日本国誕生史の復興・2
●沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(1)
無敵艦隊呉軍の日本列島の蓬莱山への遠征
◆A図は2008年に発見された沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する前方後方墳の高尾山古墳の規模図である。古墳本体の長さは62.178m(前方部が30.768m、後方部が31.410m)、周溝(しゅうこう)の底から古墳の頂部までの高さは4.679m、周溝の幅は8~9mである。
(C) 2016 OHKAWA
沼津市教育委員会は――高尾山古墳は230年頃に築造され、250年頃に被葬者(ひそうしゃ)が埋葬(まいそう)された――と推定した。ゆえに、高尾山古墳は東日本における最古で最大の古墳である。
上記したように、沼津市教育委員会は高尾山古墳を「墓である」と結論づけた。しかし、高尾山古墳は墓ではなく、伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話に記載された盛り土であったと考えられる。つまり、伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場の平地の上に、二人が東日本に封(ほう)ぜられた任務であった来襲する呉軍の撃退を祈願して愛鷹山(あしたかやま)を祭って地霊を呼び興(おこ)すために作った封土(ほうど)・盛り土であったと考えられる。
多くの人々は「古墳」イコール「墓」と考えるが、そうとうは限らない。というのも「封土(ほうど)」の[封]の字義について、『角川漢和中辞典』は「もりつち。天または山を祭るために造った盛り土。転じて、墓の盛り土」と指摘するからである。したがって全長が約62mの高尾山古墳は真っ先に[封]の原義である「封土。盛り土」であったと考えるべきことになる。古墳イコール墓という意見は原義にもとづくものではなく、第二義的な転義に則(のっと)る意見である。
◆208年に、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。
2009年の5月と6月に、巨匠ジョン・ウーが監督する「レッド・クリフ」すなわち「赤壁の戦い」の1部と2部が上映されて、わずか5万の呉・蜀(しょく)の連合軍は約16倍の80万の魏軍を撃破(げきは)して大勝利をおさめた状況が詳細に描かれた。映画で描かれたとおり、謎の疫病(えきびょう)によって戦意を喪失(そうしつ)した蜀軍は撤退(てったい)した。だから、わずか2万の呉の水軍が80万の魏軍を撃破した。
晋(しん)の著作郎(ちょさくろう)であった陳寿(ちんじゅ)が著作した中国の正史『三国志』は魏書・蜀書・呉書の六十五巻で構成され、卑弥呼が登場する『魏志』倭人伝は『三国志』魏書東夷伝の末部の倭人伝であり、約2,000字で構成されている。
280~289年に著作された『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「230年、呉の皇帝・孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷人(とうていじん)国への遠征を命じた。このときの武装兵は1万」と記述する。
この記事が示すように、230年、魏の80万の大軍を撃破した2万の呉の水軍のうちの半分の1万の無敵艦隊が日本列島の倭の隣国の東鯷人国に向かって遠征した。ザックリ言えば、魏の40万の大軍に匹敵する1万の無敵艦隊が日本列島へと目指したことになる。
中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部の記事を注目すると、孫権が1万の水軍に遠征を命じた東鯷国はどこであったかは具体的に明らかとなる。この記事を列挙すると、次のごとくになる。
Ⅰ 東鯷人国は二十余国に分かれ、夷州および澶州(せんしゅう)がある
Ⅱ 東鯷人国は、倭国のいちばん奥にある黒歯(こくし)国の隣にある
Ⅲ 呉の会稽 (かいけい)の港から海に入る、その外海に東鯷人国は所在する
