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2016年6月 9日 (木)

日本国誕生史の復興・14

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(13)
 二度目の淤能碁呂島の聖婚説話の解明
(1)

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話には、二度の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚が記述された。
 このブログ「日本国誕生史の復興」の2~8回までで証明したように、最初の聖婚は静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)の高尾山古墳でおこなわれた。この最初の聖婚は、呉の遠征軍を撃破(げきは)するために天と沼津市の足高山(あしたかやま)を祭って築造した高尾山古墳によって小国・日本軍に強力な呪力(じゅりょく)が憑依(ひょうい)されることを祈願した神事(しんじ)であった。それというのも、次のような経緯が存在したからである。
 『三国志』呉書孫権伝が記載するように、230年に呉の1万の遠征軍は東鯷人(とうていじん)国に所在する高尾山古墳の北側の足高山に目指したが、大海を渡れずに壊滅(かいめつ)した。倭女王・卑弥呼と東鯷人国王は、人狩り作戦のために呉軍は東鯷人国に再度遠征するにちがいないと思い込んだ。呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと思った東鯷人国王は、いままで独立してきたことをあきらめて倭国に属することを決意した。ゆえに東鯷人国は、倭の小国の一員となって国号は「日本」と改められた。呉軍を防衛する戦いの先頭に立つ日本軍の魔女として卑弥呼がひきいる巫女(みこ)界を代表として夏音(かおん)名の壱与(いよ)・伊耶那美命が選ばれ、日本軍の軍王(いくさのおおきみ)として夏音名の載斯烏越(そしあお)・伊耶那岐命が選ばれて小国・日本へ封(ほう)ぜられることになった。
 最初の高尾山古墳における聖婚は呉軍と戦って勝利することを祈願する神事であった。しかし決められた式次第をまもらず、伊耶那美命は伊耶那岐命が唱えるより先に「なんとまあ、すばらしい大夫(ますらお)でしょう」と唱えた。伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めるために、神事の式次第を守らなかったのである。

『魏志』倭人伝の末部が記述するように、卑弥呼が没すると百余人の奴婢(ぬひ)を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪する反乱が国中に拡大した。この大乱に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が、倭を倒さんとして戦争を仕掛けてきた。倭王朝は――伊耶那美命が小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めたことによって、〔愛〕に憧れる人民たちが徇葬を憎悪することになり、しばらく休戦状態であった狗奴国が攻撃するようになったために、倭王朝は崩壊の危機におちいった。すべて、このような災厄(さいやく)の原因は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念にある――と激しく非難した。これゆえ、倭王朝は伊耶那美命を倭女王に就任させて、責任のすべての伊耶那美命に負わせて国中にひろがった反乱と狗奴国の攻撃を鎮圧(ちんあつ)することを欲求した。
 『魏志』倭人伝が「壱与(伊耶那美命)が倭女王に即位すると、倭の国中の反乱は遂(つい)に定まる」と記すように、人民たちは伊耶那美命ならば徇葬を禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てたので、反乱は一気に沈静化(ちんせいか)した。わがブログ「日本国誕生史の復興」の12回と13回で証明したように、伊耶那岐命は狗奴国討伐を反対した。しかし、倭王朝は伊耶那美命の狗奴国討伐反対意見を無視して、天照大御神を狗奴国討伐の魔女・壱与の代役に立て、小国・日本の軍王の伊耶那岐命が指揮して狗奴国を滅ぼした。この狗奴国討伐については、『古事記』の淤能碁呂島の聖婚説話では省略され記述されていない。
 倭王朝は、狗奴国討伐を拒絶した伊耶那美命を非難して倭女王退位と国家的事業の神事である高尾山古墳の聖婚で結ばれた伊耶那岐命との離縁をせまった。このような倭王朝の身勝手(みがって)なご都合主義の態度に伊耶那岐命は立腹(りっぷく)し、それよりも何よりも伊耶那岐命は伊耶那美命を深く愛していたので倭王朝と激しく対立した。伊耶那岐命は倭女王を退位しようとする伊耶那美命を説得して、A図に示す伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市多賀740)で結婚式をおこなった。
N221
(C) 2016 OHKAWA
 

