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2016年5月19日 (木)

日本国誕生史の復興・8

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(7)
 日本軍の呪的戦力と袍図莽作戦


わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の字義は「かみ()」であると指摘する。だから、[][]の原字(最初の文字)であった。A図の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)が示すように、「天頂緯度線(となる銀河部位)」は[()]であった。
 B図の右上に示す[]の上部の[(とう)]は「天頂緯度線と子午線」をあらわすように、[]と同じく[]の字もまた「天頂緯度線(となる銀河部位)」が[]であると示す。
N111
(C) 2016 OHKAWA
 

 したがって
「神代」は「[]を最も重視した時代」であったことになる。
 
 『古事記』上巻の伊耶那美命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話は、[]を最も重視した神代に日本国が誕生した歴史を記述した。これゆえ、先人たちは[]を明確に示す遺跡・史跡や書物や地名や風習など膨大な資料を残して、後世の人々が〔玄〕を復興すれば日本国誕生史の真実を容易に知ることができるようにした。
 しかし新井白石(16571725)以後の学者たちは天の北極・北極星を重視する天文地理論に首っ丈(たけ)・夢中で[]にはまったく目もくれず、日本人にとって最も大切な日本国誕生史の真実を袋だたきにして台無(だいな)しにした。

日本国誕生史は230年の呉軍の東鯷人(とうていじん)国遠征から始まる。中国の戦争史で有名な208年の赤壁の戦いで、2万の呉軍は40倍の80倍の魏軍を撃破(げきは)して劇的に大勝利した。280289年に著作された『三国志』呉書は「230年、呉の皇帝孫権(そんけん)は東鯷人国への遠征を命じた。このときの武装兵は1万」、また「呉の1万の遠征軍は8割から9割の兵を失って壊滅した」と伝える。
 上の記事に登場する東鯷人国は、C図に示す東国(東海・関東地方)であった。
 呉から東鯷人国までの大海を渡るには、定期的に呉の会稽(かいけい)港で交易していた東鯷人たちが修得していた1度の60分の11分の緯度の差を測定できるB図に示した〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛(きた)えなければならなかった。しかし、呉の遠征軍は[]をキャッチできなかった。というのも中国では、D図に示す北極星(こぐま座β星)を太一(たいいち)神と敬うシナ天文が紀元前1世紀に完成したからであった。
N112

(C) 2016 OHKAWA
 

 すべての時代において、天の北極の高度では〔[]のキャッチ〕と同じく1分の精度で緯度を測定することはできなかった。天の北極の高度は北極星の円周運動の中心となるが、この中心は精確な暦と時刻を表示する時計を利用できる現代においても1分の精度で測定することができない。230年の北極星は天の北極を約20度・1200分の直径で円を描いていたうえに、当時には現代のように精確な暦も時計も無かったので1分の精度で緯度を測定することはまったく不可能であった。だから、およそ320年間も〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕をきたえる習慣が廃(すた)れていた呉の遠征軍がにわか仕込みで訓練しても修得できることではなかったので8割から9割の兵を失って壊滅した。
 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀、秦(しん)の始皇帝に命令されて徐福(じょふく)が蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の霊薬を求めて海を渡ったが手に入れることができず死刑をおそれて定住した地が東鯷人国であった」と記述する。
N113
(C) 2016 OHKAWA

 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回から前回までくりかえして証明したように、1万の呉の遠征軍はE図に示す3世紀の遺跡が約45ヵ所と前期古墳が10ヵ所分布して密集する駿河地域に所在する足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)へ目指した。というのも、足高山が徐福が蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬が採取できる蓬莱山であったからである。つまり、E図の駿河地域は呉の遠征軍を待ちかまえる一大軍事施設地域であったことになる。
N114