Ⅳ 紀元前3世紀の秦(しん)の始皇帝の時代に、方士の徐福(じょふく)が若い男女数千人を率(ひき)いて海に入り、始皇帝が探して来いと命じた蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)にある不老長寿の霊薬を発見できなかった。徐福は死刑をおそれて帰国せず、東鯷人国に定住した。卑弥呼が生存した3世紀、日本列島に定住した徐福一行の子孫は数万軒となる
Ⅴ 東鯷人は定期的に大海を往来して呉の会稽で交易をしている
Ⅵ 東鯷人国は中国人にとって遥かに遠くにあって海の道は途中で絶えて消えてしまうので、魏・蜀・呉の中国の人々には東鯷人が通う大海の道を往来することができない
◆上記した『後漢書』倭伝に「徐福一行が目指した蓬莱の神仙、つまり不老長寿の仙人の霊薬がある蓬莱山」は、その麓に高尾山古墳が築かれた足高山(あしたかやま)であった。旧称「足高山」は現在「愛鷹山」と表記される。
呉の会稽港から徐福一行が目指した蓬莱山・足高山に至るまでの航路は――B図に示す台湾から与那国島(よなぐにじま)そして宮古島(みやこじま)、広大な太平洋、火山列島の硫黄島、小笠原諸島、伊豆諸島、そして東海・関東地方に到着するまでの海の道であった。

(C) 2016 OHKAWA
このルートの他に、台湾から沖縄がある南西諸島を通過して九州南部に到着する海の道がある。『魏志』倭人伝は「九州は卑弥呼が治める倭国であった」と記述するゆえ、倭の地域に到着する南西諸島ルートは遥かに遠い海の道が途中で絶えて消える東鯷人国に直接的に到着するルートではない。また、南西諸島ルートの場合、呉軍は九州・倭地に到着して34の小国があったそのうちの幾つかの小国軍と戦ってようやく中央突破し、倭国の奥にある東鯷人国に到着しても東鯷人軍と戦いさらに帰路においても倭の幾つかの小国軍と戦って帰国しなければならなかった。このようないつも敵軍に包囲されて戦わなければならない兵士の消耗がはなはだしい、遠征軍の全滅が予想できる愚劣きわまりない作戦を中国史上最高の軍事戦略家と評された諸葛孔明(しょかつこうめい)と互角にわたりあった英才・孫権が考えるはずがない。だから、呉軍はB図の海の道を通って伊豆諸島の北側にある沼津市足高山・蓬莱山へと目指したことになる。B図に示すように、呉の遠征軍は倭地を中央突破しなくてすむ、宮古島と硫黄島を結ぶ広大な太平洋を渡らなければならなかった。
C図に示すように、定期的に呉の会稽に往来していた東鯷人たちは約1,650㎞も遠く離れた宮古島-硫黄島までの広大な太平洋を往来できた。というのも、地図を見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)、宮古島と硫黄島は北緯24度45分で同緯度である。この同緯度は人類が獲物を求めて移住生活をしていた原始の時から鍛錬して受け継がれた〔緯度1分の差が測定できる、本能的に天頂緯度と子午線をキャッチできる眼力と技(わざ)〕によって測定できた。
この「緯度1度の60分の1の1分の差が測定できる、本能的に天頂緯度と子午線をキャッチできる眼力と技」を、漢字1字であらわすと[玄]となる。

(C)2016 OHKAWA
D図に、天頂点を通過する銀河部の軌道を示した。その右上に[玄]がある。人間の目は鍛錬すると感覚が研(と)ぎ澄(す)まされて[玄]をキャッチできる能力がそなわり、この[玄]をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力によって緯度が1分の差まで測定できた。1,650㎞も離れる広大な太平洋で隔たる宮古島と硫黄島の同緯度は、原始から受け継がれた[玄]をキャッチする眼力と技によって測定できたのである。この[玄]をキャッチする眼力をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれ原始時代やまた氷でただ一面真っ白な氷河期において全滅していたことになる。現在人類が滅びずにいるのは、人類が[玄]をキャッチする眼力を有し脳に技を磨く本能的能力がそなわっていたからである。
◆『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻(学習研究社)にある「緯度の測定」と題する説明を古代史学に適応するように要約すると下記のごとくなる。
