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2016年4月23日 (土)

日本国誕生史の復興・3

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(2)
 〔[]のキャッチ〕を復興すると日本国誕生史が蘇る


3万年前の後期旧石器時代から後期弥生時代の3世紀までの約3万年間、本土から遠く離れる太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の神津島(こうづしま)で産出する黒曜石(こくようせき)が東京都、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県、茨城県、山梨県、滋賀県、愛知県、静岡県そして石川県の能登半島の人々に用いられていた。というのも、上記各地の遺跡から神津島から産出する黒曜石が出土したからである。能登半島から神津島まで直線距離でおよそ400kmもあり、東京からは約178kmもあり、伊豆半島から海を隔(へだ)てて30km以上も離れる。
 黒曜石は、上手(じょうず)に刃をつけて石槍(いしやり)や鏃(やじり)、また皮はぎや肉切り用の石器として利用された貴重な石であった。
 本土から良質の黒曜石が採取できる神津島までの海洋を旧石器人たちが往来した事実は、世界史上でも最古の海洋航海と考えられている。
 3万年前の旧石器人たちは、A図右上に示す〔天頂緯度線と子午線〕をキャッチして1分の緯度差を測定できる眼力と技(わざ)を身につけていた。死をおそれて生きようとする行動と種族を保存したいと欲求(よっきゅう)する基本的生命活動によって人類の頭脳にはたくましく巧み(たく)に生きてゆく能力がそなわり、3万年前の旧石器人たちのA図右上に示す〔天頂緯度線と子午線〕をキャッチする感覚は研()ぎ澄()まされていた。だから、彼らは神津島までの海洋を往来することができた。
 A図に示す〔天頂緯度線と子午線〕は[]という漢字であらわされた。[]の「天頂緯度線」をキャッチすると緯度1度の60分の11分の緯度の差が測定できた。
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(C) 2016 OHKAWA


 B図は約26000年で一周する天の北極と北極星の位置を示す図である。前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・2」で指摘したように――現代のように精確な暦と時刻を表示する時計があれば、天の北極の高度でも凡(およ)その緯度が測量できる。精確な暦と時計が存在しなかった太古・古代では、結局、北極星で緯度換算することになった。北極星が天の北極に最も近づくのはりゅう座α星とこぐま座α星である。この天の北極に最接近する二つの北極星は天の北極を中心にして約45分の円を描くものであったので、その直径の約130(90/満月の3個分)が緯度を測量した時の誤差となった。誤差が90分以上となる北極星で緯度換算すると1分の緯度差を測定できなければ命を落とす神津島までの海洋を往来することができなかった。だから、北極星の緯度測量では旧石器時代から後期弥生時代までの本土各地の人々は神津島に渡ることができず黒曜石を入手できなかったことになる。

