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2016年6月17日 (金)

日本国誕生史の復興・16

 高尾山古墳から発掘された「愛の鏡」(1)
 日本建国理念の〔愛〕を詠む歌

 
驚くべきことに、日本国は〔愛〕の理念の基(もと)に誕生した。
 この事実は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記述された。しかし、学者たちは〔誤読〕に〔文献批判〕という偽称(ぎしょう)を付ける方法を用いて、【〔愛〕の基に誕生した日本建国史】を排除した。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・11」の末部で証明したように、「伊耶那美命」は人民が彼女を敬愛して呼んだ「伊耶(いや)(旧国・丹波)の美しい女王」を省略した愛称であり、本名は「竹野比売(たかのひめ/9代開化天皇の正妃)」であり、また『魏志』倭人伝末部に登場する「壱与(いよ)」であった。「壱与」は呉の遠征軍が有する強大な呪的(じゅてき)戦力を微弱にする魔女名であり、言い換えると「壱与」は夏音名(かおんめい/原初漢字・夏音文字の名)であった。「伊耶那岐命」と人民に愛称された伊耶那美命の夫の男王は後の「第9代開化天皇」であり、呉軍と戦う日本国の軍王(いくさのおおきみ)としての夏音名は『魏志』倭人伝末部に記載された「載斯烏越(そしあお)」である。
 『魏志』倭人伝の末部は――(1)百余人の奴婢(ぬひ)を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪する反乱が国中に拡大し、(2)この大乱に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が倭を滅ぼす好機到来ということで戦争を仕掛けた――と記述する。これゆえ、倭王朝は――壱与・伊耶那美命が小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と提唱したことが原因で、日本建国の〔愛〕の理念に憧れる人民たちが国家的神事の徇葬を憎悪して反乱を起こし、この反乱に乗じてしばらく休戦状態であった狗奴国が戦いを仕掛けたために、倭王朝は崩壊の危機に瀕(ひん)することになった――と激しく非難した。だから、倭王朝は壱与・伊耶那美命を倭女王に就任させて、倭国を滅亡の危機に瀕した全責任を伊耶那美命に負わせて国中にひろまった大乱と狗奴国討伐を欲求した。『魏志』倭人伝は「壱与が倭女王に就任すると、国中の反乱は遂(つい)に定まった」と記述する。このように、人民たちは高尾山古墳の結婚式で日本建国の〔愛〕の理念を提唱した壱与(伊耶那美命)ならば残酷な徇葬を必ず禁止するにちがいないと信じて武器を捨てたので大乱は一気に終息した。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚神話は「二度目の淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮における結婚式において、伊耶那岐命と伊耶那美命は倭国の国作りの柱を日本建国の〔愛〕の理念と定めた」と記す。この歴史は、A図の旧国名の「伊予」と祭神名の「愛比売(えひめ)」で表示された。したがって現在の県名として残った「愛媛」もまた日本建国の〔愛〕の理念をあらわすものであることを、わがブログ「日本国誕生史の復興・14」で詳細に証明した。
N271

(C) 2016 OHKAWA
 

『古事記』上巻に記載された伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、B図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳から発掘された――C図に示す後漢時代に作られた「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はさいきょう)によって確かな事実となる。この破砕鏡の絵柄は日本建国の〔愛〕の理念をあらわすゆえ、C図の下部に記すように「愛の鏡」と名づけることにした。
N272

(C) 2016 OHKAWA
 

 倭女王を就任することになった壱与・伊耶那美命は小国・日本を去る時、B図に示す高尾山古墳の後方墳の主体部(舟形木棺と思われる)の東側にC図の「愛の鏡」を納めた。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」は2~前回の15回まででくり返して証明したように――『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話において最初に伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場は、B図に示した高尾山古墳であった。
 2008年、高尾山古墳は発見された。沼津市教育委員会は高尾山古墳について「230年ころから築造が始まり、250年ころに完成した」と考えている。高尾山古墳は東日本における最古で最大の古墳である。伊耶那岐命と伊耶那美命の高尾山古墳における結婚は、小国・日本が呉の遠征軍と戦って勝利することを祈願する神事(しんじ)であった。ところが、伊耶那美命は決められた戦勝祈願神事の式次第をまもらず、伊耶那岐命より先に「なんとまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えた。伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めるために、厳重に決められていた神事の式次第にしたがわなかったのである。
 現代の学者たちの『古事記』研究は本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著作した注釈書『古事記伝』を基にする。宣長は『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に「伊耶那美命が日本建国の〔愛〕の理念を提唱した」と書かれた最も重大な記事を読解できず誤読して排除した。このように『古事記伝』は〔誤読が混じる著作物〕であるたことは、C図の「愛の鏡」によって決定的となる。