(C) 2016 OHKAWA


 倭女王・卑弥呼も東鯷人国王も230年に決行した呉軍の東鯷人国遠征を知っていた。その証拠に、2008年に発見されたF図の高尾山(たかおさん)古墳の主体部から230年頃に作られた土器が発見された。高尾山古墳は静岡県沼津市の足高山の麓に所在する東国(C図)最古で最大の古墳である。高尾山古墳は天と足高山・蓬莱山を祭って呉の遠征軍に勝利する祈願をおこなうために作られた封土(ほうど/盛り土)であった。
 約460万人の魏の人口に対して呉の人口はおよそ50%の約240万ぐらいであったと考えられる。これゆえ、東鯷人国王と卑弥呼は呉軍が東鯷人国の人民を俘(とりこ)にする、人狩り作戦のために必ず再度遠征するにちがいないと考えた。208年の赤壁の戦いにおいて2万の呉軍は40倍の80万の魏の大軍を撃破した強力な呪的(じゅてき)戦力を有する呉の遠征軍と戦っても勝ち目がまったくないと考えた東鯷人国王は、卑弥呼が治める倭国に属することを決意して倭からの防衛軍の派遣を要請した。
 かくして東鯷人国は滅亡し、C図に示すように倭国の一員となった小国「日本」が誕生した。この小国・日本を防衛の先頭に立つ呉の遠征軍の呪的戦力を奪う魔女である巫女(ふじょ)王に伊耶那美命が選ばれ、軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれて封(ほう)ぜられることになった。

このような日本国誕生史は『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記述された。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」は前回までに、淤能碁呂島の聖婚説話冒頭の「ここに天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)」から「伊耶那岐命が『女人(をみな)の先に言へるは良からずと』のりたまひき」までの記事の秘密を解明して事実を明らかにした。
 今回は「しかれども久美度邇興(くみどにおこ)して、子の水蛭子(ひるこ)を生む。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()てき。次に淡島(あわしま)を生む。是()も亦子の列(かず)に入れざりき」という文の秘密を明らかにする。
 「久美度邇」の4字には〔上古の音文字〕という注が付く。「久美度邇」は「日本軍が呉軍に勝利するための富士山・足高山・水蛭子すなわち沼津市西浦江梨(えなし)の大瀬崎(おせざき)・沼津市内浦重寺(しげでら)の淡島の地霊呪力(ちれいじゅりょく)」をあらわす。
 下のイラストに示すように富士山は足高山(現在の愛鷹山)の北北西に位置する。ところが下に示す写真のように、沼津市の東隣の清水町から見える富士山は足高山の東側の尾根にピッタリと貼()りついたかのごとく移動する。
Photo
(C) 2016 OHKAWA
 

 C図に示す小国・日本における駿東郡清水町より東方の地では、日本一巨大で重い不動であるはずの富士山が、その地底に幾つかの滑車(かっしゃ)をそなえつけてあるがごとく東へと移動する。この「神秘的な富士山が東へ移動する光景」が「久美」であった。
 “字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「後ろよりこれを灸(きゅう)す」と解説し、白川静著『字統』は「灸とはつっかいの柱をする意」と解説する。G図に示す富士山は足高山より前の浮島沼までは移動しない。だから、[]は「富士山が浮島沼までは移動しない、つっかいの壁となる足高山」を意味した。[]は「美しい富士山の意」である。[]は「[]をキャッチして精確に緯度を測定する意」となる。[]の字義は「近い」、ゆえに[]は「大瀬崎とそのすぐ近くにある同緯度の淡島の意」となる。
N121
(C)2016 OHKAWA
 

 H図に示すように、大瀬崎と淡島は北緯3501分で同緯度である。「久美度邇」の次の「興す」の[]の楷書の字源について、白川静著『字統』は「酒をふりそそいで、地霊をよび興(おこ)すことをいう」と解説する。
 だから「久美度邇興(くみどにおこ)す」という語句は「足高山()と富士山()と大瀬崎・淡島(度邇)の地霊がよび興す神秘的・強大な呪力に守護される日本軍が、2万の兵で80万の魏軍を撃破した呪力を有する呉の遠征軍を壊滅する」と意味したことになる。

「久美度邇興して」の次に続く「子の水蛭子・大瀬崎を生んだ。この子は葦船に入れて流した。次に生んだ淡島もまた子の列(かず)に入れなかった」という記事は「葦茂る浮島沼における呉の遠征軍との合戦は無かったので大瀬崎と淡島の同緯度の地霊呪力は不要となった(流れた)ために、伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本に封ぜられた目的であった呉軍を撃破した子(すなわち実績)として数えられなかった。二人は2回目の淤能碁呂島の聖婚をおこなうために西方の兵庫県の淡路島へと去った」と意味するものであった。
 I図に示すように、大瀬崎の先端部(北部)は海が数mまで接近するにもかかわらず海水がまったく浸透しない「神池(かみいけ)」と呼ばれる多数の淡水魚が生息する神秘的な真水の池がある。駿河湾へ突き出る大瀬崎は細長いチスイヒルの姿に相似し、神池はチスイヒルの血を吸う吸盤(きゅうばん)の形に相似する。これゆえ、「真水の神池がある大瀬崎」は「水蛭子」と表記された。
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(C) 2016 OHKAWA