上記した〔[]のキャッチ〕について、新井白石(1657-1725)から今日までの学者たちはまったく考慮しない。しかし、白石以前の学術においては〔[]のキャッチ〕が最も重視された。この白石以前の学術と同様に〔[]のキャッチ〕を最も重視して考えると、邪馬台国学説と日本神話学説は〔誤読の空論〕であることが短時間で容易に明白となる。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・2」で取り上げたように、中国の正史『後漢書』倭伝末部は――(1)紀元前3世紀の秦(しん)の始皇帝の時代に、方士の徐福(じょふく)が若い男女数千人を率(ひき)いて海に入り日本列島の後(3世紀)に「東鯷人(とうていじん)国」と呼ばれた土地に到着できたが、始皇帝が探して来いと命じた蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)にある不老長寿の霊薬を発見できなかった。ゆえに徐福は死刑をおそれて帰国せず、東鯷人国に定住した。(2)3世紀、東鯷人国は二十余国に分かれて夷州(いしゅう)および澶州(せんしゅう)がある。東鯷人は定期的にC図とD図に示す大海を往来して呉の会稽(かいけい)で交易している。東鯷人国は中国(魏・蜀・呉)の人々にとって遥かに遠くにあってC図とD図に示す海の道は途中で絶えてしまうので、東鯷人が通う大海の道を往来することはできなかった――と記述する。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 中国では紀元前1世紀以前は〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬(たんれん)する習慣〕が存続していたゆえ(1)紀元前3世紀に生存した徐福一行は[]をキャッチして日本列島に渡来できた、また(2)3世紀の東鯷人国では〔[]のキャッチの習慣〕が栄えていたので東鯷人は呉の会稽に到着して交易することができた。
 280289年に著作された『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「230年、呉の皇帝の孫権は1万の武装兵を夷州と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷人国へ遠征を命じた」と記述する。この呉の遠征軍は台湾(蓬莱仙島)沖で8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)した。というのも紀元前1世紀に中国では北極星を最も重視するシナ天文が完成したため、3世紀の中国では[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣が約320年間も廃(すた)れていたので、C図とD図に示した宮古島から硫黄島までの広大な太平洋の海の道を1万の呉の遠征軍は渡ることができず壊滅したのである。 
 3世紀、『魏志』倭人伝が明記しているように、倭の使節は大海・玄界灘(げんかいなだ)を渡って魏や魏の出張政庁があった帯方郡(たいほうぐん)に到着して帰国していた。したがって、倭では〔[]をキャッチする習慣〕が栄えていた。だから[]をキャッチすることができた倭の使節が大海を往来して帯方郡と魏と外交交渉し国交を結んだゆえ、『魏志』倭人伝が著作されることになった。
 学者たちは現在の北極星で東西南北を定める日本列島地図を用いて卑弥呼が居住した王国・邪馬台国の位置を主張する。この〔[]のキャッチ〕を排除(はいじょ)する学者たちの考え方だと、北極星を重視した倭の使節は大海を渡ることができなかったことになる。そうすると魏・帯方郡と倭の使節は大海を往来して国交を結ぶことができなかったゆえ、『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。このように白石以後の学者たちは〔[]のキャッチ〕を排除(はいじょ)すると『魏志』倭人伝が白紙となることも知らずに邪馬台国の位置を主張するが、このような意見は明らかに荒唐無稽(こうとうむけい)の誤読の空論である。

新井白石以後の学者たちのように、日本古代史においては天の北極や北極星がある方角を「北」と定める地理のみが存在したと考えて〔[]のキャッチ〕を無視する意見や軽視する意見、あるいは〔[]のキャッチ〕を排除する意見、あるいは〔[]のキャッチ〕を否定する意見は下記の4つの観点からして直(ただ)ちに荒唐無稽の空理空論となる。
Ⅰ 上記したように〔[]のキャッチ〕を排除して北極星を基準にして東西南北を決定する説は、『魏志』倭人伝には文字が1字も書かれていなかった白紙となる。だから、白石以後の邪馬台国学説は空理空論であった。
Ⅱ B図上部に示したように、3世紀の北極星(こぐま座β星)は天の北極を中心にして半径約10度・600分の円を描いて運行した。このため、E図に示すように北極星で緯度測量した誤差は直径の20度・1200分となる。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 F図に示す高尾山古墳の東西軸は、微妙(びみょう)に緯度軸に合致しないでわずかに東端が北寄りに・西端が南寄りになるように傾いて設計された。しかし、その東西軸の設計はほぼ緯度軸に合致する。この微妙な東西軸の傾きは、足高山が徐福一行が目指した蓬莱山(ほうらいさん)であったために設計されることになったと考えられる。
 緯度測量すると1200分の誤差となる3世紀の北極星では、F図に示す東西軸がほぼ緯度軸に合致する高尾山古墳を絶対に築造することができない。しかし1分の緯度の差を測量できるA図に示す〔[]をキャッチする方法〕ならば、微妙に緯度軸にズラして東西軸が傾くように設計された高尾山古墳は築造することができた。
N24

