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2016年6月 7日 (火)

日本国誕生史の復興・13

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(12)
 伊耶那美は狗奴国討伐を拒絶した証明


前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・12」で指摘したように、『魏志』倭人伝の末部に帯方郡使(たいほうぐんし)の張政(ちょうせい)が作った狗奴(くな)国討伐を告喩(こくゆ)する檄文(げきぶん/軍書)が二度も記載されている。この事情は――倭女王の伊耶那美命・壱与が狗奴国討伐を拒絶(きょぜつ)し、狗奴国の男王と話し合いによる平和的解決を強く望んだからである。このため、魏との軍事同盟を重視する倭王朝は伊耶那美命の意思を無視して、狗奴国を討伐するための魔女・壱与の代役に天照大御神を就任させた。伊耶那岐命は魏との軍事同盟に反することができないと考えて、倭軍と小国・日本軍を指揮して狗奴国を滅ぼした。
 この狗奴国を討伐した後の出来事が、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の2度目の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記述された。1回目の聖婚は静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳でおこなわれた。高尾山古墳は東国最古の最大の古墳である。2回目の聖婚は、『古事記』に記載されているように兵庫県南部の淡路島でおこなわれた。この2回目の聖婚は、伊耶那美命が四国の4小国と4守護神の名を考えた「国生み」説話でもある。「優れた国々の名を頭で考えて生む」、これを「国生み」という。だから「国生み」は「伊耶那美命のおなかから四国の国土が生まれた」と意味するものではない。
 狗奴国討伐から約400年後、狗奴国討伐の歴史は661年に皇太子の中大兄(なかのおおえの)皇子(後の天智天皇)が作った『万葉集』13番の長歌と反歌(はんか)14番と15番の二首の短歌に詠まれた。

661(斉明天皇7)春正月、天皇は船団を組んで、朝鮮半島の新羅(しらぎ)遠征のために西に向かった。114日に、伊予の熟田津(にぎたつ/愛媛県松山市北部の港であろう)に到着している。この遠征途上の播磨の海岸を通過した時、皇太子の中大兄皇子は船中で『万葉集』13番の「中大兄の三山(みつやま)の歌一首」と題する長歌と、反歌として2首の短歌を作った。題詞にある「三山」は、A図に示す「大和三山」である。
 『古事記』上巻の伊耶那美命の死と火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)説話は、伊耶那美命の臨終場所を「香山(かぐやま)の畝尾(うねび)の木本(このもと)」、また「伊耶那岐命は伊耶那美命のなきがらの枕もとを這()いまわり足もとを這いまわって泣いた」と記す。
 ゆえに、A図に示す「天の香具山」は「伊耶那美命」を象徴し、「畝傍(うねび)山」は「伊耶那岐命」を象徴し、「耳梨山(みみなしやま)」は「天照大御神」を象徴した。
N191
(C) 2016 OHKAWA

 

 『万葉集』13番 中大兄の三山の歌
 「香具山は 畝傍雄男しと 耳梨と 相争(あひあらそ)ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
 上記の『万葉集』13番を現代語に訳すると下記のごとくなる。
 「帯方郡の使者張政が軍書の檄文をもって狗奴国討伐を告喩したが、天の香具山・伊耶那美命は狗奴国の男王との話し合いによる平和的解決を強く望んだ。しかし、畝傍山・伊耶那岐命と耳梨山・天照大御神は魏との軍事同盟を重視して狗奴国討伐を主張した。それゆえ伊耶那美命は、夫は雄男しすぎると嘆いた。このように神代の伊耶那美命の正妃の伊耶那美命と第二后の天照大御神は争った。昔がそうであったように、現代の吾と弟の大海人(あおあま)皇子(後の天武天皇)は額田王(ぬかだのおおきみ)を妻にしようとあらそっている。また、新羅とわが国は、百済(くだら)をめぐって争うことになった。とかくこの世は争いごとがたえないものだ。」
 わがブログ「日本国誕生史の復興・10」で『魏志』倭人伝の末部に帯方郡政庁にて倭と狗奴国の戦況を説明した載斯烏越(そしあお)は伊耶那岐命であり、第9代開化天皇であることを証明した。『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇の正妃は丹波出身の竹野比売(たかのひめ)」と記す。そして『魏志』倭人伝に列記された小国「伊耶国」は「丹波」であるゆえ、竹野比売は「伊耶国出身の美しい女王」ということで人民に「伊耶那美命」と愛称された。
 『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇の第二后は継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)である」と記す。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命(開化天皇)の父の孝元(こうげん)天皇と結婚したゆえ、伊耶那岐命の継母となる。孝元天皇と伊迦賀色許売の間に生まれた皇子は、第10代崇神(すじん)天皇である。『古事記』の開化天皇紀は「御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)つまり崇神天皇を伊耶那岐命の子」と記すが、崇神天皇は伊耶那岐命の実子ではなく養子であったことになる。また、伊耶那岐命にとって崇神天皇は異母弟であった。伊耶那美命の没後、伊耶那岐命は崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命と離縁した。ゆえに伊迦賀色許売命は、伊耶那岐命の祖父の孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の名を受けついだ。この「伊迦賀色許売命、後の倭迹迹日百襲姫命」の通称がいわゆる「天照大御神」であった。したがって、A図の「耳梨山」は「張政の檄文の告喩に従って狗奴国を討伐した魔女の天照大御神」を意味し、この「天照大御神」は「伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命」であった。

