« 日本国誕生史の復興・18 | トップページ | 日本国誕生史の復興・20 »

2016年6月29日 (水)

日本国誕生史の復興・19

 高尾山古墳から発掘された「愛の鏡」(4)
  神代の伊耶那岐命は開化天皇であった証明

 

大半の日本人は『古事記』上巻に記述された「神代の出来事」は「物語の世界、歴史ではない空想」と思うかもしれない。
 しかし『古事記』上巻には日本人にとって最も大事な歴史が正確にキチッと書かれた。
 だから『古事記』上巻の記事に問題があったわけではない。
 ではなぜ『古事記』上巻の記事が歴史でなくなったかといえば、その原因は新井白石(16571725)以後から現在までの古代史学者たちが理論原則とする〔文献批判〕が「誤読」であったからである。「誤読」を駆使(くし)し操(あやつ)る方法では、『古事記』に記述された歴史が解明できるはずがない。
 したがって学者たちの理論原則の〔文献批判〕を否定して『古事記』序と上巻の記事・語句・文字を忠実に読解する原則に徹(てっ)すれば『古事記』上巻の神代の歴史はあざやかに蘇(よみがえ)る。
 学者たちは本居宣長(17301801)30数年もの歳月をかけて1798年に完成させた『古事記伝』の研究意見をそのまま受け継ぐ。この『古事記伝』は誤読の産物であった。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・18」で指摘したように、朝廷は『古事記』編纂(へんさん)スタッフに――伊耶那美命が提唱して伊耶那岐命が受け継いだ日本建国の〔愛〕の理念の歴史を抹殺し、皇祖の天照大御神が徇葬を決行した歴史を削除(さくじょ)して、天照大御神が最も偉大な先祖であったと捏造(ねつぞう)する偽書の作成――を欲求した。
 一方、編纂スタッフの心底(しんてい)は怒りで煮えくりかえり天照大御神を憎悪・軽蔑するものであったが、後世の人々が歴史を知ることができるように「客観」と「科学」が成立するようにひたすら努めて全体的にも部分的にも論理が完結するように記述した。
 このような編纂スタッフの方針について、『古事記』序を書いた太安万侶(おおのやすまろ)は冒頭の「臣(しん)安万侶言(もう)す」の後に続く「それ混元既(すで)に凝()りて」から「参神造化の首をなす」までの文章で、「わが国に夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に中国から伝来した〔銀河各部の形状を文字(字源・字形・字義)とした原初漢字の夏音(かおん)文字〕を、天頂を通過した銀河を神と崇拝し定めて起きた前期縄文の土器芸術革命から後期縄文初頭までの約2000年に及ぶ縄文の芸術家たちの教養によって習得された」と記述した。この「参神造化の首をなす」の後に続く「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)となる」という文章で「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国のすべての生みの親である」とあらわし、『古事記』上巻の各部の記事を誤読しないですむ基本知識を挿入(そうにゅう)した。
 つまり『古事記』上巻の作成目的は「日本建国の〔愛〕の理念を尊重するように人民に説いた伊耶那美命と伊耶那岐命の二霊こそ徇葬を決行した天照大御神より優(まさ)って最も偉大な先祖であった」と後世に伝えることであった。この作成目的を達成するために、編纂スタッフは上巻の随所に〔音〕という注を付けて多数の夏音文字を配し、この夏音文字を解読すれば朝廷が抹殺しようとする歴史が解明できるように企(たくら)んだ。
 ところが、宣長は『古事記』序の初頭にある「最も偉大な先祖は伊耶那美命と伊耶那岐命である」とあらわした「陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」という文を基本知識とせず、歴史を正しく解明することができる仕掛けの〔音〕という注を付けた多数の夏音文字を無視して解読しなかった。その結果、〔誤読〕を駆使することになり多くの歴史を排除した。ゆえに編纂スタッフが是非とも後世に伝えたかった天照大御神が残酷な徇葬を決行した歴史を解明できないばかりか、『古事記』上巻のおける最も重大な歴史の日本建国の〔愛〕の理念を削除することになった。だから宣長の『古事記伝』は誤読の産物であったのである。

『古事記』中巻の第9代開化(かいか)天皇紀は「天皇は伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。正妃は竹野比売(たかのひめ)である。第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は継母であり、伊迦賀色許売命から生まれた子が第10代崇神(すじん)天皇である」と伝える。
 「伊耶河宮」、「伊耶那岐命」、「伊耶那美命」の先頭2字は共に「伊耶」であるから、開化天皇が伊耶那岐命、正妃の竹野比売が伊耶那美命であった。そして前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・18」で解説したように、第二后の伊迦賀色許売命が『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話の末部に登場する千引石(ちびきのいわ)の前で伊耶那岐命に事戸(ことど/離縁)された天照大御神であった。A図の写真は、和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町に在る神倉(かんのくら)神社とご神体の「ごとびき岩」であり、この「ごとびき岩」が「千引石」、つまり天照大御神が伊耶那岐命に離縁を言い渡された場所である。
N351
(C) 2016 OHKAWA