  このように、3万年前の旧石器人たちが良質の黒曜石を求めて神津島までの海洋を往来した方法の〔[]のキャッチ〕を復興させると高尾山古墳は築造できて事実となる。
 しかし、白石以後の学者たちは3世紀の天の北極や北極星の高度で精確に緯度が測量できたと錯覚(さっかく)して〔[]のキャッチ〕の復興を怠(おこた)るが、この考え方だと高尾山古墳は築造できなかったことになる。だから、学者たちの意見の実体は空理空論である。
Ⅲ 高尾山古墳から後漢時代(25年~220)に作製された青銅鏡の破砕鏡(はさいきょう)が出土した。この後漢製の鏡は「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」と呼ばれる。
 「上方作系浮彫式獣帯鏡」は高尾山古墳だけでなく他の遺跡からも出土して幾つか発見されている。1世紀から3世紀までの後漢時代、中国では〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れ、また上記したように『後漢書』倭伝の末部は「中国の人々は東鯷人国に至る大海の道は遥か遠く道が途中で絶えているので往来することができない」と明記してあるので、高尾山古墳から出土した後漢製の破砕鏡は東鯷人か倭人が[]をキャッチして大海を往来して中国から手に入れたことになる。
 しかし、北極星で東西南北を決めたと考える学者たちの意見だと倭人も東鯷人も大海を渡ることができなかったことになる。そうすると、高尾山古墳から出土した後漢製の破砕鏡は中国の人々が円盤投げよろしく「エイやっ!」と大海を越えて投げつけたために砕(くだ)けた、この鏡が高尾山古墳の主体部に埋納(まいのう)されたことになる。このような荒唐無稽の意見を真()にうける人は一人もいない。だから、白石以後の〔[]のキャッチ〕を排除する学者たちの意見は直ちに空理空論となる。
Ⅳ 高尾山古墳の周溝やその周囲から約2000点の土器が発掘された。
 これらの土器は、地元産の形式以外に、北陸や東海西部、近江(滋賀県)、関東などの土器が出土した。高尾山古墳は北緯3507分、北陸は北緯3630分~北緯3730分くらい、東海西部の尾張と三河の愛知県は北緯3440分~北緯3510分くらい、近江・滋賀県は高尾山古墳とほぼ同緯度、関東は北緯35度~北緯3610分くらいである。3世紀の北極星の緯度の誤差は約20度であるのに対して、高尾山古墳と比べて最も緯度の差がある北陸でも3度以下となる。ゆえに、緯度の誤差が約20度であった北極星を念頭(ねんとう)にして〔[]のキャッチ〕を徹底的に排除する学者たちの意見だと北陸や東海西部、近江、関東からの土器を高尾山古墳に集めることができなくなるゆえ直ちに空理空論となる。
 注目すべきは、このブログ冒頭で取り上げた神津島産の黒曜石の分布(ぶんぷ)と高尾山古墳に集められた土器の分布(北陸や東海西部、近江、関東などの土器の分布)が合致することである。この点からしても、3万年前の旧石器人たちが海洋を渡って神津島から黒曜石を手に入れることができた〔[]のキャッチ〕を排除する意見は空理空論となる。

上記したごとく、学者たちは〔[]のキャッチ〕を排除する方法を確立して、事実無根の空論をあたかも思考に満ち満ちた学術意見であると吹聴(ふいちょう)する。しかし〔[]のキャッチ〕を取り入れると、たちまち化けの皮がはがれて邪馬台国学説と日本神話学説は荒唐無稽の空論であることが明白となる。

