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2016年6月 4日 (土)

日本国誕生史の復興・12

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(11)
 倭王朝に憎まれた日本建国の〔愛〕の理念


280289年に著作された『魏志』倭人伝末部の魏の正始(せいし)八年・247年の記事は「倭女王の卑弥呼と狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった。倭王朝は載斯烏越(そしあお)等を朝鮮半島に所在した魏の出張機関の帯方(たいほう)郡政庁に派遣して、倭軍と倭軍との戦況を説明した」と記述する。
 この載斯烏越の記事の数行の後に、さらに『魏志』倭人伝は下記のごとくの記事がある。
 「卑弥呼は以(すで)に死んだ。大きな墓を作り、円墳部の直径は百余歩(150)。卑弥呼の墓に奴婢(ぬひ)を百余人殺す徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。この徇葬を国中の人民が憎悪して卑弥呼の後継者となった倭の大王に服従せず、倭王朝と人民は互いに戦った。倭王朝は千余人の反乱者たちを殺した。また倭王朝は卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女として13歳で王(つまり小国・日本の女王)に就任した壱与(いよ)を倭女王に立てると、国中に拡大した反乱は遂(つい)に終息(しゅうそく)した。」
 わがブログ「日本国誕生史の復興」と10回と11回にて解説し証明したように、「載斯烏越」は「伊耶那岐命」であり「後の開化天皇」であり、「壱与」は「伊耶那美命」であり開化天皇の正妃の「伊耶国(丹波)出身の竹野比売(たかのひめ)」であった。

わがブログ「日本国誕生史の復興」が前回までで証明したように――『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記述された伊耶那美命と伊耶那岐命が結婚した場所は、静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山古墳である。高尾山古墳は2008年に発見された東国(東海東部・関東地方)最古で最大の古墳であり、足高山(現在の愛鷹山)の麓に所在する。
 足高山は紀元前3世紀に生存した徐福(じょふく)が蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の霊薬が採取できると思い込んだ蓬莱山であった。
 
 『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は「秦(しん)の始皇帝に命令されて徐福が童男女(男女の若者)を率いて蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬を求めて海を渡ったが、手に入れることができずに東鯷人(とうていじん)国に定住した」と記述する。
 日本国誕生史は、230年に呉の遠征軍が足高山・蓬莱山に目指した東鯷人国遠征から始まった。A図に東鯷人国の範囲を示した。
N181
(C) 2016 OHKAWA
 

 中国の戦争史で有名な208年の赤壁(せきへき)の戦いで、2万の呉軍は40倍の80万の魏軍を撃破して大勝利した。『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「230年、呉の皇帝・孫権は東鯷人国への遠征を命じた。このときの武装兵は1万」、また「呉の1万の遠征軍は8割から9割の兵を失って壊滅(かいめつ)した」と伝える。呉の遠征軍は、B図に示すように呉の港から出発して東鯷人国の足高山・蓬莱山に目指したが、宮古島から硫黄島までの広大な太平洋を横断できず、台湾沖で壊滅した。この呉の遠征軍の壊滅の歴史に因(ちな)んでであろうか、中国では「台湾」を「蓬莱仙島」と呼ぶ。
 倭女王卑弥呼と東鯷人国王は230年に決行した呉軍の東鯷人遠征の情報を手に入れていた。その証拠に、高尾山古墳の主体部から230年頃に作られた土器が発見されている。当時の呉の人口は魏のおよそ50パーセントぐらいであったと考えられる。ゆえに、卑弥呼と東鯷人国王は呉軍が東鯷人国の人民を俘(とりこ)にする、人狩りのために必ず再度遠征するにちがいないと考えた。赤壁の戦いで2万の兵で80万の魏軍に勝利した呉軍と戦っても勝ち目がまったくないと考えた東鯷人国王は、卑弥呼が統治する倭国に属することを決意して倭からの防衛軍の派遣を要請した。かくして東鯷人国は滅び、A図に示すように東鯷人国は倭国の一員となる小国「日本」と名を変えて誕生した。この小国・日本の防衛の先頭に立つ呉の遠征軍の呪的(じゅてき)戦力を奪う魔女である巫女(ふじょ)王に伊耶那美命が選ばれ、軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれた。
 高尾山古墳やその出土遺物はじめ、C図に示す高尾山古墳周辺の約45ヵ所の遺跡と9ヵ所の前期古墳などが『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話の記事に合致して日本国が誕生した歴史を明確に伝えるように――伊耶那岐命と伊耶那美命が高尾山古墳にておこなった結婚式は日本軍が呉の遠征軍に勝利する呪的戦力を祈願するための神事(しんじ)であった。
N182

