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2016年6月19日 (日)

日本国誕生史の復興・17

 高尾山古墳から発掘された「愛の鏡」(2)
 〔鴨の絵柄〕であらわされた日本建国の〔愛〕の理念

 
わがブログ「日本国誕生史の復興」の2~15回までに解説し証明したように――東日本最古にして最大の、2008年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山古墳は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能呂島(おのごろしま)の聖婚説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場であった。
 3世紀、中国の正史『後漢書』倭伝が記載するように女王卑弥呼が統治する倭国の隣国は東鯷人(とうていじん)国であり、中国の正史『三国志』呉書の孫権(そんけん)伝が記載するように無敵艦隊の1万の呉軍が230年に東鯷人国の人民を俘(とりこ)にする人狩りのために東鯷人国遠征を決行した。しかし、呉の遠征軍は大海を渡ることができず、台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅した。当時の中国は魏・蜀・呉の三国が鼎立(ていりつ)して残忍な戦争がくりかえされて人口が激減していた(後漢時代の146年の人口は約4,750万余であったに対して、三国時代はわずか約16%の770万人ぐらいまで激減していた)。ゆえに、東鯷人国でも倭国でも中国の戦争の飛び火が自分たちに及ぶことに常に脅(おび)えていたのである。これゆえ、東鯷人国と倭国は230年に呉軍が東鯷人国遠征を決行した情報をいち早くキャッチしていた。208年の赤壁(せきへき)の戦いで2万の呉軍が40倍の80万の魏の大軍を撃破(げきは)したゆえ、このような強大な呪的(じゅてき)戦力を有する呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないとあきらめた東鯷人国王は卑弥呼に服属することを決意した。これゆえ、東鯷人国は倭国に属する小国となり、国名は「日本」となった。
 だから東鯷人国王と卑弥呼はじめ倭国と東鯷国の人民は、魏を倒して中国を治めるために呉軍は人狩りのために必ず再度小国・日本(旧東鯷人国)に遠征してくるにちがいないと考えていたことになる。このように呉軍の再度の遠征に脅えて日本国が誕生した様子は、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に――呉軍と戦う小国・日本の女王に伊耶那美命が選ばれ、軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれ、二人は小国・日本に赴任して高尾山古墳における結婚式で夫婦となった――と記述された。
N291
(C) 2016 OHKAWA
 

 A図に示すように、高尾山古墳は沼津市の足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)の麓に築造された。とうのも、呉軍は足高山を目指して遠征してくる確率が高かったからである。足高山は、『後漢書』倭伝に「紀元前3世紀に秦(しん)の始皇帝に命令された方士の徐福(じょふく)が若い男女数千人を率いて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の霊薬が採取できる山」と記述された、呉の遠征軍が目指すにちがいない東鯷人国を象徴する「蓬莱山」であった。ゆえに、高尾山古墳は天と蓬莱山=足高山を祭って呉の遠征軍に勝利するために築造された封土(ほうど)の盛り土であり、高尾山古墳でおこなわれた伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚式は日本軍の勝利を祈願する国家的神事(しんじ)であった。
 B図に示す高尾山古墳の主体部の東側から230年頃に作られた東海西部系(愛知県・静岡県西部系)の土器が出土した。この土器が示すように、人口が激減する中国の戦争の飛び火が自分たちに及ぶことを心配して常に情報の入手に心がけていたわが国では230年に呉軍が小国・日本=東鯷人国の遠征を決行したことを知っていたことになる。
N292
(C) 2016 OHKAWA
 

