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2016年4月29日 (金)

日本国誕生史の復興・4

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(3)
 卑弥呼王朝が制定した錯覚の日本列島地理


前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・3」で指摘したように――3万年前の後期旧石器時代から後期弥生時代の3世紀までの約3万年間、本土から遠く離れて太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の神津島(こうづしま)で産出する黒曜石(こくようせき)が東京都、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県、茨城県、山梨県、滋賀県、愛知県、静岡県そして石川県の能登半島の人々に用いられていた。
 本土から遠く離れる良質の黒曜石が採取できる神津島までの海洋を3万年前の旧石器人たちが往来できた――というのも彼らはA図右上に示す〔天頂緯度線と子午線〕をキャッチして精確に1分の緯度差を測定できる眼力と技(わざ)を身につけていたからである。厳(きび)しい旧石器時代の生活環境のなかで人類の頭脳にはたくましく巧み(たく)に生きてゆく能力がそなわり、A図右上に示す〔天頂緯度線と子午線〕いいかえると〔[]をキャッチできる感覚〕が研()ぎ澄()まされることになった。だから1度の60分の11分の緯度の差が測定できた旧石器人たちは神津島までの海洋を往来できた。
N31
(C) 2016 OHKAWA

 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回と3回で詳細に解説して証明したように、すべての時代において、B図に示す天の北極を中心として円を描いて廻(めぐ)る北極星で天の北極の高度をキャッチするには今日のように精確な暦と時刻を表示する時計が必要となる。ゆえに、3万年前の旧石器人時代同様に精確な暦や時刻を表示する時計が存在しなかった3世紀にあっても、人々が天の北極や北極星では1分の緯度の差は測量できなかったので神津島へ渡ろうとすると命を失ったことになる。

C図に示す静岡県沼津市に所在する高尾山(たかおさん)古墳は、2008年に発見された230250年頃に築造されたと推定された東日本における最古で最大の古墳である。
 高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に登場する。これゆえ高尾山古墳によって日本国誕生の歴史が科学的に証明できる。
N32

(C) 2016 OHKAWA

 黒曜石は石槍(いしやり)と石鏃(せきぞく)となった。
 高尾山古墳の主体部から2点の鉄槍(てつやり)32点の鉄の鏃(やじり)が出土した。
 高尾山古墳の墳丘内から約2000点の土器が出土した。これらの土器は地元産以外に、北陸や東海西部、近江、関東などの土器が見つかった。
 ゆえに高尾山古墳から出土した鉄槍と鉄鏃(てつぞく)は神津島の黒曜石の用途であった槍と鏃に合致する。また高尾山古墳から北陸の土器が出土したように神津島の黒曜石は北陸の石川県能登半島に分布し、高尾山古墳から東海西部の土器が出土したように神津島の黒曜石は東海西部(愛知県)に分布し、高尾山古墳から近江(滋賀県)の土器が出土したように神津島の黒曜石は滋賀県にも分布し、高尾山古墳から関東の土器が出土したように神津島の黒曜石は関東(東京都・埼玉県・千葉県・群馬県・栃木県・茨城県)に分布し、高尾山古墳から地元の静岡県の土器が出土したように神津島の黒曜石は静岡県にも分布する。
 高尾山古墳と良質な黒曜石が産出した神津島の歴史は〔[]のキャッチ〕の基(もと)に成立し、日本国誕生史も〔[]のキャッチ〕を基にして成立するものであった。したがって、A図右上の〔[]のキャッチ〕を復興すれば『古事記』上巻の淤能碁呂島に記述された日本国誕生史が科学的に鮮烈(せんれつ)に花開いて蘇(よみがえ)る。