 G図の下部に示した浮島沼は、現在の田子の浦港がある地域が出入りできる水道となっていた。この水道を日本軍が塞(ふさ)いでフタをすると、I図の「神池」の形に類似する。つまり〔神池周辺の海岸〕は〔袋〕、〔神池(に生息する魚)〕は〔袋の中のネズミとなる呉の遠征軍〕をあらわした。だから、〔大瀬崎と神池〕は〔日本軍が水道を塞いで呉軍を袋のネズミにして壊滅(かいめつ)する作戦〕をあらわすモデルとなった。浮島沼に生息するチスイヒルは、人の血を吸うと5倍の大きさとなる。そうすると、E図に示した駿河地域に配備された日本軍の兵士の総数は約2千足らずであったのであるまいか。ゆえに、230年の呉軍と同じく再度遠征してくる呉軍の兵を1万と予測して駿河の日本軍は2千の兵で戦うことになったので、〔大瀬崎と神池〕は人の血を吸うと5倍の大きさとなる〔チスイヒル〕に見立てられて「水蛭子」と名づけられたのであろう。F図に示した高尾山古墳の墳丘内(ふんきゅうない)から出土した土器は約2千点であった。ゆえに約2千点の土器数は日本軍の兵員数をあらわし、一人の兵士が土器を1点ずつ高尾山古墳の墳丘に納めたということではなかろうか。

C図に示すように、小国・日本は駿河地域だけでなく関東地方までも広がっていた。だから、浮島沼よりも大きな東京湾周辺には駿河地域よりも多数の兵を配備しなければならなかったので、浮島沼周辺の兵数はおそらく2千足らずとなったにちがいない。
 『日本書紀』神武(じんむ)天皇紀の末部には――伊耶那岐命が「日本は浦安(うらやす)(平安な)国、細戈(くわしほこ/精兵)の千足(ちた)(多数そなわった)国、磯輪上(しわかみ)の袍図莽国(ほつまのくに)である」と述べた――という記事がある。
 伊耶那岐命が述べた「袍図莽国」の[]の字は衣偏(ころもへん)[]が加わる字であるから「袋のネズミ」を意味した。[]は「戦略を図(はか)る」、[]は〔呉軍〕を〔泥浴(どろあ)び場すなわちニタ場を好むイノシシ〕に見立てて、「〔日本軍の兵士〕は〔イノシシを追いつめて包囲する狩りに用いられる犬〕となって、呉軍を討ち滅ぼす」を意味した。というのも、浮島沼と東京湾の北岸地域(現在の東京都)は共に作物がまったく実らない雨が降れば直()ぐに氾濫(はんらん)する一大湿地帯(沼地)であったからである。[]の字は上部と下部の[(くさ)]の中間の[]の字を配して構成される。ゆえに、[]の字は「野原や山地などを全速力で疾走(しっそう)する犬」をあらわす。だから、もしも呉軍が東京湾のほうに進んだ時には、[]の字は「浮島沼地域の兵士たちは一斉(いっせい)に野原や山地を全速力で突っ走って東京湾の戦場へと駆けつける作戦」をあらわした。
 J図は東京湾周辺地域の「袍図莽戦略」の解説図である。J図のごとく磯(海岸)を上にすると〔輪の形〕となる東京湾・相模湾・駿河湾が連なるので、伊耶那岐命が小国・日本について述べた「磯輪上(しわかみ)」という語句に合致する。
N124
(C) 2016 OHKAWA
 