「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の天の北極からのかたよりが計算できるので、天の北極の高度に換算ができる。もっと精密に測る方法は、天頂緯度と子午線による測定である。」
上記の説明が「日付・時刻が決まれば」と必要不可欠な条件を付けているように、古代においては今日のような暦と精確な時刻を表示する時計が存在しなかったので、北極星をキャッチすれば天の北極の高度を精確に知って1分の緯度差を測定することができなかった。
古代において大海を渡る人や遠くの地に旅する人が自分の居る位置を知る方法は、〔[玄]をキャッチする方法〕のみただ一つしか存在しなかったのである。というのも北極星で緯度測量すると命を落して家族が待つ家に帰還(きかん)することができなかったからである。
E図は、25,800年で一周する天の北極と北極星の位置図である。北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から84年後のこぐま座α星です。天の北極を中心に円を描くこの二つの北極星は、その直径が約1.5度(約90分/満月の3個分)である。ゆえに、この二つの北極星で緯度測量する方法だと、誤差が約90分ということになる。E図に示したように、呉の水軍が東鯷人国遠征を決行した3世紀の北極星は天の北極を中心に半径約10度で円周していた。
だから3世紀、天の北極を中心にして廻(めぐ)る北極星の高度で緯度換算すると、F図に示すようにその誤差はその直径約20度・約1200分であったことになる。

F図に示したように、九州南端は北緯31度、北海道北端は北緯45度30分である。このように日本列島がスッポリとおさまる3世紀の直径が約20度・約1200分の円を描いた北極星の高度で緯度を換算(かんさん)すると、北緯31度の九州南端は時には北緯21度、またある時は北緯31度、またある時は北緯41度と計測された。
したがって、緯度1分の精度が求められた宮古島・硫黄島の広大な太平洋の海の道は、誤約1200分の北極星で緯度測定したならば往来できなかった。E図が示すように、最も天の北極に近づく北極星の誤差は直径約90分であるゆえ、すべての古代にあって北極星で緯度測定したならば最大でも2~3分の緯度差が求められた大海を往来することはできなかったことになる。古代の人々は、緯度1分の緯度差を測定できた[玄]のキャッチの眼力と技を鍛錬(たんれん)して大海を往来し、遠くの地へ旅して日常必需品や優れた文明や発明を取り入れて一族や村落が滅亡しないように努めていた。
3世紀にあっては、北極星は大海を往来する時や遠くの地に旅する人々が緯度測定に用いると必ず命を落とすことになる、まったく役立たずの死神(しにがみ)であった。
◆紀元前1世紀、中国では北極星を最も重視するシナ天文が完成した。したがって、紀元前3世紀の中国ではシナ天文が確立されていなかったゆえ、徐福一行は[玄]をキャッチして日本列島に移住できた。
しかし、3世紀の1万の呉の遠征軍はシナ天文のために[玄]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣が約320年間も廃(すた)れていたため、にわか仕込みの訓練では宮古島から硫黄島までの広大な太平洋の海の道は途中で絶えて消えてしまい渡ることができなかった。このため、『三国志』呉書孫権伝は「呉の1万の東鯷国遠征軍は8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)した」と記述する。呉の水軍は台湾まで到着できたが、案内・先導するために台湾より先の外海に繰(く)り出した兵士たちはことごとく大海に消えてもどってこなかったために呉軍は台湾で立ち往生して壊滅した。
シナ天文では北極星を天体における最高神と定めて「太一(たいいち)神」と称した。この太一神の北極星では大海を往来できなかった――この事実を、上記したように『後漢書』倭伝は「中国の人々には東鯷人たちが往来した海の道は遥かに遠く途中で絶えて消えてしまうので往来することができなかった」と説明したのである。