230年頃の土器が高尾山古墳の埋納施設からわずかに出土した。同じ種類の土器はほとんど墳丘上(埋納施設の外)から出土した。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・2」でも指摘したように、後漢時代の146年の中国の人口は4,756万余であったが、三国時代の230年ころの人口は800万~850万人に激減した。だから、『後漢書』倭伝に「人民時に呉の会稽(かいけい)に至って市(いち/交易)す」と記述された東鯷人(とうていじん)たちは、中国の残酷きわまりない獣性(じゅうせい)に支配された戦争が自国にも及ぶことを常に心配して、会稽で交易するかたわら呉軍の情報を得ようと努(つと)めていたにちがいない。また東鯷人国王も常に中国の戦争が自国に波及(はきゅう)するのではないかと心配して、呉の会稽で交易する東鯷人たちに呉軍を調査するように命じていたにちがいない。また魏王朝は敵国の呉軍の動きに常に警戒(けいかい)していたから、230年の呉軍の東鯷人国遠征の情報をいち早く倭女王卑弥呼へ通報したことになる。だから、倭国と東鯷人国は230年に決行された1万の呉軍の東鯷人国遠征を知っていた。
 当時の中国の三国戦争の状況からして卑弥呼王朝と東鯷人国王権をささえた面々は呉軍の東鯷人国への遠征は東鯷人国の人民を俘(とりこ)にするための人狩り作戦であると考えて、呉軍は必ず再度遠征してくるはずであると推断(すいだん)した。
 再度呉軍は必ず遠征してくると推断した卑弥呼王朝の諸々(もろもろ)の命(みこと/王や王女たちなど)たちの様子を、『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話の冒頭は「天(あま)つ神諸(もろもろ)の命」と表現した。
 東鯷人国王は呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないとあきらめて卑弥呼が統治する倭国に属すると決意し、倭の防衛軍の派遣(はけん)を要請した。ゆえに呉軍の遠征の情報は「必ず再度呉軍来襲して来る」という噂(うわさ)となって東鯷人国と倭国の国中にひろがって恐怖のルツボと化した。これゆえ東鯷人国が呉軍に占領されて多数の人民が捕虜(ほりょ)となり倭国もいずれ滅亡であろうと不安がって騒ぐ人民たちの嘆きが渦巻く倭国と東鯷人国の様子を淤能碁呂島の聖婚説話は「漂(ただよ)える国」と暗喩(あんゆ)したのである。
 かくして「東鯷人国」は倭国の一員の「小国・日本」となって新しく生まれ変わった。
 ゆえに東鯷国王は退(しりぞ)き、呉の遠征軍を撃破(げきは)した功績によって小国・日本の女王となれる伊耶那美命と小国・日本において倭軍と日本軍とを指揮する軍王(いくさのおおきみ)に任命された伊耶那岐命が東日本に封ぜられる(赴任する)ことになった。
 だから、沼津市教育委員会は高尾山古墳を古代スルガ(駿河)王が葬られた墓であったと推定したが、この意見は誤っている。高尾山古墳は天と徐福一行が目指した蓬莱山・足高山を祭って呉軍との戦いに勝利するために築造された封土(ほうど)・盛り土であった。
 上記したように高尾山古墳の埋納施設から230年頃の土器がわずかに出土した。同じ種類の土器はほとんど墳丘上で出土した。この墳丘上の後部に、250年頃の鉄槍(てつやり)と鉄の鏃(やじり)が埋納された。250年頃、伊耶那美命は倭女王に任命されて小国・日本を去ることになった。ゆえに、日本国を去る時におこなわれた祭祀において230年に遠征を決行した呉軍が来襲してこなかったことを感謝して230年頃に作られた土器が供えられたと考えられる。あるいは伊耶那美命が去った後に呉軍が遠征して来ないことを祭祀の際に祈願して230年頃の土器が供えられてのかもしれない。
 いずれにせよ、高尾山古墳から出土した230年頃の土器は倭国と小国・日本(旧東鯷人国)230年に決行した呉軍の遠征を知っていたことを示す。ゆえに高尾山古墳は日本軍が呉軍との戦いで勝利することを祈願して天と足高山を祭ったための封土であったことになる。
 学者たちは〔[]のキャッチ〕を排除する立論方法を確立して、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話は歴史を伝えるものではないと主張する。しかし、〔[]のキャッチ〕を復興させると高尾山古墳と淤能碁呂島の聖婚説話によって【科学】が成立して日本国が誕生した事実が鮮烈・明確に蘇(よみがえ)る。

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