13番の長歌の反歌の14番の短歌は、下記のごとくである。
 「香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来()し 印南国原(いなみくにはら)
 現代語に訳すると「狗奴国と平和的解決を望んだ香具山・伊耶那美命と狗奴国を滅亡すべしと耳梨山・天照大御神が争った時、阿菩(あぼ)の大神が見に来たという、印南国原はここだよ」
 『万葉集』13番の長歌のもうひとつの反歌の15番の短歌は、下記のごとくである。
 「わたつみの 豊旗雲(とよはたくも)に 入日(いりひ)さし 今夜(こよい)の月夜(つくよ) さやけかりこそ」
 現代語に訳すると「大海原の、その空の豊かな旗雲に入日がさしている。今夜の月は、さわやかであるにちがいない」
 14番の和歌の結句(けっく)の「印南国原」は、後世に「印南野(いなみの)」と呼ばれた。「印南野」は「現在の播磨平野の東部の、兵庫県明石市から加古川市にかけての平野」であった。つまり「伊弉諾(いざなぎ)神宮より北側の明石市から加古川市の平野」が「印南野」でありまた「印南国原」であった。
 14番の短歌の現代語訳に登場させた「阿菩の大神」について、『播磨国風土記』は揖保(いぼ)郡上岡の里について「出雲の国の阿菩の大神が大和の国の三山が争っていると聞きつけて、これを諌止(かんし)しようと思って、上って来た時に、ここ(兵庫県龍野市の神岡町)に到着すると、すでに争いが終わったと聞いて、その乗っていた船を覆()せて坐したから、地名は神阜(かみおか)となった。阜(おか)の形が転覆した船に相似する。」と説明する。
 B図に示すように、「印南国原」は〔船首〕のような形となり、『播磨国風土記』の阿菩の大神説話に登場する「神阜(兵庫県龍野市神岡町)」は〔船尾〕に相当する箇所となる。B図上部の地域を上南下北にした地図が、C図である。
N192
(C) 2016 OHKAWA
 

 B図とC図が示すように、明石市から龍野市までの播磨平野は転覆した船の形に相似する。したがって、阿菩の大神説話は「播磨平野」を「転覆した船の形に相似する」と表現するものであったことになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の4回と5回で詳細に証明したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話における「伊耶那岐命と伊耶那美命が天沼矛(あめのぬぼこ)をかきまわしておこなった」と記述する淤能碁呂島の儀式は――D図に示すように〔呉の遠征軍の船が暴風雨で渦巻く荒波にもまれて転覆して全滅することを祈願した儀式〕であった。この〔呉の遠征軍が全滅する強大な呪力(じゅりょく)〕は〔鳴門の渦潮〕があらわした。というのも、E図の左側に示すように卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を成立させた沖ノ島と神津島の緯度線上に鳴門の渦潮が位置するからであった。
N201
(C) 2016 OHKAWA
 

 E図の転回日本列島地理は『魏志』倭人伝の15ヵ所全部の方位記事に1点の〔誤読(文献批判)〕を加えなければ【科学】成立して、卑弥呼王朝が制定した錯覚の地理であったことが事実となる。
 B図・C図に示した播磨平野の転覆した船の形とD図の淤能碁呂島の儀式における転覆する呉の軍船の形は合致する。ゆえに、「阿菩の大神」は「死んだ卑弥呼の霊」であったにちがいない。
 15番の短歌の3句目は「入日さし」である。上記したように、崇神天皇の諱(いみな)には「入日」という2字が配せられる。『古事記』上巻の天照大御神と須佐之命説話の登場する「天照大御神」は「伊迦賀色許売命(倭迹迹日百襲姫命)が生んだ崇神天皇」である。つまり、大和朝廷の基礎を築いた「伊迦賀色許売命・崇神天皇母子」の通称が「天照大御神」であったことになる。ということは15番の短歌は狗奴国討伐との直接的関係性がとぼしいので、狗奴国討伐を詠む13番の長歌の反歌としてふさわしくない。このためであろう、15番の短歌の後ろには「右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず」という注が付く。

