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2016年5月30日 (月)

日本国誕生史の復興・11

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(10)
 高尾山古墳は“日本版トロイの遺跡”である


紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は紀元前850年ごろに生存したギシシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想、つまり〔文献批判〕は〔誤読〕であったと証明された。
 したがって――先人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの遺跡・史跡・遺物が発見されたならば、先人の記述は後世の学者たちはじめなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが文献批判した意見は誤読の産物であったことが事実となる――このような絶対的原理が古代史学には存在する。
 わが国においては、多数の学者たちが〔文献批判〕を用いて『古事記』上巻(日本神話)の記事を「歴史ではない」と断定する。
 しかしわがブログ「日本国誕生史の復興」は2回~8回までにおいて、2008年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)の高尾山(たかおさん)古墳は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話の記事に1点の矛盾点もなく不合理な点もなく科学的に合致する遺跡であることを証明した。
 だから、学者たちが〔文献批判〕を用いて主張する日本神話虚構説は〔誤読から生まれた空想〕であったことは否定できない事実となる。
 高尾山古墳は“日本版トロイの遺跡”である。この高尾山遺跡によって学者たちが駆使(くし)する〔文献批判〕の実体は〔誤読〕であり、学者たちが主張する意見の実体は〔誤読の空論〕、〔荒唐無稽(こうとうむけい)のでたらめ〕ということになる。

わがブログ「日本国誕生史の復興」は前回までにおいて、学者たちの〔文献批判〕が〔誤読の空論〕であることは――A図右上の[]を基(もと)に考えると直(ただ)ちにしかも容易に明白となることを証明してきた。
 わが国では旧石器時代人や縄文人・弥生人・古墳時代の人々は、A図右上の〔[]をキャッチ〕して大海を渡り、遠い地を旅して家族が待つ家に帰還していた。というのも、〔[]をキャッチ〕すると1度の60分の11分の精度で緯度が測定できたからである。
N161
(C) 2016 OHKAWA

 学者たちは先人たちがB図の〔天の北極〕で緯度を精確に測定できた、あるいは〔天の北極〕で東西と南北の方位を定めていたと思い込む。精確な暦と精確な時刻を表示する現在においても、北極星が描く円の中心となる天の北極の位置を1分の精度で測量できない。B図に示すように、卑弥呼や伊耶那美命が生存した3世紀の北極星は天北極から半径10度・600分も離れていた。ゆえに精確な暦も時計が無かった3世紀の人々が北極星で緯度を測量すると円の直径20度・1200分が誤差となった。もしも3世紀の人々が円を描く北極星の中心の天の北極の高度は緯度数に換算できるという知識を有していたとしても、精確な暦も精確な時計が無かった当時において直径1200分の円軌道の中心を1分の精度で測定することは絶対に不可能であった。だから北極星と天の北極で緯度測量すると命を失うことになったので、わが国では天の北極の高度で緯度換算するはずもなく、北極星や天の北極がある方角を〔北〕と定めるはずもなかった。
 わが国では、A図に示す[]の「天頂緯度線」で緯度と東西と南北の方位を定めていた。

日本国誕生史は230年の呉軍の東鯷人(とうていじん)国遠征から始まる。
 中国の戦争史で有名な208年の赤壁の戦いで、2万の呉軍は40倍の80倍の魏軍を撃破(げきは)して劇的に大勝利した。280289年に著作された『三国志』呉書は「230年、呉の皇帝孫権(そんけん)は東鯷人国への遠征を命じた。このときの武装兵は1万」、また「呉の1万の遠征軍は8割から9割の兵を失って壊滅した」と伝える。
 上の記事に登場する東鯷人国は、C図に示す東国(東海・関東地方)であった。
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(C) 2016 OHKAWA

