G-T0XYQT12LL 古代エジプト文字の字源・3: 卑弥呼の逆襲

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2015年5月19日 (火)

古代エジプト文字の字源・3

ヒエログリフのすべての字源が解明できる聖地

◆私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけたA図の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は『魏志』倭人伝(280289)と同時代の260290年ころに作成された遺跡である。

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 A図の「卑弥呼」の地上絵とこの遺跡より南の浜名湖の地宜を、私は“古代エジプト文字=ヒエログリフの字源が解明できる銀河プラネタリウム”と呼ぶことにした。なぜならば、「卑弥呼」の地上絵とこの遺跡より南の地宜は、すべてのヒエログリフの字源が解明できる聖地だからである。

 「卑弥呼」の地上絵は『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕の末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや╱先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載される豪族とその一族によって作成された。現在、「卑弥呼」の地上絵は静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域をあらわす地図の形として、地図帳に存在する。
 わがブログ「日本が滅びる」の1回~167回までに詳細に証明したように、紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭、わが国に夏代の漢字つまり夏音(かおん)文字が伝来して習得された。このことは、わがブログ「古代エジプト文字の字源・1」でも解説した。夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられ、また『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音文字として多数記載されて実在する。
 「古代エジプト文字の字源・1」で指摘したように「始めに文字作成銀河ありき」でなければならない。なぜならば、A図の「卑弥呼」の地上絵によって、漢字と同じく古代エジプト文字=ヒエログリフもまた下に掲載する天体写真家の藤井旭氏が撮影した銀河から作られたからである。この銀河を、私は「文字作成銀河」と名づけた。

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世界中を探しても文字作成銀河における各部には名称が存在しないので、B図のごとく名称を付けることにした。

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◆中国古典の五経の第一にあげられる『易経』の繋辞(けいじ)下伝は、下記のごとく漢字の起源を伝え、この記事に登場する「天象」は「文字作成銀河」のことである。
 
 「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作った」
 上記の記事には、一部の文に誤りがある。というのも、紀元前4000年ころの三皇時代初頭に生存した包犧氏は易に用いる記号の「結縄」を作ったが、包犧氏は文字を作ることができなかったからである。「易」とは「遠くの地や大海を渡る旅人や狩猟に夢中になって山地で迷った人や食物採集のために森で迷った人が、家族が待つ家に帰ることができる精密に天頂緯度を測定できる方法」であった。
 紀元前3000年ころの五帝時代初頭の黄帝につかえた史官、『易経』繋辞下伝が「上古は結縄して治める。後世の聖人これに易()うるに書契(しょけい)をもってす」と記す聖人の倉頡(そうきつ)の発明によって文字が起源した。ゆえに、先人たちは倉頡を“漢字の始祖”と崇拝したが、包犧氏を“漢字の始祖”と呼ばなかった。「包犧」はじめ「女媧(じょか)」「神農(しんのう)」という三皇の氏族名をあらわす文字は、倉頡の発明によって作られるようになったのである。
 上記した漢字の起源を伝える『易経』繋辞下伝の文中に登場する「鳥獣の文」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称であり、「八卦」は「易の判断の基礎になる八つの象(かたち)」ではなく「東・西・南・北と東北・西北・東南・西南の八方位」を意味した。そして、包犧氏が作った結縄は万物の情に類して文字を作ることができなかったが、倉頡が考案した書契によって文字作成銀河から万物の情(イメージ)に類似する文字を作ることができるようになった。
 だから、上記した『易経』繋辞下伝の漢字の起源記事は「黄帝につかえた倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文(鳥獣の足跡)と地宜を観、近くはこれを身にとり、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて文字の学芸の基本となる八方位を定め、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して書契を作った」と直せば正しくなる。
 なお、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の文中にある「仰いでは天象」とは前述したように「文字作成銀河の各部の形状」であり、「俯しては地法」は「銀河部の東から西へ向かって進む運行に対して逆向きの、黄河の水が西から東に向かって去る法則」である。次の「鳥獣の文」は前述したように「倉頡が発明した漢字作成原理の別称」であり、「地宜」はA図のごとくの「平面的に図化した地図の形」である。
 文字(字源、字形、字義)は「天象=文字作成銀河の各部の形状」を基本にして、「地法」と「鳥獣の足跡」と「地宜」との関係における合理性によって成立した。いいかえると、「天象」よりも「地法」や「鳥獣の足跡」や「地宜」を優先して文字は作られなかった。これゆえ「文字」は「漢字」と呼ばれた。「銀河」は「銀漢」とも称されたゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」となった。だから、「漢字」という語は「天象を最優先、地法、鳥獣の足跡、地宜が天象にしたがう方法で作られた」と伝えていることになる。