(C) 2016 OHKAWA
 

 伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式は聖なる神事であったゆえ、呉軍に勝利する呪的戦力を日本軍が得るためには決められていた式次第を伊耶那岐命と伊耶那美命は必ずまもらなければならなかった。
 ところが「日本国誕生史の復興・7」で証明したように、伊耶那美命は神事の式次第をまもらなかった。淤能碁呂島の聖婚説話は――結婚式で、伊耶那岐命が唱えるより先に伊耶那美命は「なんとまあ、すばらしい大夫(ますらお)でしょう」と唱えた。ゆえに、先を越された伊耶那岐命は「女が男より先に唱えたのは良くない」と言った――と記す。
 伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定める決意を表明するために、式次第をまもらなかった。伊耶那美命は、結婚後も人民に〔愛〕を最も尊重するように熱心に説いた。この伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、高尾山古墳の主体部から出土したD図に示す勾玉(まがたま)とE図に示す後漢製の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はさいきょう)の絵柄で知ることができる。
N183
 

 D図に示すように、高尾山古墳から出土した勾玉の形は胎児の姿に相似する。E図の後漢製の破砕鏡の絵柄も、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念をあらわした。山上憶良(やまのうえのおくら)の代表作である『万葉集』803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何(なに)せむに 勝(まさ)れる宝 子にしかめやも」は、D図の勾玉とE図の後漢製の破砕鏡の絵柄であらわされた日本建国の〔愛〕の理念を詠()むものであった。
 だから、このブログ冒頭に記したように『魏志』倭人伝の末部に「卑弥呼の墓を作る時に百余人の奴婢を殺した徇葬を憎悪する人民の反乱は国中にひろがったが、壱与(伊耶那美命)が倭女王に就任すると反乱は遂に終息した」と記述されることになったのである。
 この記事が明確に示すように、倭女王となった〔愛〕の女王の伊耶那美命・壱与ならば必ず徇葬は禁止するにちがいないと人民は信頼して武器を捨てた。ゆえに倭国の国中にひろがった大乱は一気にしずまったのである。

わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回と前回の11回で証明したように、わが国には銀河各部の形状を文字(字源・字形の原形・字義)と定める夏音(かおん)文字が約4050年前の後期縄文時代初頭に伝来していた。小国・日本でおいて伊耶那美命はおよそ10年間〔愛〕の国作りに情念を傾けた。高尾山古墳の周溝(しゅうこう)やその周辺から近江や北陸や東海西部の土器が発見されたゆえ、倭の近江や北陸や東海西部の兵たちが小国・日本に派遣されたことになる。伊耶那美命が小国・日本を去るまでの10年余の間に、倭国から日本国に派遣された近江や北陸や東海西部の青年王子や豪族や巫女(みこ)や覡(かんなぎ/神官)たちが密(ひそ)かに夏音文字で書いた文書を送ったにちがいなく、日本建国の〔愛〕の理念は彼らの故郷に伝えられた。この情報は銀河各部の形状を文字とする夏音文字の学芸を有する倭国における王や女王や氏族の長や豪族や巫女や覡などによってさらに拡大して、伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念は倭国の隅々までひろまった。また、遠征軍が襲来するという噂(うわさ)で小国・日本と倭国は脅(おび)え漂える不安定な状況であったゆえ、兵士や人民の口々によって日本建国の〔愛〕の理念の情報は倭国の国中までもひろまったのである。だから、〔愛〕の女王・伊耶那美命が倭女王に即位すると残酷な徇葬に反対する倭国の大乱は一気に沈静化した。
 ところが、倭王朝は伊耶那美命が唱えた〔愛〕理念を憎悪した。というのも倭王朝は、人民が徇葬に反対する大乱は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念に誘発(ゆうはつ)されておきたと考えたからである。つまり倭の人民たちは伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念に憧れたため、人民は反乱をおこしたと倭王朝は伊耶那美命を批判したのである。

 
『古事記』が編纂(へんさん)された8世紀初頭、日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し敵視した天照大御神を朝廷は皇祖(皇室が最も偉大な先祖)と定めて崇拝した。712年に、『古事記』は完成した。編纂スタッフは『古事記』を天皇が献呈を許可する正史にするために、朝廷の欲求(よっきゅう)にこたえて天照大御神を批判する記述を禁止して朝廷が喜び満足するように伊耶那美命や伊耶那岐命や日本建国の〔愛〕の理念を批判する記事を挿入(そうにゅう)した。これらの伊耶那美命や伊耶那岐命を批判する記述は偽(いつわ)りの記述であって、編纂スタッフはこの偽りの記述でほんとうの史実を伝えようとした。この事実に相違する偽りで真実を伝える表現方法は「反実仮装(はんじつかそう)」と呼ばれる。その証拠に、『古事記』序の初頭には「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)となる」という文で「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊が、すべてのものの生みの親となった」とあらわし、「皇祖の天照大御神よりも伊耶那美命と伊耶那岐命のほうが偉大である」と明記する。〔反実仮装〕という苦肉(くにく)の策(さく)の表現方法は、紀元前5~同4世紀に生存した蓬莱の神仙=老子の教えを説く『老子』上篇(道経)にて考案されていた。
 『古事記』上巻には〔反実仮装〕の記述が挿入されていたので、淤能碁呂島の聖婚説話において――そこで伊耶那岐命と伊耶那美命は相談して「私たちが生んだ子の同緯度の水蛭子(ひるこ)・大瀬崎と淡島は良くなかった。それゆえ倭王朝(天つ神のみもと)に参上して、このことを申し上げよう」と決意して、倭王朝に指示を仰いだ。ここに倭王朝は鹿の肩の骨を灼()いて裂け目で神意を知る卜占(うらない)をおこなった結果、「女が先に唱えたのが良くないのだ。また淤能碁呂島の儀式をやり直すようにせよ」と命令した――と記述された。
 上記した「伊耶那美命が伊耶那岐命より先に唱えた行為」は日本建国理念を〔愛〕と定めるためであったのである。編纂スタッフの『古事記』作成目的は、後世に日本建国の〔愛〕の理念を伝えることであった。だから、上記した「子の水蛭子・大瀬崎と淡島は良くない」や「女は先に唱えたのは良くない」という批判記事は偽りの記述で事実を伝えようとした表現方法の〔反実仮装〕であったことになる。(水蛭子・大瀬崎と淡島については、わがブログ「日本国誕生史の復興・8」を参照していただきたい)
 この〔反実仮装〕の記事は「ほんとうは日本建国の〔愛〕の理念こそが最も偉大である」という編纂スタッフの本音を伝えるものであった。なぜならば、『魏志』倭人伝の末部には「卑弥呼の墓を築造した時の徇葬を憎悪する人民の国中にひろがった反乱は、壱与・伊耶那美命が倭女王に就任すると遂に定まった」という記事が存在するからである。

