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2016年6月14日 (火)

日本国誕生史の復興・15

 沼津市高尾山古墳による日本国誕生史証明(14)
 二度目の淤能碁呂島の聖婚説話の解明
(2)

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の冒頭は、淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話である。この淤能碁呂島の聖婚説話において最初に伊耶那美命と伊耶那岐命が結婚した式場は、静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳であった。この最初の聖婚は、小国・日本が呉の遠征軍と戦って勝利することを祈願する神事(しんじ)であった。ところが、伊耶那美命は決められた神事の式次第をまもらず、伊耶那岐命より先に「なんとまあ、すばらしい大夫(ますらお)でしょう」と唱えた。伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めるために、式次第をまもらなかったのである――このような証明は、わがブログ「日本国誕生史の復興」の2~8回まででおこなった。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・11」の末部で証明したように、「伊耶那美命」は人民が彼女を慕って呼んだ愛称であり、本名は「竹野比売(たかのひめ/9代開化天皇の正妃)」であり――また『魏志』倭人伝の末部に登場する「壱与(いよ)」であった。「壱与」は呉の遠征軍が有する呪的(じゅてき/強大な霊的)戦力を奪う魔女の名であり、言い換えると「壱与」は夏音名(かおんめい/夏音文字の名)であった。「伊耶那岐命」と愛称された男王は後の「第9代開化天皇」であり、呉軍と戦う日本の軍王(いくさのおおきみ)としての夏音名は『魏志』倭人伝末部に記載された「載斯烏越(そしあお)」であった。
 『魏志』倭人伝の末部が記述するように、(1)卑弥呼が没すると百余人の奴婢(ぬひ)を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪する反乱が国中に拡大し、(2)この大乱に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が、倭を倒す好機到来ということで戦争を仕掛けた。
 そこで倭王朝は――伊耶那美命(壱与)が小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と提唱したことによって、日本建国の〔愛〕の理念に憧れる人民たちが徇葬を憎悪して反乱を起こし、この大乱に乗じてしばらく休戦状態であった狗奴国が戦いを仕掛けたために、倭王朝は崩壊の危機に瀕(ひん)することになった。だから、このような国家滅亡に瀕した災厄(さいやく)の根本原因は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念にある――と激しく非難した。これゆえ、倭王朝は伊耶那美命(壱与)を倭女王に就任させて、責任のすべてを伊耶那美命に負わせて国中にひろまった大乱と狗奴国を討伐して戦いを鎮圧(ちんあつ)することを欲求した。
 『魏志』倭人伝が「壱与(伊耶那美命)が倭女王に就任すると、倭の国中の反乱は遂(つい)に定める」と記述する。この記事が示すように人民たちは〔愛〕の女王の壱与(伊耶那美命)ならば徇葬を禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てたので大乱は一気に終息(しゅうそく)した。
 壱与(伊耶那美命)は狗奴国討伐に反対した。このため『魏志』倭人伝の末部は「軍事同盟を結ぶ魏の使節として朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)から派遣された張政(ちょうせい)は、狗奴国を討伐しなければならないと告喩(こくゆ)する檄文(げきぶん/軍書)を二度も作成した」と記す。張政が作った檄文を壱与(伊耶那美命)が拒絶したために、倭王朝は魏との軍事同盟を重視して壱与の代役に載斯烏越(伊耶那岐命)の第二后の天照大御神を選び、狗奴国討伐を決行した。だから、張政は二回も檄文を作成することになった。

伊耶那岐命(載斯烏越)は、伊耶那美命が主張する狗奴国討伐を反対する意見を聞かず、倭王朝の方針に同調して魏との軍事同盟を重視し、倭軍を指揮して狗奴国を滅亡させた。

狗奴国討伐を拒絶した伊耶那美命を倭女王の役目をはたさず無責任であると非難する倭王朝は、伊耶那美命に倭女王からの退位と国家的事業として呉軍との戦いの勝利を祈願した神事で結ばれた伊耶那岐命との離縁をせまった。この倭王朝の身勝手(みがって)な考えと要求に伊耶那岐命(載斯烏越)は立腹し、それよりも何よりも伊耶那岐命は伊耶那美命を深く愛していたので倭王朝と激しく対立した。
 伊耶那岐命は倭女王の退位と離縁する意思を固める伊耶那美命を説得して、A図に示す伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市多賀740)で二度目の聖婚をおこなった。
 これゆえ二度目の聖婚は国家的事業の神事ではなく、二人が真の愛で結ばれた私的な結婚式であった。また伊耶那岐命は倭王朝と激しく対立し、倭女王の継続を説得した伊耶那美命と倭国の国作りの柱を日本建国の〔愛〕の理念と定めた決意を示す結婚であった。この結婚式では、B図の〔タンチョウツルの求愛ダンス〕で日本建国の〔愛〕の理念が表示された。
N251
(C) 2016 OHKAWA
 