 
C図に示した――沼津市の足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)の麓に築造された高尾山古墳は、わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回・3回で証明したように、来襲する呉の遠征軍を防衛するために足高山を祭った封土(ほうど)・軍事施設の盛り土であった。
 280289年に著作された中国の正史『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「230年、呉の皇帝孫権は1万の呉軍に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷人(とうていじん)国への遠征を命じた」と記述する。208年の赤壁(せきへき)の戦いで、2万の呉軍は40倍の80万の魏軍を撃破(げきは)した。ゆえに、ザックリ言えば40万の魏の大軍に匹敵(ひってき)する1万の呉の無敵艦隊が日本列島の東鯷人国への遠征を決行したことになる。ところが、中国では紀元前1世紀に北極星(こぐま座β星)を「太一神」と定めたシナ天文が完成して約320年間もの長い間、A図右上に示した[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬(たんれん)する習慣が廃(すた)れた。このため、大海を往来することができなった呉の遠征軍は台湾沖で8割~9割の兵が失われて壊滅(かいめつ)した。
 倭女王卑弥呼と東鯷人国王は、当然、[]をキャッチして呉の遠征軍は襲来すると思い込んだ。東鯷人国王は呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないとあきらめて卑弥呼が統治する倭国に属すると決意して倭の防衛軍の派遣を要請した。かくして「東鯷人国」は滅び、倭国の一員の「小国・日本」と改名されて誕生した。
 ゆえに、東鯷国人王は退(しりぞき)き、呉の遠征軍を撃破した功績によって小国・日本の女王となれる伊耶那美命と小国・日本において倭軍と日本軍を指揮する軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命が封ぜられる(赴任する)ことになった。
 だから『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話における淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話の冒頭の「ここに天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)()ちて」という文は「ここに卑弥呼王朝をささえる王・王女や重臣たちは」と意味した。この後に淤能碁呂島の聖婚説話は――卑弥呼王朝は伊耶那岐命と伊耶那美命に「この漂(ただよ)よへる国を修理(つく)り固めなせ」という詔(みことのり)を下した――と記す。これゆえ、卑弥呼王朝は「呉軍が来襲すると脅(おび)えて国中が死を待つ大海を漂流する船の乗組員のごとく悲嘆と不安にさいなまれる倭国と小国・日本の人心が安定するようにせよ」と伊耶那岐命と伊耶那美命に命じたことになる。したがって、高尾山古墳は「漂える国(倭国と小国・日本)を修理して固める」ための土を高く盛った祭壇の封土(ほうど)であったことになる。
 高尾山古墳の古称は「熊野堂」である。熊野那智大社には伊耶那美命が主祭神として祀(まつ)られ、伊耶那美命は那智の大滝の精霊である。伊耶那岐命は熊野速玉大社の主祭神であり、伊耶那美命と伊耶那岐命の間に生まれた須佐之男命は熊野本宮大社の主祭神である。だから、熊野堂=高尾山古墳は伊耶那美命と伊耶那岐命が結婚した式場の平地に土を盛った堂(祭壇)であったと考えるべきことになる。
 

『魏志』倭人伝には全部で15ヵ所の方位名が記される。この全15ヵ所の方位記事を一ヵ所も改めないと、〔東〕に伸びる日本列島は〔南〕に伸びる。このため、B図に示す天の北極・北極星を注目して学者たちは“日本列島は南に伸びるはずがない”と主張する。
 しかし、1402年に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」にある日本地図は、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に合致して〔南〕に向かって伸びる。この転回日本列島地図は、卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理をあらわした。
 淤能碁呂島の聖婚説話は――「是()の漂へる国を修理(つく)り固めせよ」と詔()りて――という文の後に、「天沼矛(あめのぬほこ)を賜(たま)ひて」という文を続ける。この「天沼矛を賜ひて」から「是()れ淤能碁呂島なり」までの文は、混一疆理歴代国都之図と同じくD図に示す卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本地理を説明するものであった。
 D図は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事を忠実にあらわした倭地図である。
N33
(C) 2016 OHKAWA


 D図の左側に記す「玄界灘」は「北極星では往来できないが、[]をキャッチすれば往来できる陸地から遠く離れた波の荒い海」と意味する。だから、「玄界灘」という海の名はD図右側の転回日本地理は卑弥呼王朝が制定した実在した錯覚の地理であったと今日に伝えることになる。この〔[]のキャッチ〕をあらわす玄界灘に浮かぶ沖ノ島と鳴門の渦潮と良質の黒曜石が産出する伊豆諸島の神津島は同緯度(北緯3415)である。この同緯度はA図の[]と重なる銀河部位の天頂緯度線をキャッチすれば測量できるが、B図の3世紀の誤差が20度となる北極星(シナ天文の太一神)ではまったく測量できない。というのも、3世紀の北極星では1分の精度で天の北極の高度を測定できなかったからである。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 E図に示すように、日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬に雪が降らないから〔東暖〕となる。そして中国の海岸線地域の北部は気候が冷たいゆえ〔北冷〕となり、南部は暖かいゆえ〔南暖〕となる。したがって沖ノ島の〔西冷〕と中国海岸線における〔北冷〕は冷たい気候で一致し、神津島の〔東暖〕と中国海岸線における〔南暖〕は暖かい気候で一致する。ゆえに卑弥呼王朝は、中国海岸線の南の方に向かって日本列島の東端は伸びるにちがいないと考えてD図の右側に示す錯覚の転回日本地理を制定した。
  注目すべきは良質の黒曜石が産出する神津島が、卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地図の基点であったことである。上記したように、黒曜石は槍と鏃(やじり)に用いられたように高尾山古墳の墳丘内から鉄槍と鉄の鏃が出土し、また高尾山古墳の周溝(しゅうこう)やその周囲から出土した各地の土器は神津島の黒曜石の分布地域と合致した。だから、A図の〔[]のキャッチ〕を排除する学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻を研究する方法が根本的に誤っているゆえ、その意見は荒唐無稽の空理空論となる。

