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2016年5月17日 (火)

日本国誕生史の復興・7

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(6)
 日本国は〔愛〕を掲げて誕生した歴史証明


去る今年(2016)47日、その質素(しっそ)な暮らしから「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれた南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領(80)が初来日した。彼は私たちに「日本人は本当に幸せですか?」と問いかけ、「自分たちの過去の歴史に自分たちのルーツを見つけることが幸せである」とも述べて日本を去った。
 日本国は伊耶那美命が〔愛〕を提唱して誕生した。この歴史は『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記載された。母の天照大御神・子の崇神(すじん)天皇から始まる大和朝廷は、強大な権力に優(まさ)る日本国誕生史の〔愛〕に嫉妬(しっと)して抹殺(まっさつ)せんとした。しかし、先人たちは大和朝廷に抵抗して逆らって伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を伝える遺跡・史跡・遺物・書物・地名・伝承・風習・慣習など膨大な史料を残した。にもかかわらず新井白石(16571725)以後の学者たちは〔文献批判〕という〔誤読〕の方法を駆使(くし)して、日本国誕生史を荒唐無稽(こうとうむけい)の空論をもって台無(だいな)しにした。
 
 このブログ「日本国誕生史の復興」は、学者たちが〔誤読〕で台無しにした日本人の魂と心のルーツである〔愛〕を復興して本当の幸せに気づいていただくために作成した。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」は2回から前回の6回までにおいて、A図右上に示した[]によって新井白石以後の学者たちの意見が荒唐無稽の誤読の空論であることが寸時(すんじ)に容易にしかも明瞭(めいりょう)に察知できることを証明してきた。
N91
(C) 2016 OHKAWA
 

 「神代」と名づけられたのは[]を最も重視した時代であったからである。この神代の歴史を伝えるために先人たちは[]を明確に示す幾つかの遺跡・史跡を作って、後世の人々が〔玄〕を復興すれば日本人の命のルーツは〔愛〕であることを容易に気づくようにした。

 
中国の戦争史で有名な208年の赤壁の戦いで、2万の呉軍は40倍の80倍の魏軍を撃破(げきは)して劇的に大勝利した。280289年に著作された『三国志』呉書は「230年、呉の皇帝孫権(そんけん)は東鯷人(とうていじん)国への遠征を命じた。このときの武装兵は1万」、また「呉の1万の遠征軍は8割から9割の兵を失って壊滅した」と伝える。
 この記事の東鯷人国は、B図に示す東国(東海・関東地方)であった。
 呉から東鯷人国までの大海を渡るには、定期的に呉の会稽(かいけい)港で交易していた東鯷人たちが修得していた1度の60分の11分の緯度の差を測定できるA図に示した〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛(きた)えなければならなかった。しかし、呉の遠征軍は[]をキャッチできなかった。というのも司馬遷(しばせん)が著作した『史記』第五の天官書は「C図に示す北極星(こぐま座β星)を太一(たいいち)神と定めたシナ天文が紀元前1世紀に完成した」と記述しているからである。
N92
(C) 2016 OHKAWA


 すべての時代において、天の北極の高度は〔[]のキャッチ〕のごとく1分の精度で緯度を測定することはできなかった。というのも天の北極に最接近する北極星の天の北極までの距離(半径)45分であったので、その直径・90分で天の北極の高度を現代の精確な暦と時刻を表示する時計を用いて計測しても1分の精度で測量することができない。230年の北極星は天の北極を約20度・1200分の直径で円を描いていたうえに、当時、現代のように精確な暦も時計も無かったので〔[]のキャッチ〕と同じく1分の精度で緯度を測定することはまったく不可能であった。だから、およそ320年間も〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕をきたえる習慣」が廃(すた)れていた呉軍は、上記したように8割から9割の兵を失って壊滅した。
 倭女王・卑弥呼も東鯷人国王も230年に決行した呉軍の東鯷人国遠征を知っていた。その証拠に、2008年に発見されたD図の高尾山(たかおさん)古墳の主体部から230年頃に作られた土器が発見された。高尾山古墳は静岡県沼津市の足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)の麓に所在する東国(B図)最古で最大の古墳である。
 前回の「日本国誕生史の復興・6」で証明したように、高尾山古墳の北側の足高山に所在する足高尾上(おのえ)遺跡群は呉軍を迎え撃たんとした一大軍事基地であった。この遺跡群を代表するE図に示す八兵衛洞(はちべえぼら)遺跡や足高山頂上の桃沢神社によって、足高山が紀元前3世紀に生存した徐福(じょふく)が蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の霊薬(れいやく)を採取できると思いこんだ蓬莱山であったことが証明される。
N93