◆上記したように、「地宜」は上古において真実の歴史を後世に伝えことができる文字として欠くことができない要素となった。したがって3世紀後半に生存した静岡県西部の遠江に住んだ豪族の建比良鳥命は、子孫が日々学習して代々〔愛〕の理念を掲げて誕生した真実の日本国誕生史を後世に残す使命と意義の重大さを忘れないようにするため、A図に示す1千万坪の巨大な鳥の形をした地宜遺跡を作成したのである。
 C図に示す「卑弥呼」の地上絵の中央を都田(みやこだ)川が流れる。都田川流域の沖積(ちゅうせき)平野より東側は〔両翼を有する鳥〕すなわち「鳥」の形をした地宜となる。
 D図に示すように、B図に示す「夏の銀河の西南部」は〔象の頭〕に観え、「巨龍の銀河から彦星(わし座α星)までの銀河部」は〔象の鼻〕に観える。C図に示すように、都田川流域の沖積平野より西側は〔象の頭と鼻〕つまり「獣」の形をした地宜となる。

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 E図に示すように、「卑弥呼」の地上絵の〔鳥の頭部〕は〔東に向って歩く足〕の形にも見える。この〔足の踵(かかと)に接する緯度線〕は「足跡」に相当する。したがって、「卑弥呼」の地上絵は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を示す地宜となる。
 そして、「足跡となる地宜」となる〔鳥の顔の正面〕は〔夏至の日の出の方角〕を向くので――わが国には夏音文字が伝来した。この大鳥の形をした地宜(「卑弥呼」の地上絵)3世紀におこった歴史を後世につたえる遺跡である――とあらわしていることになる。

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 上記して『易経』繋辞下伝は「鳥獣の足跡」を「鳥獣の文」と記す。
 B図の左上に、私が「十字の銀河」と名づけた銀河がある。紀元前4000年から紀元前3世紀まで、「十字の銀河」は中国とわが国の天頂にめぐってきた。
 F図に示すように、[]の金文形は「十字の銀河」から作られた。「十字の銀河の西側半身」には〔妊婦の左の乳房、妊婦の右の乳房・妊婦のおなか、子宮〕に観える部分がある。ゆえに、[]の金文形は「十字の銀河」を〔妊婦の正面形〕にデザインし、「十字の銀河の子宮」をあらわして〔妊婦の子宮に胎児が宿る形〕に図案された。したがって、F図に示すように「十字の銀河の子宮」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に見立てられることになった。「十字の銀河」は[]の字となったので、「鳥獣の足跡」は「鳥獣の文」とも呼ばれることになったのである。
 そしてG図に示すように、〔都田川の沖積平野の地宜〕は〔胎児や新生児の姿〕に観える。
 H図に示すように、「十字の銀河」の西隣の「鬼の姿に似る銀河」は〔胎児や新生児〕に見立てられた。〔胎児が宿る子宮〕に見立てられた「十字の銀河の子宮」は[(べん)]の字(字源・字形・字義)、「鬼の姿に似る銀河」は〔新生児(出産児)〕に見立てられて[]の字(字源・字形・字義)となり、[][]が加わって[]の字(字源・字形・字義)となった。