『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話は――高尾山古墳における結婚式で伊耶那美命は決められた式次第をまもらず、伊耶那岐命より先に「なんとまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えた。つまり、伊耶那美命は伊耶那岐命を軍王として讃(たた)えたのではなく、交わって愛する子どもを生む夫として讃えたことになる。だから、伊耶那美命の戦勝祈願神事の式次第破りは小国・日本の国作りを〔愛〕と定めるという決意を示すものであった。そして、10年余のあいだ伊耶那美命は小国・日本の人民に〔愛〕を尊重するように熱心に説いた。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・11」の末部で証明したように、人民たちは彼女が「小国・伊耶(いや)(旧国の丹波)出身の女王」であったので「伊耶那美命」と愛称し、呉の遠征軍の強大な呪的戦力を微弱にする魔女名は『魏志』倭人伝の末部に記載された「倭女王に就任した壱与(いよ)」であった。壱与・伊耶那美命の本名は『古事記』中巻の開化天皇紀に記載される「竹野比売(たかのひめ/第9代開化天皇の正妃)」である。
 『魏志』倭人伝は「百余人の奴婢(ぬひ)を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪する反乱が国中に拡大した」、また「壱与(伊耶那美命)が倭女王に就任すると、国中にひろがった徇葬を憎悪する大乱は遂(つい)に定まった」とも記述する。
 倭国の人民たちは倭国の伊耶国出身の伊耶那美命・壱与が高尾山古墳における戦勝祈願神事の結婚式で〔愛〕を提唱し、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めて人民に〔愛〕を最も尊重するように熱心に説いていることを知っていた。ゆえに、残酷な徇葬を憎悪する反乱者たちは日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命が倭女王に就任したならば必ずや徇葬を禁止するにちがいないと信じて武器を捨てたので大乱は一気に終息(しゅうそく)したのである。

伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は、B図の高尾山古墳の主体部の東側から出土したC図に示す後漢時代に作られた破砕鏡(はさいきょう)によって鮮やかに蘇(よみがえ)り確かな事実となる。この鏡は「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡であり、この破砕鏡の絵柄は日本建国の〔愛〕の理念をあらわす。ゆえに、わたくしは「愛の鏡」と名づけることにした。
N293
(C) 2016 OHKAWA
 

 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・16」で証明したように、岡本天皇(舒明天皇の皇后の宝皇女・後の皇極天皇・斉明天皇)が作った『万葉集』巻四の485番の長歌の初句から6句までの「神代(かみよ)より 生()れ継ぎ来()れば 人多(ひとさは)に 国には満ちて あじ群(むら)の 通ひは行けど」は「神代の伊耶那美命が倭女王になって小国・日本を去るときに、後漢の鏡を砕いて日本建国の〔愛〕の理念を4羽の味鴨(あぢかも)の絵柄で表現した。このため、国民はこの世に多数満ち満ちて、味鴨の群れのごとく多数の人民が愛睦(むつま)じく私の目の前を通りすぎて行きます」と意味した。
 したがって、D図に示す「愛の鏡」の「4羽の鳥の絵柄」は「味鴨」をあらわし、「多数の人民が国土に満ちあふれる」と表現するものであった。というのも、味鴨は多数のカモが群れをつくって行動したからである。現在は乱獲によって見られなくなったが、古来においては味鴨の飛翔(ひしょう)する群れの長さは3kmに及んだといわれている。
N294
(C) 2016 OHKAWA
 

 多くの後漢の歴代帝王たちはひ弱で短命であった。このためであろう、C図の愛の鏡には「不老長寿の仙人」の絵柄が存在したが、伊耶那美命は[]を明確に表現するために「仙人の絵柄」の部分を不要として砕いて無くした。(この「人間にとって永遠の願望である〔不老長寿〕よりも〔愛〕こそがすべてであり最も尊い」という伊耶那美命の信念は、わが国最初の小説『竹取物語』の主題となり、末部には「不老長寿よりも愛のほうが尊い」とする思想が示された)
 『漢書(かんじょ)』の「地理志」は前漢の平帝(へいてい)元治2年(西暦2)の人口は、「5,959万余であった」と記す。前漢と後漢の中間の王莽(おうもう)が治めた時代の戦乱で人口が激減し、後漢の光武(こうぶ)帝が没した建武中元2年(57)の人口は2,100万余まで回復した。後漢の質(ひつ)帝が死去した本初元年(146)には、4,756万余まで増加した。
 これゆえ、前述したようにD図の「4羽の鳥の絵柄」は『万葉集』485番の和歌が「人さはに 国には満ちて あぢ群(むら)の 通ひは行けど」と詠んだごとく「無数のカモが飛翔する味鴨の群れのように、中国の人口が前漢の平帝時代まで回復することを願う後漢王朝の政策」を表現するものであったことになる。

E図に示すように、沼津市教育委員会が提供する資料は愛の鏡における4羽の味鴨の絵柄には「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注が加えられる。というのも日本国内では「上方作系浮彫式獣帯鏡」は50例近く発見されており、これらの鏡を研究した学説にしたがって沼津教育委員会は4羽の鴨の絵に「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注を付けたのである。
N301