『魏志』倭人伝の末部の載斯烏越・伊耶那岐命が登場する正始八年(247)の記事は「帯方郡太守の王頎(おうき)は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を載斯烏越一行が帰還する船に便乗(びんじょう)させて倭に派遣した。(中略)。張政は檄(げき/軍書)を作って告喩(こくゆ)した」と書く。
 上記したように、伊耶那岐命(載斯烏越)は倭国と敵対する狗奴国との戦況を説明するに帯方郡政庁を訪問した。だから張政が作った檄文(げきぶん)は、倭女王壱与(伊耶那美命)に狗奴国を討伐する正当性を告げ喩(さと)すものであったことになる。
 伊耶那岐命・載斯烏越が帯方郡政庁に到着する先年の245年か246年ころ、馬韓(ばかん)の首長たちが帯方郡の軍事基地を攻撃して太守の弓遵(きゅうじゅん)を戦死させた。魏との軍事同盟を結ぶ倭においては徇葬を憎悪する大乱とこの大乱を好機とする狗奴国の攻撃が加わったために、馬韓の首長たちの反乱を鎮圧(ちんあつ)するための軍を倭は朝鮮半島へ派遣することができなかった。魏との軍事同盟では帯方郡を攻撃する反乱を起きた時に倭は軍は派遣しなければならなかった。それゆえ帯方郡太守の弓遵が戦死した時に倭軍を派遣できなかった約束違反を弁護するために、伊耶那岐命は帯方郡太守に着任した王頎に倭と狗奴国との戦況を説明したのである。王頎の最も重大な任務は倭軍と協力して魏の背後の脅威となる朝鮮半島において反乱が起きないようにすることであったので、倭軍が朝鮮半島に派遣できない障害(しょうがい)となる狗奴国は滅亡させなければならなかった。そこで軍事同盟を違反した非は一方的に倭国にあるので狗奴国討伐は倭国自らだけでおこなうことを要求して、帯方郡使節の張政一行を倭に派遣して軍事同盟の約束を果()たしたのである。だから倭国に到着した張政は、早速、檄文を作って伊耶那美命に狗奴国討伐を告喩した。

 しかし、伊耶那美命は張政の告喩をきっぱりと拒絶して狗奴国の男王の卑弥弓呼との話し合いによる平和的解決を強く望んだ。
 これゆえ『魏志』倭人伝は「国中遂に定まる」という文の後に、「政等が、檄を以て壱与を告喩す」という――張政たちが二度目の檄文を作って壱与に狗奴国討伐を請求したという記事が存在する。
 倭王朝は魏との軍事同盟の約束を守るために伊耶那美命の意思を無視して、狗奴国を討伐する魔女の壱与の代役に天照大御神を就任させた。魏との軍事同盟の約束は違反することができないと考えた伊耶那岐命は、倭軍と小国・日本軍を指揮して狗那国を滅ぼした。ゆえに伊耶那美命は「「夫は雄男(おお)しすぎる」と嘆いた――と詠()む和歌を、661(斉明天皇7)に皇太子の中大兄(なかのおおえの)皇子(後の天智天皇)が作っている。
 狗奴国討伐を詠む中大兄皇子が作った和歌は『万葉集』13番の長歌と、反歌(はんか)14番と15番の短歌の二首である。
 『古事記』上巻は、伊耶那岐命と伊耶那美命は二度も淤能碁呂島の聖婚をおこなったと記述する。1回目の聖婚は沼津市の高尾山古墳でおこなわれ、二度目の聖婚は伊耶那岐命が狗奴国討伐した後に兵庫県南部の淡路島でおこなわれた。『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話においては狗奴国が討伐された歴史が省略された。狗奴国討伐の歴史を明らかにするために、次回は『万葉集』13番~15番の三首について解説する。

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