C図の「愛の鏡」の大きさは13.5cm。D図に示すように、伊耶那美命は上方作系浮彫式獣帯を砕いて残した〔4羽の鳥の絵柄〕で「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわした。「愛の鏡」の〔4羽の鳥の絵柄〕は、D図に記したように〔4羽の鴨(カモ)の絵柄〕であった。
N273
(C) 2016 OHKAWA
 

 B図の高尾山古墳から出土した「愛の鏡」の〔4羽の鴨の絵柄〕を詠む和歌が『万葉集』に収録されている。この和歌は『万葉集』巻四の485番・486番・487番の「岡本天皇の御歌(みうた)一首、幷(あは)せて短歌」という題詞がつく。
 舒明(じょめい)天皇(629641年在位)の皇后である宝(たから)皇女は後の皇極(こうぎょく)天皇(642645年在位)であり斉明(さいめい)天皇(655661年在位)である。この宝皇女は「岡本天皇」と呼ばれた。したがって、和歌の内容からして485番・486番・487番は宝皇女が作った和歌ということになる。
 『万葉集』岡本天皇(宝皇女・後の皇極天皇と斉明天皇)が作った485番の長歌と現代語訳は下記のごとくである。
 「神代(かみよ)より 生()れ継ぎ来()れば 人さわに 国には満ちて あぢ群(むら)の 通(かよ)ひは行けど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()を」
 〔神代の伊耶那美命が倭女王になって小国・日本を去るときに、後漢の鏡を砕いて日本建国の〔愛〕の理念を4羽の味鴨(あじかも)の絵柄で表現しました。このため、国民はこの世に多数満ち満ちて、塒(ねぐら)と沼を往来する味鴨の群れのごとく多数の人民は愛睦(むつ)まじく私の目の前を何度も往来します。でも私が恋するあなた(舒明天皇)は、私と蘇我入鹿との仲を疑って、私の夫であることを拒否して私を抱いてくれません。私は昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は、ほんとうに長い夜でした。〕
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・15」において、舒明天皇が詠んだ『万葉集』5番の「軍王の山を見て作る歌」は「蘇我大臣家の権力になびく皇后の宝皇女を怨(うら)み、蘇我入鹿の仲を疑って宝皇女を憎悪する和歌」であることを証明した。

上記の『万葉集』485番は初句から6句までの「神代より 生れ継ぎ来れば 人さわに 国には満ちて あぢ群れの 通ひは行けど」をもって、「神代の伊耶那美命は後漢の鏡(C図の鏡)を砕いて日本建国の〔愛〕の理念を〔4羽の鴨の絵柄〕で表現した」と証言する。

 岡本天皇・宝皇女が作った反歌の487番の短歌は「淡海道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日()のころごろは 恋ひつつもあらむ」と詠む。したがって、485番の長歌の舞台は旧国の近江、現在の滋賀県であったことになる。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の末部は「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐()すなり」と記す。ゆえに、伊耶那岐命の霊魂が鎮座する近江(滋賀県犬上郡多賀町多賀)の多賀大社は、「伊耶那岐命の霊の塒(ねぐら/眠る場所)」であったことになる。
 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳者『萬葉集一』(小学館)は、485番の5句の「あぢ群れの」に「鴨は朝ねぐらを離れて沼に行き、夕方またねぐらに帰るので通フにかけた」と注を加え、6句の「通ひは行けど」に「通フは同じ道を何度も往来すること」という注を加える。
 ゆえに、E図に示す兵庫県淡路市多賀の〔伊弉諾神宮〕は上記の注の沼(味鴨が朝、塒を離れて飛んで行く沼)に見立てられたことになる。E図が示すように伊耶那岐命と伊耶那美命が二度目の結婚をした〔伊弉諾神宮〕が所在する「淡路島の地宜(平面的に図化した地図の形)」は「淤()から伊耶那岐命の霊が眠る塒の多賀大社に向かって飛びたつ味鴨と群れの姿」に観える。またF図が示すように〔近江の多賀大社〕の隣の「琵琶湖の地宜」は「淡路島に向かって飛び立つ味鴨と群れの姿」に観える。ゆえに、E図の「多賀大社と伊弉諾神宮まで」は6句の「通ひは行けど」の「味鴨の群れが何度も往来して飛ぶ空の道」となる。
N274
(C) 2016 OHKAWA
 

