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2016年5月24日 (火)

日本国誕生史の復興・9

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(8)
 文字習得の定説は誤読の空論であった証明


古代史学において「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは56世紀である」という意見が定説である。この常識とされる定説は紛(まぎ)れもなく誤読の空論である。
 2世紀末から3世紀半ばのわが国の様子を記述する『魏志』倭人伝には「倭の骨を灼()いて卜(ぼく)する時の辞()は命亀(れいき)の法の如(ごと)く」という記事がある。この記事が明確に示すように、現在の定説より以前において中国の殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字のような原初漢字(上古文字)がわが国には存在した。
 また『魏志』倭人伝には「魏都・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国の楷書で書く文書と倭女王卑弥呼が書く文書の文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港で点検し確認して間違いが生じないようにしていた」とも記す。この記事もまた、わが国には上古文字があったと証言する。だから56世紀漢字習得の定説は完全なる誤読の空論である。というのも2世紀末~3世紀半ばにおいて倭の伊都国の港では辞理(じり)にもとづき魏・帯方郡(魏の出張政庁が所在した朝鮮半島の一角の郡)・諸韓国で用いられた楷書と倭ですでに存在していた上古文字(原初漢字)を正確に変換していたから、当然、定説は空論となる。

わがブログ「日本国誕生史の復興・6」の末部で下記のごとく指摘した。
 『古事記』の序を書いた太安万侶(おおのやすまろ)は、序の末部で〔上古文字と辞理〕について解説する。安万侶が解説するように『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の冒頭にある淤能碁能呂島(おのごろじま)の聖婚説話の記事には、〔音〕という注を付ける「淤能碁呂」の4字や、「久美度邇(くみどに)」の4字による「上古の音文字」があった。また[]の楷書の訓は「多々志(たたし)」という注が付き、[]の楷書の訓は「那志(なし)」という注が付いているように「上古の訓文字」も存在したことになる。
 安万侶は序の末部で――上古においては、言(ことば)と意(こころ)はともに素直(すなお)で、文章に書きあらわしますと上古文字はどのような楷書を用いたならばよいのか困ります。すべて上古の訓文字を用いて記述しますと、楷書の語意と上古の訓文字の語意が一致しない場合があり、すべて上古の音文字を並べて楷書に変換して意味が理解できるようにしますと楷書に訳した文章がたいへん長くなります。それゆえ、『古事記』上巻では、ある場合には一句の中に音と訓を交えて用い、ある場合には一つの事柄を記すのに、すべて訓を用いて書くことにしました。そして辞理(じり)がハッキリ見えないときには正しい字源が保存される上古の音文字を注に付けることにし、事柄の意味・状況が容易に理解できる場合には注をつけませんでした。また姓(うじ/)において楷書の「日下(にちげ)」と上古文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、名における楷書の「帯(たい)」は上古文字の「多羅斯(たらし)」と同義ですので、このような類例は従来の記述に従って改めませんでした――と記述する。
 だから安万侶が証言するように、56世紀に漢字を習得したとする定説以前においてすでに上古文字が実在し、上古文字と楷書とを正確に変換できる「辞理」もまた実在したことになる。
 その証拠にわがブログ「日本国誕生史の復興・5」にて、わたくしは安万侶が証言する「辞理」に則(のっと)って「淤能碁呂」の上古の音文字は「卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理」を意味したことを証明した。『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1点の〔誤読=文献批判〕を加えないで忠実に解釈すれば、「淤能碁呂」という4字の上古文字は「卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理」を意味したことが【科学】が成立して歴史上の事実であったことになる。

上記したように、『古事記』序の末部で安万侶は「すなわち辞理の見えがたきは、注をもって明らかにし」と「辞理」について説明する。
 「辞理」とは「銀河各部の形状から作られた文字原理」であった。だから安万侶は「上古文字と楷書は共に夜になると見える銀河各部の形状から作られたのであるが、『古事記』上巻の原典に書かれていた上古文字を変換した楷書の語がどうしても明確にならない場合には、正しい字源が残る上古文字を注に付けて明らかにした」と説明したのである。
 「銀河」のまたの名は「銀漢」である。ゆえに、「漢字」は「銀漢から作られた文字」の略称である。したがってわが国に習得されていた原初漢字・上古文字と3世紀の中国と朝鮮半島の楷書は、両者共に銀河各部の形状から作られた図書であった。ゆえに、「銀河」は「辞理」すなわち「辞典」であった。だから、遮(さえぎ)る障害物がなくて銀河各部の形状がよく見える大海(玄界灘)に面した伊都国の港では、〔銀河〕を〔辞典〕にしてわが国の原初漢字(上古文字)と中国・朝鮮半島で用いられていた楷書を正しく変換していたのである。
 わが国の原初漢字(上古文字)と中国・朝鮮半島の楷書は共に銀河の各部の形状から作られたことは、わがブログ「日本が滅びる」の1回~167(2013625日~2015429)で証明した。
 銀河から作られた文字は漢字だけではない。古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた銀河から作られた。この事実はわがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27(2015514日~同年1229)で証明した。古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字などの祖先(ルーツ)となる。現在、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなどの世界70ヵ国以上で公用語の文字となるABCアルファベットの祖先は古代エジプト文字である。古代エジプト文字は『古事記』序で安万侶が「辞理」と記載した、この「辞理」にもとづいて作られた。
 だから漢字圏と合わせるとおそらく世界の8割~9割の人々が用いる文字は、安万侶が「辞理」と記した原理にもとづき銀河各部の形状から作られたことになる。

