大海を往来することができなかった」という真実をつきつける重大記事となる。

 
◆『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)における〔緯度の測定〕と題する記事は、「天の北極」を「北極」と記して下記のごとく指摘する。
 「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算できる。もっとも精密に測る方法は、子午線通過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」
 C図に示すように、3世紀の天の北極から約10度離れて円を描く北極星にもとづくと北緯3415分の地点の緯度は約北緯2415分~約北緯4415分となって誤差が20度となる。だから、誤差が20度=1200分の北極星で緯度測量すると、1分の緯度差を測量できる精密さが求められる大海は、当然、往来することができなくなかったことになる。

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D図は、『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半(260290年ころ)に作成された現在の浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する遺跡である。この遺跡を、私は“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた。「卑弥呼」の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記された豪族が作成した。
 「卑弥呼」の地上絵の経緯度原点は、北緯3448分のA地点である。「卑弥呼」の地上絵の北限は北緯3450分、南限は北緯3446.6分である。ゆえに南北の緯度差がわずか3.4分の山あり谷ありの大地に丁度1千万坪となる境界線で大鳥の形を図化する「卑弥呼」の地上絵によって3世紀の豪族が[]をキャッチできたことが事実となり、また倭の使節と船乗りは[]をキャッチして大海を往来していたことが明らかとなる。

◆上記した『図詳ガッケン・エリア教科事典』の記事は、現在の北極星(こぐま座α星)にもとづいて説明する。現在の北極星は天の北極から1度=60分だけ離れているゆえ、およその緯度を簡単に知ることができる。しかし、3世紀の北極星(こぐま座β星)はC図に示すように誤差が20度となるので、この北極星では緯度が測定できなかったと指摘すべきことになる。だからD図の「卑弥呼」の地上絵は、倭の使節と船乗りは1分の誤差が測定できる方法の[]をキャッチして大海を往来していたことを今日に明確に伝える遺跡となる。
 そして「卑弥呼」の地上絵によって、『魏志』倭人伝の全記事はすべて事実を伝えるものであることが科学的に証明され――『魏志』倭人伝の記された倭国の34小国の位置と範囲はE図のごとくであったことになる。E図に示すように、倭女王の弥呼が居住した邪馬壱国は現在の島根県と鳥取県西部(旧国の石見・出雲・伯耆)であり、邪馬壱国の中心は山陰・出雲(島根県東部)であった。『魏志』倭人伝には全部で15ヵ所の方位記事が存在するが、E図は全15ヵ所の方位記事と一点の矛盾も不合理も存在せず、すべて合理となる。

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 E図における九州の地図の上に記す大海の名は「玄界灘」である。「玄界灘」は「古代、北極星の高度で緯度換算する方法では往来できなかったが、[]をキャッチする方法ならば往来できた波が荒い陸地から離れた大海」であったことになる。
 E図に示すように、『魏志』倭人伝は「卑弥呼王朝は、東に伸びる日本列島を南に伸びるという錯覚の転回日本列島地理を制定していた」と重大な歴史的事実を記載する。
 その証拠に、『魏志』倭人伝には「その道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という文がある。F図に示すように、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理は「中国の会稽・東治の当(まさ)に東に在る」という文に合致するが、北極星がある方角を〔北〕と定める邪馬台国説の立論基盤となる日本地図は会稽・東治の東北に存在するので矛盾する。

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 G図に示すように、玄界灘に浮かぶ日本列島の西端に在る沖ノ島と日本列島の東端にある神津島(こうずしま)は同緯度(北緯3415)である。北極星では沖ノ島と神津島が同緯度であることは測量できないが、1分の緯度差も測量できる[]をキャッチする方法ならば沖ノ島と神津島が同緯度であることを測定できた。
 沖ノ島は冬になると雪が降るが、亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。ゆえに、日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島における気候を合体させると〔西冷東暖〕となる。
 H図に示すように、中国海岸線地域の北部の気候は冷たく、中国海岸線地域の南部の気候は暖かい。ゆえに、中国海岸線地域は〔北冷南暖〕となる。
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(C) 2015 OHKAWA


 H図の中国海岸線地域とG図の日本列島の〔西冷東暖〕においては、中国の〔北冷〕と日本の〔西冷〕が一致し、中国の〔南暖〕と日本の〔東暖〕が一致する。ゆえに、日本列島の東は中国海岸線地域の南の方に伸びていると考えるべきことになる。
 だから、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が明確に示すように、卑弥呼王朝はE図に示すがごとく南へと伸びる錯覚の転回日本列島地理を制定したことになる。

◆わがブログ「日本が滅びる」の前々回(164)前回(165)にて詳細に解説して証明したように、今から約4070年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)にI図に示す【銀河の各部の形状】を【文字】とする原初漢字・夏音(かおん)文字がわが国に伝来していた。
 前々回と前回同様に、I図の銀河を「文字作成銀河」と呼ぶことにする。