B図とC図の転覆した船の形に相似する旧国・播磨の播磨平野は、E図に示すように小国「巴利(はり)国」に所在する。E図の転回方位に則(のっと)って巴利国の〔北隣〕となる小国が「狗奴国」であった。つまり、「転覆した船の形に相似する播磨平野」は「魔女の天照大御神(伊迦賀色許売命)が祈って伊耶那岐命が指揮する倭軍に憑依(ひょうい)して狗奴国を滅亡させる呪的地霊(じゅてきちれい)」をあらわしたことになる。
 
 F図に示す「広島県東部・岡山県」が「狗奴国」であった。言い換えると「狗奴国」は旧国の「備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・備前(びぜん)・美作(みまさか)」であり、いわゆる「吉備(きび)地方」であったことになる。
N202
(C) 2016 OHKAWA


 G図に示すように、弥生中期から後期にかけて瀬戸内海地方や大阪湾にのぞむ地域に、H図の静岡県沼津市の高尾山古墳の北側の足高尾上(あしたかおのえ)遺跡群と同様の山丘上の集落が点々と所在する。
N203
(C) 2016 OHKAWA


 G図における点在する山上集落は一般に海上や平野を眼下に望む、眺望(ちょうぼう)のひらけた高地に所在する。これらの遺構(いこう)は、弥生集落の最も一般的なあり方である農耕中心の集落とは思えない特色を有する。つまりこの遺構は、H図の足高尾上遺跡群と同様の瀬戸内海海路を見張る軍事的な集落であったことになる。注目すべきはこれらの遺構が岡山県を包囲する陣形を示すことである――ゆえに、狗奴国の中心部は岡山県(備前・美作)であった。

 
 I図に示すように、香川県小豆島(しょうどしま)の地宜(ちぎ)=平面的に図化した地図の形は[(いぬ)]の側身形に相似する。ゆえに、小豆島も狗奴国であったことになる。[]は、J図に示す「ジャコウウシ」が意味した。「倉敷市から児島半島の地宜」は〔天敵のオオカミ()の襲来に気づいた群(むれ)から離れていたジャコウウシが群に向かって逃げる姿〕に見立てられた。
N211
(C) 2016 OHKAWA


 今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代、ジャコウウシは中国のツンドラ地帯に生息し、100頭以上の群れをなして行動したといわれる。ジャコウウシはオオカミに襲われると、頭を外側に向け、子どもを真ん中に隠して円陣を組む。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀には「黄帝軍が駐屯(ちゅうとん)する時、軍兵が円陣をつくって自衛した」という記事がある。したがって、黄帝軍はジャコウウシの円陣を真似(まね)して駐屯していたことになる。今から約4050年前の夏代初頭、わが国には夏音(かおん)文字が伝来し習得されていた。だから、ジャコウウシの知識を有していたのである。
 
 したがって、I図に示す〔小豆島〕が[]、〔倉敷市・岡山市周辺より北側の備前・美作の内陸部〕が[]の「円陣を組むジャコウウシ」に見立てられて小国名となった。

 
『魏志』倭人伝には「倭地には牛と馬がいなかった」という記事がある。[]の字源は「ジャコウウシ」、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。[]は「ジャコウウシ」、[]は「強大な力を有するジャコウウシ」を意味する。ゆえに、[][]は同じく「ジャコウウシ」を意味するが、[牛]は「ジャコウウシ」であるのに対して[奴]は「強大な力を有する、」という条件がつく「ジャコウウシ」であるから正確には同義ではないことになる。
 
 ジャコウウシは降り積もった雪の下から植物の根を掘り起こしては食べ、冬の吹雪(ふぶき)きに陽射しが薄暗くなったなかでも動きまわる働きものである。鉄製の刃先(はさき)のスキが発明されていなかった3世紀以前、人々は原始的な木製の刃先のスキで堅(かた)くなった地面を耕作し開墾(かいこん)しなければならなかった。ゆえに、「木製の刃先のクワで堅い地面を掘り起こすことができる、強大な力を有する18歳くらいの筋骨隆々の青年たち」は[]の字源の〔ツンドラの凍った堅い土を掘り起こす強大な力を有するジャコウウシ〕に見立てられた。これゆえ[]の字は「18歳くらいの青年」を意味することになった。
 