わが国には今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)には夏音(かおん)文字が伝来し、夏音文字は『魏志』倭人伝の「卑弥呼」はじめ人名・小国名・官職名として現存し、『古事記』上巻の随所に〔音〕や〔訓〕という注が付く11音文字となって多数現存する。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習う」つまり「壬申の乱の後、稍々(やや)夏音文字を復興することにした」と中国王朝に告げた――と記す。その10年後の712年に完成した『古事記』上巻の随所に、天照大御神・大和朝廷が後世に絶対に伝えてはならぬと厳重に禁じたタブーの歴史、つまり高尾山古墳で伊耶那美命が〔愛〕の理念を提唱して日本国が誕生した淤能碁呂島の聖婚の歴史を伝えるために夏音文字が多数記載されることになった。
 安万侶が『古事記』序で説明した「上古文字」は、約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に伝来した「夏音文字」であったのである。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社)9頁終わりの2行目から10頁にかけて「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」と記載する。
 ゆえに、白川静博士は「中国で現存する上古音よりもわが国の『魏志』倭人伝や『古事記』上巻や『万葉集』などに残る字音のほうが古い字音である」と指摘していることになる。
 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)30頁で――卑弥呼の発音について」と題する注で「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる――と指摘する。したがって、白川静著『字統』は中国に現存する最古の上古音の「ピミカ」よりも「ヒミコ」の字音のほうが古いと指摘するものとなる。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は今から約4050年前に伝来した夏音文字の字音である。秋田県鹿角(かづの)市に所在する後期縄文時代初頭のわが国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字の学芸が伝来した痕跡(こんせき)が現在も明確に残る。学者たちは「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むゆえ、夏音文字は確かに実在したことになる。
 わが国に現存することになった夏音文字は今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した辞理を伝え、倉頡が定めた〔3つの掟〕を厳重に守る文字であった。倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、反体制側の人々が銀河各部の形状から文字を作った学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると考えた。ゆえに、倉頡は下に列記する〔3つの掟〕を破った者には天罰が下されて即刻に死刑に処せられると定めた。
■倉頡が定めた3つの掟
1
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた事実を暴露した者
2
 文字を容易に習得するために、文字作成銀河の各部に名称を付けた者
3
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 倉頡の辞理(文字作成原理)の発明によって万物の情(イメージ)に類似するように多数の文字が、下記の銀河の範囲から作られた。
Ginga


 上記の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。
 上記の倉頡が定めた2番目の掟によって、文字作成銀河の各部の名称は存在しない。日本国誕生史の真実を解明するには、文字作成銀河の各部の名称が必要となった。ゆえにわたくしは下記のごとく、文字作成銀河の各部の名称を定めた。
Photo
(C) 2016 OHKAWA

 27回にわたるわがブログ「古代エジプト文字の字源」で証明したように、古代エジプト王朝も倉頡と同様に上記の1番目と2番目の掟を厳重に定めて――文字を銀河各部の形状から作った学芸を独占管理し、銀河各部の名称を付けることを厳重に禁止した。