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◆倉頡は[]の「十字の銀河の子宮」を[]の字(字源・字形・字義)と定め、B図の「文字作成銀河全域の各部の形状」を[]の字と定めて――[]の「十字の銀河の子宮」に[]の「文字作成銀河全域の各部の形状」の情報(イメージ)が入っている――という「一即多、多即一の理論」を発明した。
 さらに、倉頡はH図に示す「十字の銀河」を〔文字作成銀河の各部の形状から作られたすべての文字を生む母体〕であると定めた。それゆえ「十字の銀河の子宮」を〔文字作成銀河の各部の形状から作られたすべての文字が生まれる子宮〕とする漢字作成原理「鳥獣の足跡」が発明された。
 この「鳥獣の足跡」の発明によって――[]の「十字の銀河の子宮」には[]の「文字作成銀河におけるすべての情(イメージ)が入っている。女体のおなか(子宮)から胎児が生まれるように、文字作成銀河の各部の形のイメージに類似するように作った多数の文字はすべて「十字の銀河のおなか(子宮)」から生まれる――と定められた。ゆえに難解な「一即多、多即一の理論」が容易に理解できるようになったのである。
 都田川の水は東から西に流れる。ゆえに、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事に登場する「地法」の「西から南へ水が流れる黄河の法則」に反するが、〔東〕を「西」に〔西〕を「東」に180度反転すれば〔都田川〕は「地法」をあらわす〔黄河〕に見立てることができる。
 以上のごとく、「卑弥呼」の地上絵によって上記した『易経』繋辞下伝の漢字起源記事における一部分の誤りを修正できる。ゆえに「卑弥呼」の地上絵によって、(1)倉頡から始まった漢字が起源した秘密、(2)『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて現存するすべての夏音文字の字源銀河、そして(3)夏音文字を表記する文字に用いられる楷書も夏音文字とおなじく文字作成銀河から作成された秘密とその字源銀河を解明することができる。

◆I図に浜名湖と「卑弥呼」の地上絵の位置関係を示した。

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 I図下部の右側にある三ケ日町の「三ケ日」を「三つの日」と解すると、J図左上の〔三つの日(日輪)]が重なる「三つ輪の銀河」に見立てることができる。
 J図の「十字の銀河」は大字形であるので[]の字となった。ゆえに、I図下部の三ケ日町の大崎半島は[]の字(字源・字形・字義)となった「十字の銀河」をあらわす。

I図の〔大崎半島先端から都田河口までの引佐細江(浜名湖の支湖)の西岸の地宜〕は「鬼の横顔に似る銀河」に見立てることができる。というのも、「鬼の横顔に似る銀河は、〔人の横顔〕に相似し〔大崎半島〕が〔鬼の角〕となるからである。
 「鬼の横顔に似る銀河の鼻」は〔猪の鼻〕に相似するゆえ、大崎半島の西岸を湖岸とする浜名湖の支湖もまた〔猪の正面の鼻〕の形に似ているので「猪鼻湖(いのはなこ)」と名づけられた。引佐細江の西岸の〔寸座岬(すんざみさき)〕も〔猪の鼻〕の形に相似する。ゆえに、〔大崎半島から都田川河口までの引佐細江の西岸の地宜〕は「鬼の横顔に似る銀河」と〔鬼の横顔に似る大崎半島から都田川河口までの地宜より西側の三ケ日町〕は「鬼の姿に似る銀河」に見立てることができる。
 おおよその形が長方形となる〔引佐細江〕は、J図の「長方形の暗黒天体部」に相当する。また、〔引佐細江〕の東の〔都田川の水の流れ〕はJ図の「長方形の暗黒天体部」の東隣の「激流の銀河」をあらわす。
 引佐細江〕が相当する「長方形の暗黒天体部」は、漢字の字源体系の中心部である。ゆえに「長方形の暗黒天体部」に見立てられた支湖の名は、建比良鳥命家の子孫が居住した地名「引佐」に「卑弥呼」の地上絵の地名「細江」が加わる「引佐細江」となった。注目すべきは「長方形の暗黒天体部」はヒエログリフの字源体系の中心部でもあった。
 