中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は――702年に中国に渡った日本国の遣唐使は「日辺(にちへん)にあるをもって、日本という名とした」、また「日本国は旧(もと)小国」、「その国の西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし」と説明した――と記述する。また中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――日本国の遣唐使は「国日の出ずる所に近いゆえ、日本と改名した」と説明した――と記述する。
 F図に示す東国は遣唐使が説明したとおり「日辺」にあり、「日の出ずる所に近い国」となる。だからF図の東国(東海・関東地区)が小国・日本であり旧東鯷人国であった。F図は北極星がある方を〔北〕と定める現在の方位規定の小国・日本地図である。
N41
(C) 2016 OHKAWA

 G図は、D図に示す卑弥呼王朝が〔西を北・東を南〕と錯覚した転回方位規定の小国・日本地図である。
 F図の現在方位の小国・日本地図だと「西界」は大海ではなく静岡県西部の遠江やさらに西隣の愛知県となる。ゆえに、『旧唐書』の「西界は大海である」という記述に矛盾(むじゅん)する。
 G図の転回方位の小国・日本地図だと「西界」は大海の太平洋、「南界」も鹿島灘がある大海の太平洋であるゆえ『旧唐書』の「西界南界はみな大海に至る」という記述に矛盾しない。G図の小国・日本の東(現在の北)界には三国山脈や日光の山々や関東山脈があり、北(現在の西)界には富士山と赤石山脈がある。ゆえに、『旧唐書』の「東界北界は大山ありて限りをなし」という記述にも合致する。
 F図はE図の沖ノ島と神津島をもって成立させた〔西冷東暖〕の転回日本列島に矛盾する。しかし、G図はE図の〔西冷東暖〕の転回日本列島地理とD図右側に示した卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理に合致する。したがって遣唐使は、小国・日本の地理をE図にて解説した卑弥呼王朝が中国海岸線地域の〔北冷南暖〕と沖ノ島・神津島の〔西冷東暖〕をもって成立させた錯覚の転回日本列島地理にもとづいて説明していたことになる。
 だから『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1点の〔誤読(文献批判)〕を加えなければ復興できるD図は、卑弥呼王朝が制定した錯覚の日本列島地理であったのである。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・3」で詳細に解説して証明したように、学者たちが主張するようにB図上部の示す3世紀の誤差が20度・1200分の北極星にもとづくと魏と魏の出張政庁があった朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)そして倭の使節は「北極星では往来できないが、[]をキャッチすれば往来できる陸地から遠く離れた波が荒い海」とあらわす玄界灘を往来することができなかったことになる。そうすると魏と倭は使節を派遣して国交を結ぶことができなかったゆえ、『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていなかった白紙となる。だから学者たちが主張する邪馬台国説は空理空論であると断定できる。

D図の左側に示すように、鳴門の渦潮は沖ノ島と神津島と同緯度である。鳴門の渦潮は時速20㎞以上になることもあり、世界でも最高級の速度であるといわれる。ゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快に渦を巻く。
 淤能碁呂島の聖婚説話は、「これ淤能碁呂島なり」という文の後に「その島に天降(あも)り坐()して、天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき」という文を続ける。この文は「伊耶那岐命と伊耶那美命は沼津市足高山の麓に到着して、呉軍を撃破した功績によって小国・日本を封土(領土)にして治めることになった時に、高尾山古墳の後方墳部に柱を立てて建設される八尋殿を想像して、高尾山古墳が築造されていない敷地で結婚式をおこなった」と意味する。だから「これ淤能碁呂島なり」という文は、小国・日本に赴任する以前、倭地において伊耶那岐命と伊耶那美命は〔淤能碁呂島〕を演出する儀式をおこなったと伝えていることになる。
 H図に示すように、伊耶那岐命と伊耶那美命は日本列島が90度転回する強大な呪力(じゅりょく)を有する〔鳴門の渦潮〕で〔淡路島〕を〔転覆(てんぷく)する呉の無敵艦隊〕に見立てる淤能碁呂島の儀式をおこなって日本軍の勝利を祈願したことになる。
N42
 

 []の字義は「どろ」、[]の字義は「熊野堂」の「熊」であり、[][]の下の[][]とするので「転回方位の基点となる小石のような沖ノ島と良質の黒曜石が産出する神津島」をあらわす。したがって、「碁呂」の語意は「転回する」となる。ゆえに、「これ淤能力碁呂島なり」という文は、D図の卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理について「日本列島の地底は海水が流れ込んで淤(どろ)や沼土(ぬまつち)のように柔(やわら)かくなっているので、熊の冬ごもりの巣の横穴と縦穴のごとく横の緯度が縦の経度になるよう90度転(ころ)がる」と説明していることになる。
 以上のごとく、A図の[]を神と崇拝した「天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)」と表現された卑弥呼王朝はD図に示した錯覚の転回日本列島地理を制定していたことになる。
 次回は、「天の沼矛を賜ひて」から「これ淤能碁呂島なり」までの伊耶那岐命と伊耶那美命がおこなった淤能碁呂島の儀式をあらわす文を解説する。 

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