 近江の多賀大社の主祭神は伊耶那岐命と伊耶那美命であり、淡路島の伊弉諾神宮の主祭神も同じく伊耶那岐命と伊耶那美命である。またG図に示す沼津市の足高山(現在の愛鷹山)の山頂と近江の多賀大社は同緯度(北緯3514)である。
N281
(C) 2016 OHKAWA
 

 B図に示した高尾山古墳は足高山の麓に築造された。わがブログ「日本国誕生史の復興・6」で証明したように、伊耶那岐命と伊耶那美命が神事の基に結婚した式場の高尾山古墳は足高山・蓬莱山(ほうらいさん)を祭って来襲する呉の遠征軍に日本軍が戦勝することを祈願した封土(ほうど)の盛り土であった。
 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀に秦(しん)の始皇帝の時代に、方士の徐福(じょふく)が若い男女数千人を率いて海に入ったが、始皇帝が探して来いと命じた蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬を発見できなかった。徐福は死刑をおそれて帰国せず、蓬莱山と見立てた山がある州に定住した」と記述する。この記事に登場する「徐福が蓬莱の神仙の霊薬を採取できると思い込んだ蓬莱山」は「足高山」であった。中国においては「桃」は「仙木・仙果」すなわち「蓬莱の神仙の力を与える樹木・果物」とされた。ゆえに徐福が目指した蓬莱山であることが示されて、足高山の山頂には桃沢神社が祭られた。桃沢神社が祭られる足高山の山頂と近江の多賀大社は同緯度であるゆえ、先人たちは「伊耶那岐命の霊魂は多賀大社の土地に憑依(ひょうい)した」と呪術(じゅじゅつ)信仰した。だから『古事記』に「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と記載された。この上古史の秘密を『万葉集』485番は初句から6句までで表現した。

『魏志』倭人伝に1ヵ所も〔誤読(文献批判)〕を加えないで全記事を忠実に読解すると、H図のごとくとなる。
N282
(C) 2016 OHKAWA 
 

E図とF図は、その左下に記したように「転回方位」にもとづいて作成した。この「転回方位」は、H図の卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理の方位規定である。だから、H図の卑弥呼王朝が制定した歴史上に実在した日本列島地理の基に、上記した『万葉集』485番の5句と6句の「あぢ群の 通ひは行けど」と詠んだことになる。
 
 『魏志』倭人伝は――(1)わが国には太古(今から約4050年前)に中国から夏音(かおん)文字が伝来し、(2)夏音文字の学問は緯度が1度の60分の11分の精度で測定できるI図右上の〔[]のキャッチ〕を基軸とした。したがって、1分の精度で緯度が測定できたゆえ(3)卑弥呼王朝はH図のごとく34小国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を精確に図化することができた――と、重大な事実を記述する。
 卑弥呼王朝の政権基盤はI図に示す〔[]のキャッチ〕を基軸とする夏音文字の学問であった。このため、H図に示したごとく――日本列島は〔東〕に伸びるのではなく〔南〕に伸びる――と錯覚した。
N283
 