 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の徐福の記事が示すように呉軍が入手していた東鯷人国についての情報を想像して考えると――呉軍は蓬莱山である足高山を目指して来襲する確率はきわめて高い。しかし、呉軍は相模湾に進入する可能性がまったく無いわけではない。ゆえに、「西の湾(駿河湾)か東の湾に入るのか、模様(もよう)を相()る」、すなわち[][]で「相模」という地名が生まれた。また東京湾の西岸地域は「日本軍の武(もののふ)が多数いる蔵(くら)」であったので「武蔵」という地名となった。「上総」「下総」の[]の字について、白川静著『字統』は――『説文解字』は「聚(あつ)めて束ぬるなり」とあり、糸の末端を結んでまとめることをいう――と解説する。ゆえに、〔東京湾〕は[]の〔集められた糸の束〕、〔浦賀水道〕は「糸の束の末端を結ぶ箇所」に見立てられたことになる。ゆえに、浦賀水道を塞ぐ役割は担(にな)っていた兵が配備されていた東京湾の東岸地域は、後に「上総」と名づけられた。伊豆半島南端の石廊崎(いろうざき)の砦が呉の遠征軍が相模湾に進入する気配をキャッチしたならば烽火(のろし)を上げ、この烽火を蓬莱山・足高山の要塞がキャッチする。すると、浮島沼周辺に配備された兵士は一斉に[]すなわち「草原を全速力で走る犬」となって一大ニタ場(一大湿地帯)であった現在の東京都がある武蔵へと駆けつける。この到着を待っていた武蔵軍の何割かの兵士たちは対岸の下総軍に合流し、下総軍の何割かの兵士たちは移動して上総の守りにつき、上総軍の兵士たちは呉の全軍船が東京湾に進入したのを見とどけて浦賀水道を塞げば「袍図莽」の「袋のネズミ作戦」が成立した。

これゆえ前回のブログ「日本国誕生史の復興・7」で現代語に訳した淤能碁呂島の聖婚説話説における結婚式の場面で「伊耶那岐命が自らの男根で伊耶那美命の女陰を塞ぐことにする」と述べた言は――〔浮島沼と東京湾〕を〔伊耶那美命の女陰〕に見立てて、〔伊耶那岐命の男根で塞ぐ〕という表現で〔日本軍が浮島沼と東京湾の水道を塞いで、呉軍を袋のネズミにして壊滅させる袍図莽作戦〕を象徴的にあらわすものであったことになる。
 この結婚式の場面で伊耶那美命は式次第に従わずに先に「なんとまあ、すばらしい大夫(ますらお)でしょう」と唱えて、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。この日本建国の〔愛〕の理念は、J図の「安房(あわ)」という旧国名となって残った。H図に示した水蛭子・大瀬崎と同緯度の淡島(あわしま)の「あわ」は「安房」と同音であり、北緯3501分の淡島は安房(現在の千葉県南部)の館山(たてやま)市と同緯度である。安房(房総半島南端部)の地図の形は〔西の淡島の方を向く、乳首が突き出た妊婦の大きな乳房の側身形〕に相似する。またお椀を伏せた形をした駿河湾に浮かぶ淡島は、妊婦の乳房や胎児が宿る円く突き出た妊婦のおなかのように観える。ゆえに「安らかに母親たちが乳房の乳を子に与える」の略称となる「安房」は、日本建国の〔愛〕をあらわしたことになる。
 前回のブログ「日本国誕生史の復興・7」で指摘したように、K図に示す高尾山古墳から出土した1点の勾玉(まがたま)は胎児の姿に相似するゆえ日本建国の〔愛〕の理念を伝える遺物であった。また、L図に示す後漢の破砕鏡(はさいきょう)の絵柄も日本建国の〔愛〕の理念をあらわした(この証明は、数回後でおこなう)
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 『古事記』は――伊耶那美命と伊耶那岐命は「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」つまり「今日の兵庫県の淡路島」で二度目の淤能碁呂島の聖婚をおこなった――と記述する。この二度目の結婚で、伊耶那美命は伊予国の祭神を「愛比売(えひめ)」と名づけ、伊耶那美命と伊耶那岐命は小国・日本を含む倭国全体の国作りの柱を〔愛〕と定めた。ゆえに旧国名が伊予であった現在の県名「愛媛」は、最初の高尾山古墳における結婚で伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念に反対した伊耶那岐命が二度目の結婚式では理解して、二人は倭国の国作りの柱を〔愛〕と定めた歴史を伝えるものであったことになる。

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