 B図の〔タンチョウツルの求愛ダンス〕で日本建国の〔愛〕が表明された歴史は、前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・14」で証明したように、A図に示す淡路島南部の「諭鶴羽山(ゆづるはさん/また諭鶴羽山地)」という地名となって後世に残った。あるいはC図に示す「伊予」という小国名と伊予国の祭神「愛比売(えひめ)」となって残り、現在の「愛媛県という県名に受け継がれて現存することになった。
N252
(C) 2016 OHKAWA
 

 C図に示す小国・土左の「建依別(たけよりわけ)」という祭神名も「強い力を有する土左の地霊が憑依(ひょうい)して健やかで丈夫な子が多数生まれる」と意味するゆえ、日本建国の〔愛〕の理念をあらわした。だから伊弉諾神宮が所在する地名の「多賀」は「元気で健やかな多数の子がこの世(この地上)に生まれる」と意味する語であった。

二度目の伊弉諾神宮における結婚は、伊耶那岐命が倭王朝の欲求を拒絶して激しく対立するものであった。ゆえに、伊耶那岐命が指揮して決行された狗奴国討伐は開化天皇(伊耶那岐命)の事績にはならなかった。このため、『古事記』と『日本書紀』の開化天皇紀には狗奴国討伐の記事は記載されていない。
 伊耶那岐命(第9代開化天皇)の父の第8代孝元(こうげん)天皇は若くして没し、祖父の第7代孝霊(こうれい)天皇は長寿で存命(ぞんめい)であった。『魏志』倭人伝が「卑弥呼の後を継いだ男王」は孝霊天皇であったと考えられる。
 これゆえ前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・14」にて証明したD図に示す「狗奴国」の討伐は、『古事記』中巻の孝霊天皇紀の末部にある「吉備(きび)国平定(討伐)」の記事となった。というのも狗奴国の範囲は、E図に示すいわゆる吉備地方(美作・備前・備中・備後の東部)であったからである。
N253
(C) 2016 OHKAWA

 
『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話における最初と二度目の聖婚の中間に、吉備(狗奴)国討伐が起きていた。しかし、前述したように吉備(狗奴)国討伐は伊耶那岐命・開化天皇の事績にならず孝霊天皇の事績とされた――これが原因で淤能碁呂島の聖婚説話には記述されないことになったのである。

わがブログ「日本国誕生史の復興・13」で、伊耶那岐命が決行した吉備(狗奴)国討伐は661年に皇太子の中大兄(なかのおおえの)皇子(後の天智天皇)が作った『万葉集』13番の長歌と反歌(はんか)14番と15番の短歌のテーマとなって詠()まれたことを証明した。
 中大兄皇子の実父は舒明(じょめい)天皇である。舒明天皇が作った『万葉集』5番の長歌と反歌の6番の短歌も、息子の中大兄皇子と同様に吉備(狗奴))国討伐の歴史を詠む。
 5番の和歌には「舒明天皇が讃岐国の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」という題詞が付く。
 F図に示すように、上記の5番の和歌の題詞に登場する「安益郡」は「現在の香川県坂出市と綾歌(あやうた)郡の東部の地」であった。「綾歌郡」は「安益郡南部」に相当し、「綾歌郡」はA図に示した「鳴門の渦潮と諭鶴羽山地」と同緯度(真東)である。また題詞に登場する「軍王の山」は、C図に示した「讃岐の飯野山(いいのやま)」である。前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・14」で解説したように、「飯野山」は「讃(たた)える岐」すなわち「讃岐」の小国名と、「飯依比古(いいよりひこ)」という讃岐国の祭神名にもなった。
 F図に示すように、軍王の山(飯野山)・安益郡の真正面(真北)は吉備(狗奴)国の中心部である。
N254
(C) 2016 OHKAWA
 

 『万葉集』5番の長歌と現代語訳は下記のごとくなる。
 「霞(かすみ)立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづきも知らず むらきもの  心を痛み ぬえこ鳥 うらなけ居()れば 玉だすき かけのよろしく 遠(とほ)つ神   わが大君(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり居()る わが衣手(ころもで)に 朝夕(あさよひ)に かへらひぬれば ますらをと 思へる我も 草枕(くさまくら) 旅にしあれば 思ひやる たづきも知らに 網(あみ)の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひそ焼くる わが下心(したこごろ)
 〔霞み立つ長い春の一日がいつ暮れたのかわからずに、皇后・宝皇女(たからひみひこ/後の皇極天皇にして斉明天皇)と蘇我入鹿とが情を通じているというウワサは真実なのかそれともウソなのかはっきりしない状況に悶々(もんもん)として悩みつづけ、蘇我大臣家の権力へなびく皇后を離縁しようと悩む今日このごろである。このような鵺(むえ)鳥の声のように暗く悲嘆にくれる状況を断ち切るために、皇后には行く先を告げないで、ひとり決心して旅に出ることにした。言葉に出すにも畏れおおい我が最も尊敬する神となった大君の伊耶那岐命が小国・日本から到着して狗奴国討伐の本陣を設営した飯野山から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまをみていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、つい離縁ようとした妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、いっこうに憂いを晴らすことができないでいる。妻と横暴な蘇我大臣家に対する怒りと憎しみは軍王の山・飯野山東部の網の浦(坂出市の海浜の古地名)の娘たちが焼く塩焼き場の鹹水(かんすい)が沸騰(ふっとう)する熱湯のごとく熱く重い。また、この怒りと憎しみは呉の遠征軍が越えようとした陽射しが肌を刺す大海における黒潮のうねりのごとく重い。我が心は怒りと憎しみの炎でさいなまれて焼きただれ、まるで塩をこすりつけたようにひりひりと痛む。〕