 

 伊耶那美命の陵墓は熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造された。このとき、天照大御神は多数の青年男女を殺して埋葬する残酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。この徇葬を怒った伊耶那岐命は謀反(むほん)の兵を挙げて天照大御神を倭女王から失脚させた。これゆえ、彼は倭の大王つまり天皇となった。朝廷は皇祖・天照大御神が陣頭指揮した徇葬と倭女王から失脚した歴史を削除する偽書の作成を欲求した。ゆえに編纂スタッフは朝廷の欲求に応じるとみせかけるために、「天照大御神」を「伊耶那美命」と記した。しかし、A図に示す千引石をご神体とする神倉神社の主神は天照大御神であるからして、「伊耶那美命」の正体は「天照大御神」であったことになる。
 『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀の〔疫病の流行〕の箇所には天照大御神・伊迦賀色許売命を生母とする「崇神天皇」も「天照大御神」と呼ばれたことが察知できる記事がある。また次の〔四道将軍〕の箇所には、崇神天皇は伊耶那岐命(開化天皇)の異母弟であったと証明できる記事がある。したがって、『古事記』の開化天皇紀は「天皇(伊耶那岐命)と伊迦賀色許売命と結婚して崇神天皇が生まれた」と書いてあるが、実際は「伊耶那岐命と伊迦賀色許売命が結婚して、養父と養子の関係が生まれた」と伝えるものであったことになる。
 皇祖・天照大御神つまり伊迦賀色許売命・崇神天皇母子は、B図の地域を舞台にして決行された伊耶那岐命の謀反を怨(うら)み伊耶那岐命の墓つまり開化天皇陵を築造しなかった。
N352
(C) 2016 OHKAWA

 

 『古事記』上巻の〔三貴子の分治説話〕が記述するように、伊耶那岐命は天照大御神(崇神天皇)に倭の大王を譲位(じょうい)した。というのも、伊迦賀色許売命母子が天下を取り戻そうとする復讐(ふくしゅう)の怨念(おんねん)は激しかったゆえ、伊耶那岐命がおこしたB図に示した熊野における謀反を怨んで仕返しをする謀反の連鎖(れんさ)を断ち切って天下取りの大乱が起きない平和を保持するために、伊耶那岐命は伊耶那美命が生んだ須佐之男命に譲位しなかった。ところがこの恩を忘れて、崇神天皇は養父伊耶那岐命の陵墓を築造しなかった。
 奈良県奈良市油坂町に所在する全長約105mの前方後円墳の開化天皇陵は、その墳丘規模などから5世紀末から6世紀初頭に築造されたと考えられている。ゆえに開化天皇陵は3世紀後半に生存した崇神天皇が築造した伊耶那岐命の墓ではない。したがって伊耶那岐命の墓は没した3世紀後半から5世紀末ころまで存在しなかったことになる。
 だから『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那岐命神話の末部には「伊耶那岐大神は淡海(おうみ/近江)の多賀(たが)に坐()すなり」という記事がある。つまり恩知らずの崇神天皇は伊耶那岐命の陵墓を築造しなかったので、多賀大社が鎮座する滋賀県犬上郡多賀町多賀604の土地が伊耶那岐命の霊を祀る廟(びょう)となったのである。

『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する謀反に協力した「桃の子三箇」は「日本兵たちと熊野の住人の戦士たち」であった。伊耶那岐命と「桃の子三箇」の兵士たちは、C図に示す静岡県沼津市の足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)を神聖視した。
N353
(C) 2016 OHKAWA

 というのも足高山の山頂には「桃の子三箇」の[]の字が付く桃沢神社が祀られ、伊耶那岐命の名前に配される[]は「足高山連峰」をあらわしたからである。だから桃沢神社が鎮座する足高山の山頂に伊耶那岐命の霊が憑依(ひょうい)されたと呪術(じゅじゅつ)信仰されることになり、北緯3514分の足高山の山頂と同緯度の多賀大社が鎮座する地は伊耶那岐命の霊を祀る廟と定められることになったのである。
 C図に示す足高山の麓に築造された高尾山古墳の周溝(しゅうこう)から、近江で作られた土器が出土している。したがって倭に属する小国であった近江出身の兵士たちは小国・日本に派遣されて伊耶那岐命の配下となる精兵であった。ゆえに近江出身の日本兵とその子孫たちは、多賀大社の所在地を墓無き伊耶那岐命の霊廟(れいびょう)と定めたのである。
 『日本書紀』は「伊耶那美命は花の窟(いわや)に葬られた」と記す。ゆえに、伊耶那岐命が奪った伊耶那美命の棺(ひつぎ)は花の窟(三重県熊野市有馬町)に埋葬されたことになる。
花の窟は東経13605分であり、D図に示すように花の窟の経度線は琵琶湖に浮かぶ最大の沖島(おきのしま)の東岸を擦(こす)るように通過する。この花の窟の経度線も注目されて、沖島に近い東方の多賀大社の境内は墓無き伊耶那岐命の霊廟となった。
N354
(C) 2016 OHKAWA 
 