 呉から東鯷人国までの大海を渡るには、定期的に呉の会稽(かいけい)港で交易していた東鯷人たちが修得していたA図に示した〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛(きた)えなければならなかった。しかし、呉の遠征軍は[]をキャッチできなかった。というのも中国では、B図に示す北極星(こぐま座β星)を太一(たいいち)神と崇(あが)めるシナ天文が紀元前1世紀に完成したからであった。
 上記したように、230年の北極星は天の北極を約20度・1200分の直径で円を描いていたうえに、当時には現代のように精確な暦も時計も無かったので1分の精度で緯度を測定することはまったく不可能であった。だから、およそ320年間も〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕をきたえる習慣が廃(すた)れていた呉の遠征軍がにわか仕込みで訓練しても修得できることではなかったので8割から9割の兵を失って壊滅した。
 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀、秦(しん)の始皇帝に命令されて徐福(じょふく)が蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の霊薬を求めて海を渡ったが手に入れることができず死刑をおそれて定住した地が東鯷人国であった」と記述する。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回~8回までくりかえして証明したように、1万の呉の遠征軍はD図に示す3世紀の遺跡が約45ヵ所と前期古墳が10ヵ所分布して密集する駿河地域に所在する足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)へ目指した。というのも、足高山が徐福が蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬が採取できると思った蓬莱山であったからである。D図の駿河地域は呉の遠征軍を待ちかまえる日本軍の一大軍事施設地域であったのである。
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(C) 2016 OHKAWA

 倭女王・卑弥呼も東鯷人国王も230年に決行した呉軍の東鯷人国遠征を知っていた。その証拠に、E図の高尾山古墳の主体部から230年頃に作られた土器が発見された。高尾山古墳は東国(C図)最古で最大の古墳である。高尾山古墳は天と足高山・蓬莱山を祭って呉の遠征軍に勝利する祈願をおこなうために作られた封土(ほうど/盛り土)であった。
 約460万人の魏の人口に対して呉の人口はおよそ50%の約240万ぐらいであったと考えられる。これゆえ、東鯷人国王と卑弥呼は呉軍が東鯷人国の人民を俘(とりこ)にする、人狩り作戦のために必ず再度遠征するにちがいないと考えた。208年の赤壁の戦いにおいて2万の呉軍は40倍の80万の魏の大軍を撃破した強力な呪的(じゅてき)戦力を有する呉の遠征軍と戦っても勝ち目がまったくないと考えた東鯷人国王は、卑弥呼が治める倭国に属することを決意して倭からの防衛軍の派遣を要請した。
 かくして東鯷人国は滅亡し、C図に示すように倭国の一員となった小国「日本」が誕生した。この小国・日本を防衛の先頭に立つ呉の遠征軍の呪的戦力を奪う魔女である巫女(ふじょ)王に伊耶那美命が選ばれ、軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれて封(ほう)ぜられることになった。

このような日本国誕生史は『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記述された。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」は2回~8回までに、淤能碁呂島の聖婚説話冒頭の「ここに天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)」から「しかれども久美度邇興(くみどにおこ)して、子の水蛭子(ひるこ)を生む。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()てき。次に淡島(あわしま)を生む。是()も亦子の列(かず)に入れざりき」という文までの記事の秘密を逐一(ちくいち)解明して、本居宣長(17301801)の研究を受け継いだ学者たちの意見は誤読の空想であることを証明した。というのも上記したように(1)A図の右上に配した〔[]のキャッチ〕を〔誤読〕で徹底的に排除し、さらに(2)前回の「日本国誕生史の復興・10」で詳細に解説したように、今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に夏音(かおん)文字がわが国に伝来しているにもかかわらず、宣長はじめ学者たちは太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』序で解説する夏音文字を徹底的に排除したからである。
 漢字は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)によって発明された。夏音文字は倉頡が発明した漢字作成原理(辞理)を受け継ぐ原初漢字である。学者たちは〔文献批判〕を多用して夏音文字を排除して『古事記』上巻を読み解く。これゆえ学者たちが淤能碁呂島の聖婚説話の解釈や意見や注釈は誤読の産物となった。
 淤能碁呂島の聖婚説話の記事は、「淤能碁呂」の4字は〔音〕すなわち〔夏音文字〕であるという注がつく。わがブログ「日本国誕生史の復興・5」で詳細に解説したように、[]は「どろ。沼」、[]は「クマ()」、「碁呂」は「転(ころ)がる」を意味するので、「淤能碁呂」は「日本列島の地底は海水が流れ込んで淤(どろ)や沼のように柔らかくなっているので、熊の冬ごもりの巣の横穴と縦穴のごとく横の緯度が縦の経度になるよう日本列島の方位が90度転回する」と意味する語であった。つまり、「淤能碁呂」はF図に示した「卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理」を意味した。『魏志』倭人伝には全部で15ヵ所の方位記事があり、1ヵ所も〔誤読=文献批判〕を加えないで全15ヵ所の方位記事を忠実に再現すると、F図のごとく〔西〕にある九州が〔北〕となる。
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(C) 2016 OHKAWA