 〔大崎半島から都田川河口までの地宜より西側の三ケ日町〕を「鬼の姿に似る銀河」に見立てると、〔人の横顔に似る頭部が長い村櫛(むらくし)半島〕はJ図に示す「人の横顔に酷似する銀河」に見立てられることになる。
 〔西の三ケ日町〕は「東の三つ輪の銀河」に、〔東の村櫛半島〕は「西の人の横顔に酷似にする銀河」と解釈すると、「西が東・東が西となる、西から東へ水が流れる黄河が示す地法」を示すことになる。だから、上記したように〔東から西に水が流れる都田川〕もまた「地法」をあらわすことになった。

 K図左図に示すように、「卑弥呼」の地上絵から湖西市がある〔西南〕をさらに延ばすと「夏の銀河の西南部」が水平線に没する海となる。K図右図に示すように、「人の横顔に酷似する銀河」より〔西南〕にある「夏の銀河の西南部」(B図参照)は、「夏の銀河の西南部」が没する〔大海の水平線の西南〕に相当する。

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 L図に示すように、経緯度原点のA地点を貫通する延長線は「夏の銀河の西南部」が没する〔西南〕を指さす。
 上記したE図に示したように、経緯度原点のA地点の45度東北に「金指(かなさし)」という名の地区がある。
 M図に示すように、実際に金色に輝いている「夏の銀河の西南部」は〔金色に輝く親指を立てる形〕をしているので、「金色の指」から「金指」という地名になった。

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(C) 2015 OHKAWA

 以上のごとく、I図からM図までで解説したように、浜名湖の地宜と「卑弥呼」の地上絵は文字作成銀河全域における各部の形状をあらわす。

 ◆わがブログ「日本が滅びる」の1回~167回までで繰り返して解説・証明したように、N図右上に示す[]の字は人間が本来有していた「46秒間に移動する天頂緯度線と天頂点の真北または真南の目印(銀河部位や恒星など)をキャッチすると、緯度1分の緯度の差を精密に測定できる眼力」をあらわした。人類は原始のときから大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に分担された本能行動で日々鍛錬して[]をキャッチできる眼力を有していた。ゆえに、太古から上古の中国とわが国の人々は遠くの地への旅や大海を渡るとき、また砂漠を往来した古代エジプト人は[]をキャッチして1分の誤差を精密に測定できる眼力で緯度(位置)と子午線(方角)を見失わないようにして自らの命をまもった。したがって、このブログの初頭で登場した「易」と「[玄]のキャッチ」は同義ということになる。

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 O図上図は、上記したE図と同一図である。O図上図が示すように、「卑弥呼」の地上絵の北限は北緯3450分、南限はO図に示す北緯3446.6分である。O図下図に示すように、経緯度原点のA地点は3448分であり、滝峯(たきみね)不動尊も同緯度である。A地点と滝峯不動尊は約4キロメートル離れ、中間は谷と深い森林とで占める。これゆえ、A地点と同緯度の滝峯不動は、滝峯不動尊をおおう樹木を伐採して天頂点が見えるようにして[]をキャッチして測量されたことになる。O図下図が示すように、経緯度原点のA地点の緯度3448分と南限の3446.6分の緯度の差はわずか1.4分である。この1.4分の緯度差の土地に「卑弥呼」の地上絵の境界線となる曲線で表示される鳥の翼と頭部の形が存在する。だから、上古の日本人は1分の緯度の差を測定できる[]をキャッチできる眼力と技(わざ)を有していたことになる。
 O図が示すように、N図右上に示す「[]をキャッチする能力(眼力と技)」を上古の日本人たちは有していたと断定できる。というのも、O図は経緯度原点のA地点と滝峯不動尊は同緯度が測量できたことを何人にも否定できない明確なる事実と示すからである。
 