伊耶那岐命は後の開化天皇であり、『古事記』中巻の開化天皇紀の冒頭は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた」と記す。この記事に登場する「春日」は、上掲した5番の長歌の2句目の「春日」と合致する。5番の長歌の11句目の「遠つ神」は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話の末部の「伊耶那岐大神は淡海(おうみ/近江・滋賀県)の多賀に坐()すなり」という記事にある「大神」と合致する。ゆえに、5番の12句目の「わが大君の」の「大君」は「伊耶那岐命」をあらわす。5番の13句目にある「行幸」は「天皇が旅すること」であるゆえ、伊耶那岐命は開化天皇であったので「行幸の」という13句目もまた合理となる。
 『万葉集』2番は舒明天皇が作る和歌であり、「大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山」と詠んで「大和にはいろいろの山があるが、特に優れているのは伊耶那美命を象徴する天の香具山である」と表現するゆえ、舒明天皇の伊耶那美命に憧れ尊敬していたことになる。というのもわがブログ「日本国誕生史の復興・13」で証明したように、『万葉集』13番の中大兄皇子が作った大和三山の和歌が示したように『万葉集』では「天の香具山」は「伊耶那美命」を象徴すると定められたからである。『万葉集』3番の長歌は間人連老(はしひとのむらじおゆ)が中皇命(なかつすめらみこと)つまり中大兄皇子に献上した歌である。この和歌は、舒明天皇が伊耶那岐命のごとく雄男しい大夫(ますらお)になりたくて狩りに夢中になって武術を鍛える様子を表現する。『万葉集』4番は、3番の反歌である。ゆえに、2番、3番、4番の関係や流れからして、5番に詠まれる軍王は小国・日本の軍王であった伊耶那岐命・載斯烏越・後の開化天皇であったことになる。
 『万葉集』5番の結句の「我が下心」より前には「網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひそ焼くる」という四つの句がある。この「網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひそ焼くる 我が下心」の五つの句は、わがブログ「日本国誕生史の復興・5」で解明したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話初頭に記述された倭地で行われたG図に示す淤能碁呂島の儀式を念頭にして表現するものと考えるべきことになる。
N261
(C) 2016 OHKAWA
 

 G図に示した儀式について『古事記』は「伊耶那岐命と伊耶那美命は天沼矛(あめのぬほこ)を賜(たま)わって、呉の遠征軍の来襲に脅(おび)えて恐怖でさいなまれて漂う国土を修理することになった。それで二人は天浮橋(あめのうきはし)に見立てられた箇所に立って、天沼矛を指しおろして画(えが)くように、塩をコオロコオロと画き鳴らして、天沼矛を引き上げると、その矛の先端から垂(したた)り落ちる塩は重なり積もって島となった。これが淤能碁呂島の呪力(じゅりょく)である」と記述する。
 G図の淤能碁呂島の聖婚儀式は、わがブログ「日本国誕生史の復興・5」で証明したように塩焼き場でおこなわれた。というのも、淤能碁呂島の聖婚儀式はH図とI図に示す〔塩焼き場のごとく陽射しがきつく肌に刺す、宮古島から硫黄島までの広大な太平洋の海の道〕を演出するものであったゆえ、塩焼き場で行われたと考えられるからである。
N262

 
  前述したように、この和歌の題詞に登場する「安益郡南部(現在の綾歌郡)」はA図とF図に示す「鳴門の渦潮」と同緯度である。また、F図に示すように海人の娘たちが塩を焼く「網の浦」は狗奴国・吉備国中心部の真南に位置するゆえ、「倭軍の兵士たちの敵国・狗奴国への憎悪」をあらわすことになる。
 したがって「網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひそ焼くる 我が下心」と表現した舒明天皇の心情は、上記したように皇后や蘇我大臣家への憎悪を「塩焼き場のごとく陽射しがきつく肌を刺す宮古島から硫黄島までの海の道のように苦痛となり、怒りと憎悪の炎にさいなまれて激痛となって疼(うず)く」と表現するものであったと解釈される。
 以上のごとく、『万葉集』5番の舒明天皇が作った和歌によって『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話は実在した歴史を語るものであると証明できる。

また『万葉集』5番の和歌は『古事記』上巻に記述された2回の淤能碁呂島の聖婚の歴史を証言するものであることは、舒明天皇の皇后である宝皇女が作った『万葉集』485番の長歌と486番と487番の反歌の2首の短歌でも証明できる。次回は、この宝皇女が作った3首の和歌の秘密をもって、学者たちが〔文献批判〕で排除した淤能碁呂島の聖婚説話に記述された日本国誕生史の真相を復興する。
 なお、次回から各ブログの先頭に記すサブタイトルを「高尾山古墳から発掘された〔愛〕の鏡」と改める。

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