 ゆえに二度目の淤能碁呂島の聖婚は国家的事業の神事ではなく、二人が真の愛で結ばれる私的な結婚式であった。また淡路島での結婚は倭国の国作りの柱を日本建国の〔愛〕の理念に定めるという決意を表明するものであった。それというのもこの結婚式は、B図の〔愛〕をあらわす〔タンチョウツルの求愛ダンス〕に則(のっと)っておこなわれたからである。
 『古事記』上巻は「伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚して、淡道之穂之狭別島(あわぢのほのさわけのしま)を生んだ」と記述する。この文は「伊耶那岐命と伊耶那美命が伊弉諾神宮にて結婚して、倭の国作りの柱を日本建国の〔愛〕の理念と定めた」と意味した。A図に示すように、淡路島の南部には諭鶴羽(ゆづるは)山地がある。この「諭鶴羽」の3字は「伊耶那岐命が伊耶那美命を諭(さと)して、オスとメスの鶴が羽をひろげて求愛するダンスに則る結婚式をおこなった」とあらわしている。諭鶴羽山地の最高峰は諭鶴羽山(ゆづるはさん/標高608)であり、山頂付近には熊野権現(くまのごんげん)の末社とされる諭鶴羽神社がある。「熊野権現」とは「熊野速玉大社。または主祭神の伊耶那岐命」のことである。

淡路島における二度目の淤能碁呂島の聖婚説話は「国生み」説話でもある。「国生み」とは「日本建国の〔愛〕の理念を国作りの柱とするにあたって、伊耶那美命が各地の地名を改めた」と意味するものであった。伊耶那美命は最初に「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」、つまり「現在の四国」の小国名を改めた。
 『魏志』倭人伝に記載されたように卑弥呼は四国の小国名を、C図に示すように「奴()国」と「烏奴(あな)国」と定めた。
N222
(C) 2016 OHKAWA
 

 C図に示すように、烏奴国は現在の高知県であった。高知県の南部中央には、D図左図に示す浦戸湾がある。浦戸湾の形は〔カワセミ類(ヤマセミやカワセミ)の姿〕に相似すると見立てられ、また浦戸湾は〔カワセミ類が巣とする樹木や崖の穴〕と見立てられて小国名は「烏奴」すなわち「あな()」となった。カワセミ類は雌雄でその強大なくちばしを使って崖の土をくずし、泥を脚で後方にけりだして3mに達することもある深い巣穴(すあな)を作る。
 『魏志』倭人伝の末部が「卑弥呼の墓に百余人の奴婢を徇葬させた」と記述するように、「奴国」の[]は「犠牲(いけにえ)となった18歳くらいの青年」を意味した。だから残酷な徇葬を嫌悪(けんお)する伊耶那美命は、伊予之二名島=現在の四国の小国名を改定した。
 伊耶那美命は下に示すカラー写真上部の銀河の形状にもとづいて、伊予之二名島の4小国の名を生んだ(考案した)
Image

 
  上のカラー写真は2013725日の朝日新聞のキャノン株式会社の1面大広告にて掲載された「秋の銀河と夏の銀河の東北部」の写真である。この写真は観察者の視界の中に淡い光が入ったときの瞳孔の絞り(虹彩/こうさい)によって見える銀河の形状を示す。ゆえに、「淡道之穂之狭別島(現在の淡路島)」の先頭の[]の字には「視界の中に淡い光が入る」という意味が秘められていたことになる。
 上の淡い光が目に入ったときの形状を示す銀河写真を図にすると、E図のごとくなる。
N231
(C) 2016 OHKAWA
 

 E図に、伊弉諾神宮(北緯3428)の天頂緯度線を点線で示した。〔北半球の人々が最も光り輝いて見える銀河部〕を国際天文学界では「北天の最輝部(さいきぶ)」と呼ぶ。E図に示すように――「北天の最輝部の北端の、タンチョウツルの頭頂部のごとく赤い銀河部位」は淡路島の天頂緯度と重なり、「北天の最輝部」は「ツルの胴体の形」に酷似(こくじ)し、「北天の最輝部より西隣の銀河部」は「ツルの羽」の形に観える。ゆえに、「北天の最輝部と西隣の銀河部」は〔飛翔(ひしょう)するタンチョウツルの姿〕に相似する。伊耶那美命は「飛翔するタンチョウツルの姿に似る北天の最輝部と西隣の銀河」を「淡路島」に見立てた。
 そして、伊耶那美命は伊予之二名島の小国名を、F図のごとく改名した。
N232
(C) 2016 OHKAWA
 