 このような伊耶那岐命の霊廟の秘密を詠む和歌が、わがブログ「日本国誕生史の復興」の16回~18回で注目した『万葉集』巻第四の岡本天皇(宝皇女、後の皇極天皇・斉明天皇)が作った485番の長歌と486番と487番の二首の反歌(はんか)であった。
 485番の初句から6句までの「神代より 生()れ継ぎ来()れば 人多(ひとさは)に 国には満ちて あぢ群(むら)の 通ひは行けど」は「高尾山古墳に埋納された後漢製の破砕鏡(はさいきょう)で伊耶那美命があらわした日本建国の〔愛〕の理念を神代より、人民たちは生まれ継いで来たので、多数の人民たちが国土に満ち、飛翔(ひしょう)する味鴨の群のように多数の人民たちは私の目の前を来る日も来る日も往来します」と表現するものであり、E図に示す高尾山古墳から発掘された破砕鏡(はさいきょう)の〔4羽の味鴨の絵柄〕を詠むものであったことになる。
N361
(C) 2016 OHKAWA
 

 反歌の486番は「山の端()に あぢ群(むら)(さわ)き 行くなれど 我(され)はさびしゑ 君にしあらねば」と詠み「山の端に、伊耶那美命が後漢で作られた鏡(E図の鏡)を砕いて日本建国の〔愛〕の理念をあらわした飛翔する味鴨の群れが鳴き騒いで行くけれども、あなた(舒明天皇)は私を愛してくれませんのでさびしいです」と表現した。

次の反歌の487番で「近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日()のころごろは 恋ひつつもあらむ」と詠んで、岡本天皇は「伊耶那美命が葬られた花の窟の経度線が近江道の鳥籠の山(沖島)を擦(こす)るように貫通し、この経度線より東方の地域を流れる不知哉川という川の名が〔知らない〕と示すように私の心を知ろうともせずに疑って私の言葉をあなたは信じません。でも不知哉川(現在の愛知川/えちがわ)に棲()む伊耶那岐命の霊が伊耶那美命を愛するように、今日このごろのあなたは私を愛しいと思っているでしょうか」とあらわした。
 『魏志』倭人伝の15ヵ所あるすべての方位記事に1ヵ所も〔誤読(文献批判)〕を加えなければ、F図のごとくなって卑弥呼王朝が「日本列島の東端は中国の海岸線地域の南の方に伸びている」と制定した錯覚の転回日本列島地理は【科学】が成立して事実となる。
N362
(C) 2016 OHKAWA
 

 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回から15回で証明したように、F図の「卑弥呼王朝が制定した転回日本地理」は歴史上の事実であったので『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に〔音〕という注が付く夏音文字で「淤能碁呂島」と記された。この「淤能碁呂島=転回日本列島地理」の誤り(錯覚)は聖武(しょうむ)天皇の代の738年に改定された。
 ゆえに738年より約100年前に生存した岡本天皇は487番の短歌を、G図の左下に配したように卑弥呼王朝が制定して転回方位規定にもとづいて作った。
N363
(C) 2016 OHKAWA
 

487番の反歌で詠まれた「鳥籠の山」は、G図に示す「鳥の形をした琵琶湖に籠(こも)る沖島(おきのしま)」である。下の国土交通省の国土画像情報の空中写真が示すように、沖島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)はC図に示した伊豆半島と沼津市の高尾山古墳・足高山・浮島沼がある地域の地宜にソックリである。
Photo
 

 H図に示すように、沖島の最高峰は蓬莱山である。沖島の蓬莱山は北緯3512.5分、C図に示した沼津市の足高山山頂は北緯3512分である。したがって、沖島の蓬莱山と足高山山頂はわずか0.5分(30秒しか緯度は違わないゆえ、同緯度ということになる。
N364

 