 O図に示す〔経緯度原点のA地点〕は[]の字となる「十字の銀河の子宮」に見立てられた。また〔浜名湖の地宜と「卑弥呼」の地上絵〕は、[]の字となる「文字作成銀河の各部の形状」を示す。だから、〔浜名湖の地宜と「卑弥呼」の地上絵の複合体エリア〕には倉頡が発明した「一即多、多即一の理論」を日々学ぶことができ、また夏音文字・楷書の学芸を学習できる教材や環境がそなわっていた。

◆「卑弥呼」の地上絵から「夏の銀河の西南部」が昇ってくる東南の方向には、日本三大砂丘の一つに数えられる〔中田島(なかたじま)砂丘〕がある。この〔中田島砂丘〕を〔エジプトの砂漠〕に見立てると、浜名湖の地宜・「卑弥呼」の地上絵・中田島砂丘は古代エジプト文字=ヒエログリフの字源を解明できる複合体エリアとなる。
 以上、これまでの説明をまとめると以下のごとくなる。
(
) 浜名湖の地宜は、ヒエログリフの字源を解明するのに真っ先に必要となる「始めに文字作成銀河ありき」の文字作成銀河(天象)の形に合致する。
(
) ヒエログリフの字源体系の基軸は、1分の緯度の誤差を測定できたN図右上に配した「[]のキャッチ」であった。ゆえに、O図に示すように、「卑弥呼」の地上絵には「[]のキャッチの能力」が明確に表示され、漢字の字源体系の基軸もまた「[]のキャッチ」であったことが事実として解明できる。
(
) ヒエログリフもまた、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡(鳥獣の文)」とほぼ同様の作成原理をもって字源・字形・字義が成立した。前述した(C図に示した)ように、「卑弥呼」の地上絵には漢字作成原理「鳥獣の足跡」が明確に示される。
 上記の3つは【漢字とヒエログリフの字源成立に共通する3大要素】となる。

 したがって、「卑弥呼」の地上絵と浜名湖の地宜によって、ヒエログリフが文字作成銀河から作られた事実を【科学】にもとづいて証明することができる。
 ヒエログリフは、多くの学者たちによって解読されて字形・字音・字義が解明されているが、字形・字義を成立させた字源の存在について気づいた学者は一人もいない。
 (1)ヒエログリフが文字作成銀河の各部の形状から作成された事実を科学的に証明でき、また(2)ヒエロログリフのすべての字源を解明できる聖地は、エジプトに存在せず、なんとわが国の浜名湖と「卑弥呼」の地上絵ということになる。

なぜならば、『魏志』倭人伝は合計1983(5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の注56)から構成されるからである。「卑弥呼」の地上絵によって『魏志』倭人伝に記された夏音文字と楷書の合計1983字のすべて字源が解明できる。そのうち、「奴」という字は10字も存在するゆえ、このように複数回用いられる文字を考慮すると、おそらく『魏志』倭人伝の全字数は14001700字と大まかにいえば確かなことになる。リチャード・H・ウィルキンソン著╱伊藤はるみ訳『図解古代エジプトシンボル事典』(原書房)の〔はじめに〕において著者は「古代エジプト語を書くために用いられたヒエログリフの数は非常に多い(ガーディナーのリストには約750個あるが、それでもずいぶん省略してある)が、絵画、彫刻にひんぱんに使用されているのはほんの一部である。美術の中で象徴して使われているものとしては、実際にはこの本で解説している100個のヒエログリフでほぼ十分なのである。」と指摘する。ヒエログリフの総字数は、最多で800個くらいと指摘されている。だから、浜名湖と「卑弥呼」の地上絵で解明できる『魏志』倭人伝の総字数14001700字の字源銀河解明の成果をもってすれば、最多でも800個といわれるすべてのヒエログリフの字源銀河はおのずと解明することができる。

したがって、ヒエログリフの字源は必ず必要となる上記の3大要素を失ったエジプトでは解明できない。しかし、現存する浜名湖の地宜と「卑弥呼」の地上絵は3大要素をもって成立するゆえ、すべてのヒエログリフの字源を解明できる聖地となる。

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