 E図の左上に「十字の銀河」と記入した周辺は〔オスとメスのタンチョウツルの姿〕に観える。この「十字の銀河周辺の銀河」を淡路島南部の山地名「諭鶴羽」の由来となった「タンチョウツルの求愛ダンス」に見立てて、伊耶那美命はF図に示すように現在の愛媛県の小国名を「伊予」また祭神名を「愛比売(えひめ)」と定めた。
 F図に示すように、淡路島の北端は東北に傾く。E図の銀河図の〔東西〕はF図の〔右東左西〕と180度異なり〔右西左東〕となるゆえ、北天の最輝部の北端もまた淡路島と同様に東北に傾く。だから、伊耶那美命は「淡路島」を「北天の最輝部」に見立てたのである。
 しかし、「淡路島は東・伊予は西」に対して「淡路島に見立てた北天の最耀部は西・伊予国に見立てたタンチョウツルの求愛ダンスの銀河は東」にあるので、地理と銀河部の東西の向きは正反対となる。この正反対にした伊耶那美命の国生みの考えは、最初の淤能碁呂島の聖婚がおこなわれた沼津市の高尾山古墳の主体部から出土したG図に示す「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はさいきょう)にもとづいていた。というのも、被写体の右西は鏡の映像では左東になるのからである。小国・日本を去るときに伊耶那美命はG図に示した後漢製の鏡を破砕した絵柄で、日本建国の〔愛〕の理念をあらわした。これゆえ愛媛県は四国の西部に所在するが、伊耶那美命はG図の鏡の映像にもとづいてE図の銀河図において東方にある「十字の銀河周辺」を四国西部の「愛媛県」に見立てた。だから東方の「十字の銀河周辺」を〔雌雄のタンチョウツルが求愛ダンスする姿〕に見立てて、「伊予国」という小国名と「愛比売」という祭神名を考案した。
N233
(C) 2016 OHKAWA


 H図は上掲したカラー写真と異なって視界の中に光が入らない真っ暗な場所から見える銀河の形状にもとづく「伊予」の銀河解明図である。
N234
(C) 2016 OHKAWA
 

 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「尹(いん)は神杖をもつ形」と解説する。「十字の銀河の中央部の暗黒天体部」は紀元前31世紀から紀元前3世紀まで天頂緯度を測定する基準になったので「神の杖(つえ)」と尊重され、「鬼の姿に似る銀河」が「神杖をもつ右手」となって[]を形成した。「十字の銀河」は〔人の姿〕に酷似(こくじ)するので[]偏となり、[]が加わって[]が成立した。銀河部は東から西へ向かって運行するので、西側の銀河部のほうが先に東側の銀河部のほうが後に子午線通過する。ゆえに〔子宮を有する母親の姿〕に相似する「十字の銀河」よりも〔子宮から生まれる子〕に相似する[]の字源「鬼の姿に似る銀河」が予(あらかじ)め子午線通過する。ゆえに、「十字の銀河」と「予め子午線通過する鬼の姿に似る銀河」が[]の字をあらわして「伊予」という小国名が生まれた。「伊予」の小国名となった「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河」は[]の篆文形(てんぶんけい)のモデルとなったように、[愛]を形成した字源銀河であったのである。
N235

(C) 2016 OHKAWA
 

 I図に示す〔母親〕のごとき「十字の銀河」は後ろの[]の字源「鬼の姿に似る銀河」を気づかって〔立ち去ろうと人の姿〕に観える。ゆえに、白川静著『字統』は[]の字形について「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿を写したものであろう」と解説する。
N241

(C) 2016 OHKAWA
 

J図に示すように、「人の横顔に酷似する銀河」に対して〔右手〕に観える「鬼の姿に似る銀河」が[]の字源となり、〔左手側〕にある「十字の銀河」が[]の字源となった。また、「長方形の暗黒天体部」の南隣の「人の横顔に酷似する銀河から伸びる大きな手に観える銀河」も〔左手〕に観えるので[]の字源となった。そして共に[]の字源となる「大きな左手の銀河」と「十字の銀河」の中間の「長方形の暗黒天体部」も〔左手側〕に所在することになるので、伊耶那美命は「長方形の暗黒天体部」を[]とした。[]の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河は[]の字源でもあり、また「大きな左手の銀河」も[]の字源でもあった。だから、伊耶那美命は「大きな左手の銀河」と「長方形の暗黒天体部」で「土左」という小国名と[]の字源「鬼の姿に似る銀河」から「建依別(たけよりわけ)」という祭神名を考えた。「建依別」は「健やかな子が多数生まれる地霊が憑依(ひょうい)する」と意味した。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・8」で指摘したように――[]は「つっかいの柱や壁の意」であり、「沼津市の足高山」が[]の「富士山」の「つっかいの壁」となるので「足高山」が[]の字をあらわした――ことを証明した。足高山(愛鷹山)は愛鷹山連峰にあって最高峰でなく8番目の高さではあるが、山頂に桃沢神社を祭って蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬が採取できる蓬莱山(ほうらいやま)に見せかけた日本軍の一大軍事基地となった。いくつかの山岳で構成される足高山連峰は[]の字義「わかれみち」をあらわす。ゆえに、「足高山連峰」は「伊耶那岐命」という名の[]をあらわした。
 伊耶那美命は現在の香川県の小国名を「讃岐(さぬき)」、祭神名を「飯依比古(いひよりひこ)」と定めた。E図に示した「鬼の横顔に似る銀河」は「飯を山盛りにした形」となるので、祭神名の「飯依比古」となった。
N242
(C) 2016 OHKAWA
 