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 夏音文字は正しい字源、最初の字形(すなわち文字作成銀河の各部の形状)、正しい字義を保存する漢字であった。なぜならば、「銀河」の別名は「銀漢」「天漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称したからである。
 わが国では中国で失った夏音文字が保存されるものであったから、E図の左端に配する「転回方位」が[]の字源・字形・原義であることを知っていた。だから、卑弥呼が統治した国名は「倭」の字を冠することになった。
 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)9頁末部から10頁初頭にかけて、〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)30頁は〔卑弥呼の発音について〕「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば〔ピミカ〕になる」と指摘する。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと、白川静著『字統』が「いま残されている最古の漢字音」と指摘する、中国の上古音「ピミカ」よりも古い夏音文字の字音となる。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むのは定説である。だから、わが国にはいま残されている最古の漢字音となる夏音文字は伝来して保存されていたことになる。夏音文字は『魏志』倭人伝の「卑弥呼」はじめとする人名、E図に示す小国名に用いられて現存する。
 『古事記』上巻の随所にも〔音〕という注が付く1字1音読みの夏音文字が多数記載されているので、わが国には夏音文字が存在したことを目で見て事実であると確認できる。

◆わがブログ「日本が滅びる」の前々回と前回で――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)の伝説は、学者たちの早合点と独断で“荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話”と断定されていが、I図の文字作成銀河を観れば歴史的事実であることが簡単明瞭に察知できることを証明した。
 わがブログ【用語の解説】の「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」にて解説したように、倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配して、下に列記する3つの掟を破った者には神罰が下って直ちに死刑に処せられると定めた。

倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1) I図の文字作成銀河から文字が作られたことを暴露した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 上記の(3)の掟のために、書いた夏音文字は遺跡から出土しないことになった。(3)の掟は、今から約3300年前の殷代(いんだい)後半に出現した契文(けいぶん╱甲骨文字)によって破られた。しかし、契文は(1)(2)の掟を厳重に守った。その後の中国の歴代王朝とわが国の歴代天皇王朝・武家幕府も(1)(2)の掟を厳重に守った。だから、(1)の掟によって〔文字が銀河から作られた事実〕を学者たちはまったく気づかず、(2)の掟によって〔文字作成銀河の各部の名称〕は存在しないので、私はI図のごとく銀河各部の名称を定めた。

 『魏志』倭人伝にある下記に示す二つの記事はわが国に夏音文字が存在したことを証言し、今日の常用漢字に直結する楷書の字源・字形・字義もまたI図文字作成銀河の各部の形状に則って定められた事実が証明される。

『魏志』倭人伝の夏音文字の存在を証言する二つの記事
 (1)
 『魏志』倭人伝には「倭の骨を灼()いて吉凶を占う時に用いる卜辞に用いる文字は、令亀(れいき)の法の如く」という文がある。だから、倭の卜辞に用いる文字が「令亀の法の如く」であったことは、つまり「亀の甲羅に文字を刻んだ契文(殷代後半の甲骨文字)のごとくの夏音文字が存在した」ことになる。
(2)
 『魏志』倭人伝には「魏都・帯方郡・諸韓国の文字の楷書と卑弥呼が文書に書いた文字は差錯(ささく╱相違)していたので、倭の伊都国の港では間違いが生じないように点検し確認していた」という記事がある。魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の字源・字形・字義は、夏音文字と同じくI図の文字作成銀河の各部の形状で定められていた。ゆえに、伊都国の港では文字作成銀河の各部の形状を観察して、卑弥呼が書く夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の間に誤訳が生じないように正しく変換することができた。
 この事実にもとづいて、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の夏音文字は楷書で表記されて現存することになった。

◆前回のわがブログ「日本が滅びる・165」で証明したように、今から約5000年前の倉頡が生存した五帝時代初頭の黄帝時代、J図に示すように、中国の天頂を「十字の銀河」と“倉頡は四つの目の怪人であった”と伝承されることになった「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河の両目と首につく両目の銀河部)」がめぐってきた。黄帝は〔女性の生殖器と子どのの出産〕について研究した。しかし、当時、黄帝の医学研究をあらわす文字が存在しなかったので、倉頡が黄帝の医学研究をヒントにして文字を発明した。この事情を伝説では――倉頡と黄帝の両目を合わせて「倉頡は四つ目であった」と語ることになったのである。

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K図に示すように、倉頡は「十字の銀河の西半分」が〔女性の乳房、妊婦のおなか、子宮(生殖器)〕に観える箇所に注目して、黄帝の医学研究にヒントを得て「十字の銀河」をI図の「文字作成銀河各部の形状から作られた全ての文字を生む母体」と定めた。さらに、「十字の銀河の子宮」を[]、「文字作成銀河の各部の形状」を[]と定め、そして「[]の小さな十字の銀河の子宮には、[]の文字作成銀河における各部の銀河部が示す文字の情報(イメージ)が入っている」と定める「一即多、多即一の理論」を発明した。
 上記の「一即多、多即一の発明」は、[][]の金文形で具体的に示された。
 L図が示すように、[]の金文形は「十字の銀河はすべての文字を生む母体」であることを明確に示して〔妊婦のおなかに胎児が宿る形〕を図案するものとなる。