(C) 2016 OHKAWA

 中国の五経の第一にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞(けいじ)上伝は、F図に示す〔中国の海岸線〕を「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯()してもって地理を察(あきらかに)す」と説明する。
 中国は北極星を「太一神」と敬って尊重するシナ天文が完成した紀元前1世紀より以前は、G図の右上の1度の60分の1度の1分の緯度差を測定できる〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が栄えていた。
N302

(C) 2016 OHKAWA

 だから、1分まで精確に緯度を測量することができる能力を有する官人(天文士)たちによって上記した『易経』繋辞上伝が「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と記載するようにF図に示す正確な海岸線地図が作製され、国家・王朝は独占管理して厳重に機密保持していたのである。
 〔[]をキャッチする天文地理の学術〕は「天頂緯度=観測地点の緯度」と定めた。ゆえに、『易経』繋辞上伝は「易は天地に準う」と記した。
 H図に示すように、[]の天の字源銀河は「オス鹿の横顔に似る銀河」である。今か6千年前から現在まで、「オス鹿の横顔に似る銀河」は中国とわが国の天頂にめぐってきた。
N303
(C) 2016 OHKAWA
 

 そして、I図に示すように「山東半島」は「オス鹿の横顔」、「廟島(びょうとう)列島」は「オス鹿の角(つの)」に見立てられて、[]の字源をあらわす地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)となった。
 だからH図とI図は、上記した『易経』繋辞上伝に「ゆえに能く天地の道」と記述された。
 高田真治・後藤基巳(もとみ)著『易経()(岩波書店)は「弥綸す」という語を「つくろいおさめる。洩()れなく包みこむ」と訳する。
 F図に示すように、中国の海岸線における〔山東半島〕は〔鳥の頭〕に相似し、〔山東半島の付け根から南と北に伸びる海岸線〕は〔鳥の羽(両翼)〕に相似する。ところが〔長江口(ちょうこうこう)や杭州湾(こうしゅうわん)〕は〔羽の形が切り裂かれて綻(ほころ)ぶかのような形〕となるが、〔杭州湾より南の海岸線〕は「円弧(えんこ)を描くかのようにつくろいおさめる形」となる。ゆえに、「弥綸す」という語は「中国の海岸線は鳥の頭と羽の形になって中国全土を洩れなく包みこむ」と意味することになった。
 F図の「山東半島の付け根より南の円く東シナ海に突き出る海岸線」は〔出産期の円く突き出た妊婦のおなか〕に見立てられた。ゆえに〔出産期の妊婦のおなかに見立てられた山東半島の付け根より南の海岸線〕は〔虎の横顔に似る〕と定められた。というのも、胎児を出産するときの母親の怒責(どせき/いきみ、きばる行為)の声はまるで虎が吠える声のようだということで、「長江口」は〔虎の鼻の孔〕、「杭州湾」は〔虎の口〕に相似すると定められたからである。

したがって、上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地に準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、下のJ図に示すようにーーE図の愛の鏡の4羽の鴨の絵柄に付記(ふき)された「鹿」「虎」「鳥」という注に合致する。
 D図が示すように、伊耶那美命は「上」と「宜」の字が壊れないように残した。(D図の[]の字は[]に見えるが、高尾山古墳から出土した鏡は全体的にサビにおおわれており、他の鏡だと[]と読み取れるゆえ[]であったと解読されている)
N311
 

 鏡の「上」の字にもとづいてJ図の「鹿」「虎」「鳥」の海岸線を「上」にすると、K図の上部に記したごとく「山東半島の付け根から南()と北()に伸びる海岸線の地宜」は「羽の形」となる。この「羽」の「海岸線より下(西)となる国土に多数の人民が住む」ゆえ「人」をあらわした。だから、E図に記入された「羽人」は後漢王朝の人口増加政策の「群がって飛ぶ無数の味鴨のように、中国の海岸線以西の宜(地宜・国土)に多数の人民が住む様子」をあらわした。
 この「羽人」は、K図の右上の[]の下に[]が加わる鳬(カモ=鴨)の金文形でもあらわされた。[]の古代字形は存在しない。だから、周代に用いられた金文の[]の上部の大きく図案された[]は「群がって飛ぶ味鴨」をあらわし、下の[]は「多数の人民が国土に満ちる様子」をあらわしたことになる。
 ゆえに、上方作系浮彫式獣帯鏡の「4羽の鳥の絵柄」は「群がって飛ぶ無数の味鴨のごとく、中国の国土に多数の人民が満ちる様子」を表現するものであったので、伊耶那美命は上方作系浮彫式獣帯鏡の不要となる部分(仙人の絵柄の他に、「上方作竟」、「長宜子孫」などの文字もあったという)を砕いた。
 伊耶那美命は「男女が愛しあい子を愛(いつく)しみ育てて多数の人民が満ちるようす」をあらわす〔4羽の味鴨の絵柄〕で小国・日本の国作りの柱と定めた〔愛〕の理念を表現したのである。