 K図に示すように、香川県の〔飯野山(いいのやま)〕は[]をあらわす〔足高山〕に見立てられて「岐を讃(たた)える」から小国名の「讃岐」が生まれた。〔飯野山〕を「鬼の横顔に似る銀河」に見立てて、「飯依比古」という祭神名が生まれた。
 伊耶那美命は現在の徳島県の小国名を「粟(あわ)国」、祭神名を「大宜都比売(おおげつひめ)」とした。白川静著『字統』は[]の字を「粟「穀物の総称として用いる」と指摘する。
N243
(C) 2016 OHKAWA
 

 L図に示すように、「激流の銀河」は〔作物が植わる土地にそそぐ水〕や〔原始的な木製の刃先のスキでも容易に耕作でき開墾(かいこん)できる、堅くなった土を泥のように柔らかくする水〕に見立てられた。ゆえに、その隣の「正方形の銀河」は[]の字源となった。[]を「ギ」と読むと「平らになった地面」となって「豊かな穀物が育つスキで耕されて平らになった土地」をあらわした。[]を「ゲ」と読むと「食物」を意味する。ゆえに、学者たちは「大宜都比売」を「穀物をつかさどる女神」であると解釈する。
 3世紀、男の子は出産死亡率が高く、出産しても亡くなる子が多かった。だから、土左国と讃岐国の男神名には[]の字が配せられた。
 視線に淡い光が入った時の銀河の形状を示すE図において、「激流の銀河」と「北アメリカ星雲」が所在する部分を、180度転回する上南下北図にしてM図とした。
N244

  M図は[]の字源銀河解説図である。白川静著『字統』は「依は神の憑依することを本義とする字」と解説する。「輪郭が鮑(アワビ)の貝殻のような形の銀河」は「乳白色の衣」のごとくに観え、その衣は「胎児」のような形の「乳白色の激流の銀河と長方形の暗黒天体部」を包む。ゆえに、[]の契文の字形は「輪郭が鮑(アワビ)の形の銀河に包まれる人(胎児の姿に観える激流の銀河と長方形の暗黒天体部)」の図案であった。土左国と讃岐国の男神が出産死亡率の高い男の子のごとくひ弱にならないために、その名に[]の字を配して「強大な神の霊が憑依する」ようにしたのである。

以上のごとく、伊耶那美命は淡路島の天頂にめぐってきた上掲したカラー写真の銀河の形状にもとづいて四国の小国名と各小国の守護神名を考えた。
 四国は日本建国の〔愛〕の理念をあらわす伊予国・愛比売と土左国・建依別、また豊かな食料・穀物をあらわす讃岐・飯依比古と粟国・大宜都比売とに二分された。伊耶那美命は日本建国の〔愛〕の理念こそ最も大事であると示して、讃岐国・粟国よりも伊予国・土左国の面積を大きくした。それだけではなく「四国」を「伊予之二名島」と名づけた、その「伊予」の祭神「愛比売」をもって倭国の国作りの柱は高尾山古墳で唱えた日本建国の〔愛〕の理念であると表明した。
 白川静著『字統』は「賀は生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。ゆえに「愛比売と建依別は生子儀礼(子が生まれる儀礼)」に、「飯依比古と大宜都比売は農耕儀礼」に適合するとゆえ、四国の祭神名は[]の字をあらわした。だから四国の祭神名は「日本建国の〔愛〕の理念によって倭国に多くの子がうまれ、多くの食料に恵まれる」をあらわす「多賀」いう語となるので、伊弉諾神宮が所在する地名は「多賀」となったのである。

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