『後漢書』倭伝に「徐福一行が蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬がある」と記された東鯷人国の蓬莱山(沼津市の足高山)へ目指して遠征した1万の呉軍は台湾で立ち往生(おうじょう)して壊滅した。この歴史が由来(ゆらい)となったのであろう、B図の左下に記したように「台湾」は「蓬莱仙島」と中国語で呼ばれる。
倭の卑弥呼王朝と東鯷人国王権の面々は徐福一行とまた東鯷人たちがD図左上に示す[玄](天頂緯度線と子午線)をキャッチして大海を往来した事実からして、呉の遠征軍もまた必ず[玄]をキャッチして来襲してくるにちがいないと考えた。というのも、当時において命を落とさずに大海を渡る方法は[玄]をキャッチする方法のみであったゆえ、呉軍が自殺行為となる[玄]をキャッチできないまま無謀(むぼう)な遠征を決行したなんて想像することはまったくできなかったからである。
◆豊富な資料と正確な考証(こうしょう)からなる中国の歴史書『資治通鑑(しじつがん)』は、中国の正史(せいし)と同様に価値の高い書物とされ、中国の歴史書の編纂(へんさん)に大きな影響を与えた。この『資治通鑑』は呉の東鯷人国遠征の目的について「その民を俘(とりこ)にしもって衆(しゅう)を益(ま)さんと欲す」と明記する。ゆえに、呉の東鯷人国遠征の目的は「東鯷人を捕虜にする、人狩り」であったと卑弥呼も東鯷人国王は考えたにちがいない。
『漢書(かんじょ)』の「地理志」に記される前漢の平帝(へいてい)が治めた西暦2年の人口は5,959万余であった。王莽(おうもう)が治めた新の末期は戦乱で人口が激減し、後漢の光武(こうぶ)帝 が死んだ西暦57年の人口は2,100万余となった。質(しつ)帝が死んだ146年には、4,756万余まで回復した。三国時代末期末(280年頃)の人口は、魏が443万2,881人、蜀は約94万人、呉は約230万人であった。ゆえに、三国時代末期は計約767万3,000人であった。したがって、呉軍が東鯷人国に遠征した230年当時の中国の人口は激減しておよそ800万~850万人であったであろう。このような状況であったゆえ卑弥呼も東鯷人国王も魏の人口に劣る呉軍の遠征目的は人口を増やすための人狩り作戦であると考え、呉軍の東鯷人国遠征は必ず再度決行されるにちがいないと思い込むことになった。
ゆえに無敵艦隊の呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えた東鯷人国王は倭国に属することを決意し、倭女王卑弥呼に東鯷人国の防衛を要請した。これゆえ東鯷人国の名は「日本」と改められた。そして伊耶那美命と伊耶那岐命は呉の遠征軍を撃退(げきたい)するために新生・日本国に封ぜられることになり、天と蓬莱山・足高山を祭って勝利を祈願する封土(ほうど)の高尾山古墳が築かれることになったのである。
『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話の冒頭は――ここに天(あま)つ神と諸々(もろもろ)の命(みこと)によって、伊耶那岐命と伊耶那美命に「この漂(ただよ)える国土(くに)を修理(つく)り固めるようにせよ」という詔(みことのり)が下された――と記述する。
つまり「天つ神と諸々の命」とは「卑弥呼と王朝をささえる諸々の王や王女たち」つまり「卑弥呼王朝」を意味した。伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本に封ぜられたという情報は小国・日本はじめ倭国の隅々に知れ渡ることになったので、230年の失敗に懲(こ)りない無敵艦隊の呉軍が再度遠征してくるにちがいないという恐怖が国中を覆(おお)うことになった。だから、「漂える国土」という暗喩(あんゆ)は「[玄]のキャッチに失敗して大海を漂流する船の乗組員のごとく国民が一様に小国・日本と倭国には死が間近(まぢか)にせまっていると嘆(なげ)き悲しみ、2万で40倍の80万の魏軍を撃破した呪的(じゅてき)戦力を有する呉軍と戦って勝てるはずがないと脅(おび)える心配で国情が不安定となった様子」を表現するものであったことになる。
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