司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀は「五帝時代最後の帝舜(しゅん)の時代に、益(えき)氏が虞()という重職についた」と記す。「虞」は「中国の精密海岸線地図を作成する官職」であった。
 前述したように「出産期の妊婦が胎児を生むときの怒責は虎が吠えるがごとく、また山東半島の付け根から南の海岸線は出産期の母体の突き出たおなかのごとく」から[]とされた。[]は「女性が身をくねらせて舞う形」であり、G図の「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」は「女性が身をくねらせて舞うようにしなやか」ということで[]とされた。だから[][]が加わる[]は「中国の精密海岸線地図を作成する官職」を意味した。

 司馬遷著『史記』夏本紀は――「虞」の官職に任命された益氏は、“夏の始祖”の帝禹()の後を継ぐ帝となった――と記述する。
 『易経』繋辞下伝は漢字の起源について「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と記述する。この漢字起源記事は上記した「易は天地に準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という記事に合致する。ゆえに漢字が起源した五帝時代初頭の黄帝時代より夏代初頭ころまでの約1000年間において、G図に示す精密な中国海岸線地図は完成し、以後歴代王朝は最高級の機密にして厳重に独占管理していたことになる。
 夏代に帝となった益氏は約200年間余も代々、精密な中国海岸線地図を作成する「虞」の要職に就いていた。この益氏を受け継ぐ王子と若者たちが今から約4050年前の後期縄文時代初頭に日本列島の東北地方の男鹿・米代川縄文文化圏に移住して、夏音文字の学芸と精密な中国海岸線地図をわが国にもたらした。この歴史は『日本書紀』神武天皇紀初頭の天祖(てんそ)降臨説話として記載され、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡・野中堂遺跡には夏音文字の学芸が伝来した痕跡が現在も明確に残る。
 名門・益氏の王子(天祖)と若者たちの日本列島移住は「益荒男(ますらお)」の語源となった。つまり「益氏は荒波逆巻く大海を渡った勇猛な男性」を省略して「益荒男」という語となった。
 『魏志』倭人伝には「古(いにしえ)より以来、その使中国に詣(いた)に皆みずからを大夫と称す」という記事がある。この文中にある「大夫」は万葉仮名では「ますらを」と読む。したがって、「大夫」は「益荒男」と同義となる。荒波逆巻く大海を渡って中国に到着した使者たちは自らを「益氏の若者たちと同じく荒波逆巻く大海を渡った」と誇示して、皆「大夫(ますらお)」と名乗っていたのである。
 この「大夫」という語が示すがごとく、また益氏が日本列島に移住した歴史は大湯環状列石の万座・野中堂遺跡に明確に残り、さらに『魏志』倭人伝には卑弥呼はじめとする人名と小国名と官職名に夏音文字が用いられ、あるいは『古事記』上巻の随所には〔音〕という注が付いて多数の夏音文字が記載されている。
 ゆえに、3世紀においてわが国にはF図に示す益氏がもたらした精密な中国海岸線地図とその知識が保存されていたことになる。これゆえ、上方作系浮彫式獣帯鏡の〔4羽の鳥の絵柄〕は「群れを作って飛ぶ味鴨」を表現し、「後漢王朝の人口増加政策」をあらわすものであることを多くの人々が理解したのである。だから、伊耶那美命が上方作系浮彫式獣帯鏡を砕いて日本建国の〔愛〕の理念をあらわした行為は人々が忘れることができない後世に受け継がれる重大な歴史となり、7世紀に生存した岡本天皇(宝皇女・皇極天皇・斉明天皇)が和歌を作り『万葉集』に収録された。そして9世紀後半から10世紀半ばに成立したわが国最初の小説『竹取物語』のテーマは〔愛〕となり、竹野比売・伊耶那美命はヒロインの「なよ竹のかぐや姫」の分身(モデル)となった。 

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