(C) 2016 OHKAWA
 

 『史記』の巻百十八と『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「秦(しん)の始皇帝に命令されて徐福が蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬を求めて海を渡ったが手に入れることができず死刑をおそれて定住した地が東鯷人国であった」と記述する。

これゆえ、高尾山古墳は天と足高山・蓬莱山を祭って呉の遠征軍に日本軍が勝利すること祈願するために作られた封土(ほうど/盛り土)であった。
 約460万人の魏の人口に対して呉の人口はおよそ50%の約240万ぐらいであったと考えられる。これゆえ、東鯷人国王と卑弥呼は呉軍が東鯷人国の人民を俘(とりこ)にする、人狩り作戦のために必ず再度遠征するにちがいないと考えた。208年の赤壁の戦いにおいて2万の呉軍は40倍の80万の魏の大軍を撃破した強力な呪的(じゅてき)戦力を有する呉の遠征軍と戦っても勝ち目がまったくないと考えた東鯷人国王は、卑弥呼が治める倭国に属することを決意して倭からの防衛軍の派遣を要請した。
 かくして東鯷人国は滅亡し、B図に示した東国は倭国の一員の小国「日本国」となった。
 この小国・日本を防衛の先頭に立つ呉の遠征軍の呪的戦力を奪う魔女である巫女(ふじょ)王に伊耶那美命が選ばれ、軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれて封(ほう)ぜられることになった。
N94
(C) 2016 OHKAWA


 F図に示す大海の道は[]をキャッチできないと位置(緯度)と方角が皆目(かいもく)不明となって大海を漂って落命した。ゆえに、呉の遠征軍が壊滅したのはみすみす自滅する[]がキャッチできなかったことが原因であると誰しもが考えない。だから東鯷人国王と卑弥呼は――F図に示した大海の道を呉軍は[]をキャッチしながら進んだが、途中で暴風雨に遭遇して渦巻く大海に飲みこまれて呉軍は壊滅した――と考えた。この秘密は『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に記述された伊耶那岐命と伊耶那美命がおこなった淤能碁呂島の儀式の文章に示されている。

このような日本国誕生史について書く『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話の記事を現代語に訳すると下記のごとくなる。
――ここに〔[]のキャッチ〕を基本とする天文地理学を政権基盤とした卑弥呼王朝から、伊耶那岐命と伊耶那美命に「人民たちが呉軍に占領される恐怖と不安にさいなまれる大海をさまよう船のごとくの状況を修理して人心を安定せよ」という詔(みことのり)が下され、二人に天沼矛(あめのぬほこ)を与えて小国・日本の防衛を委任(いにん)された。
N101
(C) 2016 OHKAWA
 