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 M図に示すように、[]の金文形は[]の「十字の銀河の子宮」を[(べん)]とし、[][]の「文字作成銀河の各部の形状」を示す記号となり「一即多、多即一」をあらわした。また「全ての文字を生む母体」の「十字の銀河」も[]として、「十字の銀河」=「文字作成銀河の各部の形状」と定めた。そして「鬼の姿に似る銀河」を[]の字(字源・字形・字義)とし――「すべての字は十字の銀河を母体にして十字の銀河の子宮から生まれる」定義を示して、[]の金文形は「一即多、多即一の理論」をあらわす図案となった。
 後世に増やされたすべての漢字は倉頡の発明に則って作られた。だから、「すべての漢字は倉頡によって作られた」と語る倉頡伝説は間違っていないことになる。

◆N図に示すように、玄界灘に浮かぶG図の沖ノ島には宗像大社の沖津宮(おきつみや)が所在する。宗像大社の中津宮(なかつみや)が所在する宗像市大島も玄界灘に浮かぶ。

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 O図に示すように、宗像の大島とG図に示した神津島の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は「十字の銀河の子宮」の形に相似する。
 P図右端の「十字の銀河」は、左側の宗像の大島と神津島の地宜に合わせて〔右東左西の形式〕にした。宗像の大島と神津島は上記した倉頡が発明した「一即多、多即一」をあらわす[][]の字となった「十字の銀河の子宮」の形に相似する。
 Q図の〔尖った先端が西南に向く神津島と西北に向く十字の銀河の子宮〕は[]の字源「時計回りに方位が90度変位する転回方位」をあらわす。また〔尖った先端が西北に向く十字の銀河の子宮と東北に向く宗像の大島〕も、[]の「転回方位」をあらわす。

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 前回のわがブログで解説し証明したように、R図のごとく[]の字源は「十字の銀河の子宮から顔を西に向けて生まれる出産児と夏の銀河の西南部の渦巻の南→西となる形状イメージ」によってQ図に表示した「転回方位」と定められた。

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 R図の[]の字は(1)〔積乱雲(入道雲)が出現して雨が降り、干からびて堅くなった土地が泥のようにやわらかくなって当時の原始的な木製の刃先のクワやスキでも容易に開墾・耕作できて禾(いね)はじめとする穀物の豊かな実りに恵まれること〕と、(2)〔たくさんの子どもが出産して繁栄する〕、(1)雨乞いと(2)子授けの二つの祈願によって成立した。
 S図の〔云=雲〕の古文(中国の戦国時代に出現した文字)が示すように、「雨乞いと子授けを天に願う詞(ことば╱祝詞・のりと)」は[]の字(字源・字形・字義)となると共に、「積乱雲と降水(降雨)」をあらわす[]の字(字源・字形・字義)となった。
 R図の[]はS図・T図の[云=雲]の字は、雨が降って穀物が豊かに実り、たくさんの子どもを授かることを天の神へ祈る人々の切望をあらわした。
 S図に示す〔積乱雲の渦巻〕は「十字の銀河の子宮」と重なる。
 これゆえ、P図の「十字の銀河の子宮」と宗像の大島と神津島の地宜はQ図に示すように[]の字をあらわす“聖なる真実”を示すことになった。さらに、玄界灘に浮かぶ沖ノ島と神津島の同緯度は、H図に示すように中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕によって[]の字をあらわす“聖なる真実”となって日本列島を転回させることになった。だから、卑弥呼王朝はE図のごとく転回日本列島地理を制定したのである。
 卑弥呼が居住したE図に示した夏音名の「邪馬壱国」の[][]と同義で、S図の[]の渦巻が重なる「十字の銀河の子宮」が[][]の字源となる。

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 T図の[]の字となった〔夏の銀河の西南部における銀河系の中心から外へと渦を巻いて出ずる雲のイメージ〕から「出雲」という語が誕生した。ゆえにE図に示すように、卑弥呼は旧国名が「出雲」と称された夏音名の「邪馬壱国」に居住していた。だから、『魏志』倭人伝の15ヵ所の全方位記事は正しかったことになるので、“間違っている”と批判して一ヵ所も誤読してはならないことになる。
 E図に示す『魏志』倭人伝の34小国名の配置と範囲によって、上記した倉頡の漢字の発明と[]の字の成立の秘密が解明できる。また、E図は当時の最高峰の夏音文字の学芸を凝縮した貴重な知的資料となる。
 これに比べて現代の邪馬台国説は『魏志』倭人伝の記事は間違っていると難癖をつける、正当な理由や根拠が皆無(ゼロ)の〔誤読の空論〕であったのである。

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