つまり沖島の最高峰の蓬莱山は、足高山が「蓬莱山」であったことを伝える山であった。沖島の蓬莱山の標高は225m、足高山の標高は1187mであるゆえ両山の標高は大きく隔(へだ)たる。G図の上部に記したように、現在方位にもとづく琵琶湖の西岸(G図の転回方位だと北岸となる)の比良(ひら)山地の一角に、沖島の蓬莱山と同緯度(北緯3512.5)の蓬莱山の山頂がある。この比良山地の蓬莱山の標高は1174m、足高山の標高は1187mであるゆえ、両者の標高の差は13mしか違わない。だから沖島と比良山地の二つの蓬莱山は、ほぼ同緯度の足高山が「蓬莱山」であったことを伝える役目を有していたことになる。
 “字書の聖典”と尊重された字源解説書の2世紀初頭に成立した『説文解字』は、487番の反歌に登場する「不知哉川」の[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり」と解説する。ゆえにG図の右上に配した鳥の絵が琵琶湖の地宜に相似して「鳥が飛んで上翔し、地上に降下しない鳥の姿」をあらわすゆえ、[]は「琵琶湖の地宜が相似する飛翔する味鴨の姿」を意味した。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「載は哉の意である」と解説する。これゆえ「不知哉」の[][]は同義であるからして、わがブログ「日本国誕生史の復興・10」で証明したように、『魏志』倭人伝末部に登場する伊耶那岐命の夏音名の「載斯烏越(そしあお)」をあらわした。『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文章があり「文字の字源は学問と芸術の根本であり、字源は王道政治の最初の第一歩に必要な権力基盤であり、字源は過去の歴史の真実を識るために不可欠な知識である」と指摘する。また『説文解字』は[]の字源を「一に曰(いわ)く、知るなり」と解説する。だから、「不知哉」の[]は「新井白石以後の学者たちが誤読(文献批判)〕を駆使して排除した、その原典が夏音文字で記載されていた『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話と伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記載された日本建国の〔愛〕の理念に関する歴史の知識」をあらわした。

このような「不知哉」と表記された知識――要するに「高尾山古墳と蓬莱山・足高山の緯度線と花の窟の経度線で日本誕生史の秘密が保存された近江道の知識」を、先人たちは「叡智(えいち)」と称し「すぐれた知性。深い智慧(ちえ)」と称(たたえ)えたにちがいないのだ。

いや、「伊耶那美命が唱え伊耶那岐命が受け継いだ日本建国の〔愛〕の理念」を、我らの先祖たちは直接「叡智」と称えたにちがいないのだ。
 G図に斜線で示した高尾山古墳の同緯度の東近江市の地点から愛知川河口までの愛知川右岸は、1879(明治12)に「愛知(えち)郡」と呼ばれた。この郡名の「愛知」は8世紀の歴史を記した『日本書紀』の元正天皇紀では「依智(えち)」と記され、927年に成立した『延喜式』では「愛智(えち)」と記された。前者の「依智」は「日本建国の〔愛〕の理念の叡が憑(ひょうい)する地」とあらわすものであったにちがいなく、ゆえに後者の「愛智」は「日本建国の〔〕の理念の叡が保存された地」を省略した地名であったにちがいない。だから、「日本建国の〔愛〕の理念」は「叡智」だったのだ。
 われわれの国は〔とてつもなく深い知性と智慧〕を母として生まれたのだ。
 だから、この叡智は決して消してはならないはずだ。
 この叡智を先人たちは永遠に存続していくことをわれわれへの約束事として残したのだ。
 というのも、この叡智は日本人々の心と命の根源であり、また魂の根源だからである。
 したがって、この叡智を失うことは日本人の心を失い、日本人としてのほんとうの命を失い、そして魂の抜け殻(がら)となることなのだ。
 このブログの冒頭で指摘したように、『古事記』編纂スタッフは心の底から怒りで煮えくりかえり天照大御神を憎悪・軽蔑するものであったが、後世の人々がほんとうの歴史を知ることができるように「客観」と「科学」が成立するようにひたすら努めて全体的にも部分的にも論理が完結するように『古事記』上巻に日本国誕生史をキチッと残した。ところが「学者ムシャクシャ」と言わんばかりに学者たちは〔誤読〕を駆使して真実をムシャクシャにして、日本人にとって最も重大な日本国が誕生した歴史を台無しにした。この〔誤読〕で日本建国の〔愛〕の理念を抹殺した行為はすべての日本人を魂の抜け殻にしたむごい仕打ちといわざるをえない。なぜならば彼らの行為は日本人の心と命と魂の尊厳(そんげん)を愚弄(ぐろう)し、「むずかしいことは何にもわからない輩(やから)め」と我々を見下して侮蔑するものであるから、絶対にゆるされることではないのだ。
 だからわれわれは日本建国の〔愛〕の理念を絶対に復興しなければならないのだ。

|

« 日本国誕生史の復興・18 | トップページ | 日本国誕生史の復興・20 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本国誕生史の復興・18 | トップページ | 日本国誕生史の復興・20 »