 F図左端に記す「玄界灘」について、先人たちは「北極星による緯度換算では往来できないが、[]をキャッチすれば往来できた陸地から遠く離れた波の荒い海」と伝える。日本列島の西端にある玄界灘の沖ノ島と日本列島の東端の伊豆諸島の神津島(こうづしま)は同緯度(北緯3415)である。この同緯度はA図に示した〔[]をキャッチする方法〕ならば測量できるが、B図に示した1200分の直径で天の北極を中心にして円を描いた3世紀の北極星では測量できない。
 G図に示すように、日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある神津島は一年中暖かくて冬に雪が降らないから〔東暖〕となる。そして中国の海岸線地域の北部は気候が冷たいゆえ〔北冷〕となり、南部の気候は暖かいゆえ〔南暖〕となる。ゆえに沖ノ島の〔西冷〕と中国海岸線における〔北冷〕は冷たい気候で一致し、神津島の〔東暖〕と中国海岸線における〔南暖〕は暖かい気候で一致する。ゆえに、卑弥呼王朝は〔中国海岸線の南の方に向かって、日本列島の東端は伸びるにちがいない〕と考えた。
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(C) 2016 OHKAWA

 
今から約4050年前の後期縄文時代初頭に伝来した夏音文字は倉頡が発明した漢字作成原理(辞理)を伝え、倉頡が定めた〔3つの掟〕を厳重に守る文字であった。倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、反体制側の人々が銀河各部の形状から文字を作った学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると考えた。ゆえに、倉頡は下に列記する〔3つの掟〕に違反した人物には天罰が下されて即刻に死刑に処せられると定めた。
倉頡が定めた3つの掟
 
1 銀河各部の形状から文字が作られた事実を暴露した人物
 
2 文字を容易に習得するために、文字が作られた各部に名称を付けた人物
 
3 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない人物また消し忘れた人物
 
 わたくしは「文字が作成された各部が存する銀河」を「文字作成銀河」と名づけた。文字作成銀河を示す写真はわがブログ「日本国誕生史の復興」の9回と10回に掲載した。
 上記の倉頡が定めた2番目の掟によって、文字作成銀河の各部の名称は存在しないことになった。日本国誕生史の真実を復興するには、文字作成銀河の各部の名称が必要となった。ゆえにわたくしは下記のごとく、文字作成銀河の各部の名称を定めた。
Photo
(C) 2016 OHKAWA
 

 上記の倉頡が定めた1番目の掟によって、今から約5000年前から始まる五帝時代の倉頡文字・夏代の夏音文字・今から約3300年前で終わる殷代(いんだい)前半の原初漢字は、文字作成銀河の各部の形状が文字(字源・字形の原形・原義)となった。また上記の倉頡が定めた3番目の掟によって、五帝時代初頭から殷代前半末までの原初漢字は書いた文字資料が遺跡から出土しないことになった。この間の原初文字を書いた資料を、中国において学者たちはいまだに1点も発見していない。したがって、わが国においても学者たちが文字であると認めた夏音文字は遺跡から1点も発見されていない。このため、学者たちは夏音文字がわが国に伝来していないと断定する。しかし、夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった。したがって夏音文字は銀河各部の形状として実在するゆえ、学者たちの「夏音文字は伝来していなかった」という判断は〔誤読の空論〕となる。

「銀河」は「銀漢」とも言うので、「漢字」は「銀漢から作られた文字」の略称であった。前回のブログ「日本国誕生史の復興・10」において、〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いて3世紀にわが国の天頂にめぐってきた銀河を再現して、『魏志』倭人伝末部に登場する夏音名「載斯烏越(そしあお)」は「伊耶那岐命」、夏音名「壱与(いよ)」は「伊耶那美命」であることを証明した。
 H図に「載斯烏越」の銀河の形状を、I図に「壱与」の銀河の形状を示した。
N173
(C) 2016 OHKAWA
 