 二人は小国・日本に赴任する以前において倭地に設けられた塩焼き場で、天浮橋(あめのうきはし)に見立てた塩釜の前に作った橋の上に立って、塩田から採取した塩の濃度が濃い鹹水(かんすい)が煮つまる釜の中に天沼矛をさしおろし、G図に示す鳴門の渦潮のように鹹水をコオロコオロにと画()き鳴るようにして、天沼矛を引き上げた時、この矛の先から滴(したた)り落ちる鹹水()がだんだん積り固まったあたかも鳴門の渦潮の東側にある淡路島の形になるようにした。というのも、淡路島は呉軍の巨大な軍船が転覆したごとくに観えるからであった。この儀式は、〔H図に示す卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の淤能碁呂島理論〕をあらわすものであった。つまり淤能碁呂島の儀式は卑弥呼王朝が制定した巨大な日本列島の方位が90度転回する呪力(じゅりょく)の祟(たた)りによって呉の軍船が暴風雨の渦巻く大波に飲みこまれて転覆する様子をあらわす神事(しんじ)であった。
 その後、伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本の足高山の麓に築造されたばかりの高尾山古墳に到着した。二人は、D図に示した高尾山古墳の後方墳に呉の遠征軍を撃破した時に天之御柱(あめのみはしら/大黒柱)を垂直に立てて建造される八尋殿(やひろでん/神殿)が完成した光景を想像して、高尾山古墳を式場にして結婚式(聖婚)をおこなった。

わがブログ「日本国誕生史の復興・5」で詳細に解説したように、卑弥呼王朝は――中国海岸線地域の北部と日本列島の西端の沖ノ島の気候は共に冷たい気候で合致し、中国海岸線地域の南部と日本列島の東端の亜熱帯地区の神津島(こうづしま)は共に暖かい気候で合致することに注目して――日本列島の東端は中国海岸線地域の南に伸びると考えるH図に示す転回日本列島地理を制定した。
 H図に示す卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回地理は、『魏志』倭人伝の15ヵ所の全方位記事を忠実に読解すると【科学】が成立して事実となる。しかし、学者たちはC図に示した直径20度・1200分の円を描いた北極星で定める方位にもとづけば東に伸びる日本列島が南に伸びることは絶対にありえないと主張して多数の〔誤読〕を加える。この学者たちの考えだと、上記したように魏の使節も倭の使節も1分の緯度差を測量できる測定を求められた玄界灘を往来できなかったことになる。ゆえに、魏と倭は国交を結ぶことができなかったので約2000字で構成される『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていなかった白紙であったことになる。このように学者たちの意見は【科学】がまったく成立しない荒唐無稽のでたらめであった。
 「北極星で緯度測量すると往来できないが、[]をキャッチする方法ならば往来できる陸地から遠い波が荒れる大海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられた。このように先人たちは魏と倭が国交を結ぶために渡った大海を「玄海灘」と名づけて、H図に示すごとく卑弥呼王朝は錯覚の転回日本地理を制定したと証言する。そして[]の字義は「どろ。ぬま」、[]は「熊の冬ごもりの巣の横穴と縦穴」、[]は「小石のような沖ノ島と神津島」、ゆえに「碁呂」は「転回する」を意味した。だから、「淤能碁呂島」という語は「地底に海水が流れこんで淤(どろ)や沼のように柔らかいゆえ、熊の冬ごもりの巣の横穴が縦穴になるがごとく方位が90度転回する日本列島」を意味する。したがって、H図の転回日本列島地理は歴史的事実であったことになる。
 だから、伊耶那岐命と伊耶那岐命が倭地の塩焼き場の式場でおこなった淤能碁呂島の儀式は卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の基準緯度線上(H図の左図を注目)にある鳴門の渦潮の呪力で、G図に示したように呉の軍船を転覆する様子をあらわして日本軍の勝利を祈願する神事であった。また、この神事は呉の遠征軍は暴風雨に遭遇して渦巻く大波に飲みこまれたという考えにもとづいておこなわれた。ゆえに、F図の大海の道の状況を示して(1)呉の会稽郡は塩の産地で有名であったことをあらわし、(2)台湾から宮古島(みやこじま)のあいだの海洋には漕()ぐ櫓()が重くなる黒潮が流れることを示し、(3)北緯2445分の宮古島から硫黄島までの広大な太平洋は陽射しがきつく塩焼き場にこもる湯気のごとく肌をヒリヒリと刺したことをあらわして、鹹水が煮つまる塩焼き場で行われることになったのである。