◆わが国では、上記の3番目の掟によって夏音文字を記した資料は遺跡から出土しないことになった。しかし、約3300年前から出現した甲骨文字から中国では3番目の掟が破られた。ゆえに甲骨文字以後に出現した楷書は書いた文字を消せなくてもよい文字であったため、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻と日本建国の〔愛〕の理念を伝える『万葉集』などの古文献における夏音文字は楷書で表記されて現存することになった。
 上記したように『魏志』倭人伝が「倭の易卜に用いる辞は甲骨文字(令亀の法)のごとくであった」と説明する文字は、倉頡が定めた厳重な掟のために書いた文字の資料が遺跡から出土しない甲骨文字が出現する以前の原初漢字の夏音文字であったのである。
 わが国には夏音文字が書かれた資料は出土しないことになったが、先人たちは倉頡の3つの掟によって「文字作成銀河の各部の形状が字源・初文(最初の文字の字形)・原義」であった事実を後世の人々が科学的に知ることができる遺跡・地名・文化・風習など多数残した。
 夏音文字の学芸体系の基軸はA図右上に配する[]([]のキャッチ)であった。〔[]のキャッチ〕を復興すると、古文献(『魏志』倭人伝、『古事記』上巻、『万葉集』や中国の歴史書など)に記載された夏音文字が実在した事実が直(ただ)ちに明白となる。だから、先人たちは〔[]のキャッチ〕ならば作成できるが、B図に示す〔天の北極の高度で緯度換算する方法〕では絶対に作成することができない下記に列挙する遺跡・史跡・遺物を残した。
N131_2
(C) 2016 OHKAWA


 前述した(1)大湯環状列石、(2)2008年に発見された230年頃~250年頃に築造された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)遺跡、(3)高尾山古墳が完成した約10年後の260年~290年に作成された静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵、(4)京都市に所在する金閣寺の庭園、(5)京都市に所在する竜安寺(りょうあんじ)の石庭、(6)滋賀県彦根市の行政区域をあらわす地図の形として現存する1602年~1622年に徳川家康が命じて井伊氏彦根藩が作った3千万坪の大鳥の地上絵、(7)京都市に所在する徳川幕府に命令された小堀遠州が1623年~1645年までに作った桂離宮の庭園、(8)京都市に所在する江戸幕府が1655年頃~1659年に作った修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)の庭園、(9)1738年に定めた皇室の最大の神事である大嘗会(だいじょうえ)における天皇即位式に用いられる王冠の菅蓋(かんがい)の意匠など、これらの史料によって〔[]のキャッチ〕を復興すれば夏音文字が実在したことが寸時(すんじ)に明白となる。
 これらの遺跡や遺物によって、()漢字は文字作成銀河から作られ、わが国には夏音文字は確かに伝来し、()夏音文字の遺跡・高尾山古墳は上記の8つの夏音文字の遺跡・遺物と直接的に結びついて『古事記』上巻の記事は〔愛〕の理念の基(もと)に建国された日本国誕生の真実の歴史を伝えるものであることを科学的に明確に証明される。したがって、()〔誤読〕を駆使(くし)して夏音文字の学芸を抹殺した現在の学者たちの『魏志』倭人伝と『古事記』上巻を研究した意見は、当然、空理空論ということになる。
 前述したように〔[]のキャッチ〕を復興すれば、[]をキャッチして築造された沼津市の高尾山古墳によって『古事記』に記載された伊耶那岐命と伊耶那美命説話の記事はまるで1カ月前の出来事のごとく鮮烈によみがえる。

『古事記』上巻の伊耶那岐命は、『古事記』中巻の第9代開化天皇であった。開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の竹野比売(たかのひめ)と結婚された」と記述する。
 開化天皇が住んだ宮殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」と「伊耶那岐命」「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」は合致する。だから「伊耶那美命」の本名は「竹野比売」であった。
 C図の卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理に示すように「伊邪(いや/伊耶)国」は竹野比売の出身地の「丹波」であった。ゆえに、竹野比売は「伊耶国出身の美しい女王」であるから人民に「伊耶那美命」と愛称されたことになる。
N132


 

 なお、上記のC図は前述したところの夏音文字(上古文字」の「淤能碁呂」を意味する「卑弥呼王朝が制定した転回日本地理」である。
 竹野比売・伊耶那美命は『魏志』倭人伝末部に登場する倭女王に就任した「壱与(いよ)」でもあった。
 『魏志』倭人伝末部に登場する武将の「載斯烏越(そしあお)」が伊耶那岐命、後の開化天皇であったのである。
 「丹波」は「伊耶国」、「伊耶那美命」が「壱与」、「伊耶那岐命」が「載斯烏越」であることは、上記した辞理によって証明できる。次回は、この証明をおこなう。

2008年に発見された高尾山古墳の出現によって、日本人にとって最も大事な日本国誕生史の真実は【科学】が成立して完全証明できるようになった。しかし、日本国誕生史は白石以来の約290年間にわたる学者たちの〔誤読の空論〕によって、このままだと冤罪(えんざい)死刑にされて抹殺されるかのごとくの状況である。
 
[]のキャッチ〕を復興すれば、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島の聖婚説話に記述された日本国誕生史の真実は天地創造の銀河ロマンの時空に天翔(あまがけ)る“愛の不死鳥”の姿となって蘇(よみがえ)り永遠の歴史となって抹殺されないですむ。

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