 ジャコウウシは有史以前には広く北半球の凍土(ツンドラ)地帯に分布したが、多くの地方で絶滅し現在は北極地方に生息する。中国では、夏代か殷代(いんだい)前半に絶滅したのではあるまいか。オオカミに襲われまた人間に狩猟されるとき、子を中心に隠して円陣をつくる習性が神聖視されてジャコウウシは聖獣(せいじゅう)となった。『説文解字』の[]の字源解説文の「牛、完全なるなり」は、「祭祀のときにささげる生贄(いけにえ)としてジャコウウシが完全である」とあらわすものであった。中国でジャコウウシが絶滅したのは生贄に用いられて乱獲されたことが一因であった。だから、「ジャコウウシ」は「生贄」を字義となる[][]の字源となった。『魏志』倭人伝の末部の「卑弥呼の墓を作るときに奴婢(ぬひ)百余人を徇(じゅん)じて葬った」という文中の[]は「木製の刃先のクワで堅い地面を掘り起こすことができるジャコウウシのごとく強大な力を有する18歳くらいの青年」を意味した。
 
 闘う2頭のオスは遠くの地点から全力で走って角(つの)で衝突し、押し相撲の両力士のごとく頭を低めて大きな角で強大な力を出して押し合う。だから、「すもう」は「角力」と表記された。わが国の相撲の始まりは「捔力(すまひ)」とされ、中国の「角力」に通じて「角力」となったと指摘される。しかし[]の古訓は「ちからくらべ(力比べ)」」であるゆえ、「捔力」の語源は「闘う2頭のオスのジャコウウシの力比べ」であったことになる。
 
 E図に示した倭の小国名に使用される字の頻度(ひんど)では、K図に示すように[]の字が最多となる。「狗奴国」、九州の「奴国」、四国の「奴国」と「烏奴(あな)国」、「弥奴(みな)国」「蘇奴(さな)国」、「華奴蘇奴(かなさな)国」、「姐奴(つな)国」、「鬼奴(きな)国」など9ヵ国の小国名に[]の字は用いられる。
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(C) 2016 OHKAWA


 次に頻度が多いのが「フタコブラクダ」を字源とする[]の字である。「対馬(つしま)国」、「投馬(つま)国」、「邪馬壱(やまい)国」、「斯馬(しま)国」、「邪馬(やま)国」の5ヵ国の小国名に配される。フタコブラクダは“砂漠の船”といわれるほど、砂漠に住む人々にとっては欠くことができない大切な家畜であった。『魏志』倭人伝は「対馬国と一大国のあいだの海の名は瀚海(かんかい)であった」と記述する。「瀚海」の初義は「ゴビ砂漠」であった。作家で詩人であった井上靖氏は「落日」という詩で――匈奴(きょうど)の人々が砂漠(平原)を旅していたときに死者が出ると深い穴を作って葬り、一匹のラクダを徇葬させてその血を墓所にそそいで人々は去った。雑草が生えて墓所の所在が判らなくなっても、翌年遺族たちはラクダを連れて砂漠をさまようと、ラクダが徇葬させたラクダの血を嗅()ぎ当てたので死者を供養(くよう)することができた――と指摘する。

 
 このような習性からフタコブラクダはL図右上に示す〔1分の差が測定できる[]をキャッチできる神秘的な視力の持ち主〕ということになり、フタコブラクダもまた聖獣となった。だから、L図に示す〔[]のキャッチ〕でE図の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と神津島の同緯度を測量して、日本列島地理は転回すると錯覚した卑弥呼王朝が所在した王国の名は[]の字が配される「邪馬壱国」であった。(学者たちは〔誤読=文献批判〕を用いて『魏志』倭人伝には確かに「邪馬壱国」と記されているが、「邪馬台国」が正しいと主張する)
N213



 上記したように、『魏志』倭人伝の末部は「卑弥呼の墓に百余人の奴婢を徇葬させた」と記す。「奴婢」の[]は「フタコブラクダのごとく優れた視力を有する13歳くらいの乙女」であった。現在にあっても13歳ぐらいの乙女たちは最も澄んだ瞳孔の持ち主である。ゆえに、13歳くらいの乙女たちはゴビ砂漠のフタコブラクダのごとく卑弥呼の墓に葬られる殉死者の「婢」に選ばれたのである

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