 中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して、J図に示す北極星を「太一神」と称して最も尊重した。ゆえに、I図の〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れた。このため、およそ300年後の3世紀になると中国の正史『三国志』の『魏志』倭人伝と『後漢書(ごかんじょ)』の倭伝に記載されているように、1分の精度で緯度を精確に測量できる〔[]をキャッチする能力〕を失った中国の人々は大海中にある日本列島に渡ることができなくなった。
 精確な暦と精確な時刻を有する現在にあっても北極星のかたよりで天の北極の高度を計算しても精確に緯度を測定することはできない。だから、現在の国土地理院にあってもI図の〔[]の天頂緯度線と子午線〕をもって経緯度原点を定めて日本地図を製作する。その証拠に、国土地理院は東京都港区に所在する旧東京天文台の子午儀を日本地図の経度度原点とする。旧東京天文台の「子午儀」は――日本地図の経緯度原点は〔[]の天頂緯度線と子午線〕である。学者たちのように天の北極の高度で緯度と方位を測定できると主張して、H図の日本地図を事実ではないと否定する意見は【科学】に非ず錯覚である。
 古今にあって――地理の緯度と方位は〔[]のキャッチ(天頂緯度の測定)〕で定められた。したがって、学者たちが錯覚するように地理の緯度と方位は天の北極や北極星で定めるものではなかった――これは〔科学〕の原理原則である。
 卑弥呼王朝は錯覚してH図の転回日本列島地理を真理であると断定した、この事実とまったく同じく現在の学者たちもまた地図の緯度と方位は天の北極や北極星で定めるものであると錯覚する。上記したように旧東京天文台の子午儀が日本地図の経緯度原点地である事実が動かない証拠となるように、古今、地図の緯度と方位は〔天の北極や北極星〕では定めなかった。したがって、H図の転回日本列島地理を事実でないと断定する意見の実体は〔科学〕の原理原則を知らない【科学】に反する錯覚、つまり永遠に真実に到達できない空論である。だから、新井白石以来邪馬台国論争が約290年間もの長いあいだ【科学】が成立せず決着できないことになった。

わがブログ「日本国誕生史の復興・4」で解説したように、H図の卑弥呼王朝が制定した「転回日本列島地理」を『古事記』は「淤能碁呂島」と記載する。なお、『古事記』は「淤能碁呂」の4字に〔音〕という注を付けて、「淤能碁呂」の4字は「今から約4050年前に、中国からわが国に伝来した原初漢字の夏音文字である」と証言する。
 []の字義は「どろ」、[]の字義は「能(熊・クマ)の冬ごもりの巣穴に横穴と縦穴があるがごとく横の緯度が縦の経度になる」、「碁呂」は「転回する意」となる。したがって「淤能碁呂島」という語は「大海中にある日本列島の地底は海水が流れ込んで淤(どろ)や沼のように柔らかくなっているので、緯度が経度になるように転回して、〔東〕に伸びるのではなく中国海岸線地域の〔南〕の方に伸びている」と制定した――H図の「錯覚の転回日本列島地理」をあらわす。だから、H図の地理は歴史上の事実であった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話と高尾山古墳の間には一点の矛盾点も不合理な点も存在せず【科学】が成立する。だから、淤能碁呂島の聖婚説話は確かな歴史上の事実を伝えていたことになる。
 一方、前述したように学者たちの意見は天の北極や北極星で地理の緯度と方位は定めることができると断定してH図の転回日本列島地理を否定・排除する錯覚の空論である。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・11」の初頭でシュリマンのトロイの遺跡発見の事例を挙げて――先人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤っている。信用してはならない」と批判・否定しても、その文献とおりの遺跡・史跡・遺物が発見されたならば、先人の記述は後世の学者たちはじめ何人にも否定できない事実であり、学者たちが文献批判した意見は誤読の産物であったことが事実となる――このような絶対的原理が古代史学に存在することを証明した。
 上記したように、H図の「転回日本列島地理」と『古事記』の「淤能碁呂島」は同義である。だから、H図の転回日本列島地理は実在した卑弥呼王朝が制定した地理であったことになるゆえ、これを否定する学者たちの意見は誤読の空論であったことになる。

 
 学者たちは「天の北極や北極星で地理の緯度と方位を測定できる」と錯覚する。この錯覚の上に〔多数の誤読〕を加えて、空論の邪馬台国説を吹聴(ふいちょう)して日本人にとって最も大事な日本建国の〔愛〕の理念を凌辱(りょうじょく)しつづけている。
 C図の「愛の鏡」によって『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話は「日本国は〔愛〕を掲げて誕生した」と記述するものであったことが明確なる事実となる。というのも上記したように「歴史の真実は先人が残した文献記事と遺跡・遺物の合致によって成立する」という古代史学における絶対的原理によってわが日本国は〔愛〕を掲げて誕生したことは確かな真実となるからである。また、この真実を否定する学者たちの意見は〔天の北極や北極星で地図の緯度と方位を測定できると思い込む非科学な錯覚〕と〔実在した原初漢字・夏音文字の学芸を排除して多数の誤読を加えた産物〕であることも証明される。
 だから日本国は〔愛〕を掲げて誕生したことは何人にも否定できない真実となる。

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