『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に記述された高尾山古墳を式場にしておこなわれた伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式の様子の記事を現代語訳すると下記のごとくなる。
――そこで伊耶那岐命は日本軍に強大な呪的戦力がとり憑()くことを願って伊耶那美命に「おまえの体はどのようにできているのか」と尋ねると、「私の体はだんだんと整ってきましたが、まだ整わないところが一ヵ所あります」と、みずからの体の特徴の女陰が呉の軍船が出入りできる汽水湖(きすいこ)の浮島沼に似ていると答えた。そこで伊耶那岐命は女陰に見立てた浮島沼に呉軍を閉じ込めて袋のネズミにして壊滅させる作戦をあらわして「吾(われ)の体はだんだん整ってきたが、できすぎたところが一ヵ所ある。だから、この吾の体の余分なところを、おまえの体の足りないところに刺し入れて塞(ふさ)いで、小国・日本の国土を生もうと思う。この国土作りの計画はどうであろうか」と述べた。伊耶那美命は「そうしましょう」と答えた。そこで伊耶那岐命は「それならば、吾とおまえはあそに立つ天之御柱(高尾山古墳の前方墳と後方墳の中間に立てられたと考えられる)を廻(めぐ)り、日本軍の呪的戦力をあらわす「美斗能麻具波比」(みとのまぐはひ/聖婚)の神事をしようではないか」と述べた。このように約束した伊耶那岐命は「おまえは右から廻り逢うようにしろ。吾は左から廻り逢うようにする」と指示して、約束通りに廻り終えた時に、伊耶那美命は式次第を無視して先に「なんとまあ、すばらしい大夫(ますらお)でしょう」と唱え、後から伊耶那岐命が「なんと、美しい乙女であろう」と唱え、おのおの唱え終わった後に、伊耶那岐命は式次第に従わなかった伊耶那美命を「女が先に男より唱えたのは良くない」と言って批判した。

結婚式は日本軍の勝利を祈願するためにおこなうものであった。しかし、上古の音文字という注が付く「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」という語は「強大な呪的戦力」を表現するとともに「性交してたくさんの子どもを生む」をもあらわし、また[]の字源と密接にかかわり[]の字の下の[(よう)]は「幼児、すなわち子宮に宿る胎児や出産児」をあらわした。ゆえに、伊耶那岐命の「美斗能麻具波比つまり聖なる結婚をしよう」という言にかこつけて、伊耶那美命は「国土にたくさんの子どもが生まれる」つまり〔愛〕を国作りの柱にするために、式次第を無視して先に「なんとまあ、すばらしい大夫(ますらお)でしょう」と唱えた。だから、戦勝祈願に専念しない伊耶那美命の行為を伊耶那岐命は「良からず」と批判したのである。
 結婚式で小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた伊耶那美命は、結婚後も人民に〔愛〕を最も尊重するように熱心に説いた。伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念は、I図に示した高尾山古墳から出土した後漢の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はさいきょう)と勾玉(まがたま)で知ることができる。
N102_2
(C) 2016 OHAKAWA

 J図に示すように、高尾山古墳から出土した勾玉の形は胎児の姿に相似する。
N103
 
 
 K図に示す後漢の上方作系浮彫式獣帯鏡の破砕鏡は、伊耶那美命が結婚式の時に唱えた〔愛〕の理念を表現した。この証明には長い解説が必要となるので「後漢の破砕鏡と〔愛〕の日本建国理念」と題するブログを別に設けて、数回後に何回も続けておこなうことにする。
 万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)の代表作の『万葉集』803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何(なに)せむに 勝(まさ)れる宝 子にしかめやも」という和歌は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を表現するものであった。
 8世紀に作られた『万葉集』は伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念が万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく千葉(せんよう)に相伝(あいつた)えて千年も万年も永遠に存続することを願って編纂(へんさん)された和歌集であったのである。
 次回は結婚式の記事の後に続く「しかれども久美度邇興(くみどにおこ)して、子の水蛭子(ひるこ)を生む。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()てき。次に淡島を生む。是()も亦子の列(かず)に入れざりき」という文をもって、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を証明する。

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