 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「載斯烏越」の[]について「載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行が開始されるであろう」と解説する。この「軍行の開始」の[]の字がつく天皇は、第9代開化天皇である。
 『古事記』中巻の開化天皇紀の初頭記事は下記のごとくである。
 「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚された。」
 開化天皇が住んだ宮殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字と同一である。だから、開化天皇の正妃の「竹野比売」の愛称が「伊耶那美命」であり、夏音名が「壱与」であったことになる。
 F図に示したように、『魏志』倭人伝に列記される小国「伊邪(いや/伊耶)国」は旧国「丹波」(現在の京都府中部・兵庫県の一部)である。
 白川静著『字統』は[]について「尹は神杖をもつ形で、神意を媒介する聖職の人をいう」と解説する。J図に示す「十字の銀河」は五帝時代から紀元前3世紀の秦(しん)の始皇帝時代まで、中国とわが国の天頂にめぐってきて〔[]をキャッチする最も印象深い聖なる基準〕となった。ゆえに、「十字の銀河」は聖職につく人の〔[]をキャッチする道具であった杖(つえ)、いわゆる神の杖〕に見立てられた。また、「十字の銀河」は「人の姿」に相似するので[]偏となり、さらに「杖を持つ右手」に観える「鬼の姿に似る銀河」と「神の杖」とされた「十字の銀河の中央部の暗黒天体部」とを合体して[]の字となった。したがってJ図に示した銀河の形状によって[]の字源・字形・字義が成立した。
N174


  []の字義は「斜(なな)め」であるので、「十字の銀河」の斜めにある「激流の銀河」が[]の字をあらわした。「激流の銀河」は「川から立ち上る地气(ちき)」すなわち「霧」をあらわした。というのも、『説文解字』は[]の字源を「地气発して、天応ぜざるを霧という」と解説するからである。したがって『説文解字』は「川から立ち上る地气が天(天頂)まで達しないものを霧という」と説明するゆえ、「伊邪」は「川や地下から霧が立ちこめる山里、蓬莱の神仙=仙人たちが杖で緯度を測定して歩く山里」と意味することになる。だから、“霧の丹波”と言われて有名な「丹波」が「伊邪国」であったことになる。
 このように銀河各部の形状を目撃すると――開化天皇と結婚した「伊邪国・丹波出身の竹野比売」は「伊耶那美命」であったことが証明される。

E図に示した高尾山古墳は足高山(現在の愛鷹山)の麓に所在する。高尾山古墳は徐福が蓬莱の神仙の霊薬を採取できると思い込んで目指した蓬莱山であることをあらわして、足高山の山頂には「桃沢神社」が祭られた。神社名に用いられる「桃」は「神仙に呪力(じゅりょく)を与える樹木・果実」とされ、中国では「仙木、仙果」と呼ばれた。白川静著『字統』は[]について「花の美しく咲くさま」と解説して字訓を「うつくしい」とする。ゆえに、「伊耶那美命」の[]は「桃の花」をあらわすものであったことになる。
 淤能碁呂島の聖婚説話に記載される「「久美度邇(くみどに)」の4字にも〔上古の音文字〕という注が付く。わがブログ「日本国誕生史の復興・8」で証明したように「久美度邇」は「富士山・足高山・水蛭子の大瀬崎(沼津市西浦江梨に所在する)・淡島(沼津市内浦重寺に所在する)の地霊が合体する呪力(じゅりょく)」をあらわした。 そのうち「久美」の[]は「足高山」、[]は「富士山」であった。したがって「伊耶那美」の[]は「富士山」をあらわした。「伊耶那岐」の[]は「足高山連峰」をあらわすものであったことになる。というのも[]は「山のわかれ道」を意味する字であるゆえ、山々が幾つにもわかれる「足高山連峰」が[]ということになるからである。
 伊耶那岐命は小国・日本で最初に軍行を開始した王であった。ゆえに、伊耶那岐命は「軍行の開始」を意味する[]の字が付く「載斯烏越」であった。
 伊耶那岐命と伊耶那美命説話の最後は「伊耶那岐大神は淡海(おうみ)の多賀(たが)に坐()すなり」と記す。淡海(近江)の滋賀県犬上郡多賀町に所在する多賀大社は北緯351332秒であり、静岡県沼津市の桃沢神社が鎮座する蓬莱山・足高山の山頂は北緯351417秒である。ゆえに、多賀大社と桃沢神社の緯度差は1分未満の0.75(45)である。近江の多賀大社が祀る主祭神は伊耶那岐命と伊耶那美命である。それというのも、足高山は徐福が蓬莱の神仙の霊薬が採取できると思い込んだ蓬莱山であっ
たために、足高山の頂上には伊耶那岐命の魂が存在することになりそして足高山と同緯度の多賀大社を設営した地には伊耶那岐命の魂が坐すと信仰されることになったのである。
 以上のごとく、高尾山古墳は淤能碁呂島の聖婚説話に記述された日本国が誕生した歴史を伝える“日本版